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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第二章 乾いた地と、雨の記憶

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終 誰の手が届いている

 飛燕が死んで、三日が経っていた。

 

 椎香は部屋の隅に座ったまま、動けないでいた。

 膝の上に、畳んだままの衣がある。侍女が何度か声をかけてきた。食事を、と。着替えを、と。


 そのたびに、首を横に振った。理由は言えなかった。

 言葉にしてしまえば、本当になる気がした。


 お父様が死んだ。


 その事実は、まだどこか宙に浮いたままだった。

 受け取ろうとするたびに、体の奥で何かが拒む。


 あの日のことを、何度も思い返していた。


 一目会いたかった。ただそれだけで、追いかけた。


 護送の場に、六花がいた。

 宴で出会った男もいた。


 二人が向き合っているのが見えたが、何を話しているのかは聞こえなかった。

 それでも六花の顔は、はっきりと見えた。


 震えていて、泣きそうな顔だった。


 それなのに、手を伸ばしていた。

 父へ向けて。


 椎香はその光景から目を離せなかった。


 六花は、なぜあそこにいたのか。

 あの男は、なぜそばにいたのか。


 二人はお父様と、何の関係があったのか。


 考えるほどに、分からなくなる。


 あの二人が武官の護送の場に居合わせる理由が、どこにある。


「……何をしていたの」


 誰もいない部屋に、声が落ちた。自分の声だった。低く、乾いていた。


 六花に向けた言葉だったのか。

 あの男に向けた言葉だったのか。

 それとも、父に向けた言葉だったのか。


 椎香自身にも、分からなかった。


 ただ一つだけ、はっきりしていることがある。


 あの場には、何かがあった。自分の知らない何かが。


 椎香は膝の上の衣を、ゆっくりと握りしめた。

 泣けなかった。涙が出ないのではない。

 泣いてしまえば、この感情の輪郭が溶けてしまう気がした。


 溶かしたくなかった。まだ、形のまま持っていたかった。


 窓の外では、秋の風が静かに吹いていた。

 飛燕が好きだった季節だった。 


***


 数日後のことだった。


「六花ちゃん!」


 声がしたのは、中庭へ続く回廊だった。

 振り返る前に、勢いよく腕を掴まれた。


「……花梨様」


 花梨だった。

 いつもの端正な顔が、今日は少しだけ崩れている。眉が下がり、目元が柔らかい。


「無事で良かった。本当に」


「ええ、おかげさまで」


「おかげさまで、じゃないわよ」


 花梨は桜桃の腕を掴んだまま、軽く揺さぶる。


「因州、大変だったって聞いてたから。手紙も出したのに全然返事来ないし」


「ごめんなさい、余裕がなくて」


「分かってる。分かってるけど……」


 花梨は一度だけ視線を落とし、それからまた桜桃を見た。


「顔を見たら、ほっとした」


 その言葉に、桜桃の胸の奥がじんわりと温かくなる。


 飛燕の最期が、まだ胸に重く残っている。

 それでも、こうして心配してくれる人がいる。


「私も……会いたかった」


 正直に言うと、花梨がようやく笑った。


「じゃあもっと早く帰ってきなさいよ」


「それは私が決めることじゃないから」


「そうよね」


 花梨は腕を離し、桜桃の隣に並んで歩き始めた。


 秋の風が回廊を抜けていく。

 しばらく、二人は黙って歩く。


「……椎香ちゃんのこと、聞いた?」


 花梨が静かに言った。

 桜桃は足を止めなかった。


「……聞きました」


「臥せってるみたいで。会いに行ったんだけど、会えなくて」


 花梨の声は穏やかだった。だが、その穏やかさの裏に、どうしようもない感情が滲んでいる。


「椎香ちゃん、お父様のことが大好きだったから」


 桜桃は何も言えなかった。


 飛燕が崩れ落ちる瞬間を、自分は見ていた。

 手を伸ばして、届かなかった。


 どう接すればいいのか、分からない。

 自分がその場にいたことを、言えるはずもない。


「……大丈夫かしら」


 花梨が呟く。

 桜桃は答えられなかった。


 ただ「分からない」という言葉だけが胸の中にあって、それを口にする資格が自分にあるのかどうかも、分からなかった。


 花梨は桜桃が黙っていることを、責めなかった。ただ一緒に歩いた。


「そうだ」


 しばらくして、花梨が少しだけ声色を変えた。


「六花ちゃんに伝えようと思ってたんだけど」


「何を?」


入御にゅうぎょが決まったの」


 桜桃は思わず足を止めた。

 入御──それは皇族に嫁ぐために皇宮に入るということ。


「……え」


「昊夜様のところへ。正式に」


「……いつ?」


「日程はまだだけど、近いうちに」


 桜桃は花梨の横顔を見た。


 その表情はどこまでも穏やかで、一点の揺らぎもない。名門・青陽家の娘として、自らに課せられた重い役割を、彼女はすでに静かに受け入れている顔だった。


「……知らなかった」


「伝えようと思ってたのに、六花ちゃんが因州に行っちゃったから」


「そう……」


 驚いた、というのは正確ではないかもしれない。


 花梨が入御することは、いつかあると思っていた。

 なのに、それが「昊夜」の元であると実際に言葉で突きつけられた瞬間、桜桃の胸の奥が、鋭く、小さくざわついた。


(――なぜ、胸が痛むの?)


