第二十一話 その手の重さ
朝廷の大広間には、静寂が満ちていた。
高い天井の下、列座する文官も武官も、一言も発さずにただ前方を見据えている。
そこにあるのは議論ではなく、すでに形を持ってしまった事実の確認に近かった。
清明はただ静かに座している。扇を手に、前を向いたまま動かない。
その沈黙を破り、雲英が滑らかな口を開いた。
「いかがなさいますか、朝廷軍朱明暁大将」
その声は穏やかでありながら、一切の逃げ場を許さない鋭さを含んでいた。
一拍の重苦しい間の後、暁の座する席がわずかに動く。
その横で、焦燥に駆られた翠陰飛飛燕が、弁明のために立ち上がろうとした――その瞬間だった。
「まずは、申し上げます」
毅然と一歩前へ出たのは、上官である暁の方だった。
場の空気が、微かに、だが決定的に変わる。
「此度の件につきましては、上司として深くお詫び申し上げます」
飛燕が振り返る。
「待て、それは――」
すがるような声が重なるより早く、暁は言葉を継続した。その低い声には、一切の揺れも躊躇いもない。
「因州における水路封鎖の判断そのものは、軍務の一環として行われました」
静かな声で続ける。
「しかし、現地の被害を把握した後も封鎖を継続し、報告なく判断を改めなかった責は、現場指揮官たる翠陰飛燕にあります」
飛燕の顔が、見る見るうちに強張っていく。
「違うと言っている!!」
「お前が何を考えていたかは分かる」
暁はここで初めて、飛燕へと視線を向けた。
「全てを救えぬなら、多くを救う。その判断自体を責めるつもりはない」
飛燕の瞳が、救いを求めるように激しく揺れる。
「だが、お前は現状を見誤った。被害は、現場指揮官の裁量として許容できる範囲を超えた」
その声には怒りも蔑みもなかった。ただ、動かしようのない事実だけを淡々と告げていた。
「以上をもって、翠陰飛燕の武官職の剥奪を具申いたします」
広間に重い静寂が落ちた。
その時だった。
「異議ありません」
落ち着いた声が広間に響き渡る。
列座した官吏たちが、引き寄せられるように自然と視線を向けた先には、大納言・蘇芳一心が座していた。
そこにいるだけで誰もが自然と姿勢を正してしまう、不思議な威厳があった。
今は大納言として朝廷を支える立場にあるが、彼はかつて──日向の前の時代の近衛大将であった。
静かな佇まいながら、その双眸だけは今なお、獲物を射すくめる武人のように鋭い。
蘇芳は静かに口を開く。
「武人は命に優先順位をつけねばならぬ時があります」
飛燕が縋るように顔を上げる。その言葉だけは、同じ痛みを帯びた武人として、自分を理解してくれるものだと思った。
だが――。
「しかし、その重大な裁量には、相応の重い責任が伴う。判断を誤れば、人は死ぬ。功を立てたことと、責を負うことは別です」
蘇芳は一拍置き、広間を見渡した。
「情によって責を曖昧にすれば、軍紀は立ちません。軍紀の乱れは、国の崩壊を意味する。……違うか、翠陰」
飛燕は歯を食いしばる。
反論の言葉は、何一つ出てこなかった。
それは、かつて武人として誇りを持っていた者の言葉だったからだ。
刑部卿の有馬大志が、あらかじめ決まっていた役目を果たすように、静かに口を開く。
「これより、翠陰飛燕の武官職剥奪、並びに、流刑地への送致を決定いたします」
それはもはや具申でも裁定でもない。ただの「宣告」だった。
飛燕の身体から、すべての力が抜けたように動きが止まる。
清明がゆっくりと口を開いた。
「飛燕殿」
名を呼ぶだけの、いつもと変わらぬ穏やかな声だった。それ以上の憐れみも、説明もない。
飛燕の指先が、微かに震える。
「何かありますか」
問いではない。最後の形式だけがそこにあった。
飛燕は歯を食いしばる。だが、返す言葉はまとまらない。
沈黙が落ちる。
