第十一話 神隠し
杏築は、しばらく険しい顔で黙り込んでいたが、やがて何かを覚悟したように低く重い声を漏らした。
「……一つ、心当たりがございます」
「何だ」
昊夜が、射抜くような視線を向ける。
「過去にも、同じことがあったのです。先代、あるいはさらにその前の代にも、天澄京から遣わされた神祇官が、この羽州で行方を絶った。公の記録には一切残されておりません。地元の、ごく一部の年配の役人の間でだけ、不吉な『神隠し』として語り継がれている奇禍です」
「神隠しだと」
「狄族の聖域に、和人を入れない場所がある。そこへ運ばれた、と」
狄族――その不穏な響きが室内に落ちた瞬間、朝凪と昊夜は、吸い寄せられるように互いへと視線を走らせた。
一瞬だけ、二人の目が真っ直ぐに噛み合う。
どちらも、何も語りはしなかった。
それでも、互いの双眸の奥に浮かんだ戦慄が、同じものであることだけは瞬時に理解できた。
かつてあの北の辺境で、刀を振るった戦場の記憶。
吹き荒れる雪。赤黒く燃え上がる村。次々と冷たくなっていった同胞たちの骸。
あの容赦のない連中の手の中に、今、桜桃がいる。
朝凪が、先に視線を逸らした。昊夜もまた、何事もなかったかのように前を向き直す。
それ以上、誰も、彼らの過去には触れなかった。
「場所はどこだ」
「正確な位置までは分かりかねます。ただ、北の渓谷の、さらに最暗部だと聞いております」
昊夜は有無を言わさず、卓の上の地図を大きく広げ直した。
杏築が、その北側に広がる険しい一帯を指で示す。
「このあたりは、我々の調査の対象外、すなわち『白地』でした。狄族の縄張りであり、和人が踏み込めば即座に首を撥ねられる場所です」
「範囲は」
「あまりにも広大です。ここからでは、とても場所を絞り込めません」
古びた地図の上には、文字すら書き込まれていない不気味な空白が、大きく広がっていた。
昊夜はしばらくその白地を凝視していたが、冷たく言い放った。
「――手分けする」
朝凪が、弾かれたように昊夜を見た。
「私が、東側の渓流沿いを見る」
「ならば、私は西側の尾根伝いだ」
「合流の目印は」
「狼煙でも、鏑矢の音でも何でもいい。何か動きがあれば、即座に互いが察知できるようにしろ」
「分かった」
朝凪が短く頷く。
昊夜は乱暴に地図を畳むと、その鋭い視線を柳と郁李へと転じた。
「柳、郁李。お前たちは、ここに残れ」
「待ってください、俺も行きます!」
郁李が声を荒らげて一歩前へ出たが、昊夜の一言に遮られた。
「待て」
その声音には、一切の感情が排除されていた。
「ここで浮塵子の対応を止めるな」
「ですが、六花さんの命がかかっているんですよ」
「神祇官一人のために、羽州の対応を疎かにすれば、また誰かが死ぬ」
郁李の表情が、強張った。
「それは……分かってますけど」
「分かっているなら、その手を絶対に止めるな」
昊夜の瞳には、一抹の揺らぎもなかった。
「六花は我々が連れ戻す。お前たちは、ここで薬の調合を続けろ。気に病む暇があるなら、手を動かせ」
「……はい」
柳が、郁李の肩を静かに掴みながら、短く答えた。
背後で気配を消していた千弦が、音もなく一歩進み出た。
「私は、どういたしますか」
「お前は、私と来い。潜入の足がかりを作る」
「承知しました」
昊夜は背後へ視線だけを向けた。
「近衛はここで待機」
背後の近衛たちは刀の柄に右手を静かに添えた。
「御意」
昊夜は、壁に立てかけてあった刀を容赦なく引き抜いた。
朝凪もまた、すでに刀を手にし、まさに動き出そうとしていた。
