第九話 感情で動くな
(……近衛は来ないって言ってたのに……!)
理由の分からない熱が胸の奥から急激に競り上がってくる。朝凪は隣で、その桜桃の横顔を、無言のまま静かに見つめていた。
(落ち着け)
桜桃は自分に言い聞かせ、再び歩き出した。
今は浮塵子の対策を考えなければならない。昊夜様が来たことで動ける手が増えた。それだけのことだ。ただ、それだけのこと。そう思おうとした。
けれど、廊下の角を曲がった瞬間、その決意は脆くも崩れ去る。
長い影を引いて、こちらの回廊を歩いてくる、見紛うはずのない体躯。
昊夜の姿を視界に捉えた瞬間、桜桃の脳裏に、あの夜の薄暗い廊下の光景が鮮明に蘇った。
――肩に掛けられた、あの重くて大きな、白檀の香りがした軍装の上着。
(……駄目、思い出すな、私)
顔が熱くなりかけるのを、桜桃は必死に息を吐き出して表情を殺した。
まだ胸の奥で心臓がうるさく警鐘を鳴らしていたが、それには一切気づかないふりをした。
すると、昊夜の背中の後ろから、ひょいと悪戯っぽく顔が覗いた。千弦だった。
「あ、六花さん」
「……千弦さん。どうしてここに」
「視察と挨拶を兼ねて。花梨様が入御されたので」
千弦はにこにこしながら、昊夜の方をちらりと見た。
「昊夜様、六花さんがいることをお伝えしておりませんでしたが、もしかして知ってましたか」
昊夜は歩みを止めたが、答えない。
「もしかして、後をつけてます?」
「視察だ」
「因州に続いて、この羽州にまで。偶然にしては、少々頻度が多くないですか?」
「視察だと言っている」
「そうですか」
千弦は全く怯む様子もなく、それから桜桃の方へ一歩近づくと、悪だくみをするように声を潜めた。
「昊夜様、視察を決めるときに随分早かったんですよ。珍しく」
「千弦」
昊夜の声が一段と低くなった。
「はい」
「下がれ」
「はーい」
千弦は軽く手を振りながら、すっと後ろへ下がった。だがその口元は、まだ笑っていた。
桜桃が恐る恐る視線を上げると、昊夜はいつもと変わらない真っ直ぐで力強い瞳で桜桃を見下ろしていた。
一瞬だけ視線が絡み合い、また胸の奥が小さく揺れる。
「……お、お久しぶりです、昊夜様」
「ああ」
昊夜の声音は、冷ややかだった。
あの夜のことなど、まるで最初から記憶にないかのような、いつも通りの皇子の顔。
(よかった……)
そう安堵すると同時に、ほんの、ほんの一微粒子ほど、胸の奥がチクリと痛んだ気がした。
だが、それもすぐに無理やり心の奥底へと押し込んだ。
二人のやり取りを、少し後ろから朝凪が静かに見守っていたが、何も口挟みはしなかった。
昊夜は一度だけ、その朝凪に視線を向けたが、すぐに何事もなかったかのように前を向き直した。
千弦がそれに気づいて、小さく記帳していた。
回路を歩き始めて、昊夜が千弦に声をかける。
「なぜ朝凪がいる」
「清明様経由で六花さんの護衛を志願したとか」
「普段は何をしている」
「門番だそうですが」
昊夜は少しの間、黙った。
「門番……?」
繰り返す。言葉にしてみても、やはり噛み合わない。
元近衛中将が、門番。
そして、わざわざ清明を経由して、この場への同行を志願した。
昊夜は視線を前に向けたまま、静かに思考を辿る。
朝凪は、元近衛中将。謀反以前、皇女付きの護衛を勤めていた男だ。
その男が今、六花のそばにいる。
思えば、清明襲撃のときも、因州でも六花の後ろにはこの男がいた。
清明襲撃のときは、日向も傍にいた。
朝凪と日向が気にする少女──。
(……日向の娘か?)