清明は小さく息を吐いた。
「下がりなさい」
それだけを告げた。
その瞬間、飛燕の中で何かが切れる。だが、それを拾う者はいない。
深黎は、その一部始終を列の端から見ていた。
表情は、いつも通りの飄々としたものだ。だがその口元に、わずかに笑みがある。薄く、静かな笑みだった。
どこか遠くのものを眺めているような、予期していたものが予期通りになったときの顔。
雲英はその横顔を、ちらりと一瞥した。
そして何事もなかったかのように、すぐに前を向いた。
***
場面は帝都の外れ、貴族邸の一室。
窓の外では、処分を告げる鐘の音が遠くに響いていた。それは決定を知らせる音であり、同時に戻れない線を引く音でもあった。
椎香は、息を止めたまま立っていた。
手に持っていた布が、力なく指から落ちる。
「お父様が……流罪……?」
声は、形になりきらないまま揺れる。理解しようとしているのに、どこかで拒んでいる響きだった。
周囲の者が何かを言おうとする気配はあったが、言葉は続かなかった。
椎香は一歩も動けないまま、ただ視線を落とす。
流罪。
その言葉だけが、やけに現実から浮いていた。
「……どうして」
答えは返らない。返せる者もいない。
父は、現実的な人だと思っていた。感情より状況を見て、必要なことを必要なだけやる人。だから頼りになって、だから怖くもなかった。
その人が。
椎香の指先が、わずかに震える。
布が落ちた場所を、ただ見ている。
拾えない。体が動かない。
拾ってしまえば、この現実を受け入れたことになる気がして。
窓の外では、鐘の音がまだ遠く響いていた。
一打。
また一打。
それが何を告げているのか、椎香にはもう分かっていた。
分かっているのに、涙はすぐには落ちなかった。
理解することと、受け入れることの間に、深い溝があるままだった。
***
帝都の門をくぐったとき、空は夕暮れ前の淡い色をしていた。
一行が馬を止め、従者たちが荷を確認し始める。
いつも通りの、帰還の手順だった。
桜桃は馬から降りた。
足が地面に触れた瞬間、体が動いていた。考える前に、走り出していた。
「舞姫様」
瑛の声が背後に落ちた。
「舞姫様、どこに……」
答えなかった。答えている余裕がなかった。足だけが先に分かっていた。
どこへ向かうのか、なぜ急ぐのか。
頭で考えるより、足の方が早かった。
「舞姫様!」
後ろで瑛が慌ててもう一度声を掛けるが桜桃は振り返らなかった。
***
護送車は流刑地に送られるための出発を待っていた。
頑丈な鉄格子の向こうに、一人の男の姿が見える。
飛燕。
桜桃は息を呑み、護送車の前へと確かな足取りで一歩を踏み出した。
その瞳は、すべての温度をそぎ落とした、刃のような眼差しだった。
「六花を殺したのはあなたですか」
その声は震えていなかった。むしろ、静かすぎるほどだった。その静けさが、刃よりも鋭い。
飛燕の眉がわずかに動く。突如現れた少女からの身に覚えのない詰問に、理解が追いつかないという顔だった。
「六花だと……?何を言っている」
否定の言葉は滑らかではない。記憶の隙間を探るような、不確かな揺れがあった。
桜桃はその狼狽を、正面から静かに見据えた。
あの炎の残滓。ずっと追い求めていたはずの背中。
今こうして向き合うことで、彼女の中で確信に変わっていく
──この男に、六花は奪われたのだと。
奥歯が強く噛み締められる。怒りでも、悲しみでもない。それでも、確かに壊れかける何かがあった。
桜桃が、その憎悪のままに次の一歩を踏み出そうとした、まさにその瞬間だった。
すう、と、風が止まった。
激しい憎悪に満ちていた空間に、場違いなほどに微かな、けれどあまりにも記憶に焼き付いている沈香の香りが漂う。
「翠陰飛燕」
呼び声が響いた。静かで、澄んでいて、それでいてどこまでも明瞭な発音。
