第十話 虫送り
桜桃には、夜間の『虫送り』の見張りが割り当てられた。
夜、静まり返った田の畔に等間隔で並べた灯火の前に立ち、水面に張った油へ集まり狂う虫の動きをじっと見守る。
集まりが最高潮に達した刹那を見極め、一気に火を放つための合図を出す。
それだけの、至極単純な作業だった。
だが、単純だからこそ、微塵も気を抜けなかった。
虫の動きは、夜の更け方や風の向きによって少しずつ違う。合図が早すぎれば虫は驚いて逃げ延び、遅すぎれば合図を待つ間に稲が先に食い尽くされる。
桜桃は冷える泥の上に直に座り込み、瞬きすら惜しむようにして、またたく灯火へ目を凝らし続けた。
忍び寄る夜風は、肌を刺すように冷たい。それでも、灯を見つめるその瞳だけは、決して逸らさなかった。
「夜は冷え込みますから」
不意に背後から、低く硬い声がした。
振り返るより早く、朝凪が手際よく上着を脱ぎ、桜桃の華奢な肩へ掛けた。
「え、でも、朝凪は――」
「着ていてください」
有無を言わせぬ短い言葉だけを残し、彼は再び夜の闇が広がる稲刈りの組へと向かって歩き出していった。
その大きな背中が、またたく間に暗がりの向こうへ溶けていく。
桜桃は、肩に掛かった上着を、冷えた指先で少しだけ強く握りしめた。
重くて、驚くほど大きい。
どこか、馴染みのある男物の重さだった。
そこへ、再び泥を重く踏みしめる昊夜の足音が近づいてきた。兵を率いての、田の見回りを終えたところらしい。
佇む桜桃の姿を捉えた昊夜は、彼女の肩に掛けられた上着を一瞥し、不機嫌そうに目を細めた。
(……あの男の上着か)
軍装ではないが仕立てのいい布地。それが朝凪のものであることなど、一目で分かった。
(当てつけのつもりか)
そんな、狭量とも言える考えが一瞬だけ頭をよぎり、昊夜はすぐに「馬鹿馬鹿しい」と切り捨てた。
昊夜はそれ以上衣服には触れず、無言のまま桜桃の顔を覗き込んだ。
灯火の油煙にさらされていた彼女の白い頬には、黒い煤が小さく筋を引いて汚れている。
「……顔が汚れているぞ」
「え? 気づきませんでした」
桜桃は慌てて、両手の甲で適当に頬を拭おうとした。
「そこではない」
「えっ、どこですか?」
「もっと、こっちだ」
昊夜は苛立わしげに指先を伸ばしかけ、触れる直前で、思い止まったように手を止めた。それから、きまり悪そうに手を引っ込めると、短く言い捨てた。
「自分で拭け。……いや、そこからもう少し上だ」
桜桃は言われるがまま、袖口で何度も頬を擦った。
「……取れましたか?」
「まだだ。まるで締まりのない顔だな」
昊夜は小さく息を吐き出した。これ以上その不器用なやり取りを続ける気はないとばかりに、彼は桜桃を真っ直ぐに見据え、声音の温度を落とした。
「一人で勝手に動くなよ」
「……はい」
「念を押すのは、これで二度目だ」
「分かっています」
「分かっていない人間ほど、そういう返事を軽々しく繰り返す」
桜桃は、図星を突かれて少しだけ口を尖らせた。
「……気をつけます」
昊夜は、それ以上は何も言わなかった。
ただ一度だけ、その大きな手で桜桃の頭を乱暴に、けれどどこか名残惜しそうに軽く叩くと、踵を返して臨時の役所の方へと歩いていく。
その遠ざかる背中を、桜桃はしばらくの間、静かに見つめていた。
肩に掛かった朝凪の上着が、冷たい夜風に吹かれて、ほんの少しだけ揺れていた。
灯火の放つ橙色の光が、二人の男の気配を残したまま、静かに水面を照らし続けていた。
***
数日間、桜桃は不眠不休で虫送りの番につき続けた。
夜になると、冷える田の畔に灯火を並べる。
鼻を突く油の匂いが夜風に混じり、じっと虫が集まるのを待つ。集まりが最高潮に達した一瞬の猶予を見計らい、桜桃は声を張り上げて合図を出した。
畔に並んだ地元の男たちが、松明を手に待機していた。
その中の一人が、桜桃の方をちらりと見て、隣の男に小声で言った。
「神祇官が来てくれたな」
「ああ」
「こんな泥の上まで」
自慢するでもなく、感謝を押し付けるでもなく、ただそれだけを短く言い交わして、また前を向いた。
桜桃には聞こえていた。
聞こえていたが、何も言わなかった。
ただ、灯火を見据えたまま、虫の集まりが最高潮に達する瞬間を待った。
「今です! 火を!」
待機していた地元の男たちが、一斉に松明を突き出す。
灯がぼうっと夜闇を朱に染めて大きく膨らみ、集まった浮塵子の群れをジリジリと焼き払っていく。それを、夜が明けるまで幾度も繰り返した。
朝になれば休む暇もなく、桜桃は焼け跡の片付けを手伝った。
灰と化した虫の死骸を泥ごと掻き集め、筵にまとめて運ぶ。汚れた手を洗う間もなく、すぐに次の作業へと移る日々。
柳と郁李の二人は、相変わらず奥の調合室にこもったきりだった。時折、酷くやつれた顔で出てきては、短い言葉を交わし、また引き籠る。その繰り返しだった。
桜桃の手は、すっかり荒れ果てていた。
白かった爪の間には、泥と黒い灰が深く入り込んでいる。
けれど、そのおかげで、羽州の田の一部は、確かに最悪の崩壊を持ち直しかけていた。完全には戻らない。それでも、全滅だけは免れていた。
その日も、桜桃は田にいた。
黙々と焼け跡の灰を運ぶ彼女の肩には、あの日からずっと、朝凪が「着ていてください」と貸してくれた、あの大きな上着が、過酷な作業の汚れを吸いながらも温かく掛けられたままだった。
「少し、水場から水を汲んできますね」
近くで作業着の女に声をかけ、桜桃は一人で水場へと向かった。
田から少し離れた、木陰にある小さな用水の引き込み口。
手桶にたっぷりと水を汲み、ふぅ、と息を吐いて持ち上げた、その時だった。
背後の草むらが、不自然に揺れた。
(――え?)
