第十七話 斎宮
神宮の門は、主要な街道から少し奥まった、鬱蒼とした森のなかに佇んでいた。
古びた巨杉の並木が両側から道を厳かに囲み、一歩進むごとに、周囲の空気がひやりと張り詰めていく。
宮廷の喧騒とも、羽州の泥臭い街並みとも違う、どこまでも清浄で、外の世界から切り離された絶対的な静寂だった。
一行が門前に差し掛かると、そこにはすでに先客の人影があった。
清らかな神祇官の装束を纏った女性が、軽やかな足取りでこちらに向かって歩いてくる。
「お待ちしておりました」
よく通る声だった。
年齢は二十代後半ほどだろうか。背筋が美しく伸び、一挙手一投足に一切の無駄がない。だが、その表情は決して堅苦しくなく、むしろ晴れやかで快活な印象を抱かせた。
桜桃は、彼女に見覚えがあった。
天澄の神祇官庁で、何度かすれ違ったことのある顔だ。直接言葉を交わしたことはなかったため、名前までは知らなかったが。
「神祇官の初音と申します。今回の神嘗祭にて、祭主を務めさせていただきます」
初音は一行を見渡すと、実に手際よく案内を始めた。
「神官の方々はこちらの舎へ。お荷物は先に奥へと運びます」
てきぱきとした指示が飛び、神官たちが自然とその差配に従って動き始める。
桜桃はその見事な差配の様子に感心しながら、自然と初音の横へと並んだ。
「六花と申します。今回は神祇官の末席として、随行してまいりました」
「ええ、もちろん伺っていますよ」
初音は歩調を合わせ、桜桃の顔を覗き込んだ。
「羽州の視察から、休む間もなくそのままここへ?……それは大変でしたね。まあ、今回の神嘗祭は、色々と急でしたものね」
初音は周囲を気にするように、少しだけ声を落とした。
「実を言うとね、祭主の私だって準備が全然追いつかなくてんてこ舞いだったのよ。斎宮様の選定もあまりに突然だったし、潔斎期間も異例の短さだし」
「そうだったのですか……」
「まあ、やるしかないんだけどね!」
その声には、後ろ向きな愚痴というよりも、大きな仕事を前にした前向きな高揚感が混じっていた。
神宮の重厚な中門をくぐろうとした時、初音がぴたりと一行を止めた。
「――男性の方は、ここまでです」
凛とした、拒絶の余地のない声だった。
「ここから先、斎宮様の居所への立ち入りが許されるのは、女性のみとなります」
朝凪が、すっと一歩前へ出た。
「……護衛として、私が同行するわけにはまいりませんか」
「規則ですので」
初音は実にあっさりと、だが毅然と言い放つ。
「門の内側は、完全なる神域。斎宮様への公式な面会は、神祇官である六花さんのみをお通しします」
朝凪は少しだけ間を置き、それ以上は食い下がらずに頭を下げた。
「……承知いたしました」
いつになく素直に引いた朝凪を、桜桃は振り返る。
「大丈夫よ、朝凪」
「……どうか、お気をつけて」
朝凪が短く答える。柳もまた、当然のように門の外へと残った。
すると、その背後で瑛が早くも懐から帳面を取り出していた。
「細かく記録しておきます」
「……瑛殿、何を記録しているのですか」
「朝凪殿の『置いていかれる寂しさによる表情の微細な変化』を」
「……やめてください」
朝凪は一切振り返らず、ただ真っ直ぐに前を向いた。
***
初音の案内に従い、桜桃は神宮のさらに奥へと進んでいった。
磨き抜かれた木床の廊下は静まり返り、どこからか上質な香の匂いが細く漂っている。
「斎宮様のことなんだけどね」
前を歩きながら、初音がふと声を潜めて言った。
「あの方、まだこの環境に慣れていらっしゃらない部分もあって……ねえ、六花さん。少し、普通に、自由に話してあげてほしいの」
「自由に、ですか?」
「ええ。神宮の中では、誰もあの方に『普通の人間』として話しかけないから」
初音はさらに声を潜め、桜桃に耳を寄せた。
