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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第二章 乾いた地と、雨の記憶

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第二十一話 その手の重さ

 朝廷の大広間には、静寂が満ちていた。


 高い天井の下、列座する文官も武官も、一言も発さずにただ前方を見据えている。

 そこにあるのは議論ではなく、すでに形を持ってしまった事実の確認に近かった。


 清明はただ静かに座している。扇を手に、前を向いたまま動かない。

 その沈黙を破り、雲英が滑らかな口を開いた。


「いかがなさいますか、朝廷軍朱明暁大将」


 その声は穏やかでありながら、一切の逃げ場を許さない鋭さを含んでいた。

 一拍の重苦しい間の後、暁の座する席がわずかに動く。


 その横で、焦燥に駆られた翠陰飛飛燕が、弁明のために立ち上がろうとした――その瞬間だった。


「まずは、申し上げます」


 毅然と一歩前へ出たのは、上官である暁の方だった。

 場の空気が、微かに、だが決定的に変わる。


「此度の件につきましては、上司として深くお詫び申し上げます」


 飛燕が振り返る。


「待て、それは――」


 すがるような声が重なるより早く、暁は言葉を継続した。その低い声には、一切の揺れも躊躇いもない。


「因州における水路封鎖の判断そのものは、軍務の一環として行われました」


 静かな声で続ける。


「しかし、現地の被害を把握した後も封鎖を継続し、報告なく判断を改めなかった責は、現場指揮官たる翠陰飛燕にあります」


 飛燕の顔が、見る見るうちに強張っていく。


「違うと言っている!!」


「お前が何を考えていたかは分かる」


 暁はここで初めて、飛燕へと視線を向けた。


「全てを救えぬなら、多くを救う。その判断自体を責めるつもりはない」


 飛燕の瞳が、救いを求めるように激しく揺れる。


「だが、お前は現状を見誤った。被害は、現場指揮官の裁量として許容できる範囲を超えた」


 その声には怒りも蔑みもなかった。ただ、動かしようのない事実だけを淡々と告げていた。


「以上をもって、翠陰飛燕の武官職の剥奪を具申いたします」


 広間に重い静寂が落ちた。

 その時だった。


「異議ありません」


 落ち着いた声が広間に響き渡る。

 列座した官吏たちが、引き寄せられるように自然と視線を向けた先には、大納言・蘇芳一心が座していた。


 そこにいるだけで誰もが自然と姿勢を正してしまう、不思議な威厳があった。


 今は大納言として朝廷を支える立場にあるが、彼はかつて──日向の前の時代の近衛大将であった。

 静かな佇まいながら、その双眸だけは今なお、獲物を射すくめる武人のように鋭い。


 蘇芳は静かに口を開く。


「武人は命に優先順位をつけねばならぬ時があります」


 飛燕が縋るように顔を上げる。その言葉だけは、同じ痛みを帯びた武人として、自分を理解してくれるものだと思った。

 だが――。


「しかし、その重大な裁量には、相応の重い責任が伴う。判断を誤れば、人は死ぬ。功を立てたことと、責を負うことは別です」


 蘇芳は一拍置き、広間を見渡した。


「情によって責を曖昧にすれば、軍紀は立ちません。軍紀の乱れは、国の崩壊を意味する。……違うか、翠陰」


 飛燕は歯を食いしばる。


 反論の言葉は、何一つ出てこなかった。

 それは、かつて武人として誇りを持っていた者の言葉だったからだ。


 刑部卿の有馬大志が、あらかじめ決まっていた役目を果たすように、静かに口を開く。


「これより、翠陰飛燕の武官職剥奪、並びに、流刑地への送致を決定いたします」


 それはもはや具申でも裁定でもない。ただの「宣告」だった。

 飛燕の身体から、すべての力が抜けたように動きが止まる。


 清明がゆっくりと口を開いた。

「飛燕殿」


 名を呼ぶだけの、いつもと変わらぬ穏やかな声だった。それ以上の憐れみも、説明もない。

 飛燕の指先が、微かに震える。


「何かありますか」


 問いではない。最後の形式だけがそこにあった。

 飛燕は歯を食いしばる。だが、返す言葉はまとまらない。


 沈黙が落ちる。

 清明は小さく息を吐いた。


「下がりなさい」


 それだけを告げた。

 その瞬間、飛燕の中で何かが切れる。だが、それを拾う者はいない。


 深黎は、その一部始終を列の端から見ていた。


 表情は、いつも通りの飄々としたものだ。だがその口元に、わずかに笑みがある。薄く、静かな笑みだった。

 どこか遠くのものを眺めているような、予期していたものが予期通りになったときの顔。


 雲英はその横顔を、ちらりと一瞥した。

 そして何事もなかったかのように、すぐに前を向いた。


***


 場面は帝都の外れ、貴族邸の一室。

 窓の外では、処分を告げる鐘の音が遠くに響いていた。それは決定を知らせる音であり、同時に戻れない線を引く音でもあった。


 椎香は、息を止めたまま立っていた。


 手に持っていた布が、力なく指から落ちる。


「お父様が……流罪……?」


 声は、形になりきらないまま揺れる。理解しようとしているのに、どこかで拒んでいる響きだった。


 周囲の者が何かを言おうとする気配はあったが、言葉は続かなかった。

 椎香は一歩も動けないまま、ただ視線を落とす。


 流罪。


 その言葉だけが、やけに現実から浮いていた。


「……どうして」


 答えは返らない。返せる者もいない。


 父は、現実的な人だと思っていた。感情より状況を見て、必要なことを必要なだけやる人。だから頼りになって、だから怖くもなかった。


 その人が。

  