もし、六花が、日向の娘だとしたら。
日向の娘も、謀反以前は朝凪と共に宮廷で皇女に仕えていたはずだ。
二人が昔からの顔見知りであり、旧知の間柄であったとしても何らおかしくはない。
だが。
(……距離感が、おかしい)
いくら昔馴染みだからといって、あの男が、ただの皇女の元仕え同士のために元近衛中将の身分を捨て、門番にまで身をやつすものだろうか。
清明に頭を下げてまで、羽州へ付き従うものだろうか。
さらに、あの羽州出発の朝の記憶が蘇る。
神祇官庁の庭の隅にゴミのように捨てられていた軍装。
自分が六花に貸したものだった。
そして、代わりに即座に届けられた新しい一着。
神祇官のしがない下働きがあんなに手回しよく用意できるわけがない。
(私の衣を着ているのが気に入らなかったか、朝凪)
自分の軍装を捨てさせ、雨を降らせるために山を爆破したあの男。
ひとつの輪郭が、頭の中で静かに形を取り始めていた。
二人の間に、確実に何かがある。
ただの皇女の元仕え同士という生易しい関係ではない。
「昊夜様」
千弦が静かに声をかけたが、なにかを考えるように黙り込んだ昊夜を見て、千弦は話しかけるのをやめた。
「なんでもありません」
昊夜は歩き出した。
***
対面は、青陽家の広間で行われた。
杏築が出迎え、形式的な挨拶が交わされる。
桜桃は列の端に立っていた。
昊夜が広間へ入ってきた瞬間、空気が変わった。
静かで、無駄がなく、周囲の空気だけが少し引き締まる。
昊夜は杏築と言葉を交わしながら、さりげなく広間を見渡した。
その視線が、一度だけ桜桃の方へ動いた。
ほんの一瞬だけ桜桃に止まるが、すぐに杏築へ戻る。
だがその一瞬を、桜桃は確かに感じた。
杏築が昊夜へ向かって深く頭を下げた。
「花梨のことは、どうぞよろしくお願いいたします」
「承知している」
昊夜の返答は短かったが、その言葉には、花梨を認めている響きがあった。
桜桃はその横顔を見ながら、胸の奥に沈む違和感の正体を探そうとした。
花梨の隣に立つ人だ。そう思うと、何かが少しだけ息苦しかった。
挨拶が終わり、人が散り始めた頃だった。
杏築が昊夜へ近づき、低い声で何かを告げた。
昊夜の表情が変わる。
地図が広げられた。赤黒く塗られた範囲が、いくつもの村にまたがっている。
浮塵子の被害分布だった。
「……ここまで広がっているのか」
昊夜の声が、低く落ちた。
対面する杏築が、肯定するように深く頷く。
「中心街と、主要な港。この二つを守り抜くには、ここに防衛線を張るしかありません」
杏築の指先が、広げられた地図の上をなぞっていく。
「この外側の村、それから——西側周辺までは、薬も人員も回りません」
「切り捨てる、ということですか」
一歩前へ出た桜桃の声に、杏築が驚いたように視線を向けた。
昊夜はしばらく黙って桜桃を見つめていたが、やがて、静かな声を返した。
「限られたものを、どこへ配るかという話だ」
「外側の村も、人が住んでいます」
「分かっている」
昊夜の声音には、一切の揺らぎがなかった。
「だが、すべてに配れば、すべてが薄くなる。薄くなれば、どこも守れない」
「それでも」
「感情で動くな」
突き放すわけではない。ただ、感情を挟む余地をこれ以上与えないための言い方だった。
「優先順位をつけなければ、誰も救えない。それが統治だ」
「では、その人たちは」
その問いに、昊夜は答えなかった。それは答えがない、ということと同義だった。
「……あの人たちも、生きています」
声が揺れそうになるのを堪えながら、小さく、けれど明確に告げた。
昊夜はその言葉を受け止めるように、少しだけ沈黙した。
言葉を切り捨てることはしなかったが、かといって頷きもしない。ただ、じっと桜桃の瞳を見つめている。
「お前は、いつもそこから動かないな」
それは批判ではなかった。どこか、彼女の芯にあるものを確かめているような響きがあった。
桜桃は真っ直ぐに昊夜を見返し、昊夜もまた、その視線を外さなかった。
やがて昊夜は、静かに言葉を繋いだ。
