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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第三章 名を持たぬ花【羽州神隠編】

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第十五話 崩れる速度

「いや」


 昊夜は即座に、否定する。


「お前が動かした分、帳簿の数字に破綻は生じていない。現場の官吏たちも混乱していない」


 昊夜は少しだけ間を置いた。その視線が、桜桃の顔の輪郭をなぞるように動く。


「……帳簿を守りながら、最善を尽くした。それは決して中途半端ではない。むしろ、極めて合理的だ」


 その肯定はあまりにも意外で、桜桃はぱちぱちと瞬きをした。


 しかし、昊夜は淡々と続けた。


「お前は、自分が背負おうとしているものの重さを、理解していない」


 その突き放すような言葉に、桜桃は少しだけ悲しそうに顔を曇らせる。


 だが、昊夜の声音には、いつものような拒絶はなかった。


「理解していない。それでも――逃げずに選んでいる」


 苦しみながら、割り切れず、厳しい現実に傷つきながら、それでも決して目を逸らさない。


 昊夜は桜桃を見下ろした。その深い瞳には、以前よりはっきりとした、興味の色彩が宿っていた。


「普通は、どちらかだ。現実を割り切るか、耐えきれずに壊れるか」


 桜桃は喉を鳴らし、小さく息を呑む。


「お前は、そのどちらでもない。その、割り切ることも壊れることもできない途中に、ただ一人で立っている」


 昊夜自身、桜桃という歪な存在を、まだ頭の中でうまく説明しきれていないようだった。

 言葉が途切れた後、部屋には沈黙が落ちた。何かを必死に探しているような、もどかしい沈黙。


 桜桃は、月の光を浴びる彼の横顔をじっと見つめた。


(……この人も、きっと)


 昊夜は割り切っているように見える。感情を削ぎ落とし、事実だけを動かしているように見える。

 だがそれは、彼が「壊れないために」必死に作り上げた強固な鎧の形なのではないか。


 割り切っているのではない。割り切ろうと、必死に自分を殺している。その途中にいるのは、自分だけではないのかもしれない。


 そう気づいた途端、桜桃の胸の奥が、じわりと切ないほどの熱を持った。


 同情でも、不遜な憐れみでもない。ただ、この人もまた、自分と同じ場所に立っているという確かな感覚だけが、静かに胸に落ちてきたのだ。


「……昊夜様は」


 気づけば、口が勝手に動いていた。

 

「昊夜様は……割り切ってるのですか」


 昊夜は少しの間、沈黙した。


 彼にとっても、それは予想外の問いだったのかもしれない。あるいは、彼自身が封印してしまった、答えを持たない問いだったのか。


 やがて、彼はふっと視線を落とし、静かに、短く答えた。


「さあな」


 それは何の中身もない答えだった。

 だが、その「さあな」という微かな響きが、取り繕ったどんな言葉よりも、妙に正直で、無防備な響きを孕んでいた。


 桜桃の口元から、自然と小さな笑みがこぼれた。


 昊夜が、怪訝そうに視線を戻す。


「何がおかしい」


「おかしくはないです。ただ……昊夜様がそういう風に仰るのを聞くと、少し、楽になります」


「……理解できん。理由が分からない」


「私にも、よく分かりません」


 昊夜はしばらく、黙ったまま桜桃の顔を見ていた。


 まるで彼女の瞳の奥にあるものを暴こうとするかのように。


 けれど、やがて諦めたようにふっと視線を外すと、手元の新しい書類へと手を伸ばした。


「明日からは、神嘗祭の随行だろう」


「はい」


「……無茶をするなよ。気をつけて、行ってこい」


 桜桃は少しだけ、書類に目を落とした彼の横顔を盗み見た。


 いつもと違う言い方だった。冷たい命令でも、事務的な指示でもない。ただ、彼の胸の内にある懸念が、そのまま零れ落ちたかのような、温かい声音。


「……はい。いってまいります」


 今度は、取り繕うこともなく、自然な笑顔がこぼれた。


 昊夜はすぐにそれ以上言葉を重ねず、熱心に書類を読み始め、視線を完全に外してしまった。だが、彼の端正な横顔の輪郭が、ほんのわずかだけ、いつもより柔らかくなった気がした。


