第十九話 舞姫、父を知る
遠くでは、白砂の空気が少しずつ変わり始めている。
崩れかけていた白砂の街が、辛うじて、まだ崩れきっていない状態へと踏みとどまっていく。
激しかった雨は夜半まで続き、やがて嘘のように静かにやんだ。
湿った土の匂いが街を満たし、昼間の凄惨な混乱が幻だったかのように、人々はそれぞれの場所で安堵の息をついている。
暗がりに灯る小さな焚き火の周りでは、わずかな食と水が分け与えられ、人々の声からは鋭さが消え、確かな柔らかさを取り戻していた。
桜桃はその一角に静かに座り、手の中の器を見つめていた。
温かい湯気が白く立ち上る。ただそれだけのことが、今の彼女には現実離れして感じられた。
器を持つ指先が、隠しきれないほどに、細かく、激しく震えていた。
「……震えてるぞ」
琥珀だった。前に回り込んで、すとんと目の前にしゃがみ込む。
桜桃の手元をじっと見つめ、それから、その青白い顔を覗き込んだ。
「気づいてた?」
「なんで震えてるんだ」
「止まったら、……動くのをやめたら、震えが来ちゃったの」
「そういうもんか」
「そういうもんだと思う。……気が張っていたから」
「……俺は来なかったな」
「え?」
「震えが。いくら待っても、来なかった」
琥珀は膝に肘をつき、静かに火の粉を散らす炎を見つめた。
「なんでだろうな」
桜桃はその横顔を痛々しく見つめた。
十三ほどの、まだ子どもだ。だがその小さな横顔は、今日あった凄惨な出来事のすべてを、あまりにも静かに飲み込んでしまっている。修羅場に慣れているのか、それとも処理が追いついていないのか、桜桃には判別がつかなかった。
「……怖くなかった?」
「怖かった」
即答だった。
「でも、怖いのはいつものことだからな」
その一言が、夜の静寂に重く落ちた。
桜桃は、言葉を失った。
「水がなくて、人が倒れて、どうしようもない感じは毎年あった。……まぁ、今年が一番ひどかったけどな」
「……毎年」
「ああ。だから、慣れてるのかもしれない」
慣れている、と琥珀はあっさりと言った。だが、少年が口にするその言葉の重さは、少しもあっさりなどしていなかった。
「これから先は……毎年こうじゃなくなると、いいね」
琥珀は少し間を置いてから、ぽつりと言った。
「……なるといいな」
断言ではなかった。でも、決して否定でもなかった。
それだけ言うと、琥珀は気恥ずかしさを隠すように勢いよく立ち上がり、「飯、持ってきてやる」とだけ残して火の方へ歩いていった。
振り返りもしない。でも必ずここへ戻ってくるだろうと、桜桃には分かっていた。
「……姫」
今度は、頭上から別の低い声が落ちてきた。
刹那が桜桃の隣にごく自然に腰を下ろし、ちらりとその横顔を見た。
「……まだ濡れたままだぞ、お前」
「雨が、気持ちよくて」
「風邪ひくだろ」
呆れたように呟きながら、刹那は何気ない動作で、自分の大きな外套を桜桃の細い肩にふわりとかけた。
体温が残る圧倒的な重みと温かさに、桜桃が驚いて目を瞬かせると、刹那はとっくに視線を外の暗闇へ向けている。
「……ありがとな」
「何がですか」
「色々とな。……お前が舞をそうそうに止めてりゃ、今頃ここはなかった」
短く、噛み締めるような刹那の言葉に、桜桃は一瞬、息が詰まった。
「……私は」
口を開きかけて、押し黙る。自分は何も出来ていない。結局、雨が降るまで舞を途切れさせてしまった。そう自嘲しようとした言葉が、彼の横顔を見て喉の奥に消えた。
刹那は彼女の言葉を遮らず、ただ、静かに次の言葉を待ってくれている。
桜桃は膝の上で視線を落とした。器を持つ手が、さっきよりも強く、カタカタと音を立てて震えだす。
「……今になって、全部来たの」
ぽつりぽつりと、掠れた声がこぼれ落ちる。
「震えが止まらないの。さっきまでは……雨が降るまでは、とにかく動いていないといけなかったから。足を止めたら、その瞬間に何かが全部終わってしまう気がして……」
刹那は何も言わない。ただ静かに、大きな影のように隣にいてくれる。だからこそ、桜桃は堰を切ったように本音を重ねることができた。
「……もし、あのまま、本当に雨が降らなかったら」
喉がひゅっと鳴る。恐ろしい想像が頭をよぎるが、もう止められなかった。
