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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第二章 乾いた地と、雨の記憶

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第二十話 そばにいよう

 桜桃の足は途中でふっと止まった。


 闇から現れた男の体躯は、記憶にある朝凪とは、わずかに違っていた。


 そして何より、夜風に乗ってふわりと漂ってきたのは――あのすれ違ったときから胸の奥に残っている、どこまでも深い白檀の香り。


「何をしている」


 いつの間にか、昊夜が隣に立っていた。

 月光を浴びたその端正な顔は、どこか柔らかい光が混ざっている。


「昊夜、様……」


 朝凪を期待した気恥ずかしさと、予想外の彼の登場に、桜桃は胸を鳴らした。

 昊夜は、桜桃が自分の姿を見て少し驚き、それから小さく息を吐いた様子を静かに見つめていた。


 その視線には、いつもの傲岸さはなく、彼女を労うような色が滲んでいる。


「こんな時間に、一人で出歩くな」


 少しだけ呆れたような低い声。

 けれど桜桃は答えなかった。


「六花」


「……なんでもありません」


 これ以上この男に内側を踏み込まれまいと、すれ違いざまに歩き出そうとした。その手首を、昊夜の大きな手が遮るように掴んだ。


 強くはないが、離さない。


 桜桃は足を止める。掴まれた場所から、体温が滲んでくる。それがなぜか、はっきりと感じられた。


「なんでもないことはないだろう」


 静かで、低い声だった。

 手首を掴む手にわずかに力が込められる。


 桜桃は昊夜を見なかった。火の方を向いたまま、唇を引き結ぶ。

 重苦しい沈黙が、二人の間を流れた。


「……お前でも、そんな顔をするんだな」


 低く、静かな声だった。

 桜桃は思わず昊夜を見た。


「どんな顔ですか」


「憎悪に満ちたような顔だ」


 昊夜はしばらく、その痛々しいほどに昏い桜桃の瞳を見つめていた。それから、静かに言う。


「手を差し伸べるだけではないのだな」


 責めていない。ただ、初めて見たものを確かめているような言い方だった。

 桜桃はゆっくりと視線を落とした。


「……私も、そういう顔をするんですね」


 自分でも、知らなかった。

 昊夜はそれ以上何も言わなかった。手首を、まだ離さない。


 桜桃はその手を振り払おうとしなかった。振り払う気が起きなかった。ただ、じわりと伝わってくる体温だけが、妙に現実だった。


 燃えているものを見ていると、自分がどこにいるのか分からなくなる。

 なのに、この温かさだけが、確かに今ここにいると告げてくる。


 やがて桜桃が息を吐く。

 昊夜の手が、ゆっくりと離れた。


 離れてから初めて、桜桃はその場所に触れる。指先で、掴まれていたところを。体温は、もうそこにない。それでも、まだ残っている気がした。


 ──答えはまだ出ていない。だが、ひとつだけ分かってしまう。


 飛燕という名は、ただの軍の人間ではない。少なくとも、自分の記憶の奥にあるあの炎と、同じ場所に立っている。


「……確かめなければ」


 ぽつりと呟いた。

 昊夜が桜桃を見つめた。


「何を」


「あの日、何があったか」


 声は静かだった。だがその奥に、今まで桜桃の中になかったものがある。


 冷たい、確かな意志。


 焚き火の音だけが、やけに遠く響いていた。


***


 雨から数日が経っていた。


 因州の空気は、まだ完全には戻っていない。それでも、雨の前とは違う。水が届いた後の重さではなく、ようやく息ができるようになった後の、静かな疲労が街に満ちていた。


 荷が整えられ、馬が用意され、神祇官の一行は出発の準備を進めていた。

 桜桃が広場を一度だけ見渡していると、後ろから足音が近づいた。


 彪だった。


「少しよいか」


「はい」


 彪は並んで立ち、しばらく黙って街を見た。


「……持ちこたえた」


 ぽつりと言う。

 礼ではない。ただ事実を確認するような言い方だった。


「崩れかけていたものが、崩れなかった。それだけのことだ」


「……はい」


「だが、それで十分だ」


 彪は桜桃の方を向いた。


「舞姫が来て、変わったことがある」


「何ですか」


「諦めなかった者が増えた」


 言葉は短いが、彪がそれを口にするのに、少し時間がかかったのだと桜桃には分かった。


「水が届かなくても、死者が出ても、動き続けた。それを見た者がいる。……お前のおかげで、皆が耐えたことは確かだ」


 彪は街に視線を向けた。


「水が戻っても終わりではない」


「え?」


「畑を戻し、家を直し、種を配る。……これからの方が長い」


 水は戻った。

 けれど、それだけでは終わらない。


