第一話 六花と呼んで
帝都・天澄京の朝は、因州の空よりも幾分か柔らかかった。
人の往来は絶えず、声は重なり、世界は確かに生きている音を立てている。
桜桃が神祇官庁の方へ歩いていると、前方に見慣れた姿があった。
朝凪だった。
槍を携え、身動き一つせず柱の傍に立っている。
今日はこちらの回廊の警備らしい。
その身に纏っているのは、かつての仕立ての良い中将の軍装ではない。
中に着た実用的な黒の筒袖の着物の上から、近衛の一般兵に支給される、濃灰の陣羽織を重ねている。
胸元には、下級歩兵を示す小さな一輪の桜の紋章が、刺繍されているだけだ。
昊夜のような将校たちの華やかな洋装に比べれば、それはあまりにも飾り気のないの制服だった。
けれど、朝凪の隙のない立ち姿のせいで、その簡易的な陣羽織さえも、まるで特別な衣装であるかのように洗練されて見えてしまう。
そんな朝凪の静かな瞳が、桜桃の姿を捉えた。
「姫様」
呼びかけは、迷いなく真っ直ぐに落ちる。
その瞬間、桜桃は反射的に顔をしかめて、周囲を気にしながら声を潜めた。
「その呼び方はやめて。ここでは正体がバレるでしょ!」
声は少しだけ強くなる。けれど、その強さは怒りからくるものではなかった。むしろ、ようやく戻ってきた日常を確かめるような心地よさがあった。
朝凪は一瞬だけ目を伏せ、それから小さく頷く。
「……では」
一拍置いて、ほんの小さく、言い直すように口にした。
「六花」
ふわりと微笑んで紡がれたその呼び方は、驚くほど優しかった。
その名は、いつかは手放さなければならない偽りの名だ。それでも今だけは、このままでいいと言われているような、不思議な包容力を持った響きがあった。
桜桃は不意を突かれて言葉を失いかけたが、それでも視線だけは逸らさずに彼を見つめた。朝凪はそれ以上何も言わなかった。
しばらく、心地よい沈黙が二人の間に落ちた。
やがて桜桃は、小さく息を吐き出す。
「……ねえ」
「はい」
「もう一度」
朝凪の動きが一瞬だけ止まった。微笑みは消え、いつもの静かな佇まいに戻っている。
「……何をですか」
「名前」
また一拍の間が空く。
「……六花」
「うん」
「……まだ何かありますか」
「ないわ」
「では、なぜ」
「呼んでほしかっただけ」
再び、沈黙が落ちた。
朝凪は視線を正面へ戻す。
「……承知しました」
「なんで承知なの」
「では何と言えばよいですか」
「もう少し、他に言い方があるでしょう」
「……そうですか」
朝凪はしばらく考え込んだ。本当に真面目に考えている顔だった。
やがて、彼は静かに声を紡ぐ。
「……よかったです」
「何が?」
「六花が、無事で」
あまりに真っ直ぐな言葉に、桜桃は思わず顔を逸らした。
「……それ、最初に言いなさいよ」
「順番を間違えました」
「間違えたって、あなた……」
桜桃はこらえきれずに、小さく笑った。笑いながら、胸の奥がじんわりと温かくなっていくのを感じる。
因州での過酷な日々が、まだ重く心に残っている。飛燕の最期も、まだ完全には消化しきれていない。
それでも今だけは、このささやかな温かさをそのまま受け取っていたかった。
「朝凪」
「はい」
「たまに、ずるいわね」
「そのような意図はありません」
「それがずるいって言ってるの」
朝凪は答えなかった。ただ、わずかに視線を上げて桜桃を見る。
その目はいつも通り穏やかだった。だが、どこか、何かが決定的に違う。
何が違うのか、桜桃にはすぐには言葉にできなかった。そこでようやく、桜桃はある変化に気づいた。
「……髪、切ったのね」
「はい」
以前は長い髪を後方でひとつに結い上げていたが、今は短く整えられている。そのせいで、彼の端正な顔の輪郭が、以前よりもはっきりと見えていた。
「似合ってる」
「……ありがとうございます」
朝凪はそれだけを言って、静かに目を細めた。
桜桃はしばらく朝凪を見上げていた。何が違うのか、さっきまで言葉にできなかった答えが分かった。
けれど、髪が変わっても、変わらない何かがある。
その何かが、ずるいのだと思った。
しばらく二人で黙ったまま佇む。
回廊を、秋の風が涼やかに吹き抜けていった。
「……行かなくていいのですか」
朝凪がいつも通りの声音で、静かに促した。
「神祇官庁から、呼び出しがかかっていたのでは」
「あ」
