第五話 羽州へ到着
天澄を発って四日が経っていた。
街道沿いには容赦のない秋の風が吹き抜け、枯れ始めた下草を低く揺らしている。
ガタゴトと揺れる馬車の中では、柳が早くも幾本目かになる巻紙を大真面目な顔で広げていた。
「羽州は、大きく南北に分かれています」
桜桃の真向かいに座り、淀みのない声で淡々と説明を始める。
「南は比較的温暖で、穀の収穫が安定しています。北は山が多く、冬が早い。同じ州でも気候が全く違います」
「なるほど」
「祖父が言っていた通り、数字を一括りにすると見えないものがあります。特に北部の数字は注意が必要です」
「どういう意味ですか」
「北部の郷司は数字を南部に寄せて報告する癖があります。実態より良く見せる傾向が」
「……それは問題では」
「問題です。ただ長年の慣習なので、現地で直接確認するしかありません」
柳は流れるような動作で巻紙をめくる。
「次に水路についてですが」
「まだありますか」
「まだあります」
桜桃は小さく吹き出した。
「続けてください」
馬車の外では、朝凪が馬の歩みを並べて進んでいた。今回は護衛の任務として、ぴったりと馬車の横に張り付いている。
馬車の窓越しに、柳が桜桃に対して少し身を乗り出すようにし、熱心に巻紙を示しているのが見えた。
二人の距離が、随分と近い。不必要に、近い気がする。
朝凪は一度、不自然なほど素早く視線を前方へと戻した。
――何も問題はない。ただの土地の説明だ。
そう言い聞かせ、しかしまたどうしても窓の方へ目が向いてしまう。
柳がまた何かを口にし、桜桃が熱心に頷いている。
柳が巻紙の一点を指で指し示した。その指先が、桜桃の手元に危ういほど近寄る。
朝凪は無意識のうちに、腰の刀の柄を持ち直した。
馬車の中では、講義が続いていた。
「次は食事情についてですが」
「食事情まで」
「重要です。視察中の体力は食で決まります」
桜桃は少し笑いながら頷いた。
「聞かせてください」
馬車の後方、もう一頭の馬の上では、神祇官の東城瑛が手元の帳面に何かを静かに書き込んでいた。
揺れる馬上だというのに、几帳面な文字が乱れなく並んでいく。
『柳様、六花様へ羽州南北の気候差を説明。六花様、熱心に聞き入る』
筆を走らせながら、ちらりと朝凪を見る。
『朝凪殿、前方注視。ただし視線が馬車の窓へ向く頻度、約三十秒に一度』
瑛は何事もなかったように筆を続けた。
昼の休憩のため、街道沿いのささやかな茶屋の前で馬車が止まった。
一行が店へ入るや否や、柳は桜桃の向かいの席陣を確保し、すかさず新たな巻紙を卓に広げた。
「先ほどの続きですが」
「休憩中もですか」
「移動中より落ち着いて話せます」
朝凪は、彼らから少し離れた席に腰を下ろした。
運ばれてきた茶を受け取り、背筋を伸ばしてまっすぐ前を向いている。
卓の向こうでは、柳が桜桃に新しく書き起こした紙片を差し出していた。
「羽州の主要な地名をまとめました。よければ」
「ありがとうございます」
桜桃がそれを受け取ると、柳がその手元を覗き込むようにして、さらにぐっと身を乗り出した。
「この地名の読み方が少し特殊で」
朝凪の茶碗が、静かに卓へと置かれた。
乱暴に置いたわけではない。音を立てたわけでもない。ただ、無言で、置かれた。
瑛はそれを見逃さず、すぐさま帳面を開いて筆を走らせる。
『朝凪殿、茶碗を置く。表情に変化なし。ただし耳が心なしか赤い』
「瑛殿」
不意に朝凪が言った。
「何を書いているんですか」
「記録です」
「何の」
「道中の記録です」
「……何故私を見ていたんですか」
瑛は、表情一つ変えずに答えた。
