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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第三章 名を持たぬ花【羽州神隠編】

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第六話 実より花

 馬車は市場の中央で静かに止まった。

 護衛が前へ出るより先に、一人の男が馬車から降り立った。


 青陽杏築。


 柳と花梨の父であり、青葉を治める郷司。


 年の頃は四十を越えているはずだが、その立ち姿には妙な隙がなかった。派手さはない。だが、一目で「人の上に立つ者」だと分かる静かな圧がある。


 衣は質素寄りで、装飾も少ない。それでも視線を引くのは、彼自身の整いすぎた雰囲気のせいだった。

 

 杏築は桜桃の姿を認めると、すぐに歩み寄り、丁寧に一礼した。


「これは、ようこそお越しくださいました。神祇官の視察と伺っております」


「お迎えいただきありがとうございます、杏築様」


「本来であれば、もっと早くご挨拶へ向かうべきでしたが……少々立て込んでおりまして」


 言い終える前に、杏築の後ろから一人が進み出た。柳だった。

 いつの間にか、杏築の隣に立っている。


「六花殿」


「柳様。先についていたんですね」


「ええ。真っ直ぐ屋敷に向かったので」


 柳は桜桃を見た。


「荷物はありますか」


「あります」


「お持ちします」


「大丈夫ですよ」


「道を知らないと迷います」


「案内してくれるということ?」


「そういうことです」


 桜桃は小さく笑った。


「ありがとうございます」


 杏築はその一部始終を静かに見ていた。


「柳、お客様を急かすな」


 穏やかな声だった。


「急かしていません。案内をしています」


「同じだ」


 柳は少しだけ間を置いた。


「……承知しました」


 承知していない顔だった。

 杏築は桜桃へ向き直り、困ったように笑った。


「申し訳ありません。慣れない者で」


「いいえ。柳様にはお世話になっています」


「そうですか」


 杏築は柳を見た。柳は真顔のまま、桜桃の荷物に視線を向けていた。


「花梨様の入御、おめでとうございます」


桜桃が言うと、杏築の目元が和らぐ。


「ありがとうございます」


 短い返答だった。だがその声音には、父としての感情が確かに滲んでいた。


「娘も緊張しておりましたが、あれで案外、肝は据わっておりますので」


 桜桃の脳裏に、あの日の花梨の姿が過る。

 迷いなく歩いていった背中。


「ええ。花梨様らしいと思いました」


 杏築は静かに頷く。


「青陽の娘として、恥じぬよう育ててまいりました」


 その言葉は誇らしげでありながら、どこか「個人」ではなく「役割」を語る響きを持っていた。


 桜桃はその言葉を胸の中で反芻した。

 なぜか少しだけ息苦しかった。


「長旅でお疲れでしょう」


 杏築が穏やかに言葉を継ぐ。


「屋敷をご用意しております。まずはお休みください」


 桜桃は頷きながらも、無意識にもう一度だけ市場へ視線を向けた。


 人々は笑っている。活気もある。

 けれど、その奥に薄く張り付いた何かが、どうしても剥がれない気がしていた。



 青陽家の屋敷は、城下の東側に静かに構えていた。

門をくぐると、手入れの行き届いた庭が広がっている。秋の木々が色づき、落ち葉が風に舞っていた。

 

