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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第三章 名を持たぬ花【羽州神隠編】

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第七話 偽りの数字

 翌日、桜桃は羽州南区の配給所を視察していた。

 冬前の備蓄確認。表向きは、そういう名目だった。


 広場には、すでに長い列が出来上がっていた。  


 人々は声を荒らげることもなく静かに順番を待ち、役人たちも手慣れた手つきで大鍋から粥を配っている。立ち上る白い湯気が、朝の冷たい空気に溶けていく。


 一見すれば、どこまでも穏やかで、統制の取れた光景だった。


「羽州では冬が本格化する前に、各区へ備蓄を分配します」

 

 隣に立つ柳が、いつも通りの落ち着いた声音で説明を添える。


 「完全な配給ではありません。あくまで、民が各自で蓄えている分の不足を補填するためのものです」


 役人たちは柳の姿を認めると、自然に、かつ敬意を込めて頭を下げた。彼がこの土地で築いてきた信頼は本物なのだろう。


 桜桃は、じっと列へ視線を向けた。


 並んでいる民は、子供も大人も一様に痩せ細っている。だが、誰も騒がない。

 順番が来れば、椀を受け取って静かに礼を言い、広場の隅へ寄って貪るように食べ始める。


 それが、この土地の当たり前の風景として完成していた。


「……少ないのね」


 桜桃の口から、微かな呟きが漏れる。


 木椀に注がれた粥は、驚くほど薄かった。雑穀を幾度も幾度も、水で伸ばして嵩を増しただけのものだ。


 柳は、その指摘を否定しなかった。


「これ以上増やせば、冬を越せません」


 淡々とした、ひび割れ一つない返答。



 その時だった。列の中ほどで、短く、低く呻くような声が響いた。

 

 一人の老人が、糸が切れたようにその場へ膝をつく。手からこぼれ落ちた椀が地面で鈍い音を立て、薄い粥が泥土へと広がっていった。


 周囲がざわめく。だが、それだけだった。


 誰も悲鳴を上げない。役人がすぐさま駆け寄り、老人を抱き起こす。その動きは酷く滑らかで、手慣れていた。あまりにも、慣れすぎていた。


「水を」


「ひとまず向こうの寝所に運べ」


 短い指示が飛び交う。


 その間も、列は決して止まらなかった。次の椀が配られ、次の民が前へ出る。何事もなかったかのように、仕組みだけが動き続ける。


 桜桃は、耐えかねて思わず一歩を強く踏み出した。


「待って」


 声が鋭く響き、役人たちが一斉に振り返る。


「医者は? すぐに診せないと……」


「医者ならおります、ですが――」


 どうして誰も驚かないのか。なぜそんなに平然としていられるのか。


 桜桃がそう言いかけた瞬間、支えられていた老人が、弱々しく笑った。


「大丈夫、でございます……」


 かすれた、今にも消えそうな声だった。


「少し、立ちくらみをしただけで……お騒がせしました」


 見上げる老人の顔は、驚くほど肉が落ちていた。頬は削げ、指先は枯れ木のようだ。誰がどう見ても深刻な衰弱だった。

 なのに、老人自身が “大袈裟に騒ぐほどのことではない” という顔をして、自ら事態を収めようとしている。


 桜桃の胸の奥が、激しくざわついた。

 これは異常だ。なのに、この場にいる誰一人として、それを異常だと叫ばない。


「少し休ませれば、また列に戻れます」

 

 役人が静かに告げる。その聲音に、意地悪な響きや悪意は一切なかった。本当に、これが日常茶飯事なのだ。


 その横で、柳はただ静かに、運ばれていく老人を見つめていた。その表情には、同情も嫌悪も浮かんでいない。


「……止めれば救えますか」


 低い声が落ちてきた。


 桜桃が弾かれたように振り返ると、柳は広場の冷え切った光景を見つめたまま、言葉を続けた。


「今、配給の量を増やせば、冬の後半で全体の備蓄が底を突きます」


「でも……!」


「今ここで倒れる者を無理に救っても、数ヶ月後に裏

で百人が餓死すれば、結果は同じです」


 静かな声だった。怒っているわけでも、突き放しているわけでもない。

 ただ、冷厳な事実の数字だけを並べている。それが、感情的に罵倒されるよりも遥かに苦しかった。


 桜桃は言葉を失い、拳を強く握りしめた。

 柳の言うことは、おそらく正しい。現に、このやり方で羽州はまだ崩壊していない。因州のように、大量死を出していない。


けれど。


(これのどこが『平年並み』なの……?)


