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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第三章 名を持たぬ花【羽州神隠編】

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第十一話 神隠し

 杏築は、しばらく険しい顔で黙り込んでいたが、やがて何かを覚悟したように低く重い声を漏らした。


「……一つ、心当たりがございます」


「何だ」


 昊夜が、射抜くような視線を向ける。


「過去にも、同じことがあったのです。先代、あるいはさらにその前の代にも、天澄京から遣わされた神祇官が、この羽州で行方を絶った。公の記録には一切残されておりません。地元の、ごく一部の年配の役人の間でだけ、不吉な『神隠し』として語り継がれている奇禍です」


「神隠しだと」


「狄族の聖域に、和人を入れない場所がある。そこへ運ばれた、と」


 狄族――その不穏な響きが室内に落ちた瞬間、朝凪と昊夜は、吸い寄せられるように互いへと視線を走らせた。


 一瞬だけ、二人の目が真っ直ぐに噛み合う。

 どちらも、何も語りはしなかった。


 それでも、互いの双眸の奥に浮かんだ戦慄が、同じものであることだけは瞬時に理解できた。


 かつてあの北の辺境で、刀を振るった戦場の記憶。

吹き荒れる雪。赤黒く燃え上がる村。次々と冷たくなっていった同胞たちの骸。


 あの容赦のない連中の手の中に、今、桜桃がいる。


 朝凪が、先に視線を逸らした。昊夜もまた、何事もなかったかのように前を向き直す。


 それ以上、誰も、彼らの過去には触れなかった。


「場所はどこだ」


「正確な位置までは分かりかねます。ただ、北の渓谷の、さらに最暗部だと聞いております」


 昊夜は有無を言わさず、卓の上の地図を大きく広げ直した。


 杏築が、その北側に広がる険しい一帯を指で示す。


「このあたりは、我々の調査の対象外、すなわち『白地』でした。狄族の縄張りであり、和人が踏み込めば即座に首を撥ねられる場所です」


「範囲は」


「あまりにも広大です。ここからでは、とても場所を絞り込めません」


 古びた地図の上には、文字すら書き込まれていない不気味な空白が、大きく広がっていた。


 昊夜はしばらくその白地を凝視していたが、冷たく言い放った。


「――手分けする」


 朝凪が、弾かれたように昊夜を見た。


「私が、東側の渓流沿いを見る」


「ならば、私は西側の尾根伝いだ」


「合流の目印は」


「狼煙でも、鏑矢の音でも何でもいい。何か動きがあれば、即座に互いが察知できるようにしろ」


「分かった」


 朝凪が短く頷く。


 昊夜は乱暴に地図を畳むと、その鋭い視線を柳と郁李へと転じた。


「柳、郁李。お前たちは、ここに残れ」


「待ってください、俺も行きます!」


 郁李が声を荒らげて一歩前へ出たが、昊夜の一言に遮られた。


「待て」


 その声音には、一切の感情が排除されていた。


「ここで浮塵子の対応を止めるな」


「ですが、六花さんの命がかかっているんですよ」


「神祇官一人のために、羽州の対応を疎かにすれば、また誰かが死ぬ」


 郁李の表情が、強張った。


「それは……分かってますけど」


「分かっているなら、その手を絶対に止めるな」


 昊夜の瞳には、一抹の揺らぎもなかった。


「六花は我々が連れ戻す。お前たちは、ここで薬の調合を続けろ。気に病む暇があるなら、手を動かせ」


「……はい」


 柳が、郁李の肩を静かに掴みながら、短く答えた。


 背後で気配を消していた千弦が、音もなく一歩進み出た。


「私は、どういたしますか」


「お前は、私と来い。潜入の足がかりを作る」


「承知しました」


 昊夜は背後へ視線だけを向けた。


「近衛はここで待機」


 背後の近衛たちは刀の柄に右手を静かに添えた。


