第十六話 深まる秋
秋は、宮中の空気を少しだけ遠く見せる。
庭の紅葉は色づき始めているというのに、廊下の中は妙に静まり返り、自分の足音だけが先に進んでいくようだった。
椎香が呼び出されたのは、御所の奥まった場所にある薄暗い渡殿だった。
「ここでお待ちください」
案内の女官がそう言い残して下がる。
一人残された椎香は、細い柱の陰に佇んだまま、静かに周囲を見回した。
人の気配が、全くない。それがむしろ不自然で、不気味だった。
(皇后陛下が……私を、なぜ直々に?)
その疑問が形を成すより早く、微かな足音が聞こえた。
ゆっくりとした、寸分の乱れもない歩幅。衣擦れの音さえも完全に整えられている。
「来ていただいて、ありがとうございます」
声が落ちた瞬間、場の空気が一変した。
皇后・未散だった。
だがその立ち姿は、椅子に座って尊大に命じる側の人間というより、むしろ最初からそこに静かに佇んでいることが当然であるかのように、気配を消していた。
「……皇后様自らのお呼び立てとは思わず、恐れ入ります」
椎香の声は控えめだが、その奥にある警戒を隠そうとはしなかった。
未散は、口元に薄い笑みを浮かべた。
「呼び出したのは、他でもありません」
その言い方は穏やかでありながら、相手の逃げ道を塞ぐ響きを持っていた。
「飛燕殿の件でございます」
その名が放たれた瞬間、椎香の指先が強張った。
「……それを、なぜ今、皇后様が」
未散はすぐには答えない。一歩も動かぬまま、ただ椎香の表情の変化を観察するように、その双眸を見据えている。
「飛燕殿は、残念なことでしたね」
あまりに静かな、声音だった。
椎香は、眉をひそめた。
「父のことを、そのように軽く言われるのは不快です」
未散はすぐに、小さく頭を下げた。
「失礼いたしました」
だが、その謝罪はひどく浅い。感情など微塵もこもっておらず、ただの手続きのようだった。
「ですが、事実として申し上げねばなりません。飛燕殿は流罪ののち、死亡。それに伴い、ご家中の朝廷における影響力も、大きく揺らぐこととなります」
椎香は一歩も引かず、背筋を伸ばしたまま問い返す。
「それで?」
未散は微笑を浮かべた。
「提案がございます」
「提案、ですか」
未散は、ゆっくりと頷いた。
「疾風との婚姻でございます」
その言葉が落ちた瞬間、世界の時間が止まったかのように錯覚した。
椎香の視線が、一気に鋭さを帯びる。
「……皇后様は、私をここに呼び出してまで、それを仰りたかったのですか」
未散は否定しない。
「これが、最も現実的な選択でございます」
「父が亡くなった話をした、その直後にですか」
「順序に意味はございません」
未散は、淡々と続けた。
「今この時に守るべきは、個人の感情ではなく、家でございますから」
椎香は、胸の奥の動揺を押し殺し、小さく息を吐いた。
「家を守るための駒として、自分を使え、と」
「生き残るための、選択肢でございます」
「あなたは――誰のために、それを仰っているのですか」
未散は、一拍だけ間を置いた。
「椎香様のため、でございます」
その淀みのない即答が、むしろひどく冷酷に響いた。
椎香は視線を逸らさない。
「あなたはなぜ、父の死を知っているのですか」
未散の笑みが深くなる。
「すべてを知っていることこそが、皇后の務めでございますから」
「……そうですか」
椎香は、それ以上追及するのをやめ、口を閉ざした。
「椎香様」
再び、冷ややかな声が落ちる。
「疾風との婚姻の儀は、早ければ早いほどよろしいでしょう。その方が、周囲の雑音も消えます」
椎香は、ゆっくりと顔を上げた。
「……皇后様」
「はい」
「私はまだ、父の死を受け止めてはおりません」
未散は、いつもの微笑を浮かべたまま、静かに頷いた。
「それでも、時間は進みます」
その言葉に呼応するように、渡殿を吹き抜ける秋の風が、一段と冷たくなった気がした。