そのとき、彼はふと机の上に置かれた、未完成の虫除け薬の包みと、柳の書きかけの配合書に目を留める。
和人を拒む聖域。稲を食い潰す浮塵子。桜桃が攫われた理由。
それらの断片から、朝凪の脳裏にひとつの仮説を立てた。
「柳殿」
朝凪は呼び止め、机の上の薬包と配合書を素早く掴み取ると、それを懐へとねじ込んだ。
「それをどうする気だ」
怪訝そうに眉をひそめる柳に対し、朝凪はいつもの穏やかな表情を向けた。
「お守り代わりに、少しお借りします」
交わす言葉は、もうなかった。
朝凪と昊夜は、互いの背中を一瞥することすらなく、それぞれ逆の方角へと、夜の闇へと駆け出していった。
***
気がついたとき、桜桃は冷たい石の上にいた。
手首が、痛い。縄が肌に深く食い込んでいる。
見上げれば、頭上は煤けた岩肌だった。周囲で、いくつもの松明の火が小さく揺れている。
身体を起こそうとして、足元に視線が落ちた。
人影が、何重にも並んでいる。
松明を手にした男たち、女たち。その暗い瞳が、すべて、じっとこちらを見ていた。
「……起きたか」
低い声がした。法衣を纏った男だった。
「お前を、土地の神へ捧げる」
桜桃は、しばらくその言葉の意味を測ろうとした。
捧げる。それが何を意味するか、遅れて理解が追いついた。
「……生贄、ってこと?」
「そうだ」
男は、淡々と言った。
「待って」
声が、かすかに震えた。
「なぜ、私なんですか」
「お前は、雨を呼んだ」
男が言った。
「和人の神祇官が、舞によって雨を降らせたと聞いている」
「……それは」
桜桃は、首を横に振った。
「あれは、舞のおかげじゃありません。装置と、たまたまの天候が重なっただけです」
「謙遜は要らない」
「謙遜じゃ……」
「お前の力で、雨を降らせた。なら、虫を消すこともできるはずだ」
桜桃は、しばらく黙った。
噂が、どこかで歪んで伝わっている。説明しても、彼らに信じる気がないのは、その頑なな目を見ればすぐに分かった。
「……信じてもらえないなら、何を言っても無駄ですか」
「無駄だ」
男は、短く言った。
「夜明け前に、祈祷が終わったら血を捧げる。それまで、待っておれ」
男はそれだけ言い残し、背を向けた。
何を言っても、信じてはもらえない。
(殺される……?)
冷たい床から伝わる寒気が、じわじわと身体の芯を侵食していく。桜桃はただ、きつく唇を噛み締めた。
***
西側の山道は、深く茂る木々に覆われていた。
その不気味な山道の入り口には、ひっそりと古い石祠が佇んでいる。長い年月で青く苔むした石肌、その根元に転がるように供えられた、ひび割れた黒い土器。
そして、石祠のすぐ脇で、まるで侵入者を拒むように低く右へ折れた不気味な老松があった。
昊夜は一瞥し、石祠の下を刀の鞘で軽く叩いた。
薄く傷がついたのを確認して、足を進めた。
千弦はいつもの軽快さを潜め、その三歩後ろを気配を消してぴたりとついて歩いている。
「昊夜様」
「何だ」
「東側の渓流を、朝凪さんに任せて大丈夫ですか?」
「お前は、あの男の心配でもしているのか」
「いえ、全然」
千弦は、暗闇の中で肩をすくめて軽く言った。
「ただ、二人ともあまりに必死すぎて、見てられません」
昊夜は何も答えなかった。ただ、容赦なく落ち葉を踏みしめ、足を進めた。
しばらくの間、息の切れるような無言の時間が続く。湿った夜風が、ざわざわと不吉に葉を鳴らしながら、木々の隙間を冷たく通り抜けていく。
「昊夜様」
「何だ」
「狄族って、どういう人たちなんですか」