「私だって、一応は祭主という立場があるから、どうしても形式張った接し方しかできなくてね。砕けたおしゃべりができないのよ。あなたは今回、対等な立場の神祇官として来ているんだし、少し気楽に、お友達みたいに接してあげてほしいなって」
桜桃は、その言葉に深く頷いた。
「分かりました。私にできることであれば」
「ああ、それから」
初音が、ふっと廊下の途中で立ち止まった。
「斎宮様、まだ二十歳になられたばかりなのよ。若いでしょう?まだまだ、これからよねぇ」
「そうですね」
「神の妻として、結婚もできないし、この敷地から外に出ることも許されないけれど……二十歳なんて、人生まだまだこれからだもの」
初音はどこか遠くを見るような目をして、しみじみと呟いている。
「このままじゃ私、嫁に行き遅れちゃうわって、斎宮様ご自身が笑って仰ってたの。でも、二十歳なんて全然、いくらでもやり直せる若さよねぇ……」
「……初音様は、おいくつでいらっしゃいますか」
桜桃が、何気なく静かに問いかけた。
その瞬間、初音の動きが、彫像のようにぴたりと止まった。
「…………二十八よ」
「あ」
「何?今『あ』って言った?何か言いたいことでもあるわけ?」
「いえ、何も……!」
「言いなさいよ!」
「本当に、何も……」
「そう!?」
初音はあからさまにコホンと咳払いをして、不自然なほど胸を張った。
「いい?別に結婚なんて、遅いか早いかなんて個人の自由よ!適齢期なんて世間が勝手に決めただけのくだらない話でしょう!?」
「はい、その通りだと思います」
「私は、神職としてまだまだ現役よ!」
「もちろんです」
「毎日、仕事が楽しくて仕方ないんだから、嫁に行く暇なんてないの!仕方ないじゃない!」
「そうですね」
桜桃は終始、真顔を崩さずに大きく頷き続けた。
初音はしばらく、ツカツカと音を立てて前を向いたまま歩いていたが、やがてぽつりと、恨めしそうに言った。
「……ちょっと、なんで笑ってるのよ」
「笑っていません」
「今、口元が動いてたわよ!」
「気のせいです」
「もう、絶対に笑ってたわ……!」
少しだけ拗ねたように唇を尖らせる初音の様子に、桜桃の心はすっかり和んでいた。
しばらく行くと、廊下の奥に、一際重厚な一枚の木扉が見えてきた。
初音の足が止まる。
「――斎宮様のお部屋よ」
その声は、瞬時にいつもの厳かな祭主のものへと改まった。
「本番前ですからね、あまり長くならないように。お体を休めていただかなければならないから」
「はい」
「……でもね、少しだけ、普通の女の子として話してあげて」
初音は、最後に引き絞るような切なさを込めて、静かに続けた。
「あの方、ここへ来られてから……一度だって、ちゃんと笑ったことがないのよ」
桜桃は、その言葉の重みをしっかりと胸の奥で受け取った。
「ちなみに」
扉の前に立つ前に、桜桃はふと思い立って口を開いた。
「今、扉を開ける前に少しだけ伺いたいのですが」
「何かしら?」
「斎宮様って……どんな方なのですか?天澄での『別れの櫛の儀』で遠目に拝見したときは、とても物静かで、儚げな印象でしたが」
初音は少しだけ考えてから、観念したように苦笑いを浮かべた。
「……全然、真逆よ」
「え?」
「あれは、儀式のための『お顔』。普段のあ方はね……」
初音は、必死に適切な言葉を選んでいる様子だった。
「……とても活発というか。思ったことを、何でも口にされるというか」
「そうなのですか」
「天澄での姿と、あまりの違いにびっくりするかもしれないけれど」
初音は、静かに閉ざされた扉を見つめた。
「あの方はね、自分がこの神域という名の鳥籠に『閉じ込められている』という自覚が、誰よりもちゃんとおありなの。だから余計に、外の世界の話を聞きたがるのよ」
桜桃もまた、その扉を見つめた。
