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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第三章 名を持たぬ花【羽州神隠編】

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第四話 出発前に

 朝凪は、片手に灯を持ち、いつも通りの表情で回廊の奥に立っている。


「遅いので見に来ました。……顔が赤いですが」


「あ、暑くて。部屋が少し、熱気で暑かったの」


「夜風が冷たい季節ですが」


「暑いんですっ」


 むきになって言い返す桜桃を、朝凪はしばらく静かに見つめた。

 その瞳が、桜桃の肩に掛けられた、あの男の──かつて自分がその身に纏っていたものと同じ、近衛中将の軍装へと向けられる。


 朝凪にとって、その濃灰の軍装は、自分が桜桃を護るために身に纏っていた誇りそのもの。


 それを別の男が着て、あまつさえ、自分が何よりも大切に、誰の手にも触れさせたくないと願っている姫様に羽織らせたのだ。


 一瞬、朝凪の瞳の奥の光が、凍りついたように完全に消えた。


 けれど、彼の声音も、表情も、恐ろしいほどに変わらなかった。

 いつも通りの、静かで穏やかな声のまま、朝凪は一歩、桜桃との距離を詰める。


「大きいですね」


「え……?」


「身体に合わない衣服を身に纏うのは、冷えを呼びます。脱いでください」


 拒絶の言葉は一切ない。怒りの色も見せない。


 ただ、至極当然の業務をこなすかのような手つきで、朝凪は迷いなく手を伸ばした。


 桜桃が「あ」と声を上げる間もなく、その大きな両手で、桜桃の肩から濃灰の軍装をすべらせるようにして、鮮やかに奪い去る。


 それは、主の意思など微塵も介さない、有無を言わせぬ強引さだった。


 朝凪の手の中に収まった近衛の服。かつての自分の誇りであり、今は別の男の匂いが染みついたその布地を、朝凪は一瞥すらしない。


 そのまま、彼は何でもないゴミでも扱うかのように、神祇官庁の裏手にある暗い庭へと、その上衣を無造作に放り捨てた。


 ぽす、と夜の闇の底で、重い衣が地面に落ちる音が響く。


「あっ、朝凪……!? 何をするの、あれは昊夜様の――」


「夜露に濡れれば、どのみち明日には使い物になりません」


 驚愕する桜桃を遮り、朝凪は淡々と言い放った。


 その顔はどこまでも冷静で、平然としている。けれど、灯を持つ彼の指先は、微かに強く握り締められていた。


「明日、私が新しいものをあの方の元へ届けておきます。あなたが気に病む必要はありません」


 いつも通りの、一礼。けれど、その瞳の奥に炎が見えた気がした。


(……怒ってる)


 言葉にも表情にも出さないけれど、朝凪は今、怒っているのだと、桜桃は本能的に察した。


「夜風が冷えます。……早く、戻りましょう」


 そう言って、先に立って歩き出す朝凪の背中は、いつも通り静かだった。


 けれど、漂ってくる夜の冷気の中に、まだほんのりと、朝凪の拒絶の気配が混ざっている気がして――桜桃は胸を鳴らしながら、その背中を静かに追いかけることしかできなかった。


***


 翌日、桜桃は、清明の執務室の前で足を止めた。

 いよいよ羽州へ向かう前に、一言、挨拶をしておきたかったのだ。


 控えめに戸を叩く。


「どうぞ」


 穏やかな声が返り、戸を開くと、清明は机に向かったまま書簡をめくっていた。桜桃の姿を認めると、その目元に柔らかな笑みを浮かべる。


「羽州へ行くそうですね」


「はい。出発のご挨拶に伺いました」


「わざわざ、律儀に」


 清明はそれだけ言って、また視線を落として手元の書簡をめくった。

 かり、と紙の擦れる音が室内に落ちる。


「羽州は私の故郷です。現地で何か困ったことがあれば、青陽の者に遠慮なく声をかけなさい」


「ありがとうございます」


「青陽家当主のつきは口数が少ない男ですが、仕事は丁寧です。それから……数字を見るときは羽州全体を一括りにせず、区ごとに細かく分けた方がよいですよ」


「区ごとに、ですか?」


「ええ。あそこは南と北で全く事情が違います。大雑把に括ってしまうと、本質が見えなくなる」


 それ以上は、清明は何も語らなかった。

 だが、その短い助言の中にこそ、長年羽州の土地と民を見てきた者だけが持つ、確かな目線があった。


 清明は顔を上げ、傍らの茶を一口飲んだ。


「気をつけて行ってらっしゃい」


 いつものように穏やかに微笑む清明に、桜桃が一礼して踵を返しかけた、その時だった。


「六花殿」


 部屋の薄暗い隅から、不意に声がした。

 振り返ると、いつの間にかそこに柳が立っていた。腕に分厚い書類を抱えている。本当にいつからそこにいたのか、全く気配がなかった。


「柳様。いらしていたんですね」


「ええ、祖父に書類を届けに来ていました」


 柳は表情を変えぬまま桜桃を見つめ、淡々と続ける。


「羽州へ行かれるそうですね」


「ええ、その予定です」


「私も、同行いたします」


「えっ? 有給休暇は終わったのですか」


「それもありますが……花梨が入御いたしましたので」


 桜桃は、少しだけ首を傾げた。


「……花梨様が宮中へ入られたことと、柳様が羽州へ帰ることに、何か関係があるのですか?」


 柳は、ほんの少しだけ間を置いた。


「花梨がいなくなりました」


「はい」


「屋敷が、静かになりました」


「……そうですね。お寂しいでしょう」


「静かすぎます。……そして、それが寂しいという感覚であるかどうか、私にはまだ正確に判断しかねるのです」


「判断しかねる?」


「花梨がいなくなって、何かが決定的に足りない感じはします。ただ、それを世間一般の言う寂しいと呼ぶべきものなのかどうか」


 柳は、大真面目だった。冗談を言っている風でもなく、純粋に新しい概念を定義しようとしている学者のような顔だった。


「……柳様、それを寂しいと言うんだと思いますよ」


 桜桃が苦笑混じりにそう告げると、柳はしばらく黙り込んだ。何かを頭の中で整理しているような、初めて聞く言葉を慎重に記憶の棚に収めようとしているような、奇妙な間だった。


