第八話 外側にいる者
柳は、次の巻紙を手に取った。
「では、話を戻しましょう。こちらの村の分の備蓄報告は、ご覧になりましたか」
一瞬で事務的な仕事へと話を戻す。感情に流されず、今やるべきことを淡々と処理していく、彼らしい切り替え方だった。
桜桃は胸のざわつきを抑え込みながら、しばらく柳を見つめ、それから静かに頷いて帳簿へと目を落とした。
「……まだです」
「では次はこちらを」
柳が淡々と巻紙を差し出した。
その手元を見つめながら、桜桃は胸の奥で静かに思考を巡らせる。
この人は、すべてが見えているのだ。
浮塵子がもたらす終わりのない恐怖も、現行の制度が孕む矛盾や歪みも、あの不自然なほど綺麗すぎる収穫数字が持つ本当の意味も。
すべてを把握した上で、それでもなお、この淡々とした作業を続けている。羽州という巨大な器が、内側から瓦解してしまわないように。
それが真に正しいことなのかどうか、今の桜桃にはまだ答えが出せなかった。
柳は手元の帳簿に視線を戻した。
しばらくの間、しんとした室内に沈黙が横たわる。かり、かり、と紙の擦れる乾いた音だけが、等間隔で床へ落ちていくようだった。
やがて、柳が何気ない調子で口を開いた。
「椎香殿は、まだ塞ぎ込んでいらっしゃいますか」
桜桃は、羽州の数字を追っていた手を少しだけ止めた。
「……ええ。天澄京を発つ前も、結局お会いできませんでした」
「そうですか」
柳は帳簿から目を上げない。
「いつか四人で集まって話そうと、以前に約束していたのに。結局、一度も叶いませんでしたね」
「……はい」
「花梨も、あのように宮中へ入ってしまいましたし」
声音に高低はなかった。
それが残念だとも、仕方のないことだとも評さない。ただ、動かせない事実としてそこに置くような、静かな言い方だった。
「柳様は……花梨様が入御されて、本当にとても寂しいのですね」
桜桃が真っ直ぐにそう告げると、柳はめくろうとした頁を押さえたまま、しばらく黙り込んだ。
「その『寂しい』という感覚が正確な表現かどうか、私にはまだ判断しかねるのですが」
「ふふ、前も同じことを仰いましたよ、柳様」
「言いましたか」
「言いました」
「そうですか」
柳は、格子窓の向こうの景色に薄い視線を向けた。
「花梨は最初から、ああいう光の当たる場所へ行くべき人間でした。ですから、入御そのものに驚きはありません。……ただ」
柳は、言葉を少しだけ区切った。
「交わした約束が、果たされぬまま終わってしまったことだけは、残念でした」
極めて短い言葉だったが、いつも感情を削ぎ落としている柳にしては珍しく、微かな名残惜しさが滲んでいた。
桜桃は、そんな彼の横顔をじっと見つめていたが、少し空気を変えるように言葉を紡いだ。
「……柳様は、郁李様とも仲が良いのですね」
話を振られた柳は、一拍置いてから呟いた。
「さあ、どうでしょう」
「さあ、とは?」
「仲が良いか否かについても、私には客観的な判断がしかねます」
「どうしてですか」
「私は、青陽の人間ではありません。養子ですから」
桜桃は、思わず小さく息を呑んで顔を上げた。
柳は帳簿を見つめたまま、声音ひとつ変えずに淡々と続ける。
「幼い頃、清明様に拾われました」
「……そう、だったのですか」
「隠していることでもありません。ただの事実ですから」
あまりにもあっさりとした口調だった。
生い立ちを恨むような暗さもなければ、悲しみを無理に押し殺しているような歪みもない。ただ、ただ、そこに在る歴史として淡々と提示している。
「ですから私は、青陽の姓も、あの方が一族に授ける花の名も、頂いてはおりません」
柳は、読み終えた巻紙を一本、静かに閉じた。
「郁李は清明様が好まれた花――李の花から名を与えられました。花梨も同じです。梨の花。あの方は、実を結ぶことよりも、ただ美しく咲く花を好まれますから」
――実よりも、花が好き。
昨日、郁李が言っていた言葉が、桜桃の脳裏に過った。
「私は、雪代という古い家の名を頂きました」
柳は窓の外から目を離し、再び手元の書類へと視線を落とす。
「ですから、青陽の当主は郁李が継げばいい。それが当然だと思っています」
その言葉は、どこまでも穏やかだった。
しかし、そのあまりの物分りの良さが、かえって桜桃の胸の奥をチクリと刺した。
「……それは、柳様自身は、それで良いのですか」
「外側にいる者が、わざわざ中心に立つ必要はありません」
柳は迷いのない手つきで、次の巻紙へと手を伸ばす。
「私には、私の成すべき仕事があります。この羽州の数字を管理し、裏から支える。……それで、十分です」
その指先に、微塵の躊躇いもなかった。
外側。
その言葉が、桜桃の胸の奥へと静かに重く沈んでいく。
この人は、何もかもを最初から分かっているのだ。自分の立たされている場所も、与えられた名前の意味も、踏み越えてはならない役割の境界線も。
だからこそ、これほど淡々としていられるのだろうか。
それとも――そうして淡々と境界線を引いていなければ、自分を保っていられないのだろうか。
「次はこちらの帳簿になります」
柳が、新しい巻紙を静かに差し出してきた。
桜桃はそれを受け取りながら、もう一度だけ、彼の端正な横顔を盗み見る。