 花梨が彼の妃になる。その事実が、桜桃の胸を静かに締め付けた。


 椎香のことで重くなっていた胸に、また別の何かが沈む。


 けれど、桜桃はすぐに思考を強引に遮断した。

 桜桃は、心に浮かびかけたその痛みに、蓋をするように強く、深く胸の奥へと押し込めた。


「……嫌ではないのですか?」


 蓋をしきれなかった言葉が、思わず口を突いて出てしまった。

 花梨は少しだけ考えてから、静かに言った。


「嫌ではない、わ。昊夜様は誠実な方だと思うし」


「でも好きで嫁ぐわけじゃないでしょう」


 花梨は歩みを止め、桜桃を真っ直ぐに見つめた。その瞳が、ふわりと柔らかく細められる。


「六花ちゃんって、そういうことをちゃんと聞いてくれるのね」


「……余計なことでしたか」


「ううん」


 花梨は前を向いた。


「正直に言うと、怖いの。少しだけ」


「怖い?」


「昊夜様の隣に立つということが。あの方の隣に相応しくいられるか、ずっとそれを考えてる」


 桜桃は花梨の横顔を見つめた。


 いつも揺らがないように見えていた。

 でも、揺らがないのではなく、揺らがないように立っているのだと、今さら気づく。


「花梨様なら、大丈夫ですよ」


「……そう言ってくれる?」


「ええ」


 花梨は少しだけ笑った。


「六花ちゃんに言われると、なんか信じられる気がする。不思議ね」


「どうして」


「六花ちゃんって、お世辞を言わないから」


 桜桃は一瞬だけ呆気に取られ、それから自嘲気味に小さく笑った。


「……そうかもしれませんね」


 二人はそのまま、静かに並んで歩いた。

 回廊の先では、宮城の屋根が秋の空を切り取っている。


 花梨はもうすぐ、あの奥へ行く。

 昊夜の隣へ。青陽家の娘として。


 桜桃はその事実を、胸の蓋の下でゆっくりと受け取った。


 ざわめきはまだある。


 椎香への言葉を持てないまま、飛燕の最期を胸に抱えたまま、花梨の入御を今日初めて知った。


 いくつものことが、まだ何も整理できていない。


 それでも、花梨が怖いと言いながらも、揺らがずに歩いていることだけが、今はどこか支えになった。


***


 同じ頃、西門では朝凪が警備に戻っていた。


 詰所へ顔を出した途端、隣の門番が振り返った。


「おう、戻ったか」


「はい」


「数日見なかったが、どこ行ってたんだ?」


「因州です」


 門番は目を丸くした。


「因州? ずいぶん遠くまで。何かあったのか」


「護衛で」


「ああ……あの一団か」


 門番はそれきり黙った。

 しばらく二人で前を向く。


「……因州、酷かったか」


 門番が静かに聞いた。

 報せは来ていたのだろう。それ以上は聞かない。ただ確かめるような声だった。


「……酷かったです」


「そうか」


 それだけだった。

 朝凪も何も言わなかった。


 やがて、回廊の方から花梨の声が聞こえた。

 六花ちゃん、と呼ぶ声。


 朝凪はそちらへ視線を向けなかったが、耳には入ってくる。


 無事で良かった、という言葉。

 桜桃が笑っている気配。


「なあ」


 門番がまた口を開く。


「お前、あの神祇官の随行、自分から志願しただろ」


「……なぜそう思うのですか」