 椎香の指先が、わずかに震える。

 布が落ちた場所を、ただ見ている。


 拾えない。体が動かない。


 拾ってしまえば、この現実を受け入れたことになる気がして。

 窓の外では、鐘の音がまだ遠く響いていた。


 一打。

 また一打。


 それが何を告げているのか、椎香にはもう分かっていた。

 分かっているのに、涙はすぐには落ちなかった。


 理解することと、受け入れることの間に、深い溝があるままだった。


***


 帝都の門をくぐったとき、空は夕暮れ前の淡い色をしていた。


 一行が馬を止め、従者たちが荷を確認し始める。

 いつも通りの、帰還の手順だった。


 桜桃は馬から降りた。

 足が地面に触れた瞬間、体が動いていた。考える前に、走り出していた。


「舞姫様」


 瑛の声が背後に落ちた。


「舞姫様、どこに……」


 答えなかった。答えている余裕がなかった。足だけが先に分かっていた。 


 どこへ向かうのか、なぜ急ぐのか。


 頭で考えるより、足の方が早かった。


「舞姫様!」


 後ろで瑛が慌ててもう一度声を掛けるが桜桃は振り返らなかった。


***


 護送車は流刑地に送られるための出発を待っていた。


 頑丈な鉄格子の向こうに、一人の男の姿が見える。


 飛燕。


 桜桃は息を呑み、護送車の前へと確かな足取りで一歩を踏み出した。

 その瞳は、すべての温度をそぎ落とした、刃のような眼差しだった。


「六花を殺したのはあなたですか」


 その声は震えていなかった。むしろ、静かすぎるほどだった。その静けさが、刃よりも鋭い。


 飛燕の眉がわずかに動く。突如現れた少女からの身に覚えのない詰問に、理解が追いつかないという顔だった。


「六花だと……?何を言っている」


 否定の言葉は滑らかではない。記憶の隙間を探るような、不確かな揺れがあった。


 桜桃はその狼狽を、正面から静かに見据えた。


 あの炎の残滓。ずっと追い求めていたはずの背中。

 今こうして向き合うことで、彼女の中で確信に変わっていく


 ──この男に、六花は奪われたのだと。


 奥歯が強く噛み締められる。怒りでも、悲しみでもない。それでも、確かに壊れかける何かがあった。


 桜桃が、その憎悪のままに次の一歩を踏み出そうとした、まさにその瞬間だった。


 すう、と、風が止まった。

 激しい憎悪に満ちていた空間に、場違いなほどに微かな、けれどあまりにも記憶に焼き付いている沈香の香りが漂う。


「翠陰飛燕」


 呼び声が響いた。静かで、澄んでいて、それでいてどこまでも明瞭な発音。


 桜桃は弾かれたように動きを止めた。その声に、全身の血が逆流するほどの衝撃が走る。


 あの日――あの凄惨な謀反の夜以来、自分の前には一度として姿を現さず、生死すら不明だったはずの男。


 ゆっくりと振り返る桜桃の視線の先、逆光の中にその男は立っていた。


「朝……、凪……?」


 その名を呼ぶ桜桃の声は、激しく震えていた。


 姿そのものへの驚きではない。彼が今、この瞬間に生きて目の前に「いる」ということ、その事実が、桜桃の思考を完全に白く染め上げる。


 朝凪がそこに立つだけで、張り詰めていたはずの雰囲気が一瞬にして塗り替えられた。彼のまとう静謐な空気が、その場の世界の重心を、強引に我が物へと変えていく。