桜桃は弾かれたように動きを止めた。その声に、全身の血が逆流するほどの衝撃が走る。
あの日――あの凄惨な謀反の夜以来、自分の前には一度として姿を現さず、生死すら不明だったはずの男。
ゆっくりと振り返る桜桃の視線の先、逆光の中にその男は立っていた。
「朝……、凪……?」
その名を呼ぶ桜桃の声は、激しく震えていた。
姿そのものへの驚きではない。彼が今、この瞬間に生きて目の前に「いる」ということ、その事実が、桜桃の思考を完全に白く染め上げる。
朝凪がそこに立つだけで、張り詰めていたはずの雰囲気が一瞬にして塗り替えられた。彼のまとう静謐な空気が、その場の世界の重心を、強引に我が物へと変えていく。
***
少し離れた場所に、椎香がいた。
父に一目会おうと追いかけてきたその場所で、意外な人物が目に飛び込んでくる。
六花と、宴で一度会った赤髪の男。
声は聞こえない。ただ、目の前で起きていることを見つめることしかできない。
(いったい……何を……)
理解できないまま、視線だけは離せなかった。
***
飛燕は格子越しに朝凪を見て、驚愕に目を瞠った。
「お前は……!」
朝凪は飛燕から目を逸らさない。一瞬の揺らぎすら逃さないように、静かに見据えていた。
「黒幕は誰だ」
感情を削ぎ落とした声だった。
「なんのことだ」
「水路の件、そして謀反」
「何を言っている」
「謀反の首謀者は日向殿が討った。だが、それは表の話だ」
朝凪の一歩が、大地を踏みしめる。その身から放たれる凄まじい威圧感が、檻の中の飛燕を容赦なく圧迫した。
「裏にいるのは、どちらも同じか」
飛燕の喉が動く。言葉が出ない。いや、出す前に、口を開くことすら本能的な恐怖で止められているようだった。
重苦しい沈黙が落ちる。その静寂だけが、異様に長く感じられた。
朝凪は剣を抜いた。鋭い金属音が乾いた空気に冷たく響く。白刃が格子越しに飛燕の喉元へ向けられた、その瞬間――。
飛燕の表情が崩れた。初めて、その顔から余裕が消え去った。
「待て……!」
その掠れた声が空気を揺らした、まさにそのときだった。
ヒュッ、と空を裂く、あまりにも鋭く容赦のない風切り音。
迷いのない軌道を描いた一本の矢が、狂いなく一点を貫いた。
「姫様!」
朝凪が叫び、反射的に桜桃の身体を庇うように背に隠す。
しかし、その矢の狙いは彼女ではなかった。
飛燕の言葉は、そこで途切れた。頑丈な鉄格子の隙間を縫った太矢が、彼の胸元に深く、突き刺さっている。
「……ぐっ」
体が大きく揺れた。格子に手をつき、崩れ落ちそうになるのを気力だけで耐える。それでも、激痛に歪む視線だけは、まだ確かに残っていた。
「……姫様、……だと……?」
血に濡れた喉から、掠れた声がこぼれる。押し寄せる痛みの中で、記憶の断片がゆっくりと繋がっていく。
この男を知っている。かつて朝廷で見た近衛中将などという、生ぬるい記憶ではない。
あの謀反の夜。
返り血で視界が真っ赤に染まる中。自分がこの手で皇女の命を奪おうとしていたあのとき。
最後まで彼女の盾となり、刃を交え、自分と対峙し続けたあの男だ。
あのとき、確かにこの手で皇女の命を奪ったはずだ。
では、この男が、「姫様」と呼ぶ目の前の少女は──。
頭の中で一つの答えに辿り着いた飛燕は、目が見開かれる。
「まさか……入れ替わって……」
血が地に落ちる音だけが妙に鮮明だった。
飛燕が、朦朧とする意識の中で桜桃へと焦点を合わせる。
「お前が……本物の……桜桃、皇女……っ」
その名を口にした瞬間、男の手から完全に力が抜け、身体が崩れかけた。
「待って――!」
桜桃は朝凪の腕を振り解き、我を忘れて護送車へと駆け出していた。必死に手を伸ばす。
「死なないで……!」
いや、本当の心の叫びは違った。
