第十八話 七日目の雨
山裾の集落では、彪が役人たちを指揮していた。
先ほどの爆発で山肌の一部が崩れ、土煙が空高く立ち上っている。避難を終えたばかりの民たちは、不安げに山を見上げていた。
「彪殿! 西側の集落も避難を終えました!」
「よし。残っている家がないか、もう一度確かめろ。山沿いの道には誰も近づけるな」
「はい!」
役人が駆け去っていく。
彪は崩れた山肌を見つめた。
あれほどの爆発が起きたのだ。どこかで被害が出ていてもおかしくない。
そのとき、白砂の方角から、かすかな怒号が聞こえてきた。
彪は振り返った。
七日後には雨が降る。
そう約束した娘が、今も広場で舞っているはずだった。
彪は空を仰いだ。
雲はまだ薄く、雨の気配はない。
「……七日目、か」
傍らの役人が、不安そうに尋ねた。
「彪殿、白砂へ戻られますか」
彪はしばらく街の方角を見つめていた。
「ああ。一度戻る。ここは頼む」
「承知いたしました」
彪はもう一度、空を仰いだ。
雲はまだ薄く、雨の気配はない。
「……頼むぞ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
彪は踵を返し、白砂へと急いだ。
***
広場では、民衆の絶望がすでに限界の縁を越えようとしていた。
「……降らねえじゃねえか!」
空は青いまま。薄い雲が流れるだけだ。期待が裏返り、怒りへと変貌する。
「騙されたんだ!」
疑いが確信に変わり、暴徒たちの手が、隠し持っていた武器へと伸びる。
「もうたくさんだ! 殺せ――!」
誰かが前へ飛び出した。
その瞬間、控えていた近衛たちが一斉に前へ踏み出す。鞘に添えられた手が、音を立てて柄を握った。
民を護るためではない。舞姫を護るために。
桜桃の動きが激しく揺れた。
足が止まりかける。群衆が、津波のように押し寄せてくる気配が、はっきりと見えた。
(崩れる。ここで、全部――)
近衛が刀を抜けば、民はさらに武器を取る。
血が流れれば、もう誰にも止められない。
桜桃は動きを止めた。腕が下り、舞が途切れた。
「——やめて!!」
桜桃の叫びに近い悲鳴が、広場に響き渡った、その瞬間。
最初の一滴は、誰にも気づかれなかった。
乾ききった大地に、かすかな、けれど重い音が落ちる。続いて、もう一つ。
ざあ、と、周囲が音を立てて震え出した。点が、一瞬にして無数の線になる。
雨だった。
誰かが、呆然と空を見上げた。信じられないものを見るように、口を開けたまま。
ぽつぽつと落ちていた雫は、山の上の爆破によって生まれた気流に煽られ、一気に見事な大雨へと姿を変えていく。
乾ききっていた土が、じわりと、どす黒く色を変えていく。
「……降ってる」
誰かの震えた声が漏れた。
「雨だ……雨が降ったぞ!!」
声が、地鳴りのように重なり合う。広場の空気が、一瞬で歓喜へと塗り替えられた。人々は武器を放り出し、顔を上げ、天に手を伸ばして口を開く。
空から、水が落ちてくる。
それだけで、暴動寸前だった気配が消え去った。奪い合い、殺し合おうとしていた手が、奇跡を掴むように天を仰いで止まる。誰もが、同じ雨を見上げていた。
街の外れでは、彪が取り戻した水が、長く干上がっていた水路を勢いよく流れていた。
乾いた石の間を水が走り、白砂の街へと流れ込んでいく。そこへ、空から降り注ぐ雨が加わった。
地を走る水と、天から降る雨。
二つの音が重なり、乾ききっていた街に、ようやく水の音が戻ってきた。
倒れていた民の口に、水が与えられる。ひび割れた唇に雫が落ち、わずかに、命の息吹が戻る。
救われる命が、確かにそこにはあった。
だが――それが、すべてではなかった。
遅すぎた場所も、確かにあった。すでに冷たくなり、動かなくなった身体に、無情にも雨が降り注ぐ。その命の乾きを癒やす水は、もう彼らには届かない。
さらに、街を襲ったのは天からの恵みだけではなかった。
長年の日照りで干からび、もろくなっていた地盤や家屋に、激しい地響きと爆風が、決定的な亀裂を入れてしまっていたのだ。
そこへ、急激に流れ込んだ大量の雨水が容赦なく追い打ちをかける。
耐えかねた土砂が一気に崩れ落ち、支えを失った民家の壁が、凄まじい音を立てて崩壊した。
「――っ、誰か! 下敷きに……っ!」
悲痛な叫びが上がるが、それすらも激しい雨音にかき消されていく。
雨は、救いと同時に、確実な災厄をも連れてきていた。それでも、この雨を止めることはできない。止めてはならない。
歓声と泣き声が、激しい雨の中で混ざり合う。