「御意」


 昊夜は、壁に立てかけてあった刀を容赦なく引き抜いた。


 朝凪もまた、すでに刀を手にし、まさに動き出そうとしていた。


 そのとき、彼はふと机の上に置かれた、未完成の虫除け薬の包みと、柳の書きかけの配合書に目を留める。


 和人を拒む聖域。稲を食い潰す浮塵子。桜桃が攫われた理由。


 それらの断片から、朝凪の脳裏にひとつの仮説を立てた。


「柳殿」


 朝凪は呼び止め、机の上の薬包と配合書を素早く掴み取ると、それを懐へとねじ込んだ。


「それをどうする気だ」


 怪訝そうに眉をひそめる柳に対し、朝凪はいつもの穏やかな表情を向けた。


「お守り代わりに、少しお借りします」


 交わす言葉は、もうなかった。


 朝凪と昊夜は、互いの背中を一瞥することすらなく、それぞれ逆の方角へと、夜の闇へと駆け出していった。


***


 気がついたとき、桜桃は冷たい石の上にいた。


 手首が、痛い。縄が肌に深く食い込んでいる。

見上げれば、頭上は煤けた岩肌だった。周囲で、いくつもの松明の火が小さく揺れている。


 身体を起こそうとして、足元に視線が落ちた。


 人影が、何重にも並んでいる。


 松明を手にした男たち、女たち。その暗い瞳が、すべて、じっとこちらを見ていた。


「……起きたか」


 低い声がした。法衣を纏った男だった。


「お前を、土地の神へ捧げる」


 桜桃は、しばらくその言葉の意味を測ろうとした。


 捧げる。それが何を意味するか、遅れて理解が追いついた。


「……生贄、ってこと?」


「そうだ」


 男は、淡々と言った。


「待って」


 声が、かすかに震えた。


「なぜ、私なんですか」


「お前は、雨を呼んだ」


 男が言った。


「和人の神祇官が、舞によって雨を降らせたと聞いている」


「……それは」


 桜桃は、首を横に振った。


「あれは、舞のおかげじゃありません。装置と、たまたまの天候が重なっただけです」


「謙遜は要らない」


「謙遜じゃ……」


「お前の力で、雨を降らせた。なら、虫を消すこともできるはずだ」


 桜桃は、しばらく黙った。


 噂が、どこかで歪んで伝わっている。説明しても、彼らに信じる気がないのは、その頑なな目を見ればすぐに分かった。


「……信じてもらえないなら、何を言っても無駄ですか」


「無駄だ」


 男は、短く言った。


「夜明け前に、祈祷が終わったら血を捧げる。それまで、待っておれ」


 男はそれだけ言い残し、背を向けた。


 何を言っても、信じてはもらえない。


(殺される……?)


 冷たい床から伝わる寒気が、じわじわと身体の芯を侵食していく。桜桃はただ、きつく唇を噛み締めた。


***


 西側の山道は、深く茂る木々に覆われていた。


 その不気味な山道の入り口には、ひっそりと古い石祠が佇んでいる。長い年月で青く苔むした石肌、その根元に転がるように供えられた、ひび割れた黒い土器。

 そして、石祠のすぐ脇で、まるで侵入者を拒むように低く右へ折れた不気味な老松があった。


 昊夜は一瞥し、石祠の下を刀の鞘で軽く叩いた。

 薄く傷がついたのを確認して、足を進めた。


 千弦はいつもの軽快さを潜め、その三歩後ろを気配を消してぴたりとついて歩いている。


「昊夜様」


「何だ」


「東側の渓流を、朝凪さんに任せて大丈夫ですか?」


「お前は、あの男の心配でもしているのか」


「いえ、全然」


 千弦は、暗闇の中で肩をすくめて軽く言った。


「ただ、二人ともあまりに必死すぎて、見てられません」


 昊夜は何も答えなかった。ただ、容赦なく落ち葉を踏みしめ、足を進めた。


 しばらくの間、息の切れるような無言の時間が続く。湿った夜風が、ざわざわと不吉に葉を鳴らしながら、木々の隙間を冷たく通り抜けていく。


「昊夜様」


「何だ」


「狄族って、どういう人たちなんですか」


 千弦が、ふと思いついたように尋ねた。

 