***
神宮へ向かう道は、羽州の険しい山裾を縫うように走る、細く頼りない街道だった。
秋の空は吸い込まれそうなほど高く、黄金色の木々の間から差し込む木漏れ日が、地面に複雑な影の模様を落としている。
揺れる馬車の中で、柳は几帳面に巻紙を広げていた。
「神宮までの道程ですが、本格的な山道に差し掛かる手前で、一度長めの休憩を取った方がよろしいかと」
「柳様は……本当に、付いてくるのですね」
桜桃が改めて言葉にすると、柳は視線を巻紙に落としたまま、至極真面目な顔で頷いた。
「はい」
「羽州の政務は、よかったのですか?」
「郁李に任せてあります。すべて手筈は整えてきました」
「……本当に、大丈夫ですか?」
心配そうに覗き込む桜桃に、柳はほんの少しだけ間を置いた。
「問題ありません。郁李は私と違い、人の顔色を驚くほど正確に読みます。役人たちとの根回しや調整は、むしろ私よりあいつの方が得意ですから」
桜桃は少し驚いて目を瞬いた。
柳が、自身の不得手をこれほど素直に口にするのを聞いたのは、初めてだったからだ。
「郁李様に、そのことを伝えたんですか?」
「いいえ、言っていません」
「どうしてですか? 伝えてあげれば、きっと喜ぶのに」
「……言わなくても、あいつなら分かっているでしょう」
桜桃はふっと小さく笑った。
「分かりませんよ、きっと。言葉にしなければ伝わらないこともあります」
「……そうですか」
柳は筆の手を止め、少しだけ真剣に考えているようだったが、やがてまた淡々と巻紙を広げ直した。
「……帰ったら、伝えることにします」
ぼそりと呟かれたその一言に、身内への情が滲んでいた。
昼過ぎ、鬱蒼とした山路の手前で、一行は予定通り休憩を取ることになった。
街道脇の木陰に馬をつなぎ、兵たちが手際よく湯を沸かし始める。
柳は瑛を伴い、何やら今後の警護の配置について細かく話し込んでいた。
桜桃は大きな木の根元に腰を下ろし、羽州の山の向こうに広がる、どこまでも青い空を眺めていた。
しばらくして、衣の擦れる音と共に、朝凪が湯気の立つ椀を両手で差し出した。
「どうぞ、六花。少し冷えてきました」
「ありがとう、朝凪」
温かい椀を受け取りながら、桜桃はふっと遠くを見る目をして、口を開いた。
「……昊夜様は、今頃もう、天澄へ戻られているのかしら」
それは、誰に宛てたわけでもない、独り言に近い呟きだった。
朝凪は、差し出した手を下ろす動作のなかで、一瞬だけ、本当に一瞬だけ動きを止めた。
「……そのはずかと存じます」
「羽州では、本当に色々なことがあったわね」
「ええ」
「昊夜様って……なんだか、不思議な方ね」
桜桃は温かい椀を愛おしそうに両手で包み込みながら、言葉を紡いでいく。
「最初は冷たい人かと思っていたのに、私が危ない時には、いつもあんな風に真っ先に駆けつけてくださる。感情で動くなって私を叱るくせに、いつも必死に心を動かして、無茶をしてくださっているのはあの方じゃないかしら」
朝凪は何も言わなかった。
ただ、桜桃の視界の端、一歩引いた場所に静かに佇んでいる。
桜桃は空を見上げたまま、どこか自分を納得させるように続けた。
「……花梨様の隣に立つ方が、ああいう真っ直ぐで、守る強さを持った方で……本当によかったと思うわ」
その言葉が自身の唇から零れ落ちた瞬間、桜桃は自分の中で何かが小さく、ちくりと止まるのを感じた。
本当に、心からそう祝福しているのだろうか。
それとも、そう思うことで、胸の奥にある名付けようのない感情に蓋をしようとしているのだろうか。自分でも分からなかった。
朝凪は、陽光に透ける桜桃の横顔を、ほんの一瞬だけ、見つめ――そして、すぐに長い睫毛を伏せた。
まだ昊夜が、宮廷の端にいる皇族の一人でしかなかった頃。
星河帝は、何度か昊夜と桜桃の縁談を口にしていた。
正式な婚約にまで至る時間はなかった。