 失われた季節を取り戻し、人々の暮らしを繋ぎ直していく。


 その途方もない時間を、この人はここで背負い続けるのだろう。


「……そうですね」


 桜桃はしばらく黙ってから、頭を下げた。


「……また来ます」


「来る必要がないようにするのが、こちらの仕事だ」


「それでも」


「……好きにしろ」


 彪は短く言って、踵を返した。

 その背中が遠ざかる途中で、小さな影が飛び出してきた。


 琥珀だった。


「おい」


 桜桃を見上げる。


「行くのか」


「うん」


「……そうか」


 琥珀は少し間を置いてから、ぶっきらぼうに言った。


「馬、買ってもらったら行くからな」


「待ってる」


「……別に、待たなくていい」


「待ってる」


 琥珀は視線を逸らした。耳が少し赤い。


「……まあ、好きにしろ」


 彪と同じ言い方だった。桜桃は笑いをこらえながら、荷の方へ歩き始めた。


 出発の直前、千弦が桜桃のそばに来た。


「少し、よいですか」


「はい」


「道中で助けられた子どもの件ですが」


 桜桃の手が止まる。


「その後の生活の手配が整いました」


「……誰が」


「昊夜様が」


 静かな一言だった。

 桜桃はしばらく何も言えなかった。


 住む場所、食糧、保護。自分が手を伸ばして、預けただけで終わった命に、昊夜が最後まで形を与えていた。


「……私は」


 声が出る。


「預けただけだった」


「はい」


 千弦は否定しない。


「私には、そこまでできなかった」


「はい」


「昊夜様は、最初からそのつもりだったんですか」


 千弦は少し間を置いてから言った。


「昊夜様は……見た後で、必ず考えます。どうすれば残るかを」


「私は、目の前しか見ていなかった」


「六花さんは、目の前を見ていた。それがあの子に届きました」


「でも」


「どちらかだけでは、足りなかったと思います」


 千弦の言い方は淡々としていた。


 桜桃はそれを受け取って、視線を落とす。


 自分の無力さは変わらない。届かなかった手も、切り捨てた命も、消えない。

 けれど、続きがあった。


 自分が届かなかった先に、別の手があった。

 それだけは、確かだった。


「……ありがとうございます」


「昊夜様にどうぞ」


「……あなたにも」


 千弦はわずかに間を置いてから、静かに頭を下げた。


「お気をつけて」


 馬が動き出す。


 白砂の街が、少しずつ遠くなる。


 彪が街の入口に立っていた。腕を組んで、こちらを見ている。見送りという感じではない。ただ、確認している。去っていくものを、確かに見届けている。


 その隣に、小さな影があった。

 琥珀だった。腕を組んで、彪と同じ立ち方をしている。自分では気づいていないのだろう。


 少し離れた場所に、刹那がいた。


 壁に背をもたれて、腕を組んでいる。こちらに気づくと、軽く手を上げた。


「またな、姫」


 それだけだった。


 死線を共にした見送りの言葉にしては、あまりにも短すぎる。だが、いかにも刹那らしかった。


 桜桃は小さく息を吐き、どこか名残惜しさを隠すように手を振り返した。


「うん、またね」


「都に戻ったら、うまいものでも食え。あんな場所にいたんだ、それくらいの贅沢はバチも当たらねぇだろ」


「……うん、そうする」


 努めて明るく答えたつもりだったが、その瞳の奥に宿る仄暗い迷いを、この男が見逃すはずもなかった。


「あと一つ」


「何?」


 刹那はふっと口の端を上げて、優しく笑った。


「辛気臭い顔してんなよ。――笑ってろ。姫は笑ってるほうが、何倍も可愛い」


 桜桃の動きが、ぴたりと止まった。

 心の内を見透かされたような衝撃と、予想外の言葉の気恥ずかしさに、頬がわずかに熱くなる。


「……それは、どういう」


「言葉の通りの意味だ。全部一人で抱え込もうとすんなよ」


 返す言葉が、喉に詰まった。


 刹那はもうこちらを見ていない。涼しい顔で晴れ渡った空を見上げたまま、どこか楽しそうに口元を緩めている。


 詮索はしない。けれど、「お前が何を考えていようと、俺は味方だ」と言われているような、包容力がそこにはあった。


 桜桃が何か言い返そうとしては口を噤むのを、少し離れた場所から見ていた琥珀が、呆れたように呟いた。


「……なんか言えよ」


「言おうとしてるわよ」


「言えてないじゃないか」


「うるさい、琥珀」


 そして彼は、未練を一切残さずに踵を返した。


 見送るのではなく、さっさと自分の居場所へと戻っていく。その背中は、最初から最後まで風のように涼しげだった。


 桜桃は、しばらくその後ろ姿を見つめていた。


 何が「笑ってるほうが可愛い」だ。からかわれただけかもしれない。けれど、彼の不敵な笑顔を思い出すだけで、胸の奥に沈殿していた黒い泥が、少しずつ流されていくのが分かった。


