序
凶作の年、この地には、神隠しが起きるという奇妙な伝承が伝わっていた。
忽然と姿を消した少女を、人々は「神に召されたのだ」と噂した。
しかし後年、この地を調べた記録者の手記には、こう記されている。
「神が選んだのか。人が選んだのか。
記録には残っていない。
ただ、少女の名だけが、どこにもなかった」
――天和国 民俗記録 より
◇
名とは、不思議なものだ。
生まれたばかりの赤子へ与えられるその短い音だけで、人は立場を決められる。
誰の子か。 どこへ属するのか。 何を継ぐのか。
たった数文字で、 その先の人生まで静かに形作られていく。
名とは時に、役割そのものだ。
呼ばれるたび、期待と責務が積み重なっていく重い名。
その名を持つ者は、最初から愛され、“中心”へと置かれる。
自分と同じ血を持たぬ、その家の者たちが継ぐような、誇らしい名だ。
そこに在ることだけを許されたような軽い名。
いてもいい。だが、前へ出ることは望まれていない。
誰かの“お気に入り”から外れた場所で、ただ、存在を許されているだけの名だ。
ならば。
名を持たぬ者は、何になるのだろう。
記録へ残らず、数にも入らず、消えても困られない者たち。
この国には、そういう人間がいる。
そして多くの者は、それを当たり前だと思って生きている。
国とは、そういう形で保たれているからだ。
誰を数え、誰を外へ置くのか。
その線引きだけは、昔から驚くほど静かに行われてきた。
だから時々、分からなくなる。
自分はどちら側なのか、と。
この家に、この場所に、自分はいてもいいのだろうか。
与えられたのか。
それとも、置かれているだけなのか。
風が枝を揺らす。
白い花弁が一枚、静かに落ちた。
あの人が好きだという、その白い花の名を。
自分は、まだ知らない。
***
夜明け前の神祇殿は、息を潜めたように静かだった。
普段は人の出入りも少ない奥の間に、今朝だけは灯火が並んでいる。
香が焚かれ、白い布が敷かれ、定められた位置に人が座している。
帝をはじめ、清明、雲英、その他高官たちが居並んでいた。十余名。
誰も口を開かない。中央に立った神祇官長官・八意雅が、静かに告げた。
「これより、斎宮の卜定を執り行います」
虚空帝は、上座に座していた。
病弱だと聞いていたが、その目は静かに前を向いている。
華やかさも威圧感もなく、どこか硬かった。玉座に慣れた者の顔ではない。
それでも逃げない、と決めた者の顔だった。
清明はその横顔を一瞥し、静かに視線を前へ戻した。
形式としては、正しく整えられていた。
「候補者は」
雅が書簡を開いた。
「月代宮家より二名」
「鳴海宮家より一名」
「朝比奈宮家より一名」
「以上四名にございます」
「四人か」
誰かが呟いた。
「皇族は帝家を除けば、今、三宮家だけでしたか」
清明が頷く。
「いずれも中央には出仕しておりませんな」
亀甲が火にくべられ、雅がひびの入り方を読む。
神の意志として、解釈される。
やがて雅が静かに告げた。
「鳴海宮家の茉莉」
その名が室内に落ちた。誰も驚かなかった。
清明は居並ぶ高官たちの顔を、静かに見渡した。
安堵している者がいる。
納得している者がいる。
そして、ほんのわずかだが。
最初から知っていたような顔をしている者もいた。
清明は視線を前へ戻す。雅はすでに亀甲を置き、巻紙へ何かを記している。
その所作は穏やかで、淀みがない。
「狄の血を引いている者か」
「だからこそ、でしょう」
誰が言ったのか、清明には聞き取れなかった。
だが意味は分かった。
狄との共存。辺境の神性。異民族的神秘性。
それを「神意の象徴」として使う。
清明は小さく息を吐く。
卜定は正しく行われた。形式に誤りはない。
ただ、亀甲のひびが、最初からその名を示すように割れていたことを、清明は静かに記憶した。
雲英が口を開いた。
「潔斎期間について、本来であれば数年を要しますが」
「短縮する」
帝の声が落ちた。短く、迷いがない。
雲英は一拍置いてから続ける。
「神嘗祭に間に合わせるとなると、かなりの短縮になりますが」
「構わない」
それだけだった。
室内に、薄い沈黙が落ちる。異を唱える者はいない。
清明も何も言わなかった。言えることは、まだない。
ただ、急がれている、ということだけは分かった。何を急いでいるのかも。
儀が終わり、人々が静かに散り始める。
清明は最後に立ち上がり、一度だけ中央を見た。
亀甲はすでに片付けられていた。灯火だけが、まだ揺れている。
「清明様」
雲英が近づいてきた。
「何かお気づきの点はありましたか」
「さあ」
清明は静かに答えた。
「神意というものは、私には読めませんので」
それだけ言って、室を出た。廊下の空気は冷えていた。夜明け前の、まだ誰も動いていない時間だった。
清明は足を止めずに歩く。
──鳴海宮家の茉莉。
その名を、胸の中で一度だけ繰り返した。




