第六話 実より花
馬車は市場の中央で静かに止まった。
護衛が前へ出るより先に、一人の男が馬車から降り立った。
青陽杏築。
柳と花梨の父であり、青葉を治める郷司。
年の頃は四十を越えているはずだが、その立ち姿には妙な隙がなかった。派手さはない。だが、一目で「人の上に立つ者」だと分かる静かな圧がある。
衣は質素寄りで、装飾も少ない。それでも視線を引くのは、彼自身の整いすぎた雰囲気のせいだった。
杏築は桜桃の姿を認めると、すぐに歩み寄り、丁寧に一礼した。
「これは、ようこそお越しくださいました。神祇官の視察と伺っております」
「お迎えいただきありがとうございます、杏築様」
「本来であれば、もっと早くご挨拶へ向かうべきでしたが……少々立て込んでおりまして」
言い終える前に、杏築の後ろから一人が進み出た。柳だった。
いつの間にか、杏築の隣に立っている。
「六花殿」
「柳様。先についていたんですね」
「ええ。真っ直ぐ屋敷に向かったので」
柳は桜桃を見た。
「荷物はありますか」
「あります」
「お持ちします」
「大丈夫ですよ」
「道を知らないと迷います」
「案内してくれるということ?」
「そういうことです」
桜桃は小さく笑った。
「ありがとうございます」
杏築はその一部始終を静かに見ていた。
「柳、お客様を急かすな」
穏やかな声だった。
「急かしていません。案内をしています」
「同じだ」
柳は少しだけ間を置いた。
「……承知しました」
承知していない顔だった。
杏築は桜桃へ向き直り、困ったように笑った。
「申し訳ありません。慣れない者で」
「いいえ。柳様にはお世話になっています」
「そうですか」
杏築は柳を見た。柳は真顔のまま、桜桃の荷物に視線を向けていた。
「花梨様の入御、おめでとうございます」
桜桃が言うと、杏築の目元が和らぐ。
「ありがとうございます」
短い返答だった。だがその声音には、父としての感情が確かに滲んでいた。
「娘も緊張しておりましたが、あれで案外、肝は据わっておりますので」
桜桃の脳裏に、あの日の花梨の姿が過る。
迷いなく歩いていった背中。
「ええ。花梨様らしいと思いました」
杏築は静かに頷く。
「青陽の娘として、恥じぬよう育ててまいりました」
その言葉は誇らしげでありながら、どこか「個人」ではなく「役割」を語る響きを持っていた。
桜桃はその言葉を胸の中で反芻した。
なぜか少しだけ息苦しかった。
「長旅でお疲れでしょう」
杏築が穏やかに言葉を継ぐ。
「屋敷をご用意しております。まずはお休みください」
桜桃は頷きながらも、無意識にもう一度だけ市場へ視線を向けた。
人々は笑っている。活気もある。
けれど、その奥に薄く張り付いた何かが、どうしても剥がれない気がしていた。
◇
青陽家の屋敷は、城下の東側に静かに構えていた。
門をくぐると、手入れの行き届いた庭が広がっている。秋の木々が色づき、落ち葉が風に舞っていた。
杏築に案内され、一行が屋敷へ入ると、廊下の奥から、軽い足音が駆けてきた。
「あ、来た来た!」
現れたのは、若い男だった。
柳より少し年下だろうか。髪は少し乱れ、衣の襟元も少し崩れている。顔立ちは整っているが、その表情には隙がある。
「神祇官の方ですよね? お待ちしてました!」
桜桃へ向かって、遠慮なく一歩踏み出す。
「郁李」
杏築の声が静かに落ちた。
「お客様に対する礼を忘れるな」
「あ、そうでした」
郁李は慌てて居住まいを正し、一礼した。
「青陽郁李と申します。どうぞよろしくお願いします」
だが顔を上げた瞬間には、もう笑っていた。
「六花さんですよね? 柳兄上から聞いてます」
「え、私のことを?」
「はい。道中ずっと羽州の説明をしていたって」
桜桃はちらりと柳を見た。柳は視線を逸らした。
「……説明は必要なことだ」
