第七話 偽りの数字
翌日、桜桃は羽州南区の配給所を視察していた。
冬前の備蓄確認。表向きは、そういう名目だった。
広場には、すでに長い列が出来上がっていた。
人々は声を荒らげることもなく静かに順番を待ち、役人たちも手慣れた手つきで大鍋から粥を配っている。立ち上る白い湯気が、朝の冷たい空気に溶けていく。
一見すれば、どこまでも穏やかで、統制の取れた光景だった。
「羽州では冬が本格化する前に、各区へ備蓄を分配します」
隣に立つ柳が、いつも通りの落ち着いた声音で説明を添える。
「完全な配給ではありません。あくまで、民が各自で蓄えている分の不足を補填するためのものです」
役人たちは柳の姿を認めると、自然に、かつ敬意を込めて頭を下げた。彼がこの土地で築いてきた信頼は本物なのだろう。
桜桃は、じっと列へ視線を向けた。
並んでいる民は、子供も大人も一様に痩せ細っている。だが、誰も騒がない。
順番が来れば、椀を受け取って静かに礼を言い、広場の隅へ寄って貪るように食べ始める。
それが、この土地の当たり前の風景として完成していた。
「……少ないのね」
桜桃の口から、微かな呟きが漏れる。
木椀に注がれた粥は、驚くほど薄かった。雑穀を幾度も幾度も、水で伸ばして嵩を増しただけのものだ。
柳は、その指摘を否定しなかった。
「これ以上増やせば、冬を越せません」
淡々とした、ひび割れ一つない返答。
その時だった。列の中ほどで、短く、低く呻くような声が響いた。
一人の老人が、糸が切れたようにその場へ膝をつく。手からこぼれ落ちた椀が地面で鈍い音を立て、薄い粥が泥土へと広がっていった。
周囲がざわめく。だが、それだけだった。
誰も悲鳴を上げない。役人がすぐさま駆け寄り、老人を抱き起こす。その動きは酷く滑らかで、手慣れていた。あまりにも、慣れすぎていた。
「水を」
「ひとまず向こうの寝所に運べ」
短い指示が飛び交う。
その間も、列は決して止まらなかった。次の椀が配られ、次の民が前へ出る。何事もなかったかのように、仕組みだけが動き続ける。
桜桃は、耐えかねて思わず一歩を強く踏み出した。
「待って」
声が鋭く響き、役人たちが一斉に振り返る。
「医者は? すぐに診せないと……」
「医者ならおります、ですが――」
どうして誰も驚かないのか。なぜそんなに平然としていられるのか。
桜桃がそう言いかけた瞬間、支えられていた老人が、弱々しく笑った。
「大丈夫、でございます……」
かすれた、今にも消えそうな声だった。
「少し、立ちくらみをしただけで……お騒がせしました」
見上げる老人の顔は、驚くほど肉が落ちていた。頬は削げ、指先は枯れ木のようだ。誰がどう見ても深刻な衰弱だった。
なのに、老人自身が “大袈裟に騒ぐほどのことではない” という顔をして、自ら事態を収めようとしている。
桜桃の胸の奥が、激しくざわついた。
これは異常だ。なのに、この場にいる誰一人として、それを異常だと叫ばない。
「少し休ませれば、また列に戻れます」
役人が静かに告げる。その聲音に、意地悪な響きや悪意は一切なかった。本当に、これが日常茶飯事なのだ。
その横で、柳はただ静かに、運ばれていく老人を見つめていた。その表情には、同情も嫌悪も浮かんでいない。
「……止めれば救えますか」
低い声が落ちてきた。
桜桃が弾かれたように振り返ると、柳は広場の冷え切った光景を見つめたまま、言葉を続けた。
「今、配給の量を増やせば、冬の後半で全体の備蓄が底を突きます」
「でも……!」
「今ここで倒れる者を無理に救っても、数ヶ月後に裏
で百人が餓死すれば、結果は同じです」
静かな声だった。怒っているわけでも、突き放しているわけでもない。
ただ、冷厳な事実の数字だけを並べている。それが、感情的に罵倒されるよりも遥かに苦しかった。
桜桃は言葉を失い、拳を強く握りしめた。
柳の言うことは、おそらく正しい。現に、このやり方で羽州はまだ崩壊していない。因州のように、大量死を出していない。
けれど。
(これのどこが『平年並み』なの……?)
