第十三話 試す価値はある
薄く立ち込める土煙の向こうから現れたのは――昊夜だった。
薄暗い中で、彼の端正な輪郭と、静かな瞳だけが異質なほど際立っている。
「何者だ!」
祈祷師が叫ぶが、昊夜は視線すら合わせない。
ただそこに立ち、冷たい視線を向けている。
祈祷師が、その威圧感に声を震わせながらも必死に叫んだ。
「この女は、土地の古き神への生贄だ! 穢れた和人が口を挟むな!」
昊夜は刀を静かに鞘へと収めながら、鋭く言い放った。
「お前たちのものではない」
短い一言だった。
だが、その響きには、それ以上の反論を許さない重みがあった。
祈祷師はひっと息を呑む。
しかし、周囲を取り囲む狄族の若者たちは、誰一人として武器を捨てず、逃げ出さなかった。
武器を握ったまま、昊夜を見据えている。一歩踏み出せば命を落とすと理解しながら、それでも退かない目だった。
昊夜もまた、その剥き出しの敵意を真っ向から受け止めた。
(……)
見覚えのある目だった。
四年前、あの戦場で、幾度となく自分に向けられた、絶望と憎悪に焼かれた目と同じだった。
その一触即発の沈黙を破ったのは、一人の老人だった。
老人がゆっくりと、杖を突いて前へ出る。
「もうよい」
低い声が洞窟に響き渡ると、若者たちの肩から、強張りが抜けた。
老人は昊夜をじっと見つめる。深い皺の刻まれた顔が、静かに細められた。
「……黒い若造か」
昊夜の瞳が、わずかに、だが確かに揺れた。
「生きておったか」
「お互いな」
昊夜は短く答えた。老人は乾いた声で小さく笑う。
「そうじゃな。神の悪戯か、悪運の強さか」
昊夜はゆっくりと長老から視線を外すと、無言のまま桜桃へと近づき、その目の前に静かに片膝をついた。
「あ……」
彼の手が、桜桃の縛られた手首に触れた。
冷たい洞窟の空気の中で、昊夜の大きな手のひらだけが、熱かった。
心臓が跳ねる。
驚くほど手際よく、あっさりと縄が解かれた。
手首には、痛々しく赤い擦り傷の跡が残っている。
昊夜はそれを一瞬だけ見つめた。
何も言わなかった。
だが——彼の指先が、すぐには離れなかった。
その熱い指先が、桜桃の手首の脈打つ場所に、じっと添えられている。
高鳴る鼓動が彼にすべて伝わってしまうのではないかと、桜桃は思わず息を止めた。
「痛むか」
低く、鼓膜を揺らす声。
「……少しだけ」
「少しだけには見えないが」
声は静かだった。昊夜の瞳が、じっと桜桃を見つめていた。
怒っているのか、安堵しているのか、その顔からは読み取れない。
ただ、何かがいつもと違っていた。
息が触れ合いそうなほどの至近距離で、彼のまとう白檀の香りが、桜桃の五感を狂わせていく。
「なぜ……場所が分かったのですか」
ようやく絞り出した声が、微かに震える。
「杏築殿から聞いた」
「……いつから探して……」
「お前がいないと分かってすぐだ」
桜桃は熱い手首に意識を奪われながら、なんとか思考を巡らせた。
「私のために、こんな夜更けに」
昊夜は答えなかった。
彼は最初から、迷わずここへ来たのだ。
その事実を知った途端、胸の奥が、じわりと切ないほどに温かくなった。
「一人で動くなと言ったはずだ」
「……あれは、ただ水を汲みに行っただけです」
桜桃は、叱られた子供のように小さく言った。
「ほんの少しの間だと思ったんです」
「その、少しの間にお前は、攫われた」
「……はい」
桜桃は、返す言葉もなかった。
昊夜は短く、呆れたように息を吐いた。
「水を汲みに行くだけで、攫われるとは思わなかったか」
「……思いませんでした」
「だろうな」
昊夜は、少しの間、黙っていた。
「次は言え」
