第三話 花梨の入御
翌日、花梨の入御が静かに執り行われていた。
昊夜殿下のもとへ入る。
それは宮廷にとって珍しい出来事ではない。政と血筋を結び、家同士の均衡を保つ縁組など、この場所では日常の延長に過ぎなかった。
けれど青陽家は特別だった。
代々、地方統治で大きな乱れを出さず、中央との距離感も絶妙に保ち続けている名家。加えて、左大弁・清明の孫娘が昊夜殿下の許嫁として迎えられることは、宮中でも当然の流れとして受け止められていた。
その日、桜桃は神祇官庁から戻る途中で、皇居へ続く回廊の人だかりを見つけた。
侍女たちが静かに道を空けている。
その先へ視線を向けた瞬間、桜桃は思わず足を止めた。
花梨がいた。
淡い青磁色の衣を纏い、髪には白銀の簪が一つだけ差されている。飾りは少ないのに、不思議なほど目を引いた。
花梨は以前からそうだった。
声を荒げず、目立とうともしない。それでも自然と周囲の視線が集まる。
青陽家の娘として、昊夜殿下の許嫁として、自らの役割を、一歩も揺らがず受け入れている。
その隣に、昊夜が立っていた。
黒に近い深藍の衣を纏った姿は、周囲の空気だけを静かに変えてしまうような存在感を持っている。
だが花梨の隣に立つ昊夜は、不思議とよく馴染んで見えた。
まるで最初から、そう並ぶことが決まっていたかのように。
花梨が何かを言う。昊夜は短く答え、目を細めた。
そのやり取りは穏やかで、無駄がなかった。
互いに役割を理解している者同士の空気。
桜桃は遠くからそれを見つめたまま、なぜか視線を逸らせなくなる。
(――似合っている)
そう思った瞬間、胸の奥が小さくざわついた。
花梨が昊夜のもとへ入ることは知っていた。二人が並べば、美しいだろうとも思っていた。
なのに、実際にその姿を見た途端、胸の内側を何か細いものが引っ掻いたような感覚が残った。
桜桃は花梨の姿を見つめながら、胸の奥に残る息苦しさの理由を探そうとする。
――昔。
ふと、遠い記憶が脳裏を掠めた。
まだ星河帝が生きていた頃。
昊夜は武勇に優れた人物とは聞いていたが、今ほど宮廷の中心にいる存在ではなかった。
皇族ではあっても傍系に近い血筋で、朝廷軍の大佐として軍に籍を置いていた。次代争いの表へ立つような立場ではなく、宮中でも半ば"数のひとつ"として扱われていた。
だからこそ、桜桃との縁談が囁かれたことがある。
帝の娘である皇女と婚約するには、それ相応の格が必要だ。かといって大貴族の子弟では、家同士の力関係が複雑になる。
皇族の血を持ち、しかし宮廷の中心からは遠い――昊夜はその条件にちょうど収まる存在だった。
桜桃自身、その話を深く考えたことはない。当時の昊夜は今のような鋭い存在感を持っていなかったし、自分と同じように、宮廷という巨大な流れの外側に置かれている人間だと思っていた。
だが、謀反が起きた。
多くの皇族が死に、宮廷の均衡は崩れ、昊夜の父が帝位へ就いた。それによって、昊夜の立場も変わった。
気づけば彼は、宮廷の中心近くへ立っていた。
もう昔のように、軽々しく縁談へ名が挙がる相手ではない。
花梨が今向かっている場所は、 かつてとはまるで違う重さを持っている。
桜桃は小さく目を伏せた。
もし何も起きていなければ。
そんなことを考える資格はない。
それでも胸の奥で、遠い過去の可能性だけが、静かに形を残していた。
「……六花?」
背後から控えめな声がした。
振り返ると、朝凪が少し離れた位置に立っている。今日は皇居の警備についているらしかった。
桜桃ははっとして視線を逸らす。
「ごめんなさい。通路を塞いでいたわね」
「いえ」
朝凪はそれ以上何も言わなかった。
けれど、その視線が一瞬だけ前方へ向いたことに、桜桃は気づいてしまう。
昊夜と花梨のいる方へ。
その途端、妙に落ち着かなくなった。まるで見られたくないものを見透かされたようで、桜桃は慌てて歩き出す。
「六花」
朝凪が静かに呼び止める。
「はい?」
「羽州へ行くそうですね」
桜桃は足を止めた。
「……ええ。耳が早いのね」
「姫様のことなら情報は網羅している」
「え?」
「いえ、なんでもありません」
朝凪は素知らぬ顔で誤魔化した。
桜桃は首をかしげた。
どこから聞いたんだろう。
朝凪は不思議そうな桜桃の様子を見つめながら、口を開いた。
「道中の警護には、私も同行いたします」
桜桃は目を見開く。
「朝凪が?でも警備の仕事は」
「交代が出ます」
「……自分で志願したの?」
朝凪は少しだけ間を置いた。
「はい」
それだけだった。理由は言わない。
けれどその一言だけで、胸の奥のざわめきが、少しだけ静まる。
「……それなら安心ね」
桜桃は小さく息を吐き、ようやくいつもの調子で言った。
***
ゆっくりと皇居へ入っていく花梨の姿を、離れた回廊から三人の男が静かに見送っていた。
宮内卿・赤楊光則が、滑らかな声で口を開く。
「女房二十名、侍女十名。居室の設えも万全に整えてございます。何一つ不自由はございません」
大納言・蘇芳一心が、それに短く頷くだけだった。
清明はただ黙って、花梨の小さくなっていく背中を見つめ続けている。
「宮中の作法も、半年もあれば自然と身につきましょう。元より名門、青陽家のご息女です。何らご心配には及びません」
