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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第三章 名を持たぬ花【羽州神隠編】

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序

 凶作の年、この地には、神隠しが起きるという奇妙な伝承が伝わっていた。

 忽然と姿を消した少女を、人々は「神に召されたのだ」と噂した。


 しかし後年、この地を調べた記録者の手記には、こう記されている。


「神が選んだのか。人が選んだのか。

 記録には残っていない。

 ただ、少女の名だけが、どこにもなかった」


 ――天和国 民俗記録 より


◇


 名とは、不思議なものだ。


 生まれたばかりの赤子へ与えられるその短い音だけで、人は立場を決められる。


 誰の子か。 どこへ属するのか。 何を継ぐのか。


 たった数文字で、 その先の人生まで静かに形作られていく。

 名とは時に、役割そのものだ。


 呼ばれるたび、期待と責務が積み重なっていく重い名。


 その名を持つ者は、最初から愛され、“中心”へと置かれる。

 自分と同じ血を持たぬ、その家の者たちが継ぐような、誇らしい名だ。


 そこに在ることだけを許されたような軽い名。


 いてもいい。だが、前へ出ることは望まれていない。

 誰かの“お気に入り”から外れた場所で、ただ、存在を許されているだけの名だ。


 ならば。

 名を持たぬ者は、何になるのだろう。


 記録へ残らず、数にも入らず、消えても困られない者たち。

 この国には、そういう人間がいる。


 そして多くの者は、それを当たり前だと思って生きている。

 国とは、そういう形で保たれているからだ。


 誰を数え、誰を外へ置くのか。

 その線引きだけは、昔から驚くほど静かに行われてきた。


 だから時々、分からなくなる。

 自分はどちら側なのか、と。


 この家に、この場所に、自分はいてもいいのだろうか。

与えられたのか。

 それとも、置かれているだけなのか。


 風が枝を揺らす。

 白い花弁が一枚、静かに落ちた。


 あの人が好きだという、その白い花の名を。

 自分は、まだ知らない。


***


 夜明け前の神祇殿は、息を潜めたように静かだった。

 普段は人の出入りも少ない奥の間に、今朝だけは灯火が並んでいる。

 香が焚かれ、白い布が敷かれ、定められた位置に人が座している。


 帝をはじめ、清明、雲英、その他高官たちが居並んでいた。十余名。

 誰も口を開かない。中央に立った神祇官長官・八意雅が、静かに告げた。


「これより、斎宮の卜定を執り行います」


 虚空帝は、上座に座していた。

 病弱だと聞いていたが、その目は静かに前を向いている。

 華やかさも威圧感もなく、どこか硬かった。玉座に慣れた者の顔ではない。

 それでも逃げない、と決めた者の顔だった。


 清明はその横顔を一瞥し、静かに視線を前へ戻した。

 形式としては、正しく整えられていた。


「候補者は」


 雅が書簡を開いた。


「月代宮家より二名」


「鳴海宮家より一名」


「朝比奈宮家より一名」


「以上四名にございます」


「四人か」


 誰かが呟いた。


「皇族は帝家を除けば、今、三宮家だけでしたか」


 清明が頷く。


「いずれも中央には出仕しておりませんな」


 亀甲が火にくべられ、雅がひびの入り方を読む。

 神の意志として、解釈される。


 やがて雅が静かに告げた。


「鳴海宮家の茉《まつ》莉《り》」


 その名が室内に落ちた。誰も驚かなかった。

 清明は居並ぶ高官たちの顔を、静かに見渡した。


 安堵している者がいる。

 納得している者がいる。


 そして、ほんのわずかだが。

 最初から知っていたような顔をしている者もいた。


 清明は視線を前へ戻す。雅はすでに亀甲を置き、巻紙へ何かを記している。

 その所作は穏やかで、淀みがない。


「狄の血を引いている者か」


「だからこそ、でしょう」


 誰が言ったのか、清明には聞き取れなかった。

 だが意味は分かった。


 狄との共存。辺境の神性。異民族的神秘性。

 それを「神意の象徴」として使う。


 清明は小さく息を吐く。

 卜定は正しく行われた。形式に誤りはない。


 ただ、亀甲のひびが、最初からその名を示すように割れていたことを、清明は静かに記憶した。


 雲英が口を開いた。


「潔斎期間について、本来であれば数年を要しますが」


「短縮する」


 帝の声が落ちた。短く、迷いがない。

 雲英は一拍置いてから続ける。


「神嘗祭に間に合わせるとなると、かなりの短縮になりますが」


「構わない」


 それだけだった。

 室内に、薄い沈黙が落ちる。異を唱える者はいない。

 清明も何も言わなかった。言えることは、まだない。

 ただ、急がれている、ということだけは分かった。何を急いでいるのかも。


 儀が終わり、人々が静かに散り始める。

 清明は最後に立ち上がり、一度だけ中央を見た。

 亀甲はすでに片付けられていた。灯火だけが、まだ揺れている。


「清明様」


 雲英が近づいてきた。


「何かお気づきの点はありましたか」


「さあ」


 清明は静かに答えた。


「神意というものは、私には読めませんので」


 それだけ言って、室を出た。廊下の空気は冷えていた。夜明け前の、まだ誰も動いていない時間だった。


 清明は足を止めずに歩く。


 ──鳴海宮家の茉莉。


 その名を、胸の中で一度だけ繰り返した。



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