「……次は」
「危ない目に遭うかもしれないと、少しでも思ったときだけでいい」
「それくらいなら……いつでも」
「それくらいでいい」
昊夜は、それだけ言った。
「言われたら、私が止める。それだけのことだ」
昊夜は、それだけを真っ直ぐに告げた。
「……分かりました」
「分かっていない顔だ」
「分かっています」
「次も、勝手に動くんだろう。お前は」
「……」
暗がりの中で、昊夜の瞳だけがはっきりと自分を映している。
叱っているのではない。
ただ、次も、その次もお前がどこへ行こうと、自分が探しにいく——そう言われているような、錯覚に囚われる。
その強い眼差しが、妙に胸の奥深くまで突き刺さった。
「……はい。次は、必ず」
桜桃が小さく頷くと、昊夜はそれ以上何も言わなかった。
ゆっくりと立ち上がり、周囲を見渡す。
その瞬間、触れていた熱が、すっと離れていった。
あまりにも名残惜しそうに離れていくから、余計に、その温もりの不在が肌に寂しく突き刺さる。
昊夜は、ゆっくりと周囲を見渡した。
跪いていた民たちが、再び動き始めていた。
──そのとき、重い足音が洞窟内を反響した。
息を切らせた朝凪が、洞窟の入り口に立っていた。
その目が、すぐに桜桃を捉える。
「六花」
「朝凪……」
朝凪は桜桃の全身を上から下まで、素早く見た。
縛られていたのだろうか、赤く擦り傷のある手首。それ以外には、目立った大きな傷がない。
その瞬間、朝凪の張り詰めていた肩から力が抜けた。
「朝凪、怪我を……!」
桜桃が息を呑み、一歩踏み出す。
朝凪の肩の衣が避け、血が滲んでいる。頬の傷からは、鮮血が伝い落ちていた。険しい道を通ってきたことが、一目で分かった。
しかし、朝凪はいつもと変わらず、穏やかだった。
「私は、大丈夫です。……ご無事で、よかったです」
声だけが、隠しきれずに微かに震えていた。
それから、朝凪の視線が、静かに昊夜へと動いた。
昊夜が、桜桃の傍に立っている。
(……助かったか)
一瞬だけ安堵が胸を過ったが、朝凪はそれを瞬時に心の奥底へ押し込んだ。
長老はそんな朝凪を見つめ、小さく鼻を鳴らした。
「……赤い若造も来おったか」
朝凪はそこで初めて老人へ視線を向ける。一瞬だけ、記憶の糸が繋がったように目が止まった。
「……」
「忘れとらんぞ」
老人は静かに言う。
「山をよう駆け回っとったな」
朝凪は何も言わなかった。ただ一度だけ、小さく頷き、洞窟の中を見渡した。
跪いていた民たち。短刀を握ったまま蹲る祈祷師。
朝凪の視線が、その祈祷師に向いた。
「神祇官は、返してもらう」
静かで、しかし有無を言わせないような響き。
「お前らに、何の権利がある!」
祈祷師が声を張り上げた。
「この女を返せば、また虫が田を食らう! 俺たちは、また飢えて死ぬんだ!」
民の何人かが、同調するようにざわめいた。
「生贄を返せ! 神の怒りを買うぞ!」
朝凪は、静かに聞きながら、懐に手を入れた。
血に汚れた小さな包みを取り出す。
「これを」
民たちの方へ、それを差し出す。
「浮塵子に効く薬だ。まだ完成していないが、試す価値はある」
民が、戸惑った様子で朝凪を見た。
老人が、一歩前へ出た。
「……和の薬で、何が変わると言うんだ。我らを騙し、また奪うのだろう」
桜桃は、自由になった手で、大切に懐にしまっていたあの小さな袋を取り出した。
「朝凪、これも合わせて」
朝凪が、桜桃を見た。
「それは」
「この長老からいただいた、薬草よ」
桜桃は、それを朝凪に手渡した。
「効かないんじゃない。足りないだけかもしれない、って言ってたもの」
朝凪は、その袋を素早く受け取り、開いた。