千弦が、ふと思いついたように尋ねた。
「俺、よく知らなくて」
昊夜の足の運びが、一瞬だけ不自然に止まりかけた。
それでも、動揺を押し殺すように、すぐに地を蹴り、進み続けた。
脳裏に、あの雪の戦場が浮かび上がる。
一面の焼け野原。重く立ち込める煙の匂い。
(考えるな)
理性に、低く、強く命じる。
今ここで僅かでも思考の隙を作れば、頭の中があの夜の記憶で一気に埋め尽くされてしまう。
雪の下で、目を見開いたまま冷たくなっていった戦友たちの顔。
返り血を浴びた刀で、その命を奪い去った、名も知らぬ異民族の兵たち。
その血生臭い記憶の中に、桜桃を置きたくはなかった。
それでも、考えてしまう。
(もし、あの時のように)
もし、あの時と同じように、理不尽に命が奪われるのだとしたら。
その犠牲になるのが、あの小さな神祇官だったら。
昊夜は深く夜気を吸い込んだ。何かを言いかけて、喉の奥で硬く止める。
「……信仰に篤い」
短く、それだけを吐き出した。僅かに声が硬い。
「篤いんですか」
「土地の神を、強く信じる」
「へえ」
千弦は、それ以上に深く追求する気はない様子だった。
「だからこそ、神隠しや生贄を、本当にやってのけるわけですか」
昊夜は答えなかった。
一刻も早く、あの空白の地へ。焦燥が、無意識に歩調を狂わせそうになる。
「もし――見つからなかったら?」
千弦の声が、いつもより一段と低く、重く響いた。
「見つかる」
即答だった。千弦の言葉を最後まで言わせぬほど、あまりに早く、底冷えのする強い口調だった。
「根拠は」
「ない」
昊夜は真っ暗な前方を見据えたまま、退路を断つように続けた。
「それでも、見つける。私が引きずり戻す」
千弦はそれ以上、何も言わなかった。ただ、静かにその足調子を速め、主君の影を追う。
道なき険しい山を、二人だけで進んだ。土が崩れかけた獣道のような細い筋を辿りながら、一歩一歩、確実に行路を確かめていく。
「この先、切り立った谷になっているはずです」
千弦が脳内の地図の記憶を頼りに告げると、昊夜は「行くぞ」とだけ返し、迷わず崖の縁へと進んだ。
横は底の見えない暗黒の崖だ。細心の注意を払い、足元を確かめながら歩く。
肌を刺すような寒気が、今はどこかありがたかった。皮膚を痛めつける冷たい風が、沸騰しかけている頭を冷やしてくれる気がした。
「……昊夜様」
「何だ」
千弦が、少し言いよどむように口を開いた。
「やはり、少し焦っておられますよね」
「焦ってはいない」
「いつもより、歩幅が三寸は広いです。息も、上がっている」
昊夜はそれでも、決して足を止めなかった。
「気のせいだ」
「そうですか」
千弦は暗闇の中で小さく笑い、それ以上は主の強がりをからかわなかった。
二人は谷の最奥へ向かって、ひたすらに夜の闇を切り裂き、進み続けた。
――だが、一体どのくらいの時間を歩いただろうか。
容赦なく体力を削る険路の先、夜のしじまに、じわじわと不気味な白い霧が混じり始めた頃。
前を行く昊夜の足が、凍りついたように、完全に停止した。
後ろを歩いていた千弦が、その大きな背中に衝突しかけ、慌てて足を止める。
主の射抜くような視線の先を追い――千弦は息を呑んだ。
「同じ場所に戻ってる……!?」
濃度を増していく白い夜霧の向こうに、見覚えのある光景が、静かに浮かび上がっていた。
苔むした、あの古い石祠。
その根元に供えられた、ひび割れた黒い土器。
そして、そのすぐ脇で低く右へ折れた老松。
