第十四話 小さく動かしたな
洞窟を出ると、冷たい夜風が頬に当たった。
暗闇に慣れた目に、明け方の薄青い光がかすかに染みていく。
入り口から少し開けた山路の先で、ざっと下草を踏みしめる急な足音がこちらへ駆け寄ってきた。
「あ、六花ちゃん! 無事でしたか!」
息を切らせて現れたのは、千弦だった。
桜桃が声を返すより早く、一瞬にしてその場の空気が冷たく張り詰めた。
昊夜の低く鋭い目が千弦を射抜き、同時に、朝凪の視線も声音のした方へと動く。
二人同時の、無言の圧だった。
千弦はそれらを肌で察しながらも、全く怯む風もなく、いつものように人懐っこく、にこにこと笑った。
「六花ちゃんって呼んじゃいけないですか?」
「……六花さんと呼べ」
有無を言わせぬ硬い声で静かに命じる。
「朝凪さんも、何か言いたそうな顔をしてますね」
千弦が面白そうに顔を向けると、朝凪はふっと視線を外し、声音を平坦に戻した。
「……別に」
朝凪はそのまま前を向いて歩き出す。千弦の口元には、まだ楽しげな笑みが残っていた。
それから、桜桃の様子を確認するように、上から下まで見た。
「怪我は」
「ありません」
「よかったです」
千弦は、心底ほっとしたように胸をなでおろした。
それから、すぐにいつもの飄々とした調子を装う。
「俺、この先で待ってるように言われたんですけど、もう気になって気になって、居ても立ってもいられなくて」
「待っていろと言ったはずだ」
昊夜の、底冷えのする低い声が重なる。
「待ってましたよ、ここで」
「ここまで来ているだろう」
「合流地点の範疇までは、来てもいいと思いまして」
悪びれずににこにこしている千弦に、昊夜はそれ以上は追及しなかった。
帰り道、朝凪はしばらく無言のまま、三人の最後尾を歩いていた。
その足取りはどこか重く、時折、痛みを堪えるように微かに肩が揺れる。
朝凪が、ふと足を止めた。
「……申し訳ございません」
「え?」
少し前を歩いていた桜桃が、驚いて振り返る。
「あなたを……一人にしてしまいました」
「ううん」
桜桃は小さく首を横に振った。
「私が、気を付けなかったのが悪いの。朝凪のせいじゃないわ」
「いいえ」
朝凪は頑なに視線を落としたままだ。傷だらけの指先が、きつく握り締められる。
「もし、あのまま間に合わなかったらと思うと……」
彼の脳裏には、自分が敵の罠にかかっているときに、桜桃の命が奪われていたかもしれないという恐怖が今も焼き付いている。
桜桃は一歩、朝凪に近づいた。
「大丈夫よ。昊夜様が来てくれたから」
それから、少しだけ笑った。
「朝凪だって、怪我をしてまで助けに来てくれたじゃない」
朝凪は視線を落とした。
桜桃は、朝凪の横顔を見た。頬の傷は未だ血が滲んでいる。
「……それより、本当にその怪我、大丈夫なの? 早く手当しないと」
のぞき込むようにして必死に自分の身を案じてくる桜桃に、朝凪は虚を突かれたように目を見開いた。
それから、いつもの穏やかな、けれどどこか切ない笑みを少しだけ浮かべる。
「……あなたにそう心配されては、痛むと言いづらくなりますね」
「もう、冗談を言っている場合じゃないわ」
桜桃はふっと息を漏らし、少しだけ困ったように笑った。
千弦が、その二人の様子を、少し離れた暗がりから静かに見つめていた。
前を歩いていた昊夜が、足を止めずに声を投げた。
「何をしている。早く戻るぞ」
「はい」
桜桃は小さく返事をして、自分の手首の痛みを忘れたように足を速めた。
前を行く、あの大きな昊夜の背中に向かって、小走りで駆け寄っていく。
朝凪は、その小さくも、迷いのない後ろ姿を、しばらくじっと見つめていた。
青白い朝の夜道に、桜桃の足音が心地よく響いていた。 軽やかで、まっすぐな、誰も拒まない足音。
朝凪はそれを見送りながら、行き場のない思いを、静かに、深く胸の奥底へとしまい込んだ。それから、静かに二人の後を追った。
千弦もまた、何も言わず、その背中の影を踏むようにして、静かにつづいた。
***
青陽家の屋敷に戻ると、廊下の奥から郁李が弾かれたように姿を現した。
「あ、六花さん! 大丈夫でしたか!?」
なりふり構わず桜桃へ駆け寄ってくる。
「ええ、大丈夫でした。ご心配をおかけしてすみません」
「良かった……! 本当に、戻ってこないから心配で心配で!」
郁李はこれ以上ないほど大げさなくらいに安堵した顔をして、胸に手を当てた。
それから、桜桃の傍らに立つ昊夜を見て、少しだけ背筋を伸ばす。
「昊夜様、六花さんを助けていただき、本当にありがとうございました」
「……ああ」
「格好よかったです」
あまりにも真っ直ぐな称賛に、昊夜の端正な顔がわずかに、固まった。
郁李は、満面の笑顔のまま臆せず言葉を続ける。
「颯爽と助けに向かわれたので。みんな、噂していますよ」
昊夜はそれ以上、何も言わなかった。居心地悪そうに、視線を逸らす。
郁李はすぐにまた桜桃へ向き直った。
「六花さん、柳兄上も、口には出しませんでしたけど、心配していましたよ」