 桜桃の身体が不意に一歩前へ出ようとした瞬間、背後から、それを優しく押し止めるようにして、肩に温かい手が添えられた。


 朝凪だった。


 無意識に理性を失いかけていた桜桃を、彼は静かに、けれど確実に引き留めていた。朝凪は何も言わず、ただ小さく首を横に振る。

 それは制止というよりも、 “どうか、今は落ち着いてください” と、彼女の動揺をそのまま受け止めるような仕草だった。


 桜桃はその手の手のひらの熱に触れて初めて、全身が小刻みに震えていることに気づいた。


 広場では、すでに配給が再開されていた。


 再び大鍋から白い湯気が立ち上る。人々は、老人の椀の跡を避けるようにして、何事もなかったかのように静かに列を整え直していく。


 誰も叫ばない。誰も怒らない。


 ただ、明日も生き延びるためだけに、無言のまま並び続けている。


 その息詰まるような静寂と、大鍋から絶え間なく湧き上がる重苦しい湯気の向こうへ、民たちの足音だけが、絶えることなく低く響き渡っていた。


 その後、桜桃は羽州役所に向かった。


 神祇官へ提出される収穫帳簿の確認。

 本来であれば下役が担う作業だが、桜桃は自分の目で見たかった。


 机の上には巻紙が山のように積まれている。

 収穫量。人口推移。備蓄量。祭祀記録。


 数字は整然と並び、乱れがない。

 あまりにも、乱れがなかった。


(……おかしい)