相変わらず、何一つ感情の読めない顔だった。
それでも、「外側」という言葉がその唇から零れ落ちた一瞬だけ、彼の瞳の奥が、ほんのわずかに、痛みを堪えるように揺れた気がした。
静かな室内には、再び、次の数字をめくる乾いた紙の音だけが、規則正しく響き始めていた。
***
役所の仕事が一段落した頃、桜桃は縁側に腰を下ろしていた。
昼間の光景が、まだ胸の奥へ残っている。
倒れた老人。 止まらない列。 何事もなかったように続く配給。
そして帳簿で見た数字。浮塵子。整えられた収穫量。均された人口。崩れないための歪み。
羽州のやり方が正しいのか、桜桃にはまだ分からない。
(……でも、浮塵子をどうにかしなくちゃ。このままじゃ冬が来る前に羽州は全滅してしまう)
柳から告げられた、中央に隠された凶作の事実が、桜桃の胸を刺す。中央は誰もこの危機を知らない。神祇官として、この地に生きる人々を救いたい。けれど――。
(どうやって……? 私には、虫を追い払う力も、民を今すぐ養えるほどの米もないのに)
「……これで、いいのかしら」
ぽつりと、小さく呟いた。もちろん、誰からも答えは返らない。
「お茶をどうぞ」
すぐ傍らから、低く静かな声が落ちた。
朝凪だった。白磁の椀からは、淡い翡翠色の玉露が静かに揺れ、ほのかな甘い香りとともに白い湯気がゆるやかに立ち上っている。
「ありがとう」
受け取ると、熱すぎない優しい温もりが指先に伝わった。朝凪はいつも、玉露は少し冷ました湯で丁寧に淹れる。その柔らかな甘みは、不思議と心まで落ち着かせてくれる。
朝凪はそのまま、桜桃の邪魔にならないよう、少し離れた場所に立った。縁側の柱に背をもたれるでもなく、ただ護衛として静かにそこに佇んでいる。
「……聞いていたの?」
「お茶を持ってきただけです」
「その前からよ」
「……少しだけ」
朝凪は否定しなかった。
桜桃は椀を両手で包み込んだまま、視線を庭の木々へと向けた。
「柳様の言葉が、どうしても胸に引っかかってしまって」
「どの言葉ですか」
「矛盾したまま、続けるしかない時もある、って。正しい数字を出したからって、それで民が生きられるわけでもない、って……」
朝凪は、少しだけ間を置いた。
「……あの状況においては正しい言葉だと思います」
「そうかもしれないけれど……虫害の事実を上に隠したままで、本当に、この土地の誰も死なさずに救える方法なんて、あるのかしら」
「割り切れませんか」
「割り切れたら、楽でしょうけど」
朝凪は、それ以上は何も言わなかった。
ただ、静かにそこにいる。
その沈黙が、責めているわけでも、安易に慰めているわけでもなく、ただ自分の吐き出した葛藤をそのまま受け止めてくれているのだと、桜桃には分かった。
しばらくの間、二人は言葉を交わさず、同じ庭の景色を見つめていた。
椀から上る湯気が、ゆっくりと空気の中に消えていく。
「……よし。田んぼを、見に行きましょう」
桜桃は意を決したように椀を置き、顔を上げた。
「今からですか?」
「ええ。机の上で帳面を睨んでいるだけじゃ、何も始まらないわ」
朝凪は一瞬、何かを吟味するように少しだけ考える顔をした。それから、信頼を込めるように深く頷いた。
「分かりました。すぐに動けるよう、準備いたします」
桜桃は立ち上がり、朝凪もまた刀を手に歩き出した。
夕暮れ時、桜桃は朝凪と共に、羽州の広大な田園地帯に足を運んだ。
足元の惨状に、息を呑む。
つい先日まで実っていたはずの稲穂が、不自然に黄色く変色し、まるで生気を吸い取られたようにぐったりと枯れ果てている。
「……ひどい」
カサリ、と不気味な音がした。
次の瞬間、世界が一瞬にして色を変えた。
ざわざわと大気を震わせる、異様な羽音。夕闇の底から湧き上がるようにして現れたのは、視界を茶色く埋め尽くすほどの虫の群れ——浮塵子だった。
猛烈な勢いで蠢く虫の嵐が、容赦なく桜桃たちへ襲いかかってくる。
「六花、目を閉じてください」
鋭い声と共に、背後から大きな影が覆いかぶさった。
彼は手際よく、持参していた厚手の頭巾を桜桃の頭からすっぽりと被せ、隙間がないように前をしっかりと結んだ。
「これを被ってください。口や目に入ると危険です」
頭巾の隙間から、桜桃は外の光景を凝視した。
「これが、浮塵子……!?」
「ええ。乾燥に乗じて一気に孵化したのでしょう。この数は異常です」
朝凪は桜桃を庇うように立ち、即座に彼女の身体を翻させて屋敷ゆへと引き返した。
防衛線の外側にあたる辺境の田が、瞬く間に茶色い嵐に飲み込まれていく光景を、桜桃はただ愕然と見つめるしかなかった。
息を乱しながら屋敷の敷地へと戻ったとき、前方の御門のあたりが、にわかに騒がしくなっていることに気づいた。
立派な軍馬が数頭、汗を滲ませて手綱を引かれている。すれ違った地元の役人が「天澄京からの急使か?」「いや、将校の軍服を着た御方が……」と慌ただしく囁き合っていた。
胸の奥が、不意にドクリと小さく跳ねる。
その嫌な予感とも期待ともつかない動揺を証明するように、正面から走ってきた別の役人が、桜桃たちの前で声を上げた。
「六花様! ――昊夜殿下が、たった今ご到着されました」
その名を聞いた瞬間、桜桃の足がぴたりと止まった。




