第十九話 神祇官の権威
朝堂院の一角に、小さな座敷部屋がある。
表向きは来客用だが、実際に使われることは少なく、昼過ぎには人の気配が絶え、高官たちの休憩場となっていた。
今日も今日とて、そこで無意味で優雅なお茶会が開かれていた。
白磁の皿に盛られているのは、遠方から取り寄せたという季節の生菓子だった。繊細な職人技で形作られた練り切りが、静かな部屋の中で淡い光を放っている。
雲英は美しく点てられたお茶を一口啜り、上品な甘みの残る口中を潤してから、ゆっくりと口を開いた。
「……雨を降らせて、暴動を止めた」
言葉を選ぶように、ゆっくりと。
「ですが」
一拍置き、菓子を小さく切り分ける雅の手元に視線を落とす。
「もし、降らなかったら……どうするつもりだったのですか」
その問いは穏やかだったが、核心を突いていた。
対する雅は、懐紙の上で菓子を優雅に口へ運び、静かに微笑んでいた。
扇を軽く閉じる。
「降ると思っていましたよ」
「……思っていた、で済ませるには少々」
「裏で動いた人がいるからね」
雲英の目がわずかに細まる。
「誰ですか」
雅は答える代わりに、新しく注がれたお茶の香りを愉しむように目を閉じた。
「知らない方がいいこともある」
「知っておいた方がいいこともあります」
「それはそうですね」
雅は少しだけ視線を遠くへ向ける。因州の方角。
「時間を稼ぐように動き、六花が雨を呼んだかのように見せた。なかなかの手際でした」
「……六花殿が、雨を呼んだかのように」
「そう見えた、ということが大事なんです」
雲英は少し間を置いてから、茶碗を膝元に置いた。
「神祇官の権威を示すことが目的、ですか」
「それも、あるね」
「それも、というのは」
「人は理由が欲しいものです。偶然では納得しない。だから、美しい意味を与える」
「……舞姫を利用した、ということでは」
「利用、は言葉が悪いね。役割を与えた、の方が正確かな」
「雅様が与えたのですか」
雅はただ、はぐらかすように優美に微笑んだ。
雲英が小さく息を吐く。
「……はぐらかしが多いですね」
「そうかな」
「はい」
そこへ控えめな声が入った。
「あの……」
振り返ると、橘が立っていた。
書類を抱えたまま、少し申し訳なさそうな顔をしている。
「失礼いたします」
「伊吹殿」
雲英が頷く。
橘は室内の高価な茶道具と菓子を一瞬だけ見遣り、少し迷ってから言った。
「私は難しいことは分かりませんが……」
雅が微笑む。
「はい」
「良かったです」
部屋が静かになる。橘は抱えた書類を見下ろした。
「このままでは夏を越せない村もあると聞いていました」
声は小さい。だが、嘘はなかった。
「だから……ほっとしました。策でも奇跡でも、どちらでも構いません。民が助かったのなら、それで」
橘はそう言ってから、慌てて付け足した。
「もちろん、手順や記録は大事ですが」
「民部卿らしいですね」
雲英が言う。
橘は少しだけ肩をすくめた。
「前任者ほど立派なことは言えません」
その一言で、部屋の空気が少しだけ変わる。如月のことだ。
報告書を雲英に渡すと、橘は一礼して部屋を出ていった。
雅は扇を開いて、軽く仰ぐ。
「二人とも、真っ直ぐだね」
「曲がると迷子になるので」
雲英が答える。
「それは困りますね」
「はい。ですので教えてください。誰が動いたのですか」
雅はしばらく扇の骨を眺めてから、ゆるやかに言った。
「……知ってどうするのです」
「記録します」
「記録して、どうするのです」
「次に活かします」
「次も同じことをする、ということかな」
「同じことが起きないようにするために記録します」
雅はそれを聞いて、わずかに目を細めた。ぱちん、と扇を閉じる。
「……真っ直ぐだ」
どこか感心したような声だった。
「そうですか」
「うん。見習いたいくらいですよ、たまに」
「雅様が真っ直ぐになると、神祇官が困ると思います」
「どうして」
「謎めいていてくださる方が、ありがたい場面が多いので」
雅は少しだけ笑った。今度は本当に可笑しそうに。
「……正直ですね」
「はい」
雅は視線を遠くへ向ける。
「意味を作る者が、必ず正しいとは限らない。それだけは、覚えておいてほしいな」
雲英は静かに頷く。
「……承知しました」
「それと」
雅は扇を再び開く。
「六花のことは、見ておいてあげて。あの子はまだ、自分に与えられた役割の大きさを分かっていないから」
雲英はその言葉を受け取り、一礼した。
室を辞したあと、雲英は廊下を歩いていた。灯は少ない。夜は深い。
曲がり角を抜けたところで、足が止まった。
人影が二つ、柱の陰にいる。声は低く抑えられているが、聞こえた。
飛燕だった。
そしてもう一人──深黎だ。
二人が同じ場所にいる。それ自体が、すでに異質だった。武官と文官。接点があるはずのない二人が、誰にも聞かれない場所で言葉を交わしている。
雲英は足を止め、物陰に入った。
声の内容までは聞き取れない。
ただ、その距離と、互いの表情の硬さだけが見えた。
深黎の顔が、いつもと違う。あの飄々とした気配が、今はどこにもない。
飛燕は短く何かを言い、深黎が頷く。
