章扉
凶作の年、この地には、神隠しが起きるという奇妙な伝承が伝わっていた。
忽然と姿を消した少女を、人々は「神に召されたのだ」と噂した。
しかし後年、この地を調べた記録者の手記には、こう記されている。
「神が選んだのか。人が選んだのか。
記録には残っていない。
ただ、少女の名だけが、どこにもなかった」
――天和国 民俗記録 より
◇
名とは、不思議なものだ。
生まれたばかりの赤子へ与えられるその短い音だけで、人は立場を決められる。
誰の子か。 どこへ属するのか。 何を継ぐのか。
たった数文字で、 その先の人生まで静かに形作られていく。
名とは時に、役割そのものだ。
呼ばれるたび、期待と責務が積み重なっていく重い名。
その名を持つ者は、最初から愛され、“中心”へと置かれる。その家の者たちが継ぐような、誇らしい名だ。
そして、そこに在ることだけを許されたような軽い名。
いてもいい。だが、前へ出ることは望まれていない。
誰かの“お気に入り”から外れた場所で、ただ、存在を許されているだけの名だ。
ならば。
名を持たぬ者は、何になるのだろう。
記録へ残らず、数にも入らず、消えても困られない者たち。
この国には、そういう人間がいる。
そして多くの者は、それを当たり前だと思って生きている。
国とは、そういう形で保たれているからだ。
誰を数え、誰を外へ置くのか。
その線引きだけは、昔から驚くほど静かに行われてきた。
だから時々、分からなくなる。
自分はどちら側なのか、と。
この家に、この場所に、自分はいてもいいのだろうか。
与えられたのか。それとも、置かれているだけなのか。
風が枝を揺らす。
白い花弁が一枚、静かに落ちた。
あの人が好きだという、その白い花の名を。
自分は、まだ知らない。




