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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第三章 名を持たぬ花【羽州神隠編】

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第十七話 斎宮

 神宮の門は、主要な街道から少し奥まった、鬱蒼とした森のなかに佇んでいた。


 古びた巨杉の並木が両側から道を厳かに囲み、一歩進むごとに、周囲の空気がひやりと張り詰めていく。


 宮廷の喧騒とも、羽州の泥臭い街並みとも違う、どこまでも清浄で、外の世界から切り離された絶対的な静寂だった。


 一行が門前に差し掛かると、そこにはすでに先客の人影があった。


 清らかな神祇官の装束を纏った女性が、軽やかな足取りでこちらに向かって歩いてくる。


「お待ちしておりました」


 よく通る声だった。

 年齢は二十代後半ほどだろうか。背筋が美しく伸び、一挙手一投足に一切の無駄がない。だが、その表情は決して堅苦しくなく、むしろ晴れやかで快活な印象を抱かせた。


 桜桃は、彼女に見覚えがあった。

 天澄の神祇官庁で、何度かすれ違ったことのある顔だ。直接言葉を交わしたことはなかったため、名前までは知らなかったが。


「神祇官の初音と申します。今回の神嘗祭にて、祭主を務めさせていただきます」


 初音は一行を見渡すと、実に手際よく案内を始めた。


「神官の方々はこちらの舎へ。お荷物は先に奥へと運びます」


 てきぱきとした指示が飛び、神官たちが自然とその差配に従って動き始める。


 桜桃はその見事な差配の様子に感心しながら、自然と初音の横へと並んだ。


「六花と申します。今回は神祇官の末席として、随行してまいりました」


「ええ、もちろん伺っていますよ」


 初音は歩調を合わせ、桜桃の顔を覗き込んだ。


「羽州の視察から、休む間もなくそのままここへ?……それは大変でしたね。まあ、今回の神嘗祭は、色々と急でしたものね」


 初音は周囲を気にするように、少しだけ声を落とした。


「実を言うとね、祭主の私だって準備が全然追いつかなくてんてこ舞いだったのよ。斎宮様の選定もあまりに突然だったし、潔斎期間も異例の短さだし」


「そうだったのですか……」


「まあ、やるしかないんだけどね!」


 その声には、後ろ向きな愚痴というよりも、大きな仕事を前にした前向きな高揚感が混じっていた。


 神宮の重厚な中門をくぐろうとした時、初音がぴたりと一行を止めた。


「――男性の方は、ここまでです」


 凛とした、拒絶の余地のない声だった。


「ここから先、斎宮様の居所への立ち入りが許されるのは、女性のみとなります」


 朝凪が、すっと一歩前へ出た。


「……護衛として、私が同行するわけにはまいりませんか」


「規則ですので」


 初音は実にあっさりと、だが毅然と言い放つ。


「門の内側は、完全なる神域。斎宮様への公式な面会は、神祇官である六花さんのみをお通しします」


 朝凪は少しだけ間を置き、それ以上は食い下がらずに頭を下げた。


「……承知いたしました」


 いつになく素直に引いた朝凪を、桜桃は振り返る。


「大丈夫よ、朝凪」


「……どうか、お気をつけて」



 朝凪が短く答える。柳もまた、当然のように門の外へと残った。


 すると、その背後で瑛が早くも懐から帳面を取り出していた。


「細かく記録しておきます」


「……瑛殿、何を記録しているのですか」


「朝凪殿の『置いていかれる寂しさによる表情の微細な変化』を」


「……やめてください」


 朝凪は一切振り返らず、ただ真っ直ぐに前を向いた。


***


 初音の案内に従い、桜桃は神宮のさらに奥へと進んでいった。

 磨き抜かれた木床の廊下は静まり返り、どこからか上質な香の匂いが細く漂っている。


「斎宮様のことなんだけどね」


 前を歩きながら、初音がふと声を潜めて言った。


「あの方、まだこの環境に慣れていらっしゃらない部分もあって……ねえ、六花さん。少し、普通に、自由に話してあげてほしいの」


「自由に、ですか?」


「ええ。神宮の中では、誰もあの方に『普通の人間』として話しかけないから」


 初音はさらに声を潜め、桜桃に耳を寄せた。


「私だって、一応は祭主という立場があるから、どうしても形式張った接し方しかできなくてね。砕けたおしゃべりができないのよ。あなたは今回、対等な立場の神祇官として来ているんだし、少し気楽に、お友達みたいに接してあげてほしいなって」