「護衛の方の様子も記録しておくと、後で役立つことがあります」
朝凪はしばらく瑛を見た。
「……そうですか」
それ以上は追及しなかった。瑛は何事もなかったかのように、再び滑らかな手つきで帳面を埋めていく。
『朝凪殿、追及を止める。賢明な判断』
茶屋を立ち、再び馬車が動き出した。
案の定、馬車の中では柳がまた別の巻紙を広げている。
「青陽家の主要な親族の人物関係についてですが」
「まだありましたか」
「重要な情報です」
桜桃は諦めたように笑って頷いた。
「続けてください」
馬車の外で、朝凪は再び静かに馬を進めていた。
――パカ、パカ、と規則正しい蹄の音。
そして、揺れる窓の向こうへ、またどうしても視線が吸い寄せられる。
柳が何かを熱心に語り、桜桃が楽しそうに笑っている。
何も問題はない。彼はただの同行者で、自分はただの護衛だ。
朝凪はぐっと視線を前方の街道へと戻し、刀の柄を持ち直した。
そして、正確にその三十秒後。
彼はやはり、吸い込まれるように馬車の窓の方をじっと見つめていた。
***
朝堂院の奥で、今日も無意味なお茶会が開かれている。
「――神嘗祭とは、その年に収穫された新穀を神に捧げ、その恵みに感謝する儀式。対して大嘗祭は、新帝が即位の後、初めて行う一代一度の特別な新嘗祭。つまり、意味としてはどちらも同じ『感謝』であり……」
民部卿の橘が、お茶会初参加の緊張からか、用意してきた書物を生真面目に読み上げている。
その前には、職人技が光る繊細な高級生菓子が並んでいた。
「……伊吹殿」
清明が、お茶を啜りながら穏やかに片手を挙げた。
「ここは民部省の執務室ではないのだから、そう肩を回さずともよいのですよ。神事の定義など、我らも耳にタコができるほど聞いておりますからな」
「あ、申し訳ありません……!」
まだ若い橘は、慌てて書物を閉じて頭を下げた。
その横で、大蔵卿の鷹取が、橘から上がってきた因州の報告書を睨みつけながら、深い、深いため息を吐いた。
「感謝か。神仏に感謝を捧げるのは結構だが、橘殿。その儀式のたびに、国庫の金がどれだけ消えていくか、君は知っているか」
「は、はい、予算書は拝見しましたが……」
「この因州の報告書を見てみろ!」
鷹取が机をバシッと叩く。
「『雨を降らせるため、山を爆破』だ。爆破! 派手にやってくれたものだ。この修繕費と治水対策の追加予算のせいで、今年の国庫は完全に底をつきかけている!」
「まあまあ、鷹取殿。干ばつで街を一つ失うよりは、爆破して被害を最小限に抑えた方が、長期的には安上がりだったと言えなくもない」
清明がのんびりと宥めるが、鷹取の怒りは収まらない。
「安上がりなものか! さらにだ、神祇官から上がってきた先月の雑費の請求書がこれだ。見てみろ、この『神前へのお供え物・特級菓子代』という名目の、目を疑うような金額を!」
その瞬間、それまで優雅にお茶を点てていた雅の手が、ぴくりと止まった。
今、まさに一同の目の前の皿に盛られている、遠方から取り寄せたという季節の限定生菓子。
雅は静かに視線を泳がせ、因州の方角の空へと目をそらした。扇をパチリと閉じ、何食わぬ顔で色付きかけた紅葉を眺めている。
「神への供物は、最高級のものでなくては意味がありませんからね」
雅は、声だけは至極もっともらしく、おっとりと呟いた。
「神が食すのは『気』だろう! なぜ菓子そのものが、こうして神祇官たちの胃袋……いや、現に今、我々の目の前にあるのだ!」
鷹取の鋭い視線が皿に注がれる。
「形から入るのが大事なのです。ねえ、清明殿」