「兄上ってほんとそういうとこあるよね」
「どういうとこだ」
「説明が好きなとこ」
「必要だから説明している」
「俺には必要なかったけどな、あの羽州全域の水路図の説明」
「お前が覚えていないだけだ」
「覚えてるよ、一応」
二人のやり取りを、桜桃は少し笑いながら見ていた。
柳と郁李は、随分違う。
同じ家で育ったのに、これほど違うものか。
「六花さん、せっかくだから屋敷の中を案内しますよ!」
郁李がまた桜桃へ向き直る。
「後で庭も見てください。今の季節、紅葉がきれいなんで」
「ありがとうございます、ぜひ」
「部屋はこっちです!」
郁李は迷いなく歩き出した。
桜桃がそれに続こうと足を踏み出すと、背後から朝凪が静かについてくる。
郁李がそれに気づいた。振り返り、朝凪を見る。
「護衛の方ですか」
「はい」
「強そう」
「……仕事中です」
「いや、褒めてるんですけど」
朝凪は何も言わなかった。
郁李はしばらく朝凪を見てから、桜桃へ向いた。
「六花さん、この護衛の方、いつもこんな感じですか」
「こんな感じというのは」
「なんか、こう……隙がないというか」
「そうですね」
「すごいですね」
「ええ」
「六花さんのそば、ずっとこの方ですか」
「羽州では」
「そうですか」
郁李はもう一度だけ朝凪を見た。
朝凪は前を向いたままだった。
「……何か」
「いや、何でもないです」
郁李はそう言いながら、少しだけ笑った。何かを面白がっているような顔だった。
「郁李」
柳が静かに呼ぶ。
「何」
「案内するなら早くしろ。六花殿が疲れている」
「あ、そうでした! こっちです六花さん!」
郁李は再び歩き出した。 その足取りは軽く、迷いがない。
桜桃は小さく笑いながら、その後を追った。
廊下の奥から、杏築の静かな声が聞こえた。
「……郁李、走るな」
「走ってないですよ!」
「早歩きも同じだ」
「細かい……」
そのやり取りが遠ざかっていく。
柳は桜桃の隣に並んで、静かに言った。
「賑やかな者で、申し訳ありません」
「いいえ。楽しいです」
「……そうですか」
柳はそれ以上言わなかった。
だが、その口元がほんの少し緩んだ気がした。
◇
部屋に荷物を置き、桜桃は部屋を出た。
桜桃が角を曲がろうとしたとき、前方から低い話し声が聞こえた。
反射的に足を止める。回廊の先には、役人らしい男たちが数人立っていた。
「帳簿の修正は終わったのか?」
「柳様が既に確認しています」
「ああ……なら問題ないな」
その声音には、はっきりとした安堵が滲んでいた。
「しかし、今年は備蓄の調整まで……」
「柳様がいればなんとかなる」
別の男が続く。
「あの方、天然なとこはあるけど、仕事はちゃんとしてるから」
「そうそう。郁李様が動いてもないのに、気づいたら終わってるもんな」
くすりと笑い声が漏れた。
「まあ……後継は郁李様だが」
「それは変わらんな」
誰もそれ以上は言わなかった。
まるで、それ以上踏み込んではならない話題であるように。
会話はそこで途切れ、男たちはそのまま回廊の向こうへ去っていく。
桜桃はしばらく動けなかった。
柳は有能だ。役人たちが自然に名を出し、安心して仕事を任せるほどに。それなのに後継ではない。
「……聞いてしまいましたか」
不意に声が落ちた。
桜桃が振り返ると、少し離れた場所に郁李が立っていた。
いつからいたのか分からない。
郁李は頭の後ろをかきながら、困ったように笑う。
「皆、廊下で喋るんですよね。声、響くのに」
「……郁李様も聞いていたのですね」
「まあ、たまにあるんですよこういうの」
郁李はあっさりと言った。落ち込んでいる様子はないが、さっきより少しだけ声が軽い。
強がっているのか、本当に気にしていないのか、桜桃には判断できなかった。
「庭、見ていきませんか」