それだけで、二人は別れた。それぞれ、違う方向へ。
雲英はしばらくその場に立ったまま、二人の背中が消えるのを見送った。
『如月殿が亡くなったあの日、あなたどこにいましたか』
覚えていません、と深黎は言った。雲英は視線を落とす。
廊下は静かだった。灯が一つ、わずかに揺れる。
それだけだった。
***
白蔵家当主・彪は、報せを受けたまましばらく動かなかった。やがて窓の外へと目を向け、雨の気配を確かめるように静かに息を吐く。
「……命拾いしたな」
その言葉は誰に向かって言ったのだろうか。
低く落ちた声には、安堵とも緊張ともつかぬ色が混じっていた。
『帝の首を刎ねる』
あの発言は嘘ではない。
白蔵の名においてではない。統治の綻びを放置することを、最も忌むべきものとして見ていたがゆえの言葉だった。
雨は、救いであると同時に、猶予でもある。
猶予とはすなわち、次の判断を先送りにしたに過ぎない。
──あの帝を選んだことが、誤りだったのではないか。
その可能性を、今になって突きつけられている。
彪はゆっくりと目を細めた。判断を下したのは一人ではない。だが、誰もがその決断の一部であったことは変わらない。
雨音が遠くで滲む。
思い浮かんだのは、あの子の顔だった。
因州の孤児。琥珀。
降ったぞ、と声を上げながら雨の中へ駆け出していくあの背中を、彪は遠くから見ていた。
あの子が、あそこまで嬉しそうにしているのを見たのは初めてだった。
いつもどこか疲れたような目をして、それでも倒れずに動いていた。
(……生きていてくれてよかった)
ただ、そう思った。
「こちらにも、責はある」
声はほとんど独り言に近かった。
そして、再び窓の外へ目を向ける。
「しかし……このまま帝がなにも為さぬようであれば」
言葉は途中で途切れた。続く句は、口にするには重すぎる。
白蔵の当主は、再び窓の外へ目を向けたまま、静かに目を細めた。
***
清明の机の上に、因州からの文が一通置かれていた。
薄い。
封を開く。
『水路の跡に、人の手による痕跡あり。流れは意図的に止められている。因州の水を止めたのは、翠陰飛燕です』
清明はしばらく、その文を見ていた。
やがて、静かに文を机に置く。
「……飛燕殿が」
独り言だった。問いでも、驚きでもない。
ただ、確かめるように、言葉にした。
指先で机を一度だけ叩く。
乾いた音が、妙に残った。
しばらく動かない。
窓の外では、風が木の葉を揺らしていた。
やがて清明は、静かに立ち上がった。
次の書簡へ、手を伸ばした。
***
夜、桜桃はひとりで歩いていた。
数日続いた雨上がりの土はまだ柔らかく、歩くたびにわずかに沈む。街の隅では爆発の復旧作業が続いていた。灯の火が揺れている。
桜桃はその火を見ていた。
炎を見ると、思い出す。いつからそうなったのか、自分でも分からない。ただ、揺れる火を見るたびに、あの夜の気配が戻ってくる。
遠くで、誰かの話し声がした。
作業をしている者たちのやり取りだった。
桜桃はそちらへ視線を向けなかった。ただ歩きながら、声だけを耳に流していた。
その中に、名前が混じった。
「――飛燕殿が」
足が、止まった。
その名は、確かに知っている。椎香の父。現実的な人間だと、椎香はそう言っていた。
けれど、今、その名が落ちた瞬間。
桜桃の視界が、わずかに揺れる。
焚き火の炎が、視界の奥で重なる。記憶が引きずり出される。
隠し通路の奥。小さな鍵穴から見えた光景。炎が広がり、何かが崩れ落ちる音がしていた。熱。煙。視界の端で、倒れていた影。
顔ははっきり見えなかった。ただ、炎の揺らぎだけが、その場のすべてを支配していた。その揺らぎの中で、一瞬だけ。誰かの輪郭が、火に縁取られた。
──飛燕。
そう呼ばれたわけではない。声も聞いていない。それでも、その形だけが、なぜかそこにあった。
飛燕をどこかで見たことがあると思った。
もしあの夜に見ていたとしたら──。
現実的な人間。椎香がそう言った男。感情ではなく、状況で動く人間。
だからこそ、あの場にいてもおかしくはない。
桜桃の指先が、わずかに震える。
六花を殺したのは、誰か。
問いは以前からあった。しかし、形を持たないまま、ずっと沈んでいた。
それが今、初めて輪郭を持つ。
漠然としていた怒りが、向かう先を探し始める。
飛燕という名前に向かって。
違うかもしれない。確かめてもいない。証拠もない。
それでも、胸の奥で何かが燃え始めていた。
消えた命への、静かな怒りが。
(もし、あの人が本当に六花を――)
暗い疑念が、やり場のない感情が指先を震わせる。
こんな時、いつもなら自分の三歩後ろに控えて、静かに心を落ち着かせてくれた護衛の姿を、桜桃は無意識に探していた。
(朝凪……。会いたい。今、どこにいるの)
すがるように彼の名前を心の中で求めた、その時だった。
砂を踏む音が聞こえ、すぐ近くの夜の闇が揺れた。
振り返った桜桃の瞳に、濃灰の軍装が飛び込んでくる。
その見慣れた軍装。宮廷の近衛だけが纏うことを許された、あの独特の佇まい。
「朝凪――っ」
生きて、自分の元へ駆けつけてくれたのだと、弾んだ声でその名を呼び、一歩踏み出そうとした。