「そうですか」


「ええ」


「では、私は寂しいのかもしれません」


 驚くほどあっさりと言った。

 机の向こうでは、清明が書簡をめくる音だけが、変わらず静かに続いている。


 柳は抱えていた書類を机の端にそっと置き、再び桜桃を正面から見た。


「花梨は、昊夜殿の隣に立つと決めていました。少し前から」


「……ご存知だったんですね」


「はい。ただ、昊夜殿が、本当に我が妹に相応しい殿方であるかどうかは、未だ『判断中』にございます」


「はあ、判断中……」


「当然です。青陽花梨の隣に立つ者は、それなりの厳しい基準を満たす必要がありますから」


 桜桃は、少し言葉に詰まった。


「……ちなみに、昊夜様に直接、何か確認でもされたのですか?」


「ええ。いくつか、基礎的な質問を投げかけました」


「どんな質問を?」


「花梨が最も好きな花と、絶対に食べられない苦手な食べ物、そして、機嫌が悪い時の見分け方です」


 室内に、妙な沈黙が落ちた。


「……昊夜様は、答えられたんですか?」


「花と食べ物については、全く答えられませんでした」


「そうですか……」


「ただ、機嫌の見分け方については、正確でした」


 柳は、そこだけは認めるように静かに続けた。


「よく見ている方だと思います。……それなりに」


「それなりに、という評価なんですね」


「ええ。まだ判断の途中ですので」


 すると、机の向こうで沈黙を守っていた清明が、ふっと楽しげに口を開いた。


「……柳、昊夜殿は、お前のその質問に、何と答えた」


「花梨は機嫌が悪くなると、目が細くなると」


「そうか」


 清明はそれだけ言って、また茶を一口すすった。

 それ以上は何も聞かなかったが、その目元は明らかに孫たちのやり取りを面白がっている。


 桜桃は、声を上げて笑い出しそうになるのを必死で堪えた。


「では、道中はご一緒できますね」


 柳は桜桃を見た。


「はい。ただ、出発前に一つだけ確認がございます」


「何でしょうか」


「六花殿は、羽州の区ごとの事情について、どの程度把握されていますか」


「……これから勉強しようかと」


「では、道中に私がお教えしましょう」


「あ、ありがとうございます……」


「祖父から譲り受けた、土地情報もございます」


 清明は微笑んだまま何も言わなかったが、書簡をめくる手が一瞬だけぴたりと止まった。


 もちろん、それに気づくような柳ではない。彼は相変わらずの真顔で、じっと桜桃を見つめている。


「……どうぞ、お手柔らかによろしくお願いします」


 桜桃が少し圧倒されながらも頭を下げると、柳は満足そうに静かに頷いた。


「こちらこそ。では、まずは講義の準備をいたします」


 静まり返った執務室の中に、清明がめくる書簡の乾いた音と、柳が道中の計画を頭の中で組み立てている微かな衣擦れの音だけが、心地よく響いていた。


***


 北側の古い倉は、長く人の出入りがなかった。


 扉を開けた瞬間、閉じ込められていた乾いた埃が一度に舞い上がる。

 鼻を突く湿った木の匂い。うずたかく積み上げられた無数の木箱。


 ここは、宮廷から忘れ去られた記録の墓場のようだった。


 日向は手にした灯を高く掲げ、足元に注意しながら奥へ進む。


 埃をかぶった古い帳簿が、あちこちに無造作に積まれていた。大規模な改修の際、不要と判断されてこの隔離された倉へ移された資料なのだろう。


 “不要”になったのではない。


 “見られては困る”からこそ、こうして誰も来ない闇の奥へ押し込められたのだ。


 日向は袖で口元を覆いながら、一冊ずつ丁寧にその内容を確かめていく。


 戸籍。出生記録。皇族関連の名簿。


 どれも数十年、あるいはそれ以上前の古いものばかりだ。


 だが、根気強く棚を漁る日向の手が、ある場所でぴたりと止まった。探していたものは、確かにそこにあった。


 ──紫雲家。


 古い戸籍関連の本の中に、明確にその名が記されていた。やはり、単なる噂や御伽話ではなく、歴史の裏に実在していたのだ。


 更に頁を繰る。

 その名は、とある特定の地域に集中して記されていた。


 日向は傍らにあった別の書を広げる。当時の地図だった。


 目的の頁をめくり、日向は息を呑む。地図上に記されたその地は、国の中心、帝都天澄京と重なっている。にもかかわらず、その場所は執拗なまでに墨で塗りつぶされていた。


「……なんだ、これは」


 漏れた呟きが、静まり返った室内で低く冷たく響いた。


 日向はしばしその黒い空白を凝視し、やがて静かに書を閉じると、闇の深い倉を後にした。


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