(――まだ死なないで。お前は、私が、この手で――)
裁くはずだった。六花を奪った仇として、その罪を暴き、憎むはずだった。
けれどその先の言葉は喉の奥で潰れる。
だが飛燕はもう二度と応えなかった。ただ、最後まで、その虚ろな目だけがこちらを見つめていた。何かを言いかけたまま、首ががくりと落ち、完全に力が抜けていく。
その瞬間、世界の重さが一段階変わった。
憎い。けれど、死んでほしくなかった。
彼を救うためではない。自分の過去を断ち切るためでありながら、なお、その命を引き止めようとしてしまった、矛盾した感情。
こんな、暗い感情が自分の中に眠っていたことを、桜桃は知らなかった。
救いたいのか、それとも、自分の手で裁き、殺したかったのか。
どちらの覚悟にもなりきれないまま、彼女はただ、自分の手を見つめて激しく震える。
崩れていく飛燕を見ながら、桜桃は初めて理解してしまった。
「救えないもの」があるのではない。
自分自身が、それを「救えない」とも「憎みきる」とも、何一つ決めきれない、ただの未熟な人間なのだと。
そして、事切れた男の背後。
この一矢を放ち、真実を闇に葬った「まだ姿を見せない何か」が、暗闇の奥で静かに、冷たく息を潜めて彼らを見つめていた。
***
「……遅くなりました」
声は静かだった。気配が空気に溶けるように、音もなく現れる。
朝凪だった。
桜桃は振り返る。その姿を見た瞬間、張り詰めていた何かが一気に緩む。
朝凪は一度だけ周囲の様子を見て、それから桜桃に視線を向ける。いつもの、あの実直で、どこまでも穏やかな瞳。
「姿を現わすのが遅くなり、申し訳ございません」
言い訳も説明もない。ただ、遅れた事実だけを受け止めている。その変わらない佇まいが、逆に、桜桃の胸の奥に眠っていた感情を呼び起こした。
震えはまだ止まっていない。飛燕のあの最後の目が、視界の奥にこびりついて離れない。
やがて、口が動いた。
「本当に遅い」
声が、激しく掠れる。
「今までどこに行っていたの……! どうしてもっと早く、私に会いに来てくれなかったの……っ!!」
叫びのような問いかけは、涙と一緒に喉の奥で崩れた。
積み重なっていたものが、堰を切ったように一度に押し寄せてくる。
帝都を離れて連れて行かれた、因州での地獄のような日々が。
自分の目の前で冷たくなっていった、救えなかった命たちが。
どれだけ伸ばしても、あと一歩で届かなかった無力なこの手が。
そして――誰も信じられない戦場のような場所で、ずっと、耐え続けていた、気が遠くなるほどの心細さが。
「死んでしまったと思ってた……っ、もう二度と、会えないと思ってたのに……!」
会えて、嬉しい。生きていてくれて、心の底から救われた。
けれど、それ以上に「どうして置いていったの」という思いが胸を突く。桜桃はそれ以上何も言えず、ただ震える息を吐いた。感情がぐちゃぐちゃになって、もう言葉にならない。
朝凪は何も言わなかった。
責め立てるような桜桃の言葉を、ただ静かに、すべてを包み込むように浴びている。
そして、一歩近づいて、そっと彼女の肩に手を置いた。
力強くはない。けれど、決して離さないという絶対の決意を含んだ、確かにそこにある手のひらの熱。
桜桃は動けなかった。
泣くつもりはなかった。ここで泣いている場合でもないことくらい、嫌というほど分かっていた。
それでも、堰を切った涙は止まらず、視界を何度も白く染め上げる。
朝凪はそのまま、何も言わずにいた。
長かった不在の理由も、これからの説明も、優しい気休めの慰めも、何一つ口にしない。
ただ、ここにいる。桜桃のために、ここに立っている。
それだけだった。
けれどそれだけで、宙に浮いてすれすれで耐えていた桜桃の足が、ようやく、確かに地面へと戻ってこられた気がした。