間違いなく、数刻前に二人が踏み込んでいったはずの、あの山の入り口の光景だった。
***
東側の道は、荒々しい水音を立てる川沿いに続いていた。
切り立った渓谷の底、激しい急流が巨大な岩を噛む轟音が、夜の静寂の中でやけに大きく反響している。その不気味な水音に急かされるように、朝凪は足を緩めなかった。
走りながら、頭の中でこれまでの不穏な情報を幾度も並べ直していく。
未曾有の虫害。執拗に狙われた水場。そして、桜桃が忽然と消えたこと。杏築の言った、和人を決して生かしては帰さぬという狄族の聖域。
(――私が、あの時、稲刈りに回るなどと妥協したからだ)
胸の奥を容赦なく抉るような自責の念が、じわじわと体内に広がっていく。
自分でも分かっていた。人手は足りておらず、杏築の懇願に拠ったあの時の判断自体は、仕方のないものだった。
それでも、一度は桜桃の護衛が最優先だと、確かに自分の口で突っぱねたはずだった。その一言を、他ならぬ自分自身で引っ込めてしまった。
『あなたは力もあるし、ずっと多くの稲束を一度に運べるはずだわ』
桜桃が、自分の力を頼りにして、あんな風に真っ直ぐに笑った。ただそれだけで、不覚を突かれ、頷いてしまったのだ。
その一瞬の妥協が、今、これほど重く、暗い刃となって自分に返ってきている。
(私が、あの水場の傍にさえいれば、誰が来ようとも必ず斬り伏せて守り抜けたものを)
どれほど脳内で悔いたところで、時間は巻き戻らない。そんなことは百も承知だった。それでも、考えずにはいられなかった。
朝凪はさらに地を蹴る速度を速めた。氷のような夜気を吸い込むたび、喉の奥が焼けるように熱く、息が荒くなっていく。
(あそこにいる者たちは、私たちを恨んでいるはずだ)
殲滅した側の男が、今、その民族の地に踏み込む。
それが、捕らえられた桜桃にとってどれほど危険な意味を持つか。朝凪はそれを想像するだけで、心臓が凍りつき、息が詰まりそうだった。
川沿いの獣道を、奥へ、さらに奥へと突き進む。
次第に道は険しい巨岩の連なる岩場へと姿を変え、まともな足場は完全に消失した。それでも、彼の跳躍が止まることはなかった。
(生きていてくれ。どうか)
同じ言葉を心の中で何度も繰り返した。
山肌をなぞるように伸びていた細道は、唐突に途切れ、その先は切り立った岩壁が塞いでいた。完全に、行き止まりだった。
朝凪は冷え切った空を見上げた。迂回する道を探す余地などない。
「……回ってる時間はないな」
正規の山道を捨てる。
崖を垂直によじ登り、尾根へと直登する方が、遥かに早い。。
刀を背に括り付け、朝凪は剥き出しの岩肌にへばりついた。
指先を岩の僅かな割れ目に掛け、自身の体重を引き上げる。爪が剥がれ、じわりと血が滲むのを感じたが、痛みを覚える余裕すらなかった。
乾いた土が、靴の下で脆く崩れる。
その瞬間、頭上から、地鳴りのような重低音が響いた。岩肌が鈍く軋む。
「っ――!」
振り返るより早く、夜の闇を裂いて、人の身ほどもある巨岩が頭上から落ちてきた。
追手を圧殺するための、狄族の物理的な罠だ。
捕まる場所のない垂直の壁。朝凪は一瞬の迷いもなく、岩壁を蹴って真横の足場へと身体を投げ出した。
衝撃波と共に、巨岩が元いた場所を粉砕しながら通り過ぎ、谷底へと落ちていく。砕け散った鋭利な岩の破片が、朝凪の肩を強く打ち据え、頬を深く切り裂いた。
血が伝う。だが、罠はそれだけで終わらなかった。
一度の落石が引き金となり、上の斜面全体が崩れ始めている。足元ごと、山が滑り落ちようとしていた。