「忘れていましたか」
「……少しだけ」
朝凪はそれについては何も言わなかった。ただ、手にした槍を持ち直した。
「お気をつけて」
「ええ」
桜桃は歩き出す。けれど、数歩進んだところで、どうにも名残惜しくて思わず振り返った。
朝凪はもう前を向いていた。いつも通りの姿勢で、いつも通りに立っている。
背筋を伸ばし、桜桃は今度こそ踵を返した。
「……六花」
背後から、再びその名が聞こえた。
もう一度振り返ると、今度はいつもよりずっと穏やかな表情で、朝凪がこちらを見ていた。
「急がないと、本当に遅れます」
それだけだった。
桜桃はしばらく呆気に取られて固まっていたが、やがてくすりと笑みを漏らした。
「分かってるわよ」
今度はもう振り返らずに、足早に歩いた。
桜桃の姿が回廊の角へ完全に消えると、隣に立っていた門兵が、朝凪の肩を肘で軽く小突いた。
「お前、あの子とついに仲良くなったのか。良かったな」
朝凪は微動だにせず、前を向いたまま淡々と答えた。
「……仕事中です」
「そうだな」
門兵は、にやにやと笑った。
「仕事中の顔じゃなかったけどな」
朝凪は何も言わなかった。
***
神祇官庁の奥の間は、昼でも薄暗かった。
高窓から落ちる光が細く白く、柱の影を長く引いている。
桜桃が通されると、神祇官長官の八意雅はすでにそこにいた。
机の上に巻紙を広げ、扇を軽く閉じながら振り返る。
「やっと来てくれましたね」
責める声ではない。むしろ、待っていたことを楽しんでいるような響きがあった。
「因州へ行く前に、ちゃんとお話しする時間がなかったので」
「申し訳ありません」
「あなたのせいではありませんよ。あの状況では仕方がなかった。……それにほら、これ」
雅は机の上の皿を指差した。そこには、美しく型押しされた干菓子が並んでいる。
「あなたが来ると思って、とっておきの高級菓子を用意しておいたのです。これを神祇官の予算から『お供え物』として落とす口実を、今か今かと待っていたんですよ」
「……不純な理由で待たれていたんですね」
「人聞きが悪い。神と人が喜びを分かち合う、これぞ神祇の基本です。さあ、どうぞ」
勧められるまま一口かじると、上品な甘さが広がる。
雅は穏やかな瞳で、桜桃を見つめている。
「ただ、あなたはこれから神祇官所属になりますので、最低限のことは知っておいてほしくて」
「はい」
「では、まず一つだけ聞かせてください」
雅がふわりと微笑む。
柔らかい目だったが、その奥に何かを見定めようとする光がある。
「六花は、神を信じますか」
桜桃は少し止まった。
皇族は神の末裔だと言われてきた。信じるとか、信じないとか、そういう話ではない場所で育った。
だが。
「……神がいるかどうかは、分かりません」
正直に言った。
「神様を、私は見たことがないので」
雅は何も言わない。続きを待っている。
桜桃はゆっくりと言葉を探した。
「でも人はみんな、神頼みをしたり、神社にお参りをしたり、お守りを授かったり……悪いことをすると罰が当たると怖がったり」
因州で、雨を乞う人々が脳裏を過る。
土に膝をついて、空に手を伸ばしていた老人。祈るしかなかった人たちの顔。
「『神を信じている』わけではなくても、無意識に信じているような行動をとっています」
「そうですね」
雅が静かに相槌を打つ。
「それはたぶん悪いことではなくて……何かにすがりたくなったときに、頼ってもいいと思わせてくれる」
桜桃は少し間を置いた。
「神様は、私たちにとって必要な存在だと思っています」
言い終えてから、少しだけ照れくさくなった。
長く喋りすぎたかもしれない。
だが雅は、扇を広げた。
「……それです」
「え?」
「それが、神祇官の存在意義なんですよ」
雅はゆっくりと立ち上がり、窓の方へ歩いていく。
「神がいるかどうか、私にも分かりません。正直なところ」
あっさりと言う。
「えっ……神祇官の長官なのにですか?」
「ええ。見たことないですし。お供え物の酒を勝手に飲んでも、お腹を下したこともありません」
「バチ当たりなことをしないでください」
思わず突っ込みを入れる桜桃に、雅はくすくすと笑いながら振り返った。
「ただ、人が神を必要としていることは分かる。そしてその『必要』に形を与えるのが、私たちの仕事です」
桜桃は静かにその言葉を受け取った。