命を拾って笑う者と、手遅れになり、あるいは新たな災いに崩れ落ちる者が、まったく同じ雨の下に同時に存在していた。
桜桃はその濁流のような光景の中で、ただ一人、呆然と立ち尽くしていた。
衣服が濡れるのも構わず、ただ空を、そして目の前の現実を見つめる。
確かに、雨は降った。七日後の約束は果たされた。
けれど、その光景は、彼女が思い描いていたような綺麗な「救い」などでは決してなかった。
助かったもの。助からなかったもの。
そして、雨が降った代償として、壊れてしまったもの。
その残酷なまでの境界線が、あまりにもはっきりと浮き彫りになってしまう。
胸の奥が、引きちぎられるように強く締めつけられた。
言葉が出ない。ただ、望んだ奇跡の、そのあまりにも生々しい結果を、彼女は見つめているしかなかった。
雨は、止まない。
すべてを等しく濡らしながら、けれど、決して等しくは救わないまま、白砂の街に容赦なく降り注ぎ続けていた。
***
雨は、止まらなかった。
雲で覆われた空から、冷たい雫が地上へ落ち続けている。
刹那はその中で、空を見上げていた。
「……本当に降った……」
七日間張り詰めていた命の導火線が、ようやく一度だけ緩んだような、掠れた声だった。
ゆっくりと視線を横へ向ける。
そこに佇む男――朝廷軍の前に立ち塞がり、近衛の威光と圧倒的なハッタリだけであの軍勢を退けてみせた男を見て、刹那は瞬いた。
数年ぶりの再会だった。あの血生臭い戦場以来だ。
「……昊夜じゃねぇか、久しぶり」
だが、昊夜はほんの一瞬沈黙した。
激しい雨の音に混じって、冷たい声が落ちる。
「誰だ?」
空気が止まる。
刹那の顔が一瞬だけ硬直した。
「え」
間。
「え!? 覚えてねぇ!? マジで言ってる?」
思わず声が裏返った。けれど、昊夜は本気で思い出せないという顔をしている。
人を見る目ではない、ただの石ころを見るような冷たい目だ。
刹那は濡れた髪を乱暴にかき上げた。
「いやいやいや……あの戦場で……」
言いかけて、途中で止まる。
刹那は鼻で笑い、自嘲気味に呟いた。
「……まぁ、のんきに昔話してる場合じゃねぇか。雨は降ったが、代償もデカすぎた。街の中は、今ごろ新たな地獄絵図だぞ」
「望んだ結果だろ」と昊夜が冷たく言い捨てる。
「あの娘が選んだ『救い』の形だ。綺麗事だけで済むはずがない」
その突き放すような、けれど本質を突いた言葉に、刹那は苦笑した。
そのとき、三歩後ろから静かな声が落ちた。
「昊夜様の、古いお知り合いですか」
千弦だった。いつの間に近づいたのか、表情を変えずに刹那を見ている。
「……殿下の、ですか」
刹那は昊夜を見た。昊夜はまだ、記憶の底を探るように視線をわずかに彷徨わせている。
(殿下……ね)
刹那は口の端を上げて笑った。
「……まあ、そうなる、かな」
「左様でございますか」
千弦は短く頷いた。それから周囲の、雨に濡れる凄惨な街の景色を一度見渡し、また刹那を見る。
「覚えていないんですよ、たまに。特に、自分が興味のない『過去』の顔はすぐに忘れます」
「……俺、そんなに興味持たれない顔だったのかよ」
「当時はそうだったのかもしれません。これでも、必死に取り成しているのですが」
刹那はしばらく千弦の無表情な顔を見つめた。
「……お前、取り成す気ゼロだろ。傷口に塩塗ってんぞ」
「事実をお伝えしただけです」
「それは取り成しって言わねぇんだよ!」
刹那は呆れて息を吐き、ふと千弦の佇まいを見た。昊夜に、ピタリと従う男。
「……お前、昊夜の側近だろ」
「はい」
「毎日これの相手か?」
「はい」
刹那は激しくなる雨の中で、深く、深くため息を吐いた。
「……お前も、相当苦労するな」
「分かってくれますか」
千弦の声が、ほんのわずかだけ柔らかくなった気がした。どこか同志を見つけたような安堵の気配がある。
刹那はそれを見て、小さく笑った。
「まあな。似たようなやつと、長いこと行動を共にしたことがあるからな」
「どのようなお方ですか」
「雨を降らせるって言って、本当に降らせちまうようなやつだよ」
「……それは、難儀ですね」
「だろ?」
二人は、雨音の響く中で静かに並んだ。
横を見ると、昊夜がまだ納得いかないようにわずかに首を傾げている。
「……おい、本当に覚えてねぇのか?」
「少し待て。……今、考えている」
「考えてるってなんだよ! 記憶の引き出しが錆びついてんのか!」
雨の重苦しい空気の中で、その二人のやり取りだけが、かつての戦場の戦友ならではの、奇妙に信頼の混じった温度を保っていた。




