第二話 別れの御髪
神祇官庁を出た桜桃は、腕の中に巻紙を抱えながら歩いていた。
歩を進めながら、ふと、先ほど雅の口から出た別の言葉が頭をよぎる。
──斎宮。
鳴海宮家の茉莉。
父の時代にも、斎宮はいたはずだった。
星河帝の御代に仕えていた斎宮は、今どうしているのだろう。
謀反の混乱の中で、どこへ消えたのか。
──あるいは。
桜桃は歩みを止め、少しだけ眉を寄せた。
記録を調べれば分かるかもしれない。
書庫へと続く薄暗い廊下を進んでいると、重い木扉の手前に、人影が立っていた。
柳だ。
真顔のまま巻紙を抱えている。
「柳様、書庫へ調べ物ですか?」
桜桃が声をかけると、柳はゆっくりと振り返った。その瞳は微塵も揺れていない。
「はい。ちょっと……過去の気候資料を。現地の土の湿り気と、帝都の帳簿の数字に乖離が見られましたので」
淡々と、しかし極めて正確な言葉で柳が答える。
その言葉を聞いた瞬間、桜桃の脳裏に、以前彼が真顔で言い放った奇妙な報告が鮮やかによみがえった。
――『今年の水不足の状況と、過去十年の降水記録を照らし合わせました』
(そういえば、あの時からずっと、この人は一人で気候を調べていたんだ……)
周囲が雨乞いの是非を問う中、柳は最初から、数値を見つめていたことを思い出した。
「柳様は、官吏なんですか?」
「私は地方官です」
桜桃は驚いて、柳を見上げた。
「そうなんですか」
「ええ。今は有給休暇を消化中なんです」
「有給消化……」
あまり聞き馴染みのない響きに桜桃が瞬きを返すと、柳はそれ以上は語らず、抱えた巻紙の端をとんとんと整えた。
「では、私はこれで」
静かに一礼すると、そのまま滑るように去っていった。
桜桃はその独特な背中を見送り、それから目的の書庫の扉へと手をかけた。
一歩足を踏み入れると、ひんやりとした空気と共に、古い紙と墨の匂いが濃くなる。
高い棚が幾重にも連なり、膨大な過去の記録が静かに眠っていた。
その奥から、書庫番の男が音もなく現れ、深く頭を下げる。
「斎宮の記録を見たいのですけど」
桜桃が告げると、男は一拍遅れて顔を上げた。
「……斎宮の、記録でございますか」
「ええ」
男は一瞬だけ視線を泳がせ、それから困ったように笑みを浮かべた。
「申し訳ございませんが、そちらは閲覧禁止区域に移されております」
桜桃は、眉を寄せた。
「閲覧禁止?」
「はい。宮中の定めにより、今は」
「誰の許しで」
問いかける声は静かだったが、鋭さを帯びていた。
男はすぐには答えず、気まずそうに書庫のさらに奥へと視線を逸らす。
「……書庫全体の管理が、少し前に再編されまして」
「再編?」
「はい。閲覧制限の範囲が、大幅に広がっているのです」
桜桃は一歩、棚の方へ足を進めた。
「どうして閲覧禁止にする必要があるのですか」
書庫番は周囲に誰もいないかを見回し、一段と声を潜める。
「……皇后陛下のご意向と聞いております」
「未散様が……」
「ええ」
男は曖昧に頷いた。
「あの謀反の前後は、何かと混乱しておりましたからな。失われた記録も多い。これ以上の余計な混乱を避けるため、だとか」
桜桃は、厳重に閉じられた格子戸の向こうを見つめた。
薄暗い棚には、びっしりと帳面が並んでいる。だが、ここからでは背表紙の題名までは読めない。
「そこには、どんな記録が保管されているのですか」
「先帝の御代の後宮記録や名簿、それから、宮廷の出入りの詳細な記録などですな」
その瞬間、桜桃の瞳が揺れた。
書庫番は、それ以上詮索を拒むように小さく肩を竦めた。
「もっとも、私のような下役には、本当の理由までは分かりかねますが」
桜桃は、小さく頷くしかなかった。
先帝の御代。謀反の直前。後宮。名簿。
以前は、後宮名簿などいつでも閲覧できたはずだった。
――いつから、伏せられた。
因州に派遣されてから、書庫に足を運ぶことはなくなっていた。
その時期は、如月の死後と重なる。
(未散様が、なぜ……?)