「そうでしょうな」
今度は蘇芳が答えた。
「問題は、作法ができるか否かではありません」
赤楊が怪訝そうに視線を向ける。
蘇芳の双眸は、すでに花梨の後ろ姿ではなく、彼女がこれから入る御殿の深奥――権力の中心を見据えていた。
「青陽家が、この宮中へ足を踏み入れた。……それだけで、盤面を動かすには十分です」
低く、静かな声だった。それは歓迎の言葉ではなく、事実の提示だった。
赤楊もその意図を察し、それ以上は何も問わなかった。
二人の間で、清明だけが、小さく重い息を吐き出した。
「祖父としては、ただ、笑っていてくれれば、それで良いのですが」
その呟きに、二人の視線が清明へと集まる。
一瞬だけ、重い沈黙が回廊に落ちた。
蘇芳は静かに目を閉じ、そして、ゆっくりと開いた。
「青陽殿」
その呼びかけは穏やかだったが、同時に冷たさも孕んでいた。
「今日この時からは、あの娘は青陽家の娘ではありません。宮中という仕組みの一部、その人間にございます」
清明は、何も答えなかった。
ただ、花梨の姿が幾重もの御簾の向こうへと完全に消え去るまで、じっとその場所へ立ち尽くし、静かに見送っていた。
***
夜、神祇官庁の一室に、まだ灯がついていた。
桜桃は机の前に座ったまま、収穫報告書を広げていた。
整然と並ぶ数字。
羽州――平年並み。武州──やや減収。因州――不作。備州――やや減収。
因州の欄は正直だった。あの土地で見たものを思えば、この数字は嘘をついていないことだけは分かる。
しかし、問題は羽州だった。
増えすぎず、かといって減りすぎず。まるで誰かが後から丁寧に均したかのような、あまりにも不自然なほど「平年並み」に収まった数字。
(やっぱり綺麗すぎる)
そう思いながら、また最初の頁へ戻る。
「まだそんなものを読んでいるのか」
ふいに声がした。
顔を上げるより早く、その気配は近づいていた。
昊夜だった。
「見回りの途中で明かりが見えた。もうすぐ羽州への随行だろう」
桜桃は少しだけ背筋を伸ばした。
「失礼しました。もう少しで終わります」
「どこが引っかかっている」
昊夜は桜桃の背後から机を覗き込み、開かれた報告書に目を落とした。
すぐ後ろに彼の存在を感じる。
「羽州の数字なんですが」
「どれだ」
昊夜の手が真横から伸び、報告書の一行を指先で示した。さらに距離が詰まる。
「ここの算出のやり方だ。北部と南部を同じ比率で扱っている」
すぐ近くで、低い声が落ちた。
「え」
「北部と南部では土壌の生産性が違う。単純な平均値にすれば、北部の低収益は南部の高収益で相殺される」
耳元をかすめる吐息に、桜桃は思考が一瞬だけ白くなるのを感じた。何を言っているのか、ちゃんと聞き取らなければ、と思うのに意識が散る。
「聞いていないな」
低く、愉しそうな声だった。
桜桃は前を向いたまま、微動だにできなかった。耳の奥が熱い。
「聞いています」
「では今言ったことを繰り返してみろ」
「北部と、南部が」
「違うとは言ったか」
「言いました」
「それだけか」
「比率が、同じではいけないという話を」
「どこが違うと言った」
「土壌、だったかと」
「だったかと、では困る」
昊夜の気配が後ろに下がった。
ようやく息ができた気がして、桜桃は意識して平静を保とうとした。
「もう一度、教えていただけますか」
「自分で読め」
「読みます」
「帰れ」
「もう少しだけ」
「もう夜も遅い」
昊夜は手元から報告書を静かに取り上げた。
「続きは現地で見ろ」
「でも」
「神祇官が夜更かしをするな」
昊夜は机の灯を消した。
反論の余地を与えない強引さだったが、何も言い返せなかった。
回廊へ出ると、夜風が冷たかった。
ふいに、小さなくしゃみが出た。
歩いていた昊夜が少しだけ足を止め、何も言わないまま、肩に羽織っていた軍装を外した。
「え、あの」
断る隙もなく、それは桜桃の肩へと乗せられた。
重く、大きい。肩から裾まで、布地が酷く余っている。
「不格好だな」
昊夜が小さく笑った。
「笑わないでください」
「事実だろう」
「返します」
「着ていろ」
「重いですから、返します」
上着を脱ごうとした手を、上から肩ごと押さえられた。
「着ていろと言った」
「でも」
「風邪をひいたら随行に差し支える」
「それだけですか」
「それだけだ」
桜桃は軍装の袖を握りしめた。
大きい。重い。白檀の香りがする。
胸が高鳴った。なぜか顔が熱くなる。
「……ありがとうございます」
「早く帰れ」
「はい」
足早に回廊を進み、角を曲がって、ようやく立ち止まる。
壁に背中を預けても、顔の熱は一向に引く気配がなかった。胸の音がうるさくて、耳の奥まで響いている。
(結局、返せなかった……)
桜桃は、肩に掛かった重い濃灰の軍装を見下ろした。
大きすぎる布地からは、あの白檀の香りが絶え間なく上がってきて、桜桃の思考を狂わせる。
(早く屋敷に戻って、これを隠さなきゃ。……早く、羽州に行かなければ)
心の底からそう思った、その時だった。
暗闇の向こうから、静かな足音が近づいてくる。
「六花」
聞き慣れた声に、はっとして顔を上げると、そこには朝凪が立っていた。