「本当に暴動が起きて、みんなが刃物を剥き出しにして押し寄せていたら……何も悪くない人たちが刃を向け合っていたらって思ったら……」
一瞬、深い沈黙が二人の間に流れた。
桜桃はゆっくりと、自分の愚かさを噛み締めるように首を振る。
「怖かった。……私、こんなに怖いものだとは、知らなかったの」
飾りのない、むき出しの告白だった。気高くあろうとした舞姫ではなく、ただの一人の少女としての、本当の実感だった。
刹那は少しだけ視線を外す。火の揺らぎを見る。 その向こうに、別の景色が重なる。
「……そんなの」
焼けた地。崩れた村。叫び。血の匂い。
「知らなくていいんだ」
静かな声だった。強くはないが、揺れもない。
桜桃はすぐには返さない。その言葉の意味を、確かめるように受け止める。
「……でも知らなかったままではいられない」
桜桃はそこで、膝の上で無造作に組まれた刹那の手に、視線を落とした。
剣を握り続けてきた、武人の手。無数の古傷が刻まれ、節くれ立ったその手の平の佇まいは――どこか、朝凪の手の記憶と重なった。
「刹那のその手の傷……昔から剣を握ってたの?」
刹那は自分の拳を、他人のものを見るようにじっと見つめた。それから、ゆっくりと手を解く。
「……そんな、大層なもんじゃない」
火のはぜる音だけが、二人の間を埋める。
「ただ、昔ちょっと、因州の外までな」
「因州の、外……」
「狄族との戦だ」
その言葉に、桜桃の目が見開かれる。深黎は狄族出身だと言っていた。
「最初はただの小競り合いを止めに行くだけだと思ってたんだがな。あっという間に、戦と呼ばれる規模になっちまった」
淡々と、他人事のように言う。
桜桃は器を握る手に力を込めた。
「狄族と、戦……」
信じられない心地でその言葉をなぞる桜桃に、刹那はそれ以上、当時の状況を詳しく語ろうとはしなかった。
「……その戦は、どうなったの」
刹那はふっと視線を落とした。火が爆ぜる。
「全滅させるしかなかった」
「全滅……」
「そう、一人残らずな。『殲滅戦』って言われてたよ」
さらりと、あまりにも軽い調子で、刹那は言った。
その軽さが、かえって桜桃の背筋を凍らせる。手元の器の中の水面が、自分の震えのせいで小さく揺れていた。
そんな非道なことを、刹那が見てきたというのか。
桜桃は乾いた喉を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。
「……それを、誰が決めたの?」
刹那は一瞬、答えなかった。
だが、隠し通すには、あの戦場の血の匂いはあまりにも重すぎた。
「上だよ」
肩をすくめるようにして、刹那は首を振った。
「星河帝の命令だった」
その一言で、空気が変わる。桜桃の動きが止まる。呼吸すら忘れて、ただ目を見開いた。
自分の、父。優しかったはずの、あの帝が。
刹那は桜桃から視線を外す。
あえて聞かれたことに答えただけだという顔をしていたが、これ以上思い出せば、今ここに戻ってこられなくなるのを、自分が一番よく分かっていた。
桜桃はしばらく何も言えない。ただ、手の中の器を強く握る。
「……そう」
やっとのことで言葉が落ちる。
その少し離れたところで、足音が止まっていた。
琥珀は、小さな椀を二つ手にしたまま、暗がりに立っていた。
いつからそこにいたのか、二人は気づいていない。
一瞬、琥珀は手の中の椀へ視線を落とした。
それから、何事もなかったように歩き出す。
「飯、持ってきた」
桜桃と刹那が振り返った。
「……ありがとう」
「食え」
琥珀は桜桃に椀を渡し、もう一つを刹那へ差し出した。
刹那がそれを受け取る。
ほんの一瞬、その手に刻まれた古い傷へ、琥珀の目が落ちた。けれど、何も言わなかった。
三人は並んで、しばらく火を見ていた。
夜は静かだった。だがその静けさは、先ほどまでとは違う重さを持っていた。
***
雨が上がったあと、巨大な筒はそのまま残されていた。
山の斜面に据えられたそれは、今は役目を終えたように静まり返っている。
筒の一部は衝撃で歪み、支えとなっていた木組みも幾つか折れていた。雨に濡れた布が垂れ下がり、動いていた頃の整然とした姿は、すっかり失われていた。