郁李が急に言った。
「こんな話のあとに何ですけど、紅葉がきれいなので!」
声が、また明るくなった。
「ええ、ぜひ」
桜桃が頷くと、郁李はさっさと歩き出した。
庭へ出ると、風が静かに吹き抜けた。
色づいた木々が、その風に揺れる。赤、橙、黄色。重なり合った葉が光を受けて、地面に複雑な影を落としていた。
「きれいでしょう!」
郁李が振り返り、胸を張る。
「ええ、とても」
「でしょ! 毎年この時期だけは俺が一番好きな庭になるんですよ」
郁李は縁側に腰を下ろしながら、庭を見渡した。
「たくさんの種類の木がありますね」
桜桃が言うと、郁李は頷いた。
「祖父の好きなものばかりです。もう少し前だと実がなって食べられたんですけど」
「果実がお好きなんですか?」
「俺はね!」
郁李は即答した。
「李とか梨とか杏とか、食べ放題なのが最高で。でも祖父は実よりも花が好きみたいで」
「花が?」
「そうなんですよ。花の時期の方が庭に来る回数が増えるんです。実がなっても別にって感じで」
郁李は少し呆れたように笑った。
「俺からしたら、食べた方が絶対いいじゃないですか。でも祖父に言ったら、実は食べたらなくなるが花は心に残るって言われて」
「……清明様らしいですね」
桜桃が静かに言うと、郁李は目を丸くした。
「そう思います?! 俺、その言葉いまだによく分からないんですよね」
「どうして?」
「だって花も散ったらなくなるじゃないですか」
桜桃は少しだけ考えた。
「散っても、見た記憶は残るということではないですか」
郁李はしばらく黙った。
「……あ、そういうことか」
「そうかもしれません」
「なんだ、そういうことか!」
郁李はぽんと手を打った。
「何年も分からなかったのに、六花さんに一瞬で解かれた」
「違うかもしれませんよ」
「いや絶対そうです。なんで俺気づかなかったんだろ」
郁李は少し悔しそうに笑った。
風が吹いて、葉が一枚舞い落ちる。
しばらく二人で庭を見ていた。
やがて郁李が、ふと声が低くなった。
「……兄上の方が向いてるんですよ」
先ほどとは違う声だった。静かで、どこか遠くを見るような声。
「昔からそうなんです。俺は人の顔色ばかり見てしまうし、父上みたいにもなれない。でも兄上は違う。ちゃんと見て、ちゃんと決められる。だから皆、兄上を頼るんです」
桜桃は何も言えなかった。
郁李は少しして、またいつもの顔に戻った。
「まあ! そういうもんですよ!」
「……そういうもの、ですか」
「向いてる人がやれば、みんなうまくいくじゃないですか」
軽い声だった。だがその軽さが、どこか無理をしているようにも聞こえた。
「郁李様」
桜桃は静かに言った。
「向いていないとは、私は思いません」
郁李はきょとんとした。
「え?」
「ちゃんと見ていると思います。ご自分が思っているより」
郁李は少し固まってから、照れたように笑った。
「……なんか急に真面目なこと言いますね、六花さん」
「本当のことですから」
「うーん」
郁李は頭をかく。
「ありがとうございます。でも俺、やっぱり兄上の方が向いてると思うんですよ、当主には」
「そうですか」
「兄上が当主なら、俺は気楽でいられるんで」
それは正直な言葉だった。重さを手放したいのか、本当に柳を信頼しているのか。きっとどちらも本当なのだろう。
風がもう一度吹いた。庭の木々が、音もなく揺れた。
花の季節はもう過ぎている。実も落ちた。
今は紅葉だけが、静かに残っていた。
「祖父ちゃん、今年も花の時期には来るのかな」
郁李がぽつりと言った。独り言のような声だった。
桜桃はその横顔を見ながら、清明が好んだ花のことを静かに思った。
李の花。梨の花。杏の花。
実よりも花が好きな老人が、この庭に何を植えたのか。
その問いは、まだ胸の奥に静かに残っていた。