桜桃の身体が不意に一歩前へ出ようとした瞬間、背後から、それを優しく押し止めるようにして、肩に温かい手が添えられた。
朝凪だった。
無意識に理性を失いかけていた桜桃を、彼は静かに、けれど確実に引き留めていた。朝凪は何も言わず、ただ小さく首を横に振る。
それは制止というよりも、 “どうか、今は落ち着いてください” と、彼女の動揺をそのまま受け止めるような仕草だった。
桜桃はその手の手のひらの熱に触れて初めて、全身が小刻みに震えていることに気づいた。
広場では、すでに配給が再開されていた。
再び大鍋から白い湯気が立ち上る。人々は、老人の椀の跡を避けるようにして、何事もなかったかのように静かに列を整え直していく。
誰も叫ばない。誰も怒らない。
ただ、明日も生き延びるためだけに、無言のまま並び続けている。
その息詰まるような静寂と、大鍋から絶え間なく湧き上がる重苦しい湯気の向こうへ、民たちの足音だけが、絶えることなく低く響き渡っていた。
その後、桜桃は羽州役所に向かった。
神祇官へ提出される収穫帳簿の確認。
本来であれば下役が担う作業だが、桜桃は自分の目で見たかった。
机の上には巻紙が山のように積まれている。
収穫量。人口推移。備蓄量。祭祀記録。
数字は整然と並び、乱れがない。
あまりにも、乱れがなかった。
(……おかしい)
桜桃は巻紙の一点を凝視したまま、指先を止めた。
これは単に、中央の監査を恐れて「数値を綺麗に均している」という次元ではない。
特定の村、特定の時期の数値だけ、まるで「そこにあるはずの巨大な空白」を覆い隠すように、不自然な数式で埋められている。
何か、致命的な破滅の兆候を、意図的に中央の目から隠蔽しているような――。
「綺麗すぎるでしょう」
向かい側から柳の静かな声がした。
昨日と同じく飾り気のない衣を纏い、淡々と巻紙を差し出してくる。その所作には無駄がない。
役人たちも自然に柳へ確認を求め、柳もそれを当然のように処理していた。
「え?」
柳は帳簿の上を指先でなぞった。
「数字というのは、本来もっと歪みます。豊作の村もあれば不作の村もある。人の動きも揃いません」
「……ええ」
「ですが整え始めると、逆に均一になる。見る人が見れば分かります」
その視線は鋭かった。
何かを暴こうとしているわけではない。
ただ、すでに全部見えている者の目だった。
「柳様は……それを分かった上で整えているのですか」
「はい」
「矛盾していませんか」
「矛盾しています」
また即答だった。
「矛盾したまま続けるしかないときもあります」
静かに巻紙を桜桃へ差し出す。
「こちらが北部村落の分です」
桜桃は手渡された巻紙へ視線を落とした。だが、先ほどの違和感がどうしても拭えない。
数値を指で追いながら、桜桃は思い切って核心を口にした。
「柳様。あなたは数字を均しているだけではないですね。……何か、取り返しのつかないことを隠していませんか」
柳の手が、ぴたりと止まった。
真顔のまま、静かに桜桃を見つめてくる。室内の空気が、にわかに張り詰めた。
「たとえば、この北部の収穫予測。去年より二割ほどの減収となっていますが、実際の畑は、こんなものでは済んでいないはずです。……違いますか?」
沈黙が落ちた。柳はしばらく黙っていたが、やがて諦めたように小さく息を吐き、机の引き出しから古い山羊の紙を取り出した。
「浮塵子です」
柳の口から出たのは、静かな言葉だった。
「……浮塵子?」
「稲を枯らす害虫です。今年の夏の乾燥と地形の特性により、北部の田から爆発的に広がっています。実態の収穫量は、二割減などという生易しいものではありません。……凶作です。このまま手を打たねば、冬が来る前に羽州の稲は全滅します」
桜桃は息を呑んだ。
中央に上がっている「美しい数字」の裏で、羽州は今、文字通り全滅の危機に瀕しているのだ。
「そんな大事件を、どうして隠すのですか……! 中央へ正しく報告し、すぐに救済措置を請うべきです!」
「正しく報告すれば、羽州は死にます」
淡々とした、けれど鉄のように冷たい声だった。
「実際にはすでに流民も出ていますし、冬を越せない者もいるでしょう。ですが、数字の上で急激に人口を落とし、凶作を認めれば、中央は『羽州は不安定』と判断します。……徴税、監査、人員介入。色々増えます。特に今は、先帝の崩御直後で宮廷も過敏だ。これ以上の介入を許せば、羽州の自治は崩壊し、救える命も救えなくなる」
柳は机上の帳簿へ視線を戻した。
「だからこそ、数字を偽ってでも、今は中央の目を逸らす必要があるのです。羽州はまだ崩れていないと見せかけることが、現時点においては最大の防御ですから」
桜桃は、先ほど配給所で目にした光景を思い出す。
あばら骨の浮いた痩せた子どもたち。水で薄められた粥。それでも、それが日常だと受け入れて弱々しく笑っていた民の顔。
「……でも」
思わず、拒絶するように口が動いていた。
「実態とこれほど違う数字を並べることに、柳様は疑問を感じないのですか。虫害を上へ隠したままで、本当に、この土地の民を救えるというのですか」
柳は、少しだけ間を置いた。
「感じます。おかしいと常に思っています。ただ――」
柳は感情の混じらない手つきで、帳簿を一枚めくった。
「正しい数字を報告したからといって、生きられるわけでもありません」
「では、何か他に手立てはあるのですか」
「薬を作っています」
柳は淡々と続けた。
「浮塵子の害を抑え込むための薬です。今、手探りで調合を試しています」
その言葉に、それまで背後で気配を消していた朝凪が、微かに反応した。
「……配合は」
柳が、意外そうに朝凪へと視線を向けた。
「お詳しいのですか」
「毒や薬の類には、少々知識がございまして」
柳はしばらく朝凪の顔を観察していたが、やがて帳簿の脇に置いてあった、書き付けの紙片を一枚取り出した。
「烏頭、樟脳、明礬。……現在は、この三つの配合比率を変えながら試しています」
朝凪は、その紙に記された薬と鉱物の名をじっと見つめた。
「……形になりそうですか」
「まだ、成功には程遠い」
柳の返答は簡潔だった。
「何が、足りないのですか」
朝凪が、さらに踏み込んで問いかける。
柳は視線を落とし、少しの間、思考を巡らせた。
「樟脳の揮発が早すぎるのです。薬を撒いてもすぐに効果が霧散してしまい、虫が逃げ延びてしまう。もっと、この香りと効能を長く、しつこく土地に留めておける『何か』があればよいのですが……」
「その、留めるための成分に、何か心当たりは?」
「いえ」
柳は、静かに首を横に振った。
「今のところ、手に入る書物の中には見つかっていません」
桜桃は、返す言葉を失った。
柳は相変わらず表情を一切変えない。
だがその瞳の奥には、ただ数字を捏造しているだけではない、どこか執念とも呼べる静かな覚悟が宿っていた。