「お前みたいな奴が門番やってること自体、最初から妙だと思ってたんだよ」


 朝凪は答えなかった。

 門番は小さく笑って、前を向いた。


「まあいい。お疲れさん」


 それだけだった。

 朝凪は前を向いたまま、桜桃の笑い声が遠ざかっていくのを聞いていた。


***


 夜の因州は、昼とは別の顔をしていた。

 あの突如として起きた、大爆発の騒ぎが落ち着いたあとも、人々の疲弊は残っている。


 誰もが予想だにしていなかった。

 まさか、あの謀反の夜から表向きには生死不明となっていた前近衛中将の朝凪が、因州の山を爆破して無理やり気流を変え、雨を降らせるなどという暴挙に出るなど。


 おかげで大地は潤ったが、爆破の被害を受けた現場は文字通り目も当てられない惨状のままだ。


 あいつは、雨を降らせるという目的だけを果たすと、後始末など目もくれず、さっさと一人で都へ帰ってしまった。


 ――昊夜が、現地の責任者として、民のため、自身の面目のために、必死になってこの後片付けを引き受けるだろう。


 朝凪がそう確信し、あえて後始末を押し付けていったのは明白だった。


 昊夜は一人、宿舎の窓の外を見ていた。


 遠く、まだ片付けきれていない山火事の跡や、避難を余儀なくされた者たちの灯が揺れている。その揺れを、特に何を考えるでもなく眺めていた。


「相変わらず、癪な男だ……」


 かつて、自分が朝廷軍の大佐であった頃から、近衛中将として常に自分の一歩前を歩んでいた男。


 相容れない組織ではあったが、誰よりもその実力を認めていた男から、あまりに身勝手な尻拭いをさせられている事実が、昊夜の胸に微かな苛立ちの火を灯す。


 朝凪がここまでして「雨を降らせたかった」本当の理由を、昊夜はまだ知らない。


 ただ――あの冷静な男が、これほど無茶な手段を選んでまで、この因州に雨をもたらせようとしたのは。

 まるで、この地で雨乞いをしていた、あの舞姫の負担を取り除こうとしたかのような気がした。


(……いや、まさかな)


 脳裏に、桜桃の姿がよぎる。


 あの男の視線の先に、あの少女がいるのではないか――。

 二人の間に何かがあるのでは、という微かな違和感が、うっすらと胸の奥を掠めてはいったが、まだ確かな形にはならなかった


 机の上には処理済みの書類が整然と積まれている。その中に、ひとつだけ本来そこにあるはずのない記録が紛れていた。


 因州の水路記録。途切れた箇所に、黒い墨の訂正が一度だけ入っている。誰が直したのかは、書かれていない。


 だが、それは単なる誤記の修正ではなかった。


 何者かが意図的に水路の水を止め、この因州を深刻な水不足へと追い込んでいた――その歪な工作を隠蔽するための、不自然な黒墨。


 昊夜はそれを指先で軽く押さえる。

 しばらく見つめた。そして。


「……らしくないことをしたな」


 小さく言う。朝凪のことではない。自分自身が下した、あの子どもの救済手配のことだ。


 助ける理由など、自分には合理的には存在しなかった。それでも、切り捨てなかった。


 自分の判断のずれに対する、静かな確認だった。


 あの夜の桜桃の顔が一瞬だけ浮かぶ。

 泣きそうな顔ではなかった。諦めた顔でもない。ただ、何かを堪えながら、それでも次へ向かっていた顔だった。


 ――あんな顔もするんだな。

 