 本当に、気のせいだったのかもしれない。


 それでも桜桃は、部屋を出て、冷たい夜の回廊に佇んでからもしばらくの間、自分の足音を響かせて歩き出すのを、すっかり忘れてしまっていた。


***


 神嘗祭へ向かう当日の朝、桜桃は出発の挨拶をするため、杏築の執務室へと向かった。


 ひっそりとした廊下を歩いていると、突き当たりの部屋から、抑えられた声が漏れ聞こえてきた。


 桜桃は思わず足を止める。


 厚い木扉は閉ざされていたが、張り詰めた二人の声は、冷たい廊下まで確かに届いていた。


「今年の備蓄は」


 昊夜の声だった。


「冬を越すには、到底足りません」


 杏築は、淡々と事実だけを告げる。


「南区の融通で、均せるか」


「限界です。これ以上手を付ければ、全体の崩れる速度が上がります」


 昊夜は短く沈黙した。その沈黙の重さに、桜桃は胸が苦しくなる。


「……崩れるとしたら、どこからだ」


「北の端からです。ただ」


 杏築は、息を吸う音さえさせずに続ける。


「崩れる順番を『制御』することはできます。中心から最も遠い場所から順に崩していけば、本拠である全体は春まで持ちます」


「どこまでだ」


「春の訪れまで。それ以降のことは、私には分かりません」


 昊夜が、短く重い息を吐き出す気配がした。


「……羽州がここまで持っているのは、お前がいるからだな」


「過分なお言葉です」


 杏築の声には、一切の感情がなかった。


 へつらうでもなく、悲観するでもない。ただ事実をそのまま確認しているかのような返しだった。


 桜桃は、その場からしばらく動けなかった。


 崩れる速度を、制御する。

 崩れる順番を、人間が意図して決める。


 それは、誰も救わないということだ。救うのではなく、「どこから順に飢え死にさせるか」を選ぶ。それが、この過酷な羽州における統治の正体なのだ。


 浮塵子の虫害は収まった。それでも、羽州という土地が抱える根本的な厳しさは、何一つ変わっていない。


 やがて、部屋の中の気配が動いた。


 桜桃はハッと我に返り、静かに一歩下がると、廊下の角の影へと身を寄せた。


 音を立てて扉が開く。衣服を翻し、昊夜が出てきた。


 角を曲がろうとした彼は、そこに佇む桜桃の姿に気づき、一瞬だけ足を止めた。


「……聞いていたか」


 すべてを見透かすような玻璃の瞳。桜桃は逃げずにその視線を受け止め、小さく声を絞り出す。


「通りかかっただけです」


「そうか」


 昊夜は、それ以上何も言わなかった。


 盗み聞きを責めるでも、言い訳をするでもない。ただ、その底知れない目だけが、じっと何かを訴えかけるように桜桃を見つめていた。


 やがて、彼は決然と廊下を歩いていく。その広い背中が、角を曲がって見えなくなった。


 桜桃は一度深く息を吸ってから、気を取り直して、静かに杏築の扉を叩いた。


「どうぞ」


 中から、いつもの穏やかな声が返る。


「失礼いたします」


 声をかけて、部屋へと足を踏み入れた。


 机に向かっていた杏築が立ち上がり、衣服を調えて一礼した。


「六花殿。本日は、神嘗祭の随行でしたね」


「はい。これより、羽州を発ちます」


「そうですか。……この度は、本当にお世話になりました」


 杏築は、深く頭を下げた。


「浮塵子の件、そして……あの夜のことを……なんと御礼を申し上げればよいか」


「私は、何も。すべては柳様と、狄族の方々が繋いでくださったおかげです」


「いいえ。あなたがいなければ、その両方が交わることは決してありませんでした」


 杏築は静かに、けれど確信を込めて言った。


「それは、私たちには、できないことでした」


 桜桃は、少しだけ困ったように眉を下げて笑った。


「……少しでも、お役に立てたなら良かったです」


 杏築は再び、机の上の無数の書簡へと視線を落とした。


「我が青陽の娘――花梨をよろしくお願いいたします」


「花梨様には、いつも助けられてばかりです」


「あれは……自分で決めた場所へ向かいました」


 杏築の声は、どこまでも穏やかだった。


「自分の意志で進むべき道を選んだ。それだけで、親としては十分です」


 桜桃は、その言葉を静かに胸へ受け取った。どこから崩すかを選ばなければならない非情な父が、娘の選択をどれほど尊く思っているか、その響きだけで分かった気がした。


「では、行ってまいります」


「ええ。どうか、道中お気をつけて」


 杏築は短く答え、その目を一度だけ桜桃へ向けた。


 それは、彼女の覚悟の深さを、静かに見定めるような目だった。だが、最後まで余計なことは何も言わなかった。


 桜桃は深く一礼して、部屋を辞した。


 回廊に出ると、乾いた秋の風が静かに通り抜けていった。


 明日、神宮へ向かう。


 胸の奥には、まだ先ほど聴いてしまった杏築と昊夜の声が、冷たい澱のように残っている。


 ――崩れる速度を、制御する。


 その言葉のあまりにも重い意味を、自分の小さな背中にそっと抱えたまま、桜桃は前を向いて歩き出した。



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