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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第三章 名を持たぬ花

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第一話 六花と呼んで

 帝都・天澄あますみきょうの朝は、因州の空よりも幾分か柔らかかった。

 人の往来は絶えず、声は重なり、世界は確かに生きている音を立てている。


 桜桃が神祇官庁の方へ歩いていると、前方に見慣れた姿があった。


 朝凪だった。


 槍を携え、身動き一つせず柱の傍に立っている。

今日はこちらの回廊の警備らしい。


 その身に纏っているのは、かつての仕立ての良い中将の軍装ではない。


 中に着た実用的な黒の筒袖の着物の上から、近衛の一般兵に支給される、濃灰の陣羽織を重ねている。


 胸元には、下級歩兵を示す小さな一輪の桜の紋章が、刺繍されているだけだ。


 昊夜のような将校たちの華やかな洋装に比べれば、それはあまりにも飾り気のないの制服だった。


 けれど、朝凪の隙のない立ち姿のせいで、その簡易的な陣羽織さえも、まるで特別な衣装であるかのように洗練されて見えてしまう。


 そんな朝凪の静かな瞳が、桜桃の姿を捉えた。


「姫様」


 呼びかけは、迷いなく真っ直ぐに落ちる。

 その瞬間、桜桃は反射的に顔をしかめて、周囲を気にしながら声を潜めた。


「その呼び方はやめて。ここでは正体がバレるでしょ!」


 声は少しだけ強くなる。けれど、その強さは怒りからくるものではなかった。むしろ、ようやく戻ってきた日常を確かめるような心地よさがあった。


 朝凪は一瞬だけ目を伏せ、それから小さく頷く。


「……では」


 一拍置いて、ほんの小さく、言い直すように口にした。


「六花」


 ふわりと微笑んで紡がれたその呼び方は、驚くほど優しかった。


 その名は、いつかは手放さなければならない偽りの名だ。それでも今だけは、このままでいいと言われているような、不思議な包容力を持った響きがあった。


 桜桃は不意を突かれて言葉を失いかけたが、それでも視線だけは逸らさずに彼を見つめた。朝凪はそれ以上何も言わなかった。


 しばらく、心地よい沈黙が二人の間に落ちた。

 やがて桜桃は、小さく息を吐き出す。


「……ねえ」


「はい」


「もう一度」


 朝凪の動きが一瞬だけ止まった。微笑みは消え、いつもの静かな佇まいに戻っている。


「……何をですか」


「名前」


また一拍の間が空く。


「……六花」


「うん」


「……まだ何かありますか」


「ないわ」


「では、なぜ」


「呼んでほしかっただけ」


 再び、沈黙が落ちた。

 朝凪は視線を正面へ戻す。


「……承知しました」


「なんで承知なの」


「では何と言えばよいですか」


「もう少し、他に言い方があるでしょう」


「……そうですか」


 朝凪はしばらく考え込んだ。本当に真面目に考えている顔だった。

 やがて、彼は静かに声を紡ぐ。


「……よかったです」


「何が?」


「六花が、無事で」


 あまりに真っ直ぐな言葉に、桜桃は思わず顔を逸らした。


「……それ、最初に言いなさいよ」


「順番を間違えました」


「間違えたって、あなた……」


 桜桃はこらえきれずに、小さく笑った。笑いながら、胸の奥がじんわりと温かくなっていくのを感じる。


 因州での過酷な日々が、まだ重く心に残っている。飛燕の最期も、まだ完全には消化しきれていない。

 それでも今だけは、このささやかな温かさをそのまま受け取っていたかった。


「朝凪」


「はい」


「たまに、ずるいわね」


「そのような意図はありません」


「それがずるいって言ってるの」


 朝凪は答えなかった。ただ、わずかに視線を上げて桜桃を見る。

 その目はいつも通り穏やかだった。だが、どこか、何かが決定的に違う。


 何が違うのか、桜桃にはすぐには言葉にできなかった。そこでようやく、桜桃はある変化に気づいた。


「……髪、切ったのね」


「はい」


 以前は長い髪を後方でひとつに結い上げていたが、今は短く整えられている。そのせいで、彼の端正な顔の輪郭が、以前よりもはっきりと見えていた。


「似合ってる」


「……ありがとうございます」


 朝凪はそれだけを言って、静かに目を細めた。


 桜桃はしばらく朝凪を見上げていた。何が違うのか、さっきまで言葉にできなかった答えが分かった。

けれど、髪が変わっても、変わらない何かがある。


 その何かが、ずるいのだと思った。