だが、もし桜桃が正統なる帝位へと近づくのであれば、皇族との婚姻は絶対の条件となる。
男系にしか皇位継承権が与えられないこの国で、桜桃が産む子に正統性を持たせるには、どうしても、尊き皇族の血が必要だったからだ。
その選択肢の中で、昊夜は決して悪い相手ではなかった。
血筋こそ遠いけれど、群を抜いて聡明で、国を見据える力がある。
何より、星河帝自身が、愛娘の伴侶として彼を選ぼうとしていたのだ。
桜桃はその遺志を、何も知らない。だが、朝凪はそのことを知っている。
桜桃が帝になるのであれば、国のため、未来のために、昊夜の隣に彼女が立つことは、あまりにも自然で、正しい。
理屈では、痛いほど理解している。理解しているはずなのに。
桜桃が昊夜の存在を意識し、その背中を目で追っていることに気づくたび、朝凪の胸の奥には、鈍い痛みの痕が刻まれていく。
だが、それを表に出すことは決してない。
「……朝凪?」
ふと、不自然な沈黙を察した桜桃が振り返った。
「どうしたの、急に黙り込んで」
「……いいえ」
朝凪はいつもの微笑を浮かべ、ただ真っ直ぐに前を向いた。
「何でもありません。少し、山の風が心地よかったものですから」
桜桃はしばらく朝凪の横顔を見つめていたが、それ以上は追及せず、また青い空へと視線を戻した。
「……そう」
手元の椀から立ち上る白い湯気が、細く、静かに秋の空へと溶けて消えていく。
しばらくの間、二人の間には言葉がなかった。
その沈黙はどこまでも穏やかで、だからこそ、余計に少しだけ苦しかった。
「――出発の準備が整いました。六花殿、朝凪殿」
遠くから、柳の硬質な声が静かに落ちてきた。
朝凪はすっと立ち上がり、衣服の埃を払った。
「行きましょう、六花」
「ええ」
桜桃も椀を置き、ゆっくりと立ち上がる。
木々の隙間から、どこまでも続く山道が伸びていた。
その遥かなる先に、神宮が待っている。
***
宮中では、朝議が静かに始まっていた。
清明の進言を受け、羽州へ現地確認に向かった昊夜から追加報告が届いた。
浮塵子の猛威による、未曾有の不作。
狄族の集落では食糧が底を突き、一部の民が、神祇官を生贄として捧げようとしたこと。
広間には、鉛を流し込んだような重い沈黙が落ちていた。
沈黙を破り、橘が重い息を吐き出す。
「……これほどの浮塵子の発生を、羽州はこれまで一切、朝廷へ報告しておりませんでした」
咎めるような響きに対し、清明が静かに答える。
「民が浮塵子の発生をいち早く知れば、米の買い占めや深刻な流民の発生を招きます。混乱を未然に防ごうとした羽州の判断自体は、理解できなくもありません」
誰もが、清明の擁護とも取れる言葉を黙って聞いていた。
その時、驚くほどよく通る声が、広間の静寂を鋭く割った。
「羽州が、目の前の民を守ろうとしたその姿勢は責めません」
声の主は――大納言・蘇芳一心だった。
「地方を預かる郷司とは、本来そのために置かれているのですから」
蘇芳の冷ややかな眼差しが、居並ぶ公卿たちを巡る。
「ですが――朝廷までがそれを知らされていなかった。それは、全く別の話です。一州の飢えは、決して一州のなかだけでは終わりません。食を求めた民は、やがて容易に州境を越えます。飢えという災厄は、国境も戸籍も選んではくれないのです」
その声には、怒りも哀れみもなかった。
感情ではなく、この国で積み重ねられてきた歴史の非情さを、そのまま語るようだった。
「今回、理不尽に生贄にされかけたのは、宮中から遣わされた神祇官でした。ですが……明日、飢えに狂った刃の前に引き据えられるのは、我々和人かもしれません。あるいは、この帝都の民かもしれないのです」
広間の空気が、キリキリと音を立てるように張り詰めていく。
「飢えた民は、善悪では動きません。ただ『生きるため』に動くのです。だからこそ、朝廷はどこよりも最初にその兆候を知らねばならない。知って初めて、国は最悪の事態に備えることができるのです」