格子戸を凝視しながら、胸の奥にざらりとした違和感が残る。
だが、今の自分はただの一神祇官に過ぎない。それ以上、男を問い詰める資格も根拠も、今の桜桃にはなかった。
桜桃は書庫番に礼を言って、書庫を後にした。
***
神事の間は静まり返っていた。
朝の光がまだ低く、高窓から斜めに差し込む白い光の筋だけが、張り詰められた床を冷たく照らしている。
香が焚かれ、清浄な白い布が敷かれ、神官たちが整然と列を作っていた。
桜桃もその列の端に加わっている。神祇官としての随行だった。初めて立ち会う厳かな儀式に、自然と背筋が伸びる。
その中央に、一人の少女が座していた。
清らかな白い装束を纏い、艶やかな長い髪を背に垂らして、微動だにせず真っ直ぐ前を向いている。
鳴海宮家の茉莉。新たに選ばれた、斎宮だった。
その表情は整っており、少しも崩れない。けれど桜桃には、その静けさが「落ち着いている」のとは全く違う、何かを諦めているもののように見えた。
虚空帝が進み出た。
茉莉の前で足を止め、しばらくの間、静かにその頭頂を見下ろす。やがて、低く、重々しい声が空間に落ちた。
「天澄の方を賜うな」
――これより先、決して都の方向を振り返ってはならぬ。
それは、彼女が二度とこの都へは戻れないこと、皇族としての身分を捨て、神への捧げ物となることを意味する宣告だった。
茉莉は深く頭を下げた。言葉は返さない。返すこと自体が、この儀式では許されていないようだった。
帝は踵を返し、上座へと戻っていく。その背中はあまりにも静かで、拒絶のように重かった。
雅が、音もなく茉莉の後ろへと立った。
その手には、白木の櫛が握られている。ゆっくりと、茉莉の長い髪へ差し込まれた。
一度。
また一度。
別れを告げる櫛の儀が、三度繰り返される。
その度に、茉莉の華奢な肩がほんのわずかに、小刻みに動いた。
泣いているわけではない。声を漏らしたわけでもない。ただ、限界まで張り詰めた息を、小さく吐き出しているだけだった。
儀式はそれだけで終わった。
桜桃は列を崩さないまま、退出していく茉莉の背中を見つめていた。
あの肩の微かな震えが、どうしても頭から離れない。あれほど整えられた儀式の中で、その小さな動きだけが、ひどく生々しく、人間らしかった。
神事の間から人々が少しずつ退出していく。
桜桃も片付けを終え、回廊へ足を向けた、その時だった。
柱の陰から、小さな声が聞こえてくる。
「……本日は、お疲れ様でございました。」
深黎だった。
その向かいには、未散が扇を片手に、静かに立っている。
「御髪も滞りなく終わりましたね。」
「はい。」
深黎は一礼した。
「神嘗祭まで、それほど日もありません。」
未散は静かに頷く。
「今年は、慌ただしくなりそうですね。」
「ええ。」
短い沈黙が流れた。
「祭祀目録は後ほどお届けいたします。」
「よろしくお願いします。」
未散は柔らかく微笑むと、侍女たちを従えて静かにその場を去っていった。
深黎はその背中を見送り、誰もいなくなった神事の間へ視線を戻す。
侍女たちに囲まれ、奥へ消えていく茉莉の後ろ姿を、ただ見つめていた。
その顔は、桜桃の知る深黎とはまるで違っていた。
いつも周囲を煙に巻くような飄々とした気配はどこにもない。
ただ、深い闇の底へ取り残されたような目をしている。
やがて茉莉の姿が完全に見えなくなると、深黎はゆっくりと視線を落とした。
そこから、一歩も動こうとしない。
「……深黎様。」
桜桃がそっと声をかけると、深黎ははっとしたように振り返った。
一瞬だけ、その瞳に何かが過ったが、次の瞬間には、いつもの掴みどころのない笑みが張り付いていた。
「六花さん。神事のお手伝いですか」
「ええ。……深黎様は、ここで何を?」
「ただの通りがかりですよ」
深黎はいつもの調子で肩を竦めた。桜桃はその答えをすぐには信じなかったが、それを問い質せるほどの確証も、今の自分にはない。
「では、私はこれで」
深黎はそれ以上何も言わず、背を向けて回廊を歩いていった。
桜桃はその寂しげな背中を見送りながら、先ほど神事の間で見た、茉莉の肩の微かな震えをもう一度思い出していた。
あの二人には、他人が立ち入れない繋がりがあるのだろうか。
答えは出ないまま、秋の冷たい風だけが、静かに回廊を吹き抜けていった。