 しばらく二人で黙ったまま佇む。

回廊を、秋の風が涼やかに吹き抜けていった。


「……行かなくていいのですか」


 朝凪がいつも通りの声音で、静かに促した。


「神祇官庁から、呼び出しがかかっていたのでは」


「あ」


「忘れていましたか」


「……少しだけ」


 朝凪はそれについては何も言わなかった。ただ、手にした槍を持ち直した。


「お気をつけて」


「ええ」


 桜桃は歩き出す。けれど、数歩進んだところで、どうにも名残惜しくて思わず振り返った。


 朝凪はもう前を向いていた。いつも通りの姿勢で、いつも通りに立っている。

 背筋を伸ばし、桜桃は今度こそ踵を返した。


「……六花」


 背後から、再びその名が聞こえた。

 もう一度振り返ると、今度はいつもよりずっと穏やかな表情で、朝凪がこちらを見ていた。


「急がないと、本当に遅れます」


 それだけだった。

 桜桃はしばらく呆気に取られて固まっていたが、やがてくすりと笑みを漏らした。


「分かってるわよ」


 今度はもう振り返らずに、足早に歩いた。


 桜桃の姿が回廊の角へ完全に消えると、隣に立っていた門兵が、朝凪の肩を肘で軽く小突いた。


「お前、あの子とついに仲良くなったのか。良かったな」


 朝凪は微動だにせず、前を向いたまま淡々と答えた。


「……仕事中です」


「そうだな」


 門兵は、にやにやと笑った。


「仕事中の顔じゃなかったけどな」


 朝凪は何も言わなかった。


***


 神祇官庁の奥の間は、昼でも薄暗かった。

 高窓から落ちる光が細く白く、柱の影を長く引いている。


 桜桃が通されると、神祇官長官の八意雅はすでにそこにいた。


 机の上に巻紙を広げ、扇を軽く閉じながら振り返る。


「やっと来てくれましたね」


 責める声ではない。むしろ、待っていたことを楽しんでいるような響きがあった。


「因州へ行く前に、ちゃんとお話しする時間がなかったので」


「申し訳ありません」


「あなたのせいではありませんよ。あの状況では仕方がなかった。……それにほら、これ」


 雅は机の上の皿を指差した。そこには、美しく型押しされた干菓子が並んでいる。


「あなたが来ると思って、とっておきの高級菓子を用意しておいたのです。これを神祇官の予算から『お供え物』として落とす口実を、今か今かと待っていたんですよ」


「……不純な理由で待たれていたんですね」


「人聞きが悪い。神と人が喜びを分かち合う、これぞ神祇の基本です。さあ、どうぞ」


 勧められるまま一口かじると、上品な甘さが広がる。

 雅は穏やかな瞳で、桜桃を見つめている。


「ただ、あなたはこれから神祇官所属になりますので、最低限のことは知っておいてほしくて」


「はい」


「では、まず一つだけ聞かせてください」


 雅がふわりと微笑む。

 柔らかい目だったが、その奥に何かを見定めようとする光がある。


「六花は、神を信じますか」


 桜桃は少し止まった。


 皇族は神の末裔だと言われてきた。信じるとか、信じないとか、そういう話ではない場所で育った。


 だが。


「……神がいるかどうかは、分かりません」


 正直に言った。


「神様を、私は見たことがないので」


 雅は何も言わない。続きを待っている。

 桜桃はゆっくりと言葉を探した。


「でも人はみんな、神頼みをしたり、神社にお参りをしたり、お守りを授かったり……悪いことをすると罰が当たると怖がったり」


 因州で、雨を乞う人々が脳裏を過る。

 土に膝をついて、空に手を伸ばしていた老人。祈るしかなかった人たちの顔。


「『神を信じている』わけではなくても、無意識に信じているような行動をとっています」


「そうですね」


 雅が静かに相槌を打つ。


「それはたぶん悪いことではなくて……何かにすがりたくなったときに、頼ってもいいと思わせてくれる」


 桜桃は少し間を置いた。


「神様は、私たちにとって必要な存在だと思っています」


 言い終えてから、少しだけ照れくさくなった。

 長く喋りすぎたかもしれない。


 だが雅は、扇を広げた。


「……それです」


「え?」


「それが、神祇官の存在意義なんですよ」


 雅はゆっくりと立ち上がり、窓の方へ歩いていく。


「神がいるかどうか、私にも分かりません。正直なところ」


 あっさりと言う。


「えっ……神祇官の長官なのにですか?」


「ええ。見たことないですし。お供え物の酒を勝手に飲んでも、お腹を下したこともありません」


「バチ当たりなことをしないでください」


 思わず突っ込みを入れる桜桃に、雅はくすくすと笑いながら振り返った。


「ただ、人が神を必要としていることは分かる。そしてその『必要』に形を与えるのが、私たちの仕事です」