 桜桃は、その言葉に深く頷いた。


「分かりました。私にできることであれば」


「ああ、それから」


 初音が、ふっと廊下の途中で立ち止まった。


「斎宮様、まだ二十歳になられたばかりなのよ。若いでしょう?まだまだ、これからよねぇ」


「そうですね」


「神の妻として、結婚もできないし、この敷地から外に出ることも許されないけれど……二十歳なんて、人生まだまだこれからだもの」


 初音はどこか遠くを見るような目をして、しみじみと呟いている。


「このままじゃ私、嫁に行き遅れちゃうわって、斎宮様ご自身が笑って仰ってたの。でも、二十歳なんて全然、いくらでもやり直せる若さよねぇ……」


「……初音様は、おいくつでいらっしゃいますか」


 桜桃が、何気なく静かに問いかけた。

 

 その瞬間、初音の動きが、彫像のようにぴたりと止まった。


「…………二十八よ」


「あ」


「何?今『あ』って言った?何か言いたいことでもあるわけ?」


「いえ、何も……!」


「言いなさいよ!」


「本当に、何も……」


「そう!?」


 初音はあからさまにコホンと咳払いをして、不自然なほど胸を張った。


「いい?別に結婚なんて、遅いか早いかなんて個人の自由よ!適齢期なんて世間が勝手に決めただけのくだらない話でしょう!?」


「はい、その通りだと思います」


「私は、神職としてまだまだ現役よ!」


「もちろんです」


「毎日、仕事が楽しくて仕方ないんだから、嫁に行く暇なんてないの!仕方ないじゃない!」


「そうですね」


 桜桃は終始、真顔を崩さずに大きく頷き続けた。


 初音はしばらく、ツカツカと音を立てて前を向いたまま歩いていたが、やがてぽつりと、恨めしそうに言った。


「……ちょっと、なんで笑ってるのよ」


「笑っていません」


「今、口元が動いてたわよ!」


「気のせいです」


「もう、絶対に笑ってたわ……!」


 少しだけ拗ねたように唇を尖らせる初音の様子に、桜桃の心はすっかり和んでいた。


 しばらく行くと、廊下の奥に、一際重厚な一枚の木扉が見えてきた。


 初音の足が止まる。


「――斎宮様のお部屋よ」


 その声は、瞬時にいつもの厳かな祭主のものへと改まった。


「本番前ですからね、あまり長くならないように。お体を休めていただかなければならないから」


「はい」


「……でもね、少しだけ、普通の女の子として話してあげて」


 初音は、最後に引き絞るような切なさを込めて、静かに続けた。


「あの方、ここへ来られてから……一度だって、ちゃんと笑ったことがないのよ」


 桜桃は、その言葉の重みをしっかりと胸の奥で受け取った。


「ちなみに」


 扉の前に立つ前に、桜桃はふと思い立って口を開いた。


「今、扉を開ける前に少しだけ伺いたいのですが」


「何かしら?」


「斎宮様って……どんな方なのですか?天澄での『別れの櫛の儀』で遠目に拝見したときは、とても物静かで、儚げな印象でしたが」


 初音は少しだけ考えてから、観念したように苦笑いを浮かべた。


「……全然、真逆よ」


「え?」


「あれは、儀式のための『お顔』。普段のあ方はね……」


 初音は、必死に適切な言葉を選んでいる様子だった。


「……とても活発というか。思ったことを、何でも口にされるというか」


「そうなのですか」


「天澄での姿と、あまりの違いにびっくりするかもしれないけれど」


 初音は、静かに閉ざされた扉を見つめた。


「あの方はね、自分がこの神域という名の鳥籠に『閉じ込められている』という自覚が、誰よりもちゃんとおありなの。だから余計に、外の世界の話を聞きたがるのよ」


 桜桃もまた、その扉を見つめた。


 ただ静かに、そこにある扉。この向こう側に、一体どんな女性が、どんな思いで座っているのだろう。


 桜桃は呼吸を調え、静かに、一度だけその重厚な木扉を叩いた。