中に、乾いた細い葉と、不気味にうねった根のようなものが入っていた。
それから、自身が持ってきたもう一つの包みを開く。柳たちが夜通しで書き上げた、配合の書かれた紙と、いくつかの生薬。
「烏頭、樟脳、明礬……」
朝凪が、淡々と並べていく。
狄族の葉を一枚手に取り、その匂いを深く確かめる。指先で、油分を含んだ質感を確かめる。
「……これは」
朝凪の目が、わずかに見開かれた。
「何だ、何が分かる」
長老が聞いた。
「香りが、油分によって長く残る」
朝凪は、葉を見つめたまま続けた。
「我々の樟脳は、雨風にさらされるとすぐに香りが飛んでしまう。だが、この土地の薬草の油分と混ぜ合わせれば、効果は数倍に跳ね上がり、もっと長く残るはずだ。虫が、毒を吸い込む時間が増える」
長老は、しばらく黙っていた。
「……それで、本当に効くのか」
「分からない。だが」
朝凪は、生薬を長老の前で並べ直した。
「我々に足りなかったのは、この土地の知恵だ。そして、あなたたちに足りなかったのは、中央の生薬の知識だ」
老人は、しばらく二つの薬の融合を見つめていた。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
「……試してみる価値はある、ということか」
老人は、もう何も言わなかった。ただ、薬草を見つめる濁った目に、希望の光が戻っていた。
山を下る道は、行きよりも静かだった。
夜が明け始め、周囲の木々が青白い光に照らされていく。
桜桃は、昊夜と朝凪の間に挟まれるようにして歩いていた。誰も口を開かない。ただ、風が木々を鳴らし、乾いた落ち葉が足元を滑っていく音だけが響いていた。
ふと、背後で硬い杖が土を突く音がした。
三人が、ほぼ同時に足を止めて振り返る。
集落の入り口の岩陰に、あの老人が立っていた。
その後ろには、狄族の者たちが静かに並んでいる。誰一人として武器を下ろしてはいないが、追ってくる気配も、もうなかった。
老人の濁った双眸が、まずは昊夜へ向く。
「……黒い若造」
昊夜は立ち止まったまま、静かにその視線を受け止めた。
「今日は、連れて行くがよい。……じゃが、忘れるな。我らも、おぬしらがかつてしたことを忘れはせぬ」
昊夜はしばらく黙って老人を見つめていたが、やがて短く答えた。
「ああ」
言い訳も、憐れみも含まない、静かな肯定。
老人の視線が、ゆっくりと今度は朝凪へ移る。
「赤い若造」
朝凪は桜桃の歩幅に合わせた位置のまま、顔だけを静かに向けた。
「……傷は、癒えたようじゃな」
その言葉が投げかけられた瞬間、朝凪の端正な眉が、一瞬だけ寄せられた。
「……ええ」
朝凪の返答も、一言だった。
互いに、それ以上は語らない。語れば、あの日へと、瞬時に引き戻されてしまうことを分かっているのだ。
老人はゆっくりと、得心のいったように頷いた。
「ならばよい」
桜桃は、黙り込んだままの二人を左右に見比べた。
何かを知っている。言葉を交わさなくても、互いに、他人が踏み込めないほどの過去を共有している。それだけは、肌に刺さる空気で分かった。
だが、その誰も、自分の前でそれを語ろうとはしなかった。
山を渡る冷たい風だけが、静かに三人の間を吹き抜けていく。
朝凪が、いつもの穏やかな、けれど崩れない足取りで一歩前へ出た。
「行きましょう」
その声に導かれるように、昊夜もまた静かに歩き出す。
桜桃も、小さく胸の内で息を吐き、頷いて後に続いた。
三人は、もう振り返らなかった。
けれどその背中には、山の闇に消えていく最後まで、狄族たちの重い視線がじっと焼き付いていた。




