表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第三章 名を持たぬ花

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
53/73

 凶作の年、この地には、神隠しが起きるという奇妙な伝承が伝わっていた。

 忽然と姿を消した少女を、人々は「神に召されたのだ」と噂した。


 しかし後年、この地を調べた記録者の手記には、こう記されている。


「神が選んだのか。人が選んだのか。

 記録には残っていない。

 ただ、少女の名だけが、どこにもなかった」


 ――天和国 民俗記録 より



 名とは、不思議なものだ。


 生まれたばかりの赤子へ与えられるその短い音だけで、人は立場を決められる。


 誰の子か。 どこへ属するのか。 何を継ぐのか。


 たった数文字で、 その先の人生まで静かに形作られていく。

 名とは時に、役割そのものだ。


 呼ばれるたび、期待と責務が積み重なっていく重い名。


 その名を持つ者は、最初から愛され、“中心”へと置かれる。

 自分と同じ血を持たぬ、その家の者たちが継ぐような、誇らしい名だ。


 そこに在ることだけを許されたような軽い名。


 いてもいい。だが、前へ出ることは望まれていない。

 誰かの“お気に入り”から外れた場所で、ただ、存在を許されているだけの名だ。


 ならば。

 名を持たぬ者は、何になるのだろう。


 記録へ残らず、数にも入らず、消えても困られない者たち。

 この国には、そういう人間がいる。


 そして多くの者は、それを当たり前だと思って生きている。

 国とは、そういう形で保たれているからだ。


 誰を数え、誰を外へ置くのか。

 その線引きだけは、昔から驚くほど静かに行われてきた。


 だから時々、分からなくなる。

 自分はどちら側なのか、と。


 この家に、この場所に、自分はいてもいいのだろうか。

与えられたのか。

 それとも、置かれているだけなのか。


 風が枝を揺らす。

 白い花弁が一枚、静かに落ちた。


 あの人が好きだという、その白い花の名を。

 自分は、まだ知らない。


***


 夜明け前の神祇殿は、息を潜めたように静かだった。

 普段は人の出入りも少ない奥の間に、今朝だけは灯火が並んでいる。

 香が焚かれ、白い布が敷かれ、定められた位置に人が座している。


 帝をはじめ、清明、雲英、その他高官たちが居並んでいた。十余名。

 誰も口を開かない。中央に立った神祇官長官・八意雅が、静かに告げた。


「これより、斎宮の卜定を執り行います」


 虚空帝は、上座に座していた。

 病弱だと聞いていたが、その目は静かに前を向いている。

 華やかさも威圧感もなく、どこか硬かった。玉座に慣れた者の顔ではない。

 それでも逃げない、と決めた者の顔だった。


 清明はその横顔を一瞥し、静かに視線を前へ戻した。

 形式としては、正しく整えられていた。


「候補者は」


 雅が書簡を開いた。


「月代宮家より二名」


「鳴海宮家より一名」


「朝比奈宮家より一名」


「以上四名にございます」


「四人か」


 誰かが呟いた。


「皇族は帝家を除けば、今、三宮家だけでしたか」


 清明が頷く。


「いずれも中央には出仕しておりませんな」


 亀甲が火にくべられ、雅がひびの入り方を読む。

 神の意志として、解釈される。


 やがて雅が静かに告げた。


「鳴海宮家のまつ


 その名が室内に落ちた。誰も驚かなかった。

 清明は居並ぶ高官たちの顔を、静かに見渡した。


 安堵している者がいる。

 納得している者がいる。


 そして、ほんのわずかだが。

 最初から知っていたような顔をしている者もいた。


 清明は視線を前へ戻す。雅はすでに亀甲を置き、巻紙へ何かを記している。

 その所作は穏やかで、淀みがない。


「狄の血を引いている者か」


「だからこそ、でしょう」


 誰が言ったのか、清明には聞き取れなかった。

 だが意味は分かった。


 狄との共存。辺境の神性。異民族的神秘性。

 それを「神意の象徴」として使う。


 清明は小さく息を吐く。

 卜定は正しく行われた。形式に誤りはない。


 ただ、亀甲のひびが、最初からその名を示すように割れていたことを、清明は静かに記憶した。


 雲英が口を開いた。


「潔斎期間について、本来であれば数年を要しますが」


「短縮する」


 帝の声が落ちた。短く、迷いがない。

 雲英は一拍置いてから続ける。


「神嘗祭に間に合わせるとなると、かなりの短縮になりますが」


「構わない」


 それだけだった。

 室内に、薄い沈黙が落ちる。異を唱える者はいない。

 清明も何も言わなかった。言えることは、まだない。

 ただ、急がれている、ということだけは分かった。何を急いでいるのかも。


 儀が終わり、人々が静かに散り始める。

 清明は最後に立ち上がり、一度だけ中央を見た。

 亀甲はすでに片付けられていた。灯火だけが、まだ揺れている。


「清明様」


 雲英が近づいてきた。


「何かお気づきの点はありましたか」


「さあ」


 清明は静かに答えた。


「神意というものは、私には読めませんので」


 それだけ言って、室を出た。廊下の空気は冷えていた。夜明け前の、まだ誰も動いていない時間だった。


 清明は足を止めずに歩く。


 ──鳴海宮家の茉莉。


 その名を、胸の中で一度だけ繰り返した。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