***


 少し離れた場所に、椎香がいた。


 父に一目会おうと追いかけてきたその場所で、意外な人物が目に飛び込んでくる。

 六花と、宴で一度会った赤髪の男。


 声は聞こえない。ただ、目の前で起きていることを見つめることしかできない。


(いったい……何を……)


 理解できないまま、視線だけは離せなかった。


***


 飛燕は格子越しに朝凪を見て、驚愕に目を瞠った。


「お前は……!」


 朝凪は飛燕から目を逸らさない。一瞬の揺らぎすら逃さないように、静かに見据えていた。


「黒幕は誰だ」


 感情を削ぎ落とした声だった。


「なんのことだ」


「水路の件、そして謀反」


「何を言っている」


「謀反の首謀者は日向殿が討った。だが、それは表の話だ」


 朝凪の一歩が、大地を踏みしめる。その身から放たれる凄まじい威圧感が、檻の中の飛燕を容赦なく圧迫した。


「裏にいるのは、どちらも同じか」


 飛燕の喉が動く。言葉が出ない。いや、出す前に、口を開くことすら本能的な恐怖で止められているようだった。


 重苦しい沈黙が落ちる。その静寂だけが、異様に長く感じられた。


 朝凪は剣を抜いた。鋭い金属音が乾いた空気に冷たく響く。白刃が格子越しに飛燕の喉元へ向けられた、その瞬間――。


 飛燕の表情が崩れた。初めて、その顔から余裕が消え去った。


「待て……!」


 その掠れた声が空気を揺らした、まさにそのときだった。


 ヒュッ、と空を裂く、あまりにも鋭く容赦のない風切り音。

 迷いのない軌道を描いた一本の矢が、狂いなく一点を貫いた。


「姫様!」


 朝凪が叫び、反射的に桜桃の身体を庇うように背に隠す。

 しかし、その矢の狙いは彼女ではなかった。


 飛燕の言葉は、そこで途切れた。頑丈な鉄格子の隙間を縫った太矢が、彼の胸元に深く、突き刺さっている。


「……ぐっ」


 体が大きく揺れた。格子に手をつき、崩れ落ちそうになるのを気力だけで耐える。それでも、激痛に歪む視線だけは、まだ確かに残っていた。


「……姫様、……だと……?」


 血に濡れた喉から、掠れた声がこぼれる。押し寄せる痛みの中で、記憶の断片がゆっくりと繋がっていく。


 この男を知っている。かつて朝廷で見た近衛中将などという、生ぬるい記憶ではない。


 あの謀反の夜。


 返り血で視界が真っ赤に染まる中。自分がこの手で皇女の命を奪おうとしていたあのとき。


 最後まで彼女の盾となり、刃を交え、自分と対峙し続けたあの男だ。


 あのとき、確かにこの手で皇女の命を奪ったはずだ。


 では、この男が、「姫様」と呼ぶ目の前の少女は──。


 頭の中で一つの答えに辿り着いた飛燕は、目が見開かれる。


「まさか……入れ替わって……」


 血が地に落ちる音だけが妙に鮮明だった。

 飛燕が、朦朧とする意識の中で桜桃へと焦点を合わせる。


「お前が……本物の……桜桃、皇女……っ」


 その名を口にした瞬間、男の手から完全に力が抜け、身体が崩れかけた。


「待って――!」


 桜桃は朝凪の腕を振り解き、我を忘れて護送車へと駆け出していた。必死に手を伸ばす。


「死なないで……!」


 いや、本当の心の叫びは違った。


(――まだ死なないで。お前は、私が、この手で――)