 しばらく、奇妙な間があった。


 それから、中から「どたどた」と、およそ斎宮の居所とは思えない慌ただしい足音が響いた。

続いて、ガシャリと何かが派手に倒れる音。


「ちょっと、待って、待って……! 今、今開けるから……!」


 布越しにくぐもった、ひどく焦った声が聞こえる。


 桜桃は思わず、隣に立つ初音と顔を見合わせた。初音は眉をひそめて首を傾げている。


 やがて、勢いよく扉が開いた。


 そこに立っていたのは、まぎれもなく斎宮・茉莉だった。


 清らかな白い装束を身に纏い、黒髪は一筋の乱れもなく丁寧に整えられている。だが、肩の上下で息が少し乱れているのが分かり、白皙の頬が上気していた。


「……どうぞ、お入りになって」


 努めて落ち着きを払った、気品ある声だった。


「失礼いたします」


 桜桃が中へ足を踏み入れると、茉莉は待っていましたとばかりに、背後ですぐさま扉をピシャリと閉ざした。


 案内役の初音は、そのまま廊下に残る。


「私は一度、表の様子を見て後ほど戻りますね。六花さん、何かあればすぐに声をかけて」


 扉越しに聞こえる初音の声に、茉莉が応じる。


「ええ、ありがとうございます。初音様」


 その声は、鈴を転がすように澄んで響いた。まるで歌うように話す人だな、と桜桃は感嘆する。


 初音の足音が完全に遠ざかり、室内は再び、静寂に包まれた。


 桜桃は向き直り、深く一礼した。


「神祇官の六花と申します。この度の神嘗祭、お側近くでの随行を仰せつかり参りました」


「ええ、事前に伺っていますよ」


 茉莉は穏やかに微笑んだ。絵に描いたように端正な顔立ち。指先の一つに至るまで完璧に統制された所作。どこからどう見ても、国の安寧を祈るに相応しい、申し分のない斎宮の姿だった。


「天澄からの道中はいかがでしたか? 随分と遠くから、大変でしたでしょう」


「はい、おかげさまでつつがなく――」


 挨拶の言葉を返しかけ、桜桃はふと、室内の違和感に目を留めた。


 じっと茉莉の顔を見つめる。


「……斎宮様」


「はい、何かしら」


「何か、私に隠していらっしゃることはございませんか?」


 茉莉の完璧な微笑みが、一瞬だけぴきりと固まった。


「……何のことでしょう。特にお隠しすることなど、何もございませんが」


「扉を開けてくださるまでの、あの物々しい物音は、一体?」


「気のせいでは切なくて?」


「明らかに、何かが派手に倒れる音がいたしました」


「……きっと、局地的な地震かと思います」


「地響きひとつ立っておりませんでした」


 茉莉はしばらく、探るような目で桜桃をじっと見つめていたが、やがて、深く、諦めたようなため息をついた。


「……本当によく気づくのね、あなた」


「いえ、誰であっても流石に気づくかと思います」


 その時、桜桃の視線が、室内の奥に据えられた大きな衝立の陰へと向いた。


 そこから、少しだけ衣の裾がはみ出している。


 清らかな白ではない。深い、見覚えのある色彩。――男物の衣の裾だった。


 桜桃は、何事もなかったかのように視線を茉莉へと戻した。茉莉は口を真一文字に結び、もはや何も言わない。


 桜桃は少しだけ考えてから、声を一段落として、静かに口を開いた。


「……斎宮様」


「はい」


「今、このお部屋には、私と斎宮様以外に、どなたかいらっしゃいますか?」


「誰もいません」


「あの衝立の陰から、男物の衣がはっきりと見えているのですが」


「……気のせい、目の錯覚では?」


「信じられないほど、しっかり見えています」


 茉莉は再び、深いため息をついた。


「……もういいわ。出てきてもよろしくてよ」


 衝立の陰から、衣の擦れる音と共に、一人の男が静かに姿を現した。



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