振り返ろうとした、まさにその刹那。
強烈な力で背後から組み伏せられ、異臭のする濡れた布が、乱暴に口元を覆った。
鼻を突いたのは、妙に鼻の奥が痺れるような、不気味に甘い薬物の匂い。
「ん――っ!?」
抵抗しようと掻いた爪が、空を掴む。
頭の芯がまたたく間に侵され、身体から急速に力が抜けていく。
汲んだばかりの水桶が地面に落ちてひっくり返る鈍い音が響いた。
それと同時に、桜桃の肩から、あの朝凪の上着が音もなく滑り落ち、泥水の中にバサリと冷たく沈んでいく。
視界が急速に黒い闇へと反転し、桜桃の意識は、そこで完全に途絶えた。
***
稲刈りの過酷な作業が、ようやく一段落した頃だった。
朝凪は額の汗を手の甲で拭いながら、自然と桜桃のいるはずの田の方へと視線を巡らせた。
けれど、いつもあるはずの、あの小さな姿がどこにも見当たらない。
(……まだ、別の焼け跡の片付けに追われているのだろうか)
そう思い、刀の柄に手を添えたまましばらくその場で待ってみた。
だが、どれだけ目を凝らしても彼女は戻ってこない。胸の奥に、さざ波のような奇妙な胸騒ぎが広がっていく。
朝凪は、近くで筵を片付けていた地元の女に声をかけた。
「――すみません。六花を見かけませんでしたか」
「六花様なら、少し前に『水を汲んでくる』って、あっちの水場へ向かわれましたよ」
「水場は、どちらですか」
女が指し示した、木陰の広がる方向へ、朝凪は無言のまま大股で足を向けた。
用水路の引き込み口が見えてきた、その時だった。
草むらの開けた場所に、木製の桶が無残に転がっているのが目に飛び込んできた。
汲まれたばかりの水が、泥の上に広く溢れ、地面に吸い込まれていく。
だが、肝心の桜桃の姿は、そこにはなかった。
朝凪の足が、ぴたりと止まった。
(……いない)
心臓が、冷たい手で直につかまれたかのように激しく収縮する。
「六花」
声をかけても、風が草を揺らす音以外、何の返事もない。
「六花!」
声を荒らげて周囲を見渡すが、返ってくるのは遠くの作業場の喧騒だけだ。
視線を地面へと落とした朝凪は、その瞬間、息を呑んだ。
ひっくり返った水桶のすぐ脇――茶色く濁った泥水の中に、見覚えのある、上着が乱暴に踏みつけられたように沈んでいた。
自分が、彼女の寒さを案じて貸した上着だった。
(――連れ去られた)
桜桃が、自らの意志でこの上着を放り捨てていく理由など、ただの一つも存在しない。
朝凪の全身の血が、急速に凍りついていく。
泥の上には、彼女を引きずり回したような不自然な乱れと、作業の民のものとは明らかに違う足跡が辛うじて残されていた。
「瑛殿!! ――六花はどこだ!」
血相を変えて駆け戻ってきた朝凪に、帳面を開いていた瑛が驚いたように顔を上げた。
「い、いえ、こちら側には戻られておりませんが……一体何が」
その声を最後まで聞くこともなく、朝凪は、腰の刀の鞘を鋭く鳴らしながら、弾かれたように走り出していた。
***
臨時の役所に、鋭く張り詰めた声が響き渡った。
「六花が見当たりません」
杏築が、広げていた地図から弾かれたように顔を上げた。
「……いつからだ」
「正確な刻限は分かりません。ただ、水場に手桶と――上着だけが残されていました」
泥水にまみれた上着をきつく握りしめた朝凪が、息を切らせながら答える。
「周囲の足跡も、複数に踏み荒らされていて、追跡が困難です」
そこへ、静かに戸を引いて昊夜が現れた。
背後には、千弦と近衛数名が控えている。
手にした書類を見つめたまま、不穏な空気を察して足を止める。
「何の話だ」
「六花が」
朝凪が、怒りを押し殺した声で繰り返した。
「何者かに連れ去られた」
昊夜の端正な輪郭が、ぴたりと凝固した。
「……連れ去られた、だと?」
「水場に、汲みかけの桶だけが転がっていた」
昊夜はしばらくの間、何も言葉を発しなかった。ただ、朝凪の手にある上着へと、冷たい視線を落とす。
「周囲は探したのか」
「探した。田の周辺も、街道の入り口も。……だが、忽然と気配が途絶えている」
室内に、重い沈黙が落ちた。
騒ぎを聞きつけ、奥の調合室から顔を出した柳と郁李が、驚愕に目を見開く。
「六花さんが、拐われたというのですか……!?」
郁李が悲痛な声を上げた。