雅が話を振ると、清明は「おや、私は何も」と微笑んでお茶を濁した。
板挟みになった橘が、おずおずと口を開く。
「あの……大変失礼なことをお聞きしますが」
「何だね、橘殿」
鷹取が眉を寄せる。
「神嘗祭も大嘗祭も、突き詰めれば『新米を美味しくいただくための、国を挙げた盛大な大宴会』ですよね。……だったら、そんなに難しい儀式にせず、全員で笑って新米を食べれば、予算も削れるのではないでしょうか」
「「「…………」」」
部屋が、水を打ったように静まり返った。
清明はお茶を吹き出しそうになり、鷹取はあまりの直球な暴論に頭を抱え、雅は初めて心からの笑みを浮かべて扇で口元を隠した。
「伊吹殿」
清明が、おかしさを堪えながら言う。
「それを神祇官の長である雅殿の前で言うとは、なかなかの度胸ですな」
「えっ!? あ、いや、私はただ、民が美味しく米を食べられれば、神様も喜ぶのではないかと……!」
橘が顔を真っ赤にして弁明する。
「いいえ、伊吹殿。それは大変に、正しい。人は理由が欲しいものです。ただの米を、意味のある『神聖な米』にするために、我々はややこしい儀式という嘘の飾り付けをしているに過ぎません」
雅はそう言って、経費で落とした高級菓子を、実になめらかな手つきで口へと運んだ。
「次も同じように予算をふんだくるためにね」
「雅殿!!」
鷹取の悲鳴のような怒号が響く中、お茶会の時間は、無意味に、けれど優雅に過ぎていくのだった。
***
羽州州都・青葉へ入ったのは、薄曇りの昼だった。
街道沿いには秋の風が吹き抜け、乾いた草を低く揺らしている。空気は冷えていた。
城下へ近づくにつれ、人の気配が増えていった。
荷を積んだ馬車が行き交い、道端では商人たちが声を張り上げている。子どもが走り去り、その後ろを母親が慌てて追いかけていく姿も見えた。
市場は開いていた。
野菜も並んでいる。穀もある。魚を売る声まで聞こえる。
因州とは違う。
あの土地には、もっと重い沈黙があった。人々は口を閉ざし、空を見上げ、祈るように雨を待っていた。道端には座り込む者がいて、視線には生気がなかった。
けれど羽州は違う。
人が動いている。笑い声すらある。
「……随分、穏やかですね」
同行していた瑛が、安堵したように言う。
桜桃は小さく頷いた。
「ええ……」
そう答えながらも、視線はゆっくりと街の奥を追っていた。
確かに羽州は崩れていない。
だが、「豊か」とも少し違う気がした。
市場へ並ぶ野菜はどれも小ぶりだった。穀袋も少ない。店先へ積まれている量も、以前宮中へ献上されていたものより明らかに減っている。
山のように積まれているはずの穀袋は半分ほどしかなく、干した魚も小ぶりなものが多い。
それでも誰も、不足を口にしない。
露店の女は笑って客へ応じ、男たちは普段通りに酒を酌み交わしている。まるで皆、「これで問題ない」と決めているようだった。
桜桃はふと、一人の子どもへ目を向けた。
母親と並んで団子を食べている。だがその手にある団子は小さい。子どもは嬉しそうに笑っているのに、頬はこけていた。袖口から覗く手首は細い。母親は自分の分へほとんど口をつけていなかった。
説明しづらい違和感が沈む。
崩れてはいない。
だが、どこか無理をして立っている。そんな感覚だった。
誰も怯えてはいないが、誰も本音を見せていない気がした。
そのとき、遠くで鐘の音が鳴る。
市場の喧騒が揺れ、人々の動きが自然と道の端へ寄っていった。
馬車が来る。
そう気づいた直後、青陽家の青龍紋を掲げた一団がゆっくりと通りへ入ってきた。
羽州州都郷司――青陽杏築の到着だった。