 桜桃は巻紙の一点を凝視したまま、指先を止めた。

これは単に、中央の監査を恐れて「数値を綺麗に均している」という次元ではない。


 特定の村、特定の時期の数値だけ、まるで「そこにあるはずの巨大な空白」を覆い隠すように、不自然な数式で埋められている。


 何か、致命的な破滅の兆候を、意図的に中央の目から隠蔽しているような――。


「綺麗すぎるでしょう」


 向かい側から柳の静かな声がした。


 昨日と同じく飾り気のない衣を纏い、淡々と巻紙を差し出してくる。その所作には無駄がない。


 役人たちも自然に柳へ確認を求め、柳もそれを当然のように処理していた。


「え?」


 柳は帳簿の上を指先でなぞった。


「数字というのは、本来もっと歪みます。豊作の村もあれば不作の村もある。人の動きも揃いません」


「……ええ」


「ですが整え始めると、逆に均一になる。見る人が見れば分かります」


 その視線は鋭かった。

 何かを暴こうとしているわけではない。

 ただ、すでに全部見えている者の目だった。


「柳様は……それを分かった上で整えているのですか」


「はい」


「矛盾していませんか」


「矛盾しています」


 また即答だった。


「矛盾したまま続けるしかないときもあります」


 静かに巻紙を桜桃へ差し出す。


「こちらが北部村落の分です」


 桜桃は手渡された巻紙へ視線を落とした。だが、先ほどの違和感がどうしても拭えない。


 数値を指で追いながら、桜桃は思い切って核心を口にした。


「柳様。あなたは数字を均しているだけではないですね。……何か、取り返しのつかないことを隠していませんか」


 柳の手が、ぴたりと止まった。

 真顔のまま、静かに桜桃を見つめてくる。室内の空気が、にわかに張り詰めた。


「たとえば、この北部の収穫予測。去年より二割ほどの減収となっていますが、実際の畑は、こんなものでは済んでいないはずです。……違いますか?」


 沈黙が落ちた。柳はしばらく黙っていたが、やがて諦めたように小さく息を吐き、机の引き出しから古い山羊の紙を取り出した。


「浮塵子です」


 柳の口から出たのは、静かな言葉だった。


「……浮塵子?」


「稲を枯らす害虫です。今年の夏の乾燥と地形の特性により、北部の田から爆発的に広がっています。実態の収穫量は、二割減などという生易しいものではありません。……凶作です。このまま手を打たねば、冬が来る前に羽州の稲は全滅します」


 桜桃は息を呑んだ。


 中央に上がっている「美しい数字」の裏で、羽州は今、文字通り全滅の危機に瀕しているのだ。


「そんな大事件を、どうして隠すのですか……! 中央へ正しく報告し、すぐに救済措置を請うべきです!」


「正しく報告すれば、羽州は死にます」


 淡々とした、けれど鉄のように冷たい声だった。


「実際にはすでに流民も出ていますし、冬を越せない者もいるでしょう。ですが、数字の上で急激に人口を落とし、凶作を認めれば、中央は『羽州は不安定』と判断します。……徴税、監査、人員介入。色々増えます。特に今は、先帝の崩御直後で宮廷も過敏だ。これ以上の介入を許せば、羽州の自治は崩壊し、救える命も救えなくなる」


 柳は机上の帳簿へ視線を戻した。


「だからこそ、数字を偽ってでも、今は中央の目を逸らす必要があるのです。羽州はまだ崩れていないと見せかけることが、現時点においては最大の防御ですから」


 桜桃は、先ほど配給所で目にした光景を思い出す。


 あばら骨の浮いた痩せた子どもたち。水で薄められた粥。それでも、それが日常だと受け入れて弱々しく笑っていた民の顔。


「……でも」


 思わず、拒絶するように口が動いていた。


「実態とこれほど違う数字を並べることに、柳様は疑問を感じないのですか。虫害を上へ隠したままで、本当に、この土地の民を救えるというのですか」


 柳は、少しだけ間を置いた。


「感じます。おかしいと常に思っています。ただ――」


 柳は感情の混じらない手つきで、帳簿を一枚めくった。


「正しい数字を報告したからといって、生きられるわけでもありません」


「では、何か他に手立てはあるのですか」


「薬を作っています」


 柳は淡々と続けた。


「浮塵子の害を抑え込むための薬です。今、手探りで調合を試しています」


 その言葉に、それまで背後で気配を消していた朝凪が、微かに反応した。


「……配合は」


 柳が、意外そうに朝凪へと視線を向けた。


「お詳しいのですか」


「毒や薬の類には、少々知識がございまして」


 柳はしばらく朝凪の顔を観察していたが、やがて帳簿の脇に置いてあった、書き付けの紙片を一枚取り出した。


烏頭うず樟脳しょうのう明礬みょうばん。……現在は、この三つの配合比率を変えながら試しています」


 朝凪は、その紙に記された薬と鉱物の名をじっと見つめた。


「……形になりそうですか」


「まだ、成功には程遠い」

 

 柳の返答は簡潔だった。


「何が、足りないのですか」


 朝凪が、さらに踏み込んで問いかける。


 柳は視線を落とし、少しの間、思考を巡らせた。


「樟脳の揮発が早すぎるのです。薬を撒いてもすぐに効果が霧散してしまい、虫が逃げ延びてしまう。もっと、この香りと効能を長く、しつこく土地に留めておける『何か』があればよいのですが……」


「その、留めるための成分に、何か心当たりは?」


「いえ」


 柳は、静かに首を横に振った。


「今のところ、手に入る書物の中には見つかっていません」


 桜桃は、返す言葉を失った。

 柳は相変わらず表情を一切変えない。

 だがその瞳の奥には、ただ数字を捏造しているだけではない、どこか執念とも呼べる静かな覚悟が宿っていた。


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