第十二話 生贄で見たもの
桜桃は、周りを見渡した。
胸の奥の恐怖は、未だ消えない。
それでも、目の前にいる人々の顔を、一人一人、逃げずに見据えていった。
老人や小さな子供をきつく抱いた母親がいた。
どの顔も一様に頬がこけ、目の下には深い影が落ちている。その瞳に宿るのは、和人への強い敵意だった。
だが、それだけではなかった。何か、もっと別のものが混じっている。
(……怯えているんだ)
殺そうとしている側のはずの彼らが、その目を細く震わせ、何かに怯えていた。
「神よ、どうか、この虫を消してください」
誰かが、低く、押し殺した声で祈った。それに、別の男の声が重なる。
「俺たちの田は、和の帳簿には載らない」
「今年の収穫だって、最初から数えられてさえいないんだ」
「あいつらが俺たちを見捨てるなら、俺たちは、俺たちのやり方で生きるしかないだろう」
それぞれの呟きが、洞窟の壁に反響して重なっていく。それは和人への恨みというよりは、ただ、疲弊しきっていた。ひどく、ひどく、疲れていた。
桜桃はその声を聞きながら、ふと気づいた。
これは、自分がこれまで見てきた光景と何も変わらない。
因州の干上がった地。羽州の、あの薄い粥。並んで粥を待つ、痩せ細った民たちの列。
ここにいる人たちも、それと全く同じ目をしている。
違うのは、彼らが生きるために縋れる先が、神祇官への信仰しかないということだけだった。
母親の腕の中で、小さな子供が、衣の裾を握って泣いていた。
腹が空いているのだろう。そのか細い泣き声が、洞窟の中に小さく響いていた。
その時、祭壇の下で、不自然に小さく呻く声がした。
「アサ……?」
母親の声だった。
見れば、その子供が地面に力なく倒れ込んでいた。身体が、小さく痙攣している。呼吸は浅く、速い。
「アサ、起きて。アサ……!」
母親が子供を抱き上げ、必死にその頬を叩いた。だが、子供の反応は酷く鈍かった。
法衣の男が、それを冷ややかに一瞥した。
「妖女の呪いだ」
男はすぐに声を張った。
「神祇官が、その禍々しい力で子供の生気を吸っているのだ。今すぐにでも——」
「違います」
桜桃の声が、洞窟に響いた。
声は掠れていたが、澱みなく、はっきりと全員の耳に届いた。
「それは熱中症です。呪いなんかじゃない」
「黙れ」
「黙りません」
桜桃は、縛られた手のまま、必死に母親の方を向いた。
「この煙のこもった閉塞した場所に、長くいたせいです。それと、この暑さと、明らかな水分不足」
「妖女の言葉に耳を貸すな!」
法衣の男が叫んだが、今度は誰もそれに動かなかった。
母親が、涙の溜まった目で、縋るように桜桃を見た。
「どうすれば……どうすれば、助かりますか」
桜桃は、できるだけ努めて落ち着いた声を出した。
「まずは外の風に当ててください。涼しい場所へ」
「外には出せん」
法衣の男が冷たく割って入る。
「ここから一歩も外へ出すことは許さん」
「それなら、洞窟の入り口に近い場所でいいです。少しでも風の通る場所へ」
母親が、周囲の男たちを見回した。誰も動かない。
「お願いします……!」
母親の悲痛な叫びが、岩肌を揺らした。
ようやく、何人かの男たちが顔を見合わせ、動いた。子供を抱きかかえ、入り口の方へと素早く運んでいく。
「水で布を湿らせて、首の後ろと、脇の下を冷やしてください」
桜桃は、続けて指示を飛ばした。
「飲み水があれば、少しずつ口に含ませて。一気に飲ませては駄目です」
誰かが、水の入った土器を持ってきた。布を湿らせ、子供の細い身体に当てる。それを、おそるおそる、何度も、何度も繰り返す。
桜桃は、ただそれを見守ることしかできなかった。縛り上げられた両手が、酷くもどかしかった。
時間が、果てしなく長く感じられた。
やがて。
「……かあ、ちゃん」
微かな、小さな声が洞窟に響いた。
「アサ……!」
母親が子供をきつく抱きしめた。
痙攣は収まり、呼吸が穏やかさを取り戻していた。目が、うっすらと開いている。
母親が泣きながら、何度も子供の名を呼んだ。
その光景を、周りの民たちが、黙って見つめていた。
誰も、何も言わなかった。法衣の男だけが、苦々しく口元を歪めていた。
子供の呼吸の音が、ここまで届いていた。
それだけで、少しだけ、胸の奥が軽くなった気がした。
母親が、子供を抱きながら、ふと桜桃を見た。
「……ありがとう、ございます」
小さな、消え入るような声だった。桜桃は、首を横に振った。
「これくらいしか、できません」
母親は、しばらく桜桃を見ていた。それから、意を決したようにぽつりと言った。
「私たちにも、薬草があるんです。虫を抑えるための、昔からこの土地に伝わっているものが」
「やめろ」
低い声が、冷たく割って入った。老人だった。
「話すな。和に渡せば、また奪われるだけだ。……俺たちの知恵を、和の者が持っていった。礼の一つもなかった。それで何が変わった。何も変わらなかった。俺たちは、何も持たないまま、ずっと同じ暗い場所に置かれ続けた」