清明が、手の中の扇を小さく音を立てて閉じた。
「地方の役人は、明日死ぬかもしれない者を見ています。しかし、朝廷は十年先、百年先のこの国の姿を見ている。……彼らとあなた方とでは、最初から見ている景色が違うのですよ」
「ええ、その通りです」
蘇芳は、清明の言葉を拒むことなく即座に頷いた。
「見ている景色が違うからこそ、互いにすべてを報告し合わねばならんのです」
短い沈黙が流れる。
その圧倒的な正論の前に、誰も反論の言葉を持たなかった。
雲英は静かに目を伏せ、扇を握りしめていた。
昊夜は何も言わず、ただ厳しい表情で前を見据えていた。
王座に座す帝だけが、小さく口を開く。
「……羽州からの報告経路を、即座に改めよ」
裁定は、その一言だけだった。
橘が、少し身を乗り出して雅を見る。
「……その生贄にされかけたという神祇官は?」
「無事です」
雅の短く明瞭な一言に、橘はようやく安堵の息を漏らした。
鷹取もまた、小さく肩の力を抜く。
雅は扇をピタリと止めた。細められた目は、少しもにこやかではなかった。
「……無事ではありましたが。あれは断じて、神事などと呼べるものではありません」
その言葉の間、昊夜だけは頑なに口を閉ざしたまま、何かを耐えるように座していた。
やがて、朝議の議題は次の話題へと移っていった。
朝議を終えた、帰り道。
広大な宮中の廊下を静かに歩く清明の後ろから、重く迷いのない足音がひとつ、急速に近づいてきた。
「清明殿」
振り返ると、衣の袖を微かに揺らした昊夜が立っていた。
「おや、昊夜殿。何でしょう」
昊夜は並んで歩き出したが、しばらくは何も言わず、黙ったまま床を見据えていた。
やがて、周囲に人の気配がないことを確かめると、静かに口を開いた。
「……蘇芳一心とは、どういう人物だ」
清明は歩調を緩め、少しだけ意外そうに目を細めた。
「これはまた、急なご質問ですな」
「答えにくいか」
「いえ」
清明は閉じた扇を手のひらで軽く弄びながら、ゆっくりと歩みを進める。
「ただ、一言では到底語れぬお方です。……蘇芳殿は、地方の役人とは全く違う景色を見ておられる」
「違う景色、とは」
「ええ」
清明は静かに頷いた。
「地方に身を置く者は、どうしても『目の前の者』を見ます。飢えに泣く民であったり、荒廃していく州であったり。ですが、蘇芳殿は違う。目の前の一人ではなく、この国という巨大な器が、百年先まで壊れずに続くかどうか、それだけを見ておられるのです」
昊夜は何も言わず、清明の言葉の重さを噛みしめるように聞いている。
「ゆえに、大局を重んじる貴族方からの信も、あの方には滅法厚い」
昊夜は少しの間、考えに耽るように眉根を寄せた。
「……お前とは、根本の考え方が違うのだな」
「よく違いますよ。反目することなど日常茶飯事です」
清明は、あっさりと肩をすくめて笑った。
「あの方は、目の前で泣き叫んでいる者ではなく、その涙の遥か先にある国を見られるお方だ」
昊夜は、小さく、重い息を吐き出した。
「国は、一人では治まらん。目の前の理不尽を見る者も、百年先の存続を見る者も……そのどちらもが、国には必要なのだろうな」
少しの間を置いて、清明は歩みを止め、肩越しに昊夜を振り返った。その瞳に、微かな警告の光が宿る。
「もっとも。蘇芳殿を敵に回すと、少々厄介ですよ」
昊夜が、片方の眉を動かす。
「あの方は、完璧な『理』だけで押してこられます。こちらの感情や情実の類では、決して動かすことはできない」
清明は、いつもの穏やかな、けれどすべてを見透かしたような微笑を浮かべた。
「だからこそ、私欲に塗れた貴族たちも、あの方のその潔白さを信じ、慕うのでしょうな」
二人が見上げる廊下の先では、沈みゆく夕日が、気の遠くなるほど長い影を床に落としていた。