 桜桃は静かにその言葉を受け取った。


「形を与える……」


「儀式。場所。季節の節目。神に捧げるという行為」


 雅は振り返った。


「それがあるから、人は『頼ってもいい』と思える。あなたが言った通りに」


 桜桃は少しだけ目を伏せた。


 因州で舞ったときのことを思い出す。

 祈りが雨を降らせたわけではない。


 でも、あの場にいた人々には必要だった。


 あの舞が。あの形が。


「……なるほど」


「飲み込みが早い。やはり私が見込んだ通りだ。これで神祇官の面倒な書類仕事も、三分の一くらい押し付けられそうですね」


「……今、不穏な本音が聞こえたのですが」


 雅は扇を開いて楽しそうに仰ぎ、話をはぐらかした。


「では次の話をしましょう」


 机に戻り、広げた巻紙に指先を添える。


「今年は二つの大きな儀式があります。神嘗祭と、大嘗祭」


「神嘗祭は……秋の初穂を神に捧げる、と伺いました」


「よく知っていますね」


「少しだけ」


「では少しだけ補足を」


 雅は巻紙の上を指でなぞる。


「神嘗祭は毎年行われる儀式です。その年の最初の収穫を、まず神に捧げる。人が受け取る前に、神へ」


「順番があるのですね」


「そう。先に神へ、それから人へ。その順番が大事なんです」


 雅はそこで少し間を置いた。


「羽州の神宮で行います。六花には、随行してもらう予定で」


「はい」


「そちらで斎宮とも顔を合わせることになります」


「……斎宮様は、どのような方ですか」


 雅は扇を軽く開いた。


「先日、選定が終わったばかりです」


「そうですか」


「少し急ぎすぎた感はありますが」


 雅はあっさりと言う。


「少し事情がありまして」


 その「少し」が何を指すのか、桜桃には問い返せなかった。


 雅の扇が閉じる音が、静かな室内に乾いた響きを立てる。


「斎宮が神宮へ向かう、別れの御髪の儀が明日行われます。そちらも参加をお願いします」


「わかりました」


 雅は別の資料を取り出そうと、机の上に手を伸ばした。桜桃はそれを遮るように、小さく声を上げる。


「あの……地方への派遣には、毎回近衛の方が付くのですか」


 雅は静かに首を横へ振る。


「毎回ではありません。勅命を帯びた祭祀や、朝廷の意思を示す必要がある場合だけです」


「では、今回は……」


「今回は付きません」


「そうなんですね」


 桜桃は小さく安堵の息をついた。

 あの人が近くにいると、いつも胸の内が少しだけ騒がしくなる。


「そして大嘗祭ですが」


 雅は、机の上に置かれていた巻紙を桜桃へ差し出した。


「これを」


 受け取ると、ずっしりとした重さがある。


「各地からの収穫報告です。大嘗祭の準備として目を通しておいてください」


 桜桃は封を解き、一枚めくる。整然とした数字が並んでいる。

 桜桃はその数字を指でなぞりながら見ていたが、ふいに指先が止まった。


 雅はその手元に視線を移した。


「気になりますか」


「……はい」


「では、現地で確かめてみるといい」


 それだけ言って、扇を閉じた。


「大嘗祭は、これは特別です」


 雅の声が、わずかだけ変わった。

 柔らかさはそのまま。だが、その奥の重さが増す。


「帝が即位した年だけに行われる、特別な新嘗祭です。新しい帝が、初めて国の実りを神に捧げる」


「今年が、その年」


「ええ。虚空帝即位後、初めての秋ですから」


 雅は扇を閉じた。


「神嘗祭は、毎年繰り返される儀式です。形が大事で、その形を正しく整えることが求められる」


「でも大嘗祭は違う」


 桜桃が続けると、雅が少し意外そうな顔をした。


「どう違うと思いますか」


「……一度しかない、から」


「そう」


 雅は静かに頷く。


「帝が、初めて神の前に立つ。その一度だけの儀式です。形を整えるだけでは足りない」


 少し間を置く。


「帝という名前を、本当に持っている者でなければ、成立しない」


 帝という名前を、本当に持っている者。


「……神様は、整えられた形ではなく、その人そのものを、見るということですか」


 雅はしばらく桜桃を見ていた。

 それから、ゆっくりと微笑んだ。


「飲み込みが早い、と言いましたね」


「はい」


「撤回します」


「え?」


「早いどころじゃない」


 雅はで口元を隠す。

 その目だけが、穏やかに笑っていた。


「では、神嘗祭の準備について話を進めましょうか」


 何事もなかったように、穏やかな声で続けた。


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