それは、桜桃が出会ったことのない「奪われた」という深い痛みの傷だった。
「……分かりました。話さなくて、いいです」
桜桃は、真っ直ぐに老人を見つめた。
「ただ、奪うために聞きたいんじゃないんです。あなたたちの知恵を『利用する』んじゃなくて――一緒に、使いたいんです」
「……もし、薬が出来たら、お前たちだけのものにするか」
「私たちと、あなたたちの、両方のものにします。私が、それを約束します」
長い沈黙の後、老人は深く息を吐き、足元へそっと薬草の袋を置いた。
***
同じ刻限――東側の渓谷。
朝凪は激しい土煙の中、岩陰へ決死の体勢で飛び込み、辛うじて圧殺を免れていた。
落石の余波が収まるのを待つ余裕などない。一歩踏み出すごとに足元ごと山が滑り落ちようとする崩落斜面を、彼は重力に逆らって文字通り駆け上がった。
一度でも足が止まれば、今度こそ完全に生きたまま埋まる。
「姫様……っ!!」
肺を焦がすような激しい呼吸。指先は岩に削られて血に染まり、腕は疲労で激しく痙攣していた。それでも、足だけは止まらなかった。
崩落帯を命からがら駆け抜け、尾根を越えた先で、ようやく夜風に乗って、どこか山の奥からちりんと冷たい「鈴の音」が響いた。
足の怪我が一歩ごとに激痛を訴える。だが朝凪は頬を伝う血を拭いもせず、ただ、桜桃のいるはずの闇の奥を睨み据えていた。
***
同じ刻限――西側の山路。
「昊夜様、俺たち、ずっと迷わず歩いていたはずです。なのに、どうして……」
千弦の声には、はっきりと焦りが滲んでいた。
霧の向こうに浮かび上がるのは、最初に出会ったはずの、あの苔むした石祠と割れた土器。
だが、昊夜は答えず、無言でその祠の前にしゃがみ込み、冷たい土を指先でなぞった。先ほど、自分が目印代わりに刀の鞘でつけたはずの傷が、そこにはない。
「……違う。同じ場所に戻ったのではない。同じように造られた、別の祠だ」
侵入者を欺くための、狄族の不気味な結界。
「道を捨てる。このまま、道なき崖を進む」
「しかし、これより先は完全に滑落の危険が……」
「聖域を隠したい者が、わざわざ正しい道を整備すると思うか」
昊夜は迷わず、下草を強引に踏み分けた。枝葉が容赦なく顔や袖を擦り、足元は一歩間違えれば滑落死する険路だ。
だが、数十歩ほど強引に進んだところで、不意に遮られていた風が、すっと抜けた。
木々の間から、白く浮かび上がる人工的な石段が姿を現す。その奥から、かすかに「火の匂い」が漂ってきた。
昊夜は、目を凝らし、静かに刀の柄に右手を掛けた。
***
深夜――鍾乳洞の奥。夜が更け、見張りの数が減った。
子供を救ったことで、空気が緩み、縄も少しだけ緩く結ばれていた。
桜桃は、その僅かな隙を見逃さなかった。
見張りの目が逸れた瞬間、足元に置かれた薬草の袋を必死に懐へねじ込み、縄をすり抜けて洞窟の奥へと夢中で走った。
(この薬草を、柳様たちの元へ届けなければ……!)
賭けだった。しばらく走ると、月明かりの差し込む開けた場所に出た。
外だ、と思った。だが、すぐに足が止まった。
そこには、一人の少年がいた。
少年は桜桃に気づかず、小石を握って、百歩ほど先にある一本の木の幹に向けて投げた。
音もなく飛んだ石が、正確に幹へ命中し、鈍い音を立てる。
桜桃は、息を呑んだ。ただの遊びではない。的を外さないその一投。
気配に気づいた少年が驚いた顔で振り返り、すぐに近くの古い欠けた刀を手に取った。
まだ幼い手つき。それなのに、その構えには、和人への警戒と、長く積み重ねられた戦士としての動きの跡があった。
「……動くな」
声はまだ高かった。それでも、構えは微塵も揺れない。
(この子供たちすら……戦うために、生きているんだ)
桜桃は、ゆっくりと両手を挙げた。
「 逃げようとしただけです。何もしません」
少年は剣を下げないまま、一度だけ口を開け、低く鋭い音を出した。獣の声に似た、不気味な合図の口笛。
すぐに、無数の重い足音がこちらへ近づいてくる。
桜桃は、その場に立ち尽くすしかなかった。
逃げ場は、もうどこにもなかった。
白々とした朝の光が、鍾乳洞の天井の隙間から一筋、差し込んできた。
再び、冷たい石の床へと強引に引き据えられた桜桃の前に、祈祷師がぎらりと鈍く光る短刀を取り出した。
「土地の神よ。舞姫の血を受け取り、虫の呪いを解き給え」
民たちは、もう誰も叫んでいなかった。皆、おそるおそる目を逸らしている。子供を助けた桜桃の姿が、彼らの心に消えない迷いを残していた。それでも、儀式を止める声は上がらない。
桜桃は、ぎゅっと目を閉じた。身体は恐怖でかすかに震えている。
冷たい刃が、まさにその肌へと振り上げられた、その瞬間だった。
「――その手を離せ」
冷たい声が落ちてきた。
低く、静かで、だがその場を一瞬で支配するような圧倒的な圧。
民たちが一斉に振り返り、桜桃も弾かれたように顔を上げた。