「形を与える……」
「儀式。場所。季節の節目。神に捧げるという行為」
雅は振り返った。
「それがあるから、人は『頼ってもいい』と思える。あなたが言った通りに」
桜桃は少しだけ目を伏せた。
因州で舞ったときのことを思い出す。
祈りが雨を降らせたわけではない。
でも、あの場にいた人々には必要だった。
あの舞が。あの形が。
「……なるほど」
「飲み込みが早い。やはり私が見込んだ通りだ。これで神祇官の面倒な書類仕事も、三分の一くらい押し付けられそうですね」
「……今、不穏な本音が聞こえたのですが」
雅は扇を開いて楽しそうに仰ぎ、話をはぐらかした。
「では次の話をしましょう」
机に戻り、広げた巻紙に指先を添える。
「今年は二つの大きな儀式があります。神嘗祭と、大嘗祭」
「神嘗祭は……秋の初穂を神に捧げる、と伺いました」
「よく知っていますね」
「少しだけ」
「では少しだけ補足を」
雅は巻紙の上を指でなぞる。
「神嘗祭は毎年行われる儀式です。その年の最初の収穫を、まず神に捧げる。人が受け取る前に、神へ」
「順番があるのですね」
「そう。先に神へ、それから人へ。その順番が大事なんです」
雅はそこで少し間を置いた。
「羽州の神宮で行います。六花には、随行してもらう予定で」
「はい」
「そちらで斎宮とも顔を合わせることになります」
「……斎宮様は、どのような方ですか」
雅は扇を軽く開いた。
「先日、選定が終わったばかりです」
「そうですか」
「少し急ぎすぎた感はありますが」
雅はあっさりと言う。
「少し事情がありまして」
その「少し」が何を指すのか、桜桃には問い返せなかった。
雅の扇が閉じる音が、静かな室内に乾いた響きを立てる。
「斎宮が神宮へ向かう、別れの御髪の儀が明日行われます。そちらも参加をお願いします」
「わかりました」
雅は別の資料を取り出そうと、机の上に手を伸ばした。桜桃はそれを遮るように、小さく声を上げる。
「あの……地方への派遣には、毎回近衛の方が付くのですか」
雅は静かに首を横へ振る。
「毎回ではありません。勅命を帯びた祭祀や、朝廷の意思を示す必要がある場合だけです」
「では、今回は……」
「今回は付きません」
「そうなんですね」
桜桃は小さく安堵の息をついた。
あの人が近くにいると、いつも胸の内が少しだけ騒がしくなる。
「そして大嘗祭ですが」
雅は、机の上に置かれていた巻紙を桜桃へ差し出した。
「これを」
受け取ると、ずっしりとした重さがある。
「各地からの収穫報告です。大嘗祭の準備として目を通しておいてください」
桜桃は封を解き、一枚めくる。整然とした数字が並んでいる。
桜桃はその数字を指でなぞりながら見ていたが、ふいに指先が止まった。
雅はその手元に視線を移した。
「気になりますか」
「……はい」
「では、現地で確かめてみるといい」
それだけ言って、扇を閉じた。
「大嘗祭は、これは特別です」
雅の声が、わずかだけ変わった。
柔らかさはそのまま。だが、その奥の重さが増す。
「帝が即位した年だけに行われる、特別な新嘗祭です。新しい帝が、初めて国の実りを神に捧げる」
「今年が、その年」
「ええ。虚空帝即位後、初めての秋ですから」
雅は扇を閉じた。
「神嘗祭は、毎年繰り返される儀式です。形が大事で、その形を正しく整えることが求められる」
「でも大嘗祭は違う」
桜桃が続けると、雅が少し意外そうな顔をした。
「どう違うと思いますか」
「……一度しかない、から」
「そう」
雅は静かに頷く。
「帝が、初めて神の前に立つ。その一度だけの儀式です。形を整えるだけでは足りない」
少し間を置く。
「帝という名前を、本当に持っている者でなければ、成立しない」
帝という名前を、本当に持っている者。
「……神様は、整えられた形ではなく、その人そのものを、見るということですか」
雅はしばらく桜桃を見ていた。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「飲み込みが早い、と言いましたね」
「はい」
「撤回します」
「え?」
「早いどころじゃない」
雅はで口元を隠す。
その目だけが、穏やかに笑っていた。
「では、神嘗祭の準備について話を進めましょうか」
何事もなかったように、穏やかな声で続けた。