ただ静かに、そこにある扉。この向こう側に、一体どんな女性が、どんな思いで座っているのだろう。
桜桃は呼吸を調え、静かに、一度だけその重厚な木扉を叩いた。
しばらく、奇妙な間があった。
それから、中から「どたどた」と、およそ斎宮の居所とは思えない慌ただしい足音が響いた。
続いて、ガシャリと何かが派手に倒れる音。
「ちょっと、待って、待って……! 今、今開けるから……!」
布越しにくぐもった、ひどく焦った声が聞こえる。
桜桃は思わず、隣に立つ初音と顔を見合わせた。初音は眉をひそめて首を傾げている。
やがて、勢いよく扉が開いた。
そこに立っていたのは、まぎれもなく斎宮・茉莉だった。
清らかな白い装束を身に纏い、黒髪は一筋の乱れもなく丁寧に整えられている。だが、肩の上下で息が少し乱れているのが分かり、白皙の頬が上気していた。
「……どうぞ、お入りになって」
努めて落ち着きを払った、気品ある声だった。
「失礼いたします」
桜桃が中へ足を踏み入れると、茉莉は待っていましたとばかりに、背後ですぐさま扉をピシャリと閉ざした。
案内役の初音は、そのまま廊下に残る。
「私は一度、表の様子を見て後ほど戻りますね。六花さん、何かあればすぐに声をかけて」
扉越しに聞こえる初音の声に、茉莉が応じる。
「ええ、ありがとうございます。初音様」
その声は、鈴を転がすように澄んで響いた。まるで歌うように話す人だな、と桜桃は感嘆する。
初音の足音が完全に遠ざかり、室内は再び、静寂に包まれた。
桜桃は向き直り、深く一礼した。
「神祇官の六花と申します。この度の神嘗祭、お側近くでの随行を仰せつかり参りました」
「ええ、事前に伺っていますよ」
茉莉は穏やかに微笑んだ。絵に描いたように端正な顔立ち。指先の一つに至るまで完璧に統制された所作。どこからどう見ても、国の安寧を祈るに相応しい、申し分のない斎宮の姿だった。
「天澄からの道中はいかがでしたか? 随分と遠くから、大変でしたでしょう」
「はい、おかげさまでつつがなく――」
挨拶の言葉を返しかけ、桜桃はふと、室内の違和感に目を留めた。
じっと茉莉の顔を見つめる。
「……斎宮様」
「はい、何かしら」
「何か、私に隠していらっしゃることはございませんか?」
茉莉の完璧な微笑みが、一瞬だけぴきりと固まった。
「……何のことでしょう。特にお隠しすることなど、何もございませんが」
「扉を開けてくださるまでの、あの物々しい物音は、一体?」
「気のせいでは切なくて?」
「明らかに、何かが派手に倒れる音がいたしました」
「……きっと、局地的な地震かと思います」
「地響きひとつ立っておりませんでした」
茉莉はしばらく、探るような目で桜桃をじっと見つめていたが、やがて、深く、諦めたようなため息をついた。
「……本当によく気づくのね、あなた」
「いえ、誰であっても流石に気づくかと思います」
その時、桜桃の視線が、室内の奥に据えられた大きな衝立の陰へと向いた。
そこから、少しだけ衣の裾がはみ出している。
清らかな白ではない。深い、見覚えのある色彩。――男物の衣の裾だった。
桜桃は、何事もなかったかのように視線を茉莉へと戻した。茉莉は口を真一文字に結び、もはや何も言わない。
桜桃は少しだけ考えてから、声を一段落として、静かに口を開いた。
「……斎宮様」
「はい」
「今、このお部屋には、私と斎宮様以外に、どなたかいらっしゃいますか?」
「誰もいません」
「あの衝立の陰から、男物の衣がはっきりと見えているのですが」
「……気のせい、目の錯覚では?」
「信じられないほど、しっかり見えています」
茉莉は再び、深いため息をついた。
「……もういいわ。出てきてもよろしくてよ」
衝立の陰から、衣の擦れる音と共に、一人の男が静かに姿を現した。