「……していました」
廊下の奥から、静かな足音と共に柳が姿を現した。その腕には、何枚もの書類が抱えられている。
「……本当に、心配しました」
あっさりと言い捨てた。
いつもの淡々とした、抑揚のない声だったが、彼はその感情を少しも誤魔化さなかった。
「無事で、本当に良かったです」
あまりに率直な柳の言葉に、桜桃は少しだけ驚いて目を瞬いた。
「……ありがとうございます、柳様」
「次は、動く前に必ず私に言ってください」
「はい」
「言ってくれれば、一緒に全力で止めました」
「止めたんですか?」
「ええ。全力で、部屋に閉じ込めてでも」
桜桃は張り詰めていた心が解けるのを感じ、思わずふっと笑ってしまった。
しかし柳の切れ長の目は至って真顔だった。冗談ではなく、本当にそうするつもりだったのだろう。
廊下の端では、朝凪が、いつもと変わらない佇まいで静かに控えていた。
その様子を見ていた千弦が、ふと思いついたように懐から帳面を取り出しかける。朝凪の負傷や、先ほどの夜道での様子でも書き留めようとしたのだろうか。
だが、朝凪が冷ややかな視線をちらりと千弦へ向けた。言葉のない、明確な警告だった。
千弦は即座に察して、笑顔のまま帳面をそっと懐へと戻した。
「……賢明な判断ですね」
廊下の隅で成り行きを見守っていた瑛が、至極感心したようにぼそりと呟いた。
それに対しては、誰も何も言わなかった。
「柳様」
桜桃は、大切に懐にしまっていたあの薬草の袋を取り出した。
「狄族の長老から、いただいたものです。これをお守りとして持ち帰りました。どうか、新しい薬の調合に使ってみてください」
柳が、書類を片腕にまとめ、恭しくそれを受け取った。
袋を開け、中にある乾いた細い葉を、しばらく無言で見つめる。
「……これは」
「香りが、長く残る性質があるそうです。樟脳と合わせれば、私たちの薬に足りなかった何かが補えるかもしれません」
朝凪が、横からいつもの落ち着いた声音で補足を加えた。
「試作品は、揮発が早すぎるという弱点がありましたから。この土地の薬草が持つ独特の油分と混ぜ合わせれば、毒効が長くその場に留まるはずです」
柳はしばらく、指先で葉の質感を確かめ、匂いを深く嗅いでいた。
それから、その聡明な目が、大きく見開かれた。
「……確かに。これなら、樟脳の揮発を劇的に抑え込める」
「試してもらえますか」
「はい」
柳は、もう一度だけ葉を見つめた。
「すぐに、調合に入ります」
彼は抱えていた書類のことも忘れたように、踵を返すと、驚くほどの足早さで自身の部屋へと去っていった。
郁李が、その見慣れないほど急いだ背中を見送って、 少し驚いた顔をする。
「柳兄上があんなに早く、嬉々として動くなんて、本当に珍しいですね」
「そうですか?」
「ええ。よっぽど、六花さんが持ち帰った薬が嬉しかったんだと思います」
桜桃は、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、少しだけ笑った。
長く羽州の民を、そして狄族をも苦しめてきた虫害の夜が、今度こそ本当に明けようとしていた。
***
浮塵子は、半月ほどで嘘のように姿を消した。
柳の作った薬が効いたのか、狄族の薬草の力が勝ったのか、あるいはその両方が奇跡的に噛み合ったのか。正確なところは、誰にも分からなかった。
それでも、死に瀕していた田の稲は、少しずつ、けれど確かに息を吹き返していった。
枯れかけて、灰色にくすんでいた穂が、瑞々しい黄金色を戻し、確かな実りを残し始めていた。
完全に元通りとはいかない。
それでも、最悪の全滅だけは免れたのだ。
狄族の集落から戻って以来、桜桃は屋敷に籠もるだけでなく、配給の帳簿や記録にも自ら目を通すようになっていた。
自分に、大きな改革などできるわけがない。
帳簿の数字を、勝手に書き換えるほどの権力もない。
それでも――実際の配給量と、視察で得た村ごとの困窮具合を細かく見比べて、書類の隙間を縫うように、ほんの少しだけ配分を動かすことならできた。
余裕がある村から少しだけ融通し、今まさに飢え死にしかけている村へと回す。
ただ、それだけのことだった。
数日後、民たちに配給された粥は、米粒が数えられるほどだったものから、ほんの少しだけ濃くなった。
それだけだ。完全に救われるわけではない。厳しい冬の寒さが消えるわけでもない。
その日の夜。桜桃は明かりの灯る昊夜の部屋を訪ねた。
「何か用か」
文机に無数の書類を広げ、筆を走らせていた昊夜が、顔をあげる。
「配給の件で、ご報告に参りました」
「聞いている。すでに柳から」
「……相変わらず早いですね」
「柳は、事後報告だけは誰よりも早い」
桜桃は、少しだけ笑った。
昊夜は筆を置き、腕を組んで桜桃を正面から見据える。
「随分と、小さく動かしたな」
「……やはり、勝手な真似でしたでしょうか」
桜桃は少し身を強張らせ、彼の言葉を待った。