 馬の蹄が石畳を叩く音が響き、都へ向かう一行がゆっくりと動き出す。


 振り返ると、琥珀が小さく手を振っていた。彪は相変わらず腕を組んだまま、こちらを見ている。


 刹那は、もう振り返らない。


 桜桃は深く息を吸い、しっかりと前を向いた。

 帝都までの道のりは、まだ遠く長い。けれど、出発する前よりもほんの少しだけ軽くなっていた。


***


 帝都の廊下は、因州とは違う静けさを持っていた。


 水の匂いも、土の重さも、ない。

 ただ、石と木と、人の気配だけがある。


 朝凪が清明の執務室の前まで来たところで、襖が開いた。

 出てきた清明と、目が合う。


「戻りましたか」


「はい」


 清明は少しだけ朝凪を見た。

 それから、広間の方へ歩き出す。

 朝凪が一歩後ろをつくのを確認して、清明は口を開いた。


「文を受け取りました」


「はい」


「飛燕の名だけでしたね」


「それだけが、確かなことでした」


 清明はゆっくりと続ける。


「飛燕は、単独ではありませんか」


 朝凪は一拍置いた。


「はい」


「根拠は」


「水路の規模と、記録の消し方です。一人で扱える量ではありません。そして消し方が丁寧すぎる。習慣になっている者の手口です」


 清明は何も言わない。


「飛燕は末端です」


 朝凪が静かに続ける。


「指示があったはずです」


 廊下に、わずかな間が落ちた。

 清明は歩みを止めない。


「単独で出来ることは、限られていますからね」


 それだけだった。

 肯定とも否定ともつかない言い方だった。


「飛燕の件はこちらで扱います」


「……承知しました」


 朝凪は清明を見た。


「発明家を牢から解放されましたね」


「ええ」


「清明様らしくない、と思いました」


 ほんのわずかな間が落ちた。


「そうですか」


「はい」


「……ときには、それが必要なこともありますよ」


 穏やかな声だった。言い訳でも説明でもない。ただそういうものだ、という口調だった。


「それは如月殿のやり方だったと思います」


 朝凪が静かに言う。

 清明は少しだけ目を細めた。


「よく見ていますな」


 朝凪はそれ以上踏み込まない。


 広間の扉が、遠くに見え始めた。


 朝凪は足を止めた。清明だけが、扉へ向かっていく。

 その背中に。


「清明様」


「何ですか」


「飛燕は、間違っていたと思いますか」


 清明は足を止めた。振り返りはしない。


「問い方が違います」


 穏やかな声だった。


「裁かれるべきことを、した。それだけです」


 そう言って、清明が書状を差し出した。


「被害報告です」


 朝凪はそれを受け取る。

 清明はそれ以上何も言わなかった。


 報告書を渡して、清明は広間へ向かった。

 朝凪はしばらくその背中を見ていた。


 扉が、静かに閉まった。


 取り残された廊下で朝凪は、静かに報告書をめくった。


 流失した家屋。


 決壊した堤。


 負傷者。


 そして。


 死者。


 朝凪の視線がそこで止まった。

 静まり返った廊下に、紙をめくる微かな音だけが響く。


 雨は降った。

 多くの人間が救われた。


 だが。


 死者十八名。


 その数字だけが、やけに重かった。


 驚きはなかった。

 山を崩した時から、こうなることは分かっていた。


 飛燕が切り捨てようとした街を、朝凪は救おうとした。


 けれど、結果として死者を出したことに変わりはない。


 方法は違う。

 理由も違う。


 それでも、自分だけが綺麗な側に立っているとは思えなかった。


 朝凪は、静かに報告書を閉じた。


 桜桃はこの数字を知らないだろう。

 知らなくていい。


 朝凪が何をしたかも。

 その結果として何人死んだかも。


 知らないままでいてほしい。


 あの白砂で、誰よりも傷つきながら、それでも前を向いていた彼女に、この数字を映す必要はなかった。


 ゆっくりと歩き出す。軍靴が、静かに木の床を叩いていた。

 朝凪はふと足を止め、窓の外を見つめる。


 今、無性に、彼女に会いたいと思った。


 皇女桜桃ではなく、六花として生きるのなら、自分はそこにいるべきではない。

 自分が近くにいれば、必ず“桜桃”を呼び戻してしまう。戻らなくていいはずの場所へ。


 そう思って、ずっと離れていた。


 けれど、彼女はもう、選んでしまったのだ。

 逃げる道ではなく、戻らない道を。

 朝凪はゆっくりと息を吐いた。


(ならば)


 答えは、最初から決まっていたのかもしれない。

 姿を隠す理由は、もうどこにもない。


 守るために遠ざかる必要もない。

 むしろ今は、離れている方が不自然だった。


 朝凪は目を閉じる。

 そして、小さく、確かに決める。


(そばにいよう)


 それは誰に対する宣言でもなかった。

 ただ、自分の中でようやく形になった選択だった。


 風が一度だけ強く窓を揺らす。朝凪は目を開ける。

 その瞳にもう迷いは残っていなかった。


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