 裁くはずだった。六花を奪った仇として、その罪を暴き、憎むはずだった。

 けれどその先の言葉は喉の奥で潰れる。


 だが飛燕はもう二度と応えなかった。ただ、最後まで、その虚ろな目だけがこちらを見つめていた。何かを言いかけたまま、首ががくりと落ち、完全に力が抜けていく。


 その瞬間、世界の重さが一段階変わった。


 憎い。けれど、死んでほしくなかった。


 彼を救うためではない。自分の過去を断ち切るためでありながら、なお、その命を引き止めようとしてしまった、矛盾した感情。

 こんな、暗い感情が自分の中に眠っていたことを、桜桃は知らなかった。


 救いたいのか、それとも、自分の手で裁き、殺したかったのか。

 どちらの覚悟にもなりきれないまま、彼女はただ、自分の手を見つめて激しく震える。


 崩れていく飛燕を見ながら、桜桃は初めて理解してしまった。


 「救えないもの」があるのではない。

 自分自身が、それを「救えない」とも「憎みきる」とも、何一つ決めきれない、ただの未熟な人間なのだと。


 そして、事切れた男の背後。

 この一矢を放ち、真実を闇に葬った「まだ姿を見せない何か」が、暗闇の奥で静かに、冷たく息を潜めて彼らを見つめていた。


***


「……遅くなりました」


 声は静かだった。気配が空気に溶けるように、音もなく現れる。

 朝凪だった。


 桜桃は振り返る。その姿を見た瞬間、張り詰めていた何かが一気に緩む。


 朝凪は一度だけ周囲の様子を見て、それから桜桃に視線を向ける。いつもの、あの実直で、どこまでも穏やかな瞳。


「姿を現わすのが遅くなり、申し訳ございません」


 言い訳も説明もない。ただ、遅れた事実だけを受け止めている。その変わらない佇まいが、逆に、桜桃の胸の奥に眠っていた感情を呼び起こした。


 震えはまだ止まっていない。飛燕のあの最後の目が、視界の奥にこびりついて離れない。


 やがて、口が動いた。


「本当に遅い」


 声が、激しく掠れる。


「今までどこに行っていたの……! どうしてもっと早く、私に会いに来てくれなかったの……っ!!」


 叫びのような問いかけは、涙と一緒に喉の奥で崩れた。

 積み重なっていたものが、堰を切ったように一度に押し寄せてくる。


 帝都を離れて連れて行かれた、因州での地獄のような日々が。


 自分の目の前で冷たくなっていった、救えなかった命たちが。


 どれだけ伸ばしても、あと一歩で届かなかった無力なこの手が。


 そして――誰も信じられない戦場のような場所で、ずっと、耐え続けていた、気が遠くなるほどの心細さが。


「死んでしまったと思ってた……っ、もう二度と、会えないと思ってたのに……!」


 会えて、嬉しい。生きていてくれて、心の底から救われた。


 けれど、それ以上に「どうして置いていったの」という思いが胸を突く。桜桃はそれ以上何も言えず、ただ震える息を吐いた。感情がぐちゃぐちゃになって、もう言葉にならない。


 朝凪は何も言わなかった。

 責め立てるような桜桃の言葉を、ただ静かに、すべてを包み込むように浴びている。


 そして、一歩近づいて、そっと彼女の肩に手を置いた。

 力強くはない。けれど、決して離さないという絶対の決意を含んだ、確かにそこにある手のひらの熱。


 桜桃は動けなかった。

 泣くつもりはなかった。ここで泣いている場合でもないことくらい、嫌というほど分かっていた。

 それでも、堰を切った涙は止まらず、視界を何度も白く染め上げる。


 朝凪はそのまま、何も言わずにいた。

 長かった不在の理由も、これからの説明も、優しい気休めの慰めも、何一つ口にしない。


 ただ、ここにいる。桜桃のために、ここに立っている。

 それだけだった。


 けれどそれだけで、宙に浮いてすれすれで耐えていた桜桃の足が、ようやく、確かに地面へと戻ってこられた気がした。


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