 意外だった、というより、知らなかった、という感覚に近い。手を伸ばすだけの人間だと思っていた。だがあの顔は、そうではなかった。


 目の前の命を見たとき、ためらいなく手を伸ばす人間。結果より先に、行動が出る人間。そして、その重さを引き受けきれないまま、それでも手を止めない人間。


 自分とは正反対のはずなのに、同じ結果だけを残している。やり方も理由も、まだ重なってはいない。それでもそこには、確かに残っているものがあった。


 昊夜は書類を何事もなかったように揃え直す。


 水路を故意に堰き止め、この地に災いをもたらした飛燕の影に隠れる黒幕へ向けて、冷たい視線を窓の外へと投げかけた。


「……誰の手が届いている」


 答えはない。だが、この水不足の裏には、確実に宮廷をも揺るがす不穏な意志が潜んでいる。


 そしてその陰謀の渦中に、あのまっすぐな少女も、朝凪も、自分自身も、すでに巻き込まれ始めている。


 窓を閉める。風が遮断され、部屋は静寂に戻る。


 それでもなお、因州のどこかでは、隠された水の流れが一度だけ不自然に揺れていた。


***


 日向は私室の灯火を絞り、静かに座り込んでいた。

 手の中には、小さく重たい白い玉がある。天和の意匠とは異なる、独特な細工が施されていた。指先でその刻みをなぞり、日向は細めた瞳でじっと凝視する。


「……狄族……か」


 短く呟いた声が、熱を帯びた夜気に溶ける。

 しばらくその玉の冷たさを掌で確かめるように見つめ続けた後、ようやく日向はそれを置き、机の上の紙へと手を伸ばした。

 如月が遺した書付である。ゆっくりとそれを開く。


 そこには、歪な系図が記されていた。

 皇族の血脈を示す図。だが、普通の系図ではない。


 ある一点を境に、枝が二つに分かたれている。

 ひとつは現在へ続く皇統。星河帝へ繋がる、今の皇族の系譜だ。


 そしてもうひとつ――。


 日向の視線が、紙の隅で止まった。


「……紫雲家」


 再び漏れた呟きは、先ほどよりも重く響いた。

 その名には見覚えがあった。だが公には残っていない。史書にも記述が存在しない家名だった。しかし、系図上では明らかに特別な位置を占めている。


 何より目を引いたのは、その線に用いられた色彩だった。皇族に許される色よりもさらに濃く、底知れぬ深みを湛えた紫。

 四大貴族ですら禁じられたその色格は、まるで“皇より上”にあることを主張しているかのようだった。


 日向の眉間に深い皺が刻まれる。

 紫雲家の血筋は途中まで詳細に記されているものの、ある代を境に、不自然に途切れていた。死没の記録も、処刑の記載もない。


「……消されたのか」


 静かな声が、寝所の静寂に落ちた。

 日向は系図を紙の上で滑らせ、思考を巡らせる。書庫から強奪されるように消えた戸籍の本。その記憶を呼び起こすように、ゆっくりと顔を上げた。


「……確か」


 脳裏に、今はもう使われなくなった北側の古い倉が浮かぶ。

 宮城改修の折、整理前の戸籍が運び込まれ、そのまま忘れ去られた場所。人の気配が途絶えて久しいその場所にこそ、消された記録の残骸が眠っているのではないか。


 日向は系図を懐にしまう。

 灯火が微かに揺れ、壁に伸びた影が震えた。

 夜の帳の中で、日向だけが、この国の根幹に刻まれた闇へと足を踏み入れ始めていた。





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