「俺、よく知らなくて」


 昊夜の足の運びが、一瞬だけ不自然に止まりかけた。


 それでも、動揺を押し殺すように、すぐに地を蹴り、進み続けた。


 脳裏に、あの雪の戦場が浮かび上がる。

 一面の焼け野原。重く立ち込める煙の匂い。


(考えるな)


 理性に、低く、強く命じる。

 今ここで僅かでも思考の隙を作れば、頭の中があの夜の記憶で一気に埋め尽くされてしまう。


 雪の下で、目を見開いたまま冷たくなっていった戦友たちの顔。


 返り血を浴びた刀で、その命を奪い去った、名も知らぬ異民族の兵たち。


 その血生臭い記憶の中に、桜桃を置きたくはなかった。


 それでも、考えてしまう。


(もし、あの時のように)


 もし、あの時と同じように、理不尽に命が奪われるのだとしたら。


 その犠牲になるのが、あの小さな神祇官だったら。


 昊夜は深く夜気を吸い込んだ。何かを言いかけて、喉の奥で硬く止める。


「……信仰に篤い」


 短く、それだけを吐き出した。僅かに声が硬い。


「篤いんですか」


「土地の神を、強く信じる」


「へえ」


 千弦は、それ以上に深く追求する気はない様子だった。


「だからこそ、神隠しや生贄を、本当にやってのけるわけですか」


 昊夜は答えなかった。


 一刻も早く、あの空白の地へ。焦燥が、無意識に歩調を狂わせそうになる。


「もし――見つからなかったら?」


 千弦の声が、いつもより一段と低く、重く響いた。


「見つかる」


 即答だった。千弦の言葉を最後まで言わせぬほど、あまりに早く、底冷えのする強い口調だった。


「根拠は」


「ない」


 昊夜は真っ暗な前方を見据えたまま、退路を断つように続けた。


「それでも、見つける。私が引きずり戻す」


 千弦はそれ以上、何も言わなかった。ただ、静かにその足調子を速め、主君の影を追う。


 道なき険しい山を、二人だけで進んだ。土が崩れかけた獣道のような細い筋を辿りながら、一歩一歩、確実に行路を確かめていく。


「この先、切り立った谷になっているはずです」


 千弦が脳内の地図の記憶を頼りに告げると、昊夜は「行くぞ」とだけ返し、迷わず崖の縁へと進んだ。


 横は底の見えない暗黒の崖だ。細心の注意を払い、足元を確かめながら歩く。

 肌を刺すような寒気が、今はどこかありがたかった。皮膚を痛めつける冷たい風が、沸騰しかけている頭を冷やしてくれる気がした。


「……昊夜様」


「何だ」


 千弦が、少し言いよどむように口を開いた。


「やはり、少し焦っておられますよね」


「焦ってはいない」


「いつもより、歩幅が三寸は広いです。息も、上がっている」


 昊夜はそれでも、決して足を止めなかった。


「気のせいだ」


「そうですか」


 千弦は暗闇の中で小さく笑い、それ以上は主の強がりをからかわなかった。


 二人は谷の最奥へ向かって、ひたすらに夜の闇を切り裂き、進み続けた。


 ――だが、一体どのくらいの時間を歩いただろうか。

 容赦なく体力を削る険路の先、夜のしじまに、じわじわと不気味な白い霧が混じり始めた頃。


 前を行く昊夜の足が、凍りついたように、完全に停止した。


 後ろを歩いていた千弦が、その大きな背中に衝突しかけ、慌てて足を止める。


 主の射抜くような視線の先を追い――千弦は息を呑んだ。


「同じ場所に戻ってる……!?」


 濃度を増していく白い夜霧の向こうに、見覚えのある光景が、静かに浮かび上がっていた。


 苔むした、あの古い石祠。

 その根元に供えられた、ひび割れた黒い土器。

 そして、そのすぐ脇で低く右へ折れた老松。


 間違いなく、数刻前に二人が踏み込んでいったはずの、あの山の入り口の光景だった。