 杏築に案内され、一行が屋敷へ入ると、廊下の奥から、軽い足音が駆けてきた。


「あ、来た来た!」


 現れたのは、若い男だった。

 柳より少し年下だろうか。髪は少し乱れ、衣の襟元も少し崩れている。顔立ちは整っているが、その表情には隙がある。


「神祇官の方ですよね? お待ちしてました!」


 桜桃へ向かって、遠慮なく一歩踏み出す。


「郁李」


 杏築の声が静かに落ちた。


「お客様に対する礼を忘れるな」


「あ、そうでした」


 郁李は慌てて居住まいを正し、一礼した。


「青陽郁李と申します。どうぞよろしくお願いします」


 だが顔を上げた瞬間には、もう笑っていた。


「六花さんですよね? 柳兄上から聞いてます」


「え、私のことを?」


「はい。道中ずっと羽州の説明をしていたって」


 桜桃はちらりと柳を見た。柳は視線を逸らした。


「……説明は必要なことだ」


「兄上ってほんとそういうとこあるよね」


「どういうとこだ」


「説明が好きなとこ」


「必要だから説明している」


「俺には必要なかったけどな、あの羽州全域の水路図の説明」


「お前が覚えていないだけだ」


「覚えてるよ、一応」


 二人のやり取りを、桜桃は少し笑いながら見ていた。


 柳と郁李は、随分違う。

 同じ家で育ったのに、これほど違うものか。


「六花さん、せっかくだから屋敷の中を案内しますよ!」


 郁李がまた桜桃へ向き直る。


「後で庭も見てください。今の季節、紅葉がきれいなんで」


「ありがとうございます、ぜひ」


「部屋はこっちです!」


 郁李は迷いなく歩き出した。

 桜桃がそれに続こうと足を踏み出すと、背後から朝凪が静かについてくる。


 郁李がそれに気づいた。振り返り、朝凪を見る。


「護衛の方ですか」


「はい」


「強そう」


「……仕事中です」


「いや、褒めてるんですけど」


 朝凪は何も言わなかった。

 郁李はしばらく朝凪を見てから、桜桃へ向いた。


「六花さん、この護衛の方、いつもこんな感じですか」


「こんな感じというのは」


「なんか、こう……隙がないというか」


「そうですね」


「すごいですね」


「ええ」


「六花さんのそば、ずっとこの方ですか」


「羽州では」


「そうですか」


 郁李はもう一度だけ朝凪を見た。

 朝凪は前を向いたままだった。


「……何か」


「いや、何でもないです」


 郁李はそう言いながら、少しだけ笑った。何かを面白がっているような顔だった。


「郁李」


 柳が静かに呼ぶ。


「何」


「案内するなら早くしろ。六花殿が疲れている」


「あ、そうでした! こっちです六花さん!」


 郁李は再び歩き出した。 その足取りは軽く、迷いがない。


 桜桃は小さく笑いながら、その後を追った。


 廊下の奥から、杏築の静かな声が聞こえた。


「……郁李、走るな」


「走ってないですよ!」


「早歩きも同じだ」


「細かい……」


 そのやり取りが遠ざかっていく。

 柳は桜桃の隣に並んで、静かに言った。


「賑やかな者で、申し訳ありません」


「いいえ。楽しいです」


「……そうですか」


 柳はそれ以上言わなかった。

 だが、その口元がほんの少し緩んだ気がした。



 部屋に荷物を置き、桜桃は部屋を出た。


 桜桃が角を曲がろうとしたとき、前方から低い話し声が聞こえた。


 反射的に足を止める。回廊の先には、役人らしい男たちが数人立っていた。


「帳簿の修正は終わったのか?」


「柳様が既に確認しています」


「ああ……なら問題ないな」


 その声音には、はっきりとした安堵が滲んでいた。


「しかし、今年は備蓄の調整まで……」


「柳様がいればなんとかなる」


 別の男が続く。


「あの方、天然なとこはあるけど、仕事はちゃんとしてるから」


「そうそう。郁李様が動いてもないのに、気づいたら終わってるもんな」


 くすりと笑い声が漏れた。


「まあ……後継は郁李様だが」


「それは変わらんな」


 誰もそれ以上は言わなかった。

 まるで、それ以上踏み込んではならない話題であるように。


 会話はそこで途切れ、男たちはそのまま回廊の向こうへ去っていく。


 桜桃はしばらく動けなかった。

 