男はその前にしゃがみ込み、壊れた箇所を一つずつ確かめていた。どこから壊れたのかを調べているのだ。
「……思ったより持ったな」
独り言だった。
歪んだ筒の縁に指を這わせる。想定より早く限界が来た箇所と、予想以上に持ちこたえた箇所がある。
面白い、と思った。
「次は……」
呟きかけて、口を閉じる。
この大きさなら、支えをもう少し増やすべきだった。いや、そもそも筒の形を変えれば、もっと効率よく風を通せるのではないか。
壊れたものを前にして、男の目だけが生き生きとしていた。
「……また作るか」
誰に言うでもなく呟く。
どこで、とは考えない。
ただ、次がある。
男は折れた部品の一つを拾い上げ、丁寧に布で包んだ。
そのとき、背後から足音がした。
「……清明様の命令だったのか」
その声に男は手を止めたが、振り返らなかった。
朝凪は、静かに男を見据えながら問うた。
「何者だ」
しばらく沈黙が続いた。やがて男は、小さく息を吐いた。
「……発明家だ」
簡潔で、曖昧で、それ以上を拒む響きだった。
朝凪はその背を見つめた。
「……捕らえられていたな」
「危険なものを作った、と」
男の口元に笑みが浮かんだ。
「危険かどうかは、使う側が決める」
「それを解いたのが、清明様か」
男は答えななかった。
朝凪は雨の去った空へ目を向けた。低く垂れ込めた雲の隙間から、わずかに光が差している。
「……らしくないな」
使えるものは使う。その結果がどう転ぶかも含めて。
それは、どちらかといえば如月のやり方だった。
朝凪はそれ以上問わなかった。
男もまた何も言わず、再び壊れた筒へと向き直った。
やがて二人が立ち去ったあと、昊夜がその場所を訪れた。
山肌にはまだ崩落の痕が生々しく残り、濡れた土と焼け焦げた木の匂いが漂っていた。
千弦が、いつものように三歩後ろに控えている。
「……六花さん、すごいですね」
静かな声だった。
「民はみな、舞姫が天に祈りを届け、雨を呼んだと信じています。あれだけの絶望の中で、最後まで舞い続けたのですから」
「違う」
昊夜は短く遮った。
「……六花さんのお陰ではない、と?」
「あの舞が雨を降らせたわけではない」
昊夜は目の前の巨大な筒へ視線を向けた。
筒の内側には、強い風が通り抜けた痕跡が残っている。
「この筒と、山での爆発。それが雨を降らせるための仕掛けだったのだろう」
「……存じております」
「では、なぜすごいなどという言葉が出る」
「たとえからくりがあろうとも、あの暴動寸前の殺気の中で、ただ一人舞台に立ち続けた彼女の意志は、別の話だと思いましたので」
雨上がりの湿った沈黙が、二人の間に流れた。
やがて昊夜が口を開いた。
「雨は、何もない空から突然生まれるものではない」
千弦が顔を上げる。
「地から蒸発した水は空へ昇り、雲となり、やがて雨となって地へ戻る。だが、そのためには幾つもの条件が必要だ」
昊夜は巨大な筒を見上げた。
「この仕掛けは、その条件を無理やり整えようとしたのだろう」
「……上昇気流、ですか」
「ああ。山を崩した際の熱と衝撃を利用して、空気を一気に押し上げた。そこへ、この筒で風の流れを加えたのだとすれば、説明はつく」
千弦は崩れた山肌を見つめた。
「それで、あれほどの雨が……」
「条件が揃ったからだ。風向きも、空気に含まれる湿りも、何一つ違っていれば、同じ結果にはならなかっただろう」
「では、成功する保証はなかったのですね」
「なかったはずだ。自然の流れを、人の手で無理に変えた。それだけのことだ」
「……奇跡ではない、と」
「そうだ」
昊夜は雨雲の残る空を見上げた。
「だが、そのために山を崩した」
雨は降った。
だが、山裾には壊れた家屋があり、負傷した者もいる。
昊夜は空から視線を外し、崩落した斜面を見つめた。
「……随分と高くついた雨だな」
その言葉に、千弦は何も答えなかった。
しばらくして、静かに尋ねる。
「……六花さんには、言いますか」
「何を」
「この雨が、彼女の舞によるものではなかったということを」
雨上がりの空には、まだ低く雲が残っている。
「……それを言って、何が変わる」
昊夜は、それ以上は何も言わなかった。
因州の雨上がりの空には、奇跡の代償を物語るように、重く、どす黒い雲がまだ低く残っていた。