「動くなら、一人で動くな」
それだけだった。彼女の意志を禁じることはせず、ただ、それだけを言い置いた。
張り詰めた沈黙のなか、杏築が小さく息を吐き出す音が聞こえた。
「では」
杏築が、話を引き継ぐように口を開いた。
「現時点での具体的な対応案を、お伝えします」
彼は、広げられた地図の上に新たな書状を重ねるようにして広げた。
「柳の薬が完成するのを、ただ手をこまねいて待っているわけにはいきません。今この瞬間から、できる限りの手を打ちます」
「具体的には、どのようなことを……?」
桜桃が、思わず身を乗り出すようにして聞いた。
「四つです」
杏築は、指を一本ずつ折りながら言葉を紡いだ。
「一つ、早期収穫。まだ十分に熟していない田であっても、構わず先に刈り取ります。すべてを虫に食い尽くされるよりは、未熟な米であっても収穫する方が遥かにましです」
「二つ、罹患した稲の焼き払い。すでに虫の巣窟となった箇所は、周囲に広がる前に根元から焼き断ちます」
「三つ、注油灯。水田に油を張り、夜間に灯火を並べる。光に集まる虫の習性を利用して、油の膜に落として焼き殺す。この辺りでは古くから『虫送り』と呼ばれている、地道な泥縄の手です」
「四つ、注水。畔の水をいつもより深く張り、茎の低い位置に群がる虫の動きを鈍らせ、這い上がりを防ぎます」
杏築は一通り言い終えると、乾いた音を立てて書状を畳んだ。
「いずれも、根本的な解決には至らない気休めの対策です。ですが、座して死を待つよりは、幾分かましでしょう」
室内に、再び重い沈黙が落ちた。
桜桃は、提示された四つの手段を頭の中で何度も反芻した。
どれもが途方もなく地道で、確実性には欠ける過酷な作業だ。
それでも、ただ帳面を眺めているだけだった昨日までとは違い、今すぐこの手で動かせる現実だった。
「私も、手伝います」
真っ直ぐな声で、桜桃が言った。
杏築が、意外そうに彫りの深い顔を上げる。
「神祇官の御身に、そこまでしていただく必要はございません。これは我々現地の――」
「必要か、不必要かではなく」
桜桃は、杏築の言葉を遮るようにして、けれど凛とした眼差しで続けた。
「私にできることがあると分かったのです。なら、させてください」
昊夜が、不意に桜桃を見た。
異論を挟むでもなく、ただ、値踏みするような、それでいて彼女の芯の強さをじっと見極めるような沈黙が流れる。
「……好きにしろ」
短く、それだけ言った。
杏築は少し困ったように眉を下げたが、昊夜が許した以上、それ以上は頑なに拒まなかった。
「では、明日からの作業ということで」
「はい」
桜桃は、力強く頷いた。
具体的な人員の割り振りが決まっていく中、桜桃は少し離れた場所に控えていた朝凪を振り返った。
「 朝凪、あなたは稲刈りの手伝いに回って」
「……私が、ですか」
朝凪の眉が、微かに跳ねる。
「あなたは力もあるし、ずっと多くの稲束を一度に運べるはずだわ」
朝凪は一瞬、何かを言い淀むように口を噤んだ。
「……私は護衛です。六花の身辺の安全を最優先にすべきかと」
「ここには見張りも大勢いるわ。それに、今は何よりも、稲刈りの現場の人手が足りていないって杏築様も仰っていたもの」
桜桃の言葉には、一抹の曇りもなかった。
朝凪はしばらくの間、その真っ直ぐすぎる桜桃の瞳をじっと見つめていた。
それから、視線をゆっくりと杏築へと移す。
杏築は、申し訳なさそうに、けれど軽く頷いた。
「六花殿の仰る通り、男手が一人でも欲しいのは事実です。武芸に秀でた方の力があれば、非常に助かります。……お願いできますか」
そこまで言われては、朝凪もこれ以上拒む理由はなかった。
「……承知いたしました」
低く、短く答えた。
桜桃の胸には、本来の役目ではない過酷な労働を強いることへの、少しばかりの申し訳なさが過っていた。
けれど、誰かが力を貸さなければ、この羽州の大地は冬を前にして持ち堪えられない。
ただ、それだけのことなのだと、自分に言い聞かたせるように、桜桃は明日へと意識を向けた。