***


 東側の道は、荒々しい水音を立てる川沿いに続いていた。


 切り立った渓谷の底、激しい急流が巨大な岩を噛む轟音が、夜の静寂の中でやけに大きく反響している。その不気味な水音に急かされるように、朝凪は足を緩めなかった。


 走りながら、頭の中でこれまでの不穏な情報を幾度も並べ直していく。


 未曾有の虫害。執拗に狙われた水場。そして、桜桃が忽然と消えたこと。杏築の言った、和人を決して生かしては帰さぬという狄族の聖域。


(――私が、あの時、稲刈りに回るなどと妥協したからだ)


 胸の奥を容赦なく抉るような自責の念が、じわじわと体内に広がっていく。


 自分でも分かっていた。人手は足りておらず、杏築の懇願に拠ったあの時の判断自体は、仕方のないものだった。


 それでも、一度は桜桃の護衛が最優先だと、確かに自分の口で突っぱねたはずだった。その一言を、他ならぬ自分自身で引っ込めてしまった。


『あなたは力もあるし、ずっと多くの稲束を一度に運べるはずだわ』


 桜桃が、自分の力を頼りにして、あんな風に真っ直ぐに笑った。ただそれだけで、不覚を突かれ、頷いてしまったのだ。


 その一瞬の妥協が、今、これほど重く、暗い刃となって自分に返ってきている。


(私が、あの水場の傍にさえいれば、誰が来ようとも必ず斬り伏せて守り抜けたものを)


 どれほど脳内で悔いたところで、時間は巻き戻らない。そんなことは百も承知だった。それでも、考えずにはいられなかった。


 朝凪はさらに地を蹴る速度を速めた。氷のような夜気を吸い込むたび、喉の奥が焼けるように熱く、息が荒くなっていく。


(あそこにいる者たちは、私たちを恨んでいるはずだ)


 殲滅した側の男が、今、その民族の地に踏み込む。


 それが、捕らえられた桜桃にとってどれほど危険な意味を持つか。朝凪はそれを想像するだけで、心臓が凍りつき、息が詰まりそうだった。


 川沿いの獣道を、奥へ、さらに奥へと突き進む。


 次第に道は険しい巨岩の連なる岩場へと姿を変え、まともな足場は完全に消失した。それでも、彼の跳躍が止まることはなかった。


(生きていてくれ。どうか)


 同じ言葉を心の中で何度も繰り返した。


 山肌をなぞるように伸びていた細道は、唐突に途切れ、その先は切り立った岩壁が塞いでいた。完全に、行き止まりだった。


 朝凪は冷え切った空を見上げた。迂回する道を探す余地などない。


「……回ってる時間はないな」


 正規の山道を捨てる。


 崖を垂直によじ登り、尾根へと直登する方が、遥かに早い。。


 刀を背に括り付け、朝凪は剥き出しの岩肌にへばりついた。


 指先を岩の僅かな割れ目に掛け、自身の体重を引き上げる。爪が剥がれ、じわりと血が滲むのを感じたが、痛みを覚える余裕すらなかった。


 乾いた土が、靴の下で脆く崩れる。


 その瞬間、頭上から、地鳴りのような重低音が響いた。岩肌が鈍く軋む。


「っ――!」


 振り返るより早く、夜の闇を裂いて、人の身ほどもある巨岩が頭上から落ちてきた。


 追手を圧殺するための、狄族の物理的な罠だ。


 捕まる場所のない垂直の壁。朝凪は一瞬の迷いもなく、岩壁を蹴って真横の足場へと身体を投げ出した。


 衝撃波と共に、巨岩が元いた場所を粉砕しながら通り過ぎ、谷底へと落ちていく。砕け散った鋭利な岩の破片が、朝凪の肩を強く打ち据え、頬を深く切り裂いた。


 血が伝う。だが、罠はそれだけで終わらなかった。


 一度の落石が引き金となり、上の斜面全体が崩れ始めている。足元ごと、山が滑り落ちようとしていた。


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