 柳は有能だ。役人たちが自然に名を出し、安心して仕事を任せるほどに。それなのに後継ではない。


「……聞いてしまいましたか」


 不意に声が落ちた。

 桜桃が振り返ると、少し離れた場所に郁李が立っていた。


 いつからいたのか分からない。


 郁李は頭の後ろをかきながら、困ったように笑う。


「皆、廊下で喋るんですよね。声、響くのに」


「……郁李様も聞いていたのですね」


「まあ、たまにあるんですよこういうの」


 郁李はあっさりと言った。落ち込んでいる様子はないが、さっきより少しだけ声が軽い。

 強がっているのか、本当に気にしていないのか、桜桃には判断できなかった。


「庭、見ていきませんか」


 郁李が急に言った。


「こんな話のあとに何ですけど、紅葉がきれいなので!」


 声が、また明るくなった。


「ええ、ぜひ」


 桜桃が頷くと、郁李はさっさと歩き出した。


 庭へ出ると、風が静かに吹き抜けた。

 色づいた木々が、その風に揺れる。赤、橙、黄色。重なり合った葉が光を受けて、地面に複雑な影を落としていた。


「きれいでしょう!」


 郁李が振り返り、胸を張る。


「ええ、とても」


「でしょ! 毎年この時期だけは俺が一番好きな庭になるんですよ」


 郁李は縁側に腰を下ろしながら、庭を見渡した。


「たくさんの種類の木がありますね」


 桜桃が言うと、郁李は頷いた。


「祖父の好きなものばかりです。もう少し前だと実がなって食べられたんですけど」


「果実がお好きなんですか?」


「俺はね!」


 郁李は即答した。


「李とか梨とか杏とか、食べ放題なのが最高で。でも祖父は実よりも花が好きみたいで」


「花が?」


「そうなんですよ。花の時期の方が庭に来る回数が増えるんです。実がなっても別にって感じで」


 郁李は少し呆れたように笑った。


「俺からしたら、食べた方が絶対いいじゃないですか。でも祖父に言ったら、実は食べたらなくなるが花は心に残るって言われて」


「……清明様らしいですね」


 桜桃が静かに言うと、郁李は目を丸くした。


「そう思います?! 俺、その言葉いまだによく分からないんですよね」


「どうして?」


「だって花も散ったらなくなるじゃないですか」


 桜桃は少しだけ考えた。


「散っても、見た記憶は残るということではないですか」

 

 郁李はしばらく黙った。


「……あ、そういうことか」


「そうかもしれません」


「なんだ、そういうことか!」


 郁李はぽんと手を打った。


「何年も分からなかったのに、六花さんに一瞬で解かれた」


「違うかもしれませんよ」


「いや絶対そうです。なんで俺気づかなかったんだろ」


 郁李は少し悔しそうに笑った。


 風が吹いて、葉が一枚舞い落ちる。

 しばらく二人で庭を見ていた。


 やがて郁李が、ふと声が低くなった。


「……兄上の方が向いてるんですよ」


 先ほどとは違う声だった。静かで、どこか遠くを見るような声。


「昔からそうなんです。俺は人の顔色ばかり見てしまうし、父上みたいにもなれない。でも兄上は違う。ちゃんと見て、ちゃんと決められる。だから皆、兄上を頼るんです」


 桜桃は何も言えなかった。

 郁李は少しして、またいつもの顔に戻った。


「まあ! そういうもんですよ!」


「……そういうもの、ですか」


「向いてる人がやれば、みんなうまくいくじゃないですか」


 軽い声だった。だがその軽さが、どこか無理をしているようにも聞こえた。


「郁李様」


 桜桃は静かに言った。


「向いていないとは、私は思いません」


 郁李はきょとんとした。

「え?」


「ちゃんと見ていると思います。ご自分が思っているより」


 郁李は少し固まってから、照れたように笑った。


「……なんか急に真面目なこと言いますね、六花さん」


「本当のことですから」


「うーん」


 郁李は頭をかく。


「ありがとうございます。でも俺、やっぱり兄上の方が向いてると思うんですよ、当主には」


「そうですか」


「兄上が当主なら、俺は気楽でいられるんで」


 それは正直な言葉だった。重さを手放したいのか、本当に柳を信頼しているのか。きっとどちらも本当なのだろう。


 風がもう一度吹いた。庭の木々が、音もなく揺れた。


 花の季節はもう過ぎている。実も落ちた。

 今は紅葉だけが、静かに残っていた。


「祖父ちゃん、今年も花の時期には来るのかな」


 郁李がぽつりと言った。独り言のような声だった。


 桜桃はその横顔を見ながら、清明が好んだ花のことを静かに思った。


 李の花。梨の花。杏の花。


 実よりも花が好きな老人が、この庭に何を植えたのか。

 その問いは、まだ胸の奥に静かに残っていた。



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