第十八話 和風化政策
目の前に現れた男は、衣服の埃を軽く払いながら、どこまでも飄々とした顔をしている。
「六花さん、お久しぶりです」
「…………深黎様」
桜桃は、あんぐりと口を開け、目の前の男を見た。
それから、顔を真っ赤にしている茉莉を見た。
そして、また何食わぬ顔をしている深黎を見た。
「深黎様」
「はい」
「ここは、男子禁制のさらに奥、神宮の最深部たる神域です」
「ええ、重々存じております」
「当然、男性の立ち入りは如何なる理由があろうと厳禁されているはずですが」
「おっしゃる通りです。異論はありません」
「……では、一体どうやってここへ?」
深黎は少しだけ間を置き、綺麗な顔を傾けた。
「……色々と、手段を講じまして」
「色々と」
「はい」
桜桃は、こめかみの辺りが痛んできた。
「もしこれが、祭主の初音様や警護の兵たちに発覚したらどうなるか、お分かりですか」
「発覚しなければ、何の問題もありません」
「今、目の前で発覚しています」
「ここにいるのは、六花さんだけですので」
「それが大問題だと言っているのです」
「六花さんは、誰にも言わないでしょう?」
「なぜ、そう言い切れるのですか」
「あなたには、我々を密告する理由がありませんから」
桜桃は深黎を睨み据えたが、彼はいつもの、掴みどころのない飄々とした笑みを浮かべているだけだった。
対照的に、茉莉は小動物のように肩をすくめ、本当に申し訳なさそうな顔で桜桃を見ている。
「……あの」
茉莉が、恐る恐る口を開いた。
「怒って、いらっしゃるかしら」
「怒ってはいません」
「そうですか、よかった……」
「ただ」
桜桃は言葉を区切り、真剣な眼差しを二人に向けた。
「もしこれが上に知れれば、密通罪として、深黎様は最悪その場で斬られるかもしれません」
室内の空気が、一瞬で凍りついた。
茉莉の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
「え……? 斬られる……?」
「神域への不法侵入、および斎宮の汚涜を疑われれば、一族諸共の重罪です」
「……そんな、そんなこと……!」
茉莉は、弾かれたように深黎を振り返った。
「ちょっと! なんであなた、そんなに平気な顔をしていられるのよ!?」
「まだバレてないから」
「バレてます! 今まさに六花さんにバレて、怒られてるじゃない!」
「六花さんにだけだ。彼女は我々の味方だ」
「味方だって、こんなに怒ってるじゃないの!」
二人の視線が、同時に桜桃へと注がれる。
桜桃はしばらく黙って、押し黙るように目を閉じた。そして、ゆっくりと目を開ける。
「……一応、今後のために確認させてください」
「はい」
「深黎様は、いつからこの部屋に潜んでいるのですか」
「昨日の夕刻から、です」
「昨日から」
「はい」
「丸一晩、ですか?」
「はい」
桜桃は、今度は本格的に頭が痛くなってきた。額に手を当てる。
「……一体、どこに隠れていたというのですか」
「主にその衝立の陰と、縁側の下の隙間、それから、天井裏の梁の上ですね」
「天井裏まで……!」
「ええ。特にあの初音という祭主が部屋に来たときは、流石にヒヤリとしました」
茉莉が、両手で完全に顔を覆った。
「もう言わないで、深黎……!」
「事実だから」
「恥ずかしいから、もう言わないでって言ってるのよ……!」
悶える茉莉を見て、深黎は少しだけ表情を緩めた。
それは、天澄で見せていた飄々とした顔とは違う、ほんのわずかに、けれど確かに心の底から愛おしそうに滲み出た、ひどく柔らかい顔だった。
桜桃はそれを見て、小さく息を呑み、言葉を失った。
「……六花さん」
茉莉が、覆っていた手を退け、縋るような目で桜桃を見つめた。
「お願い。どうか、今回だけは黙っていてくださらないかしら」
「斎宮様……」
「私、深黎と会うのが本当に久しぶりで……」
茉莉の声が、急速に小さく、切なく窄まっていく。
「やっと、やっと会えたの。だから、お願い……すぐに追い出したくなくて……」
桜桃は、しばらくの間、茉莉の潤んだ瞳を見つめていた。
それから、ふっと視線を逸らした深黎を見る。彼は頬を赤く染め、気まずそうに床の一点を見つめていた。
桜桃は、長く、深い溜息をひとつ吐き出した。
「……神嘗祭の全行程が終わるまで、何があっても、絶対に誰にもバレないでください」
茉莉の顔に、パッと大輪の花が咲いたような喜びが広がった。
「ありがとう……! 六花さん、やっぱりあなた、とっても良い人ね!」
「良い人かどうかは、自分でも分かりません」
「いいえ、絶対に良い人よ!」
「深黎様」
桜桃は、厳しい声で釘を刺す。
「はい」
「絶対に、周囲の兵や神官に気づかれないように。いいですね?」
「承知しました。細心の注意を払います」
「天井裏は、思っている以上に階下に音が響きます。足音や衣の擦れる音には、くれぐれも気をつけてください」
「……肝に銘じておきます」
「初音様が来られたら、気配を完全に消して即座に退避を」
「心得ています」
桜桃は、もう一度だけ深黎の顔を真っ直ぐに見つめた。
「……本当に、大丈夫ですね?」
深黎は、その黒い瞳を和らげ、小さく笑った。
「六花さんが、これほど私の身を本気で心配してくれるとは思いませんでした」
「心配しています。私の目の前で、知人が処刑されるような真似は困りますので」
「それは光栄ですね」
「光栄な話では、決してありません」
そのやり取りを見て、茉莉が「くすり」と、堪えきれないように声を上げて笑った。
その笑顔には、先ほどまでの『斎宮』らしい整った麗しさがなかった。神の妻という役目を負う前の、ただ恋する二十歳の少女の顔が、そこにあった。
「では、私はこれで」
深黎が音もなく立ち上がった。
「もう少しいればいいじゃない。まだ時間はあるわ」
茉莉が名残惜しそうに言うと、深黎は窓の外の光に視線を向けた。
「……初音様が戻ってくる。これ以上は六花さんの心臓に悪い」
「それもそうね……」
茉莉は少しだけ子供のようにしょんぼりとした顔を見せた。
深黎は桜桃に向き直り、いつものように淡々と、けれど丁寧に向き直って軽く頭を下げた。
「口外しないでいただけると助かります。私の首がかかっているので」
「しません、とは言えませんが」
「ふっ……六花さんらしいですね」
「……絶対に見つからないでくださいよ、本当に」
桜桃が祈るように呟くと、深黎は口元を綻ばせた。
「……肝に銘じます」
「その言葉、信じていいんですね」
「信じるかどうかは、六花さん次第です」
深黎はそれだけ言い残すと、気配を完全に消し、窓際へと向かった。茉莉が慣れた手付きで窓を細く開けると、深黎はその僅かな隙間から外の闇へと滑り込んでいった。風さえも揺らがぬ、鮮やかな手際だった。
茉莉は静かに窓を閉め、鍵を下ろしてから、桜桃へと向き直った。
「……本当に、ありがとうございました。六花さん」
「次はないですからね」
「はい、分かっています」
茉莉は少しだけ悪戯が見つかった子供のように頭を垂れてから、磨き抜かれた床の上へ、しとやかに腰を下ろした。
それまでの緊張が嘘のように、ふんふんと小さく鼻歌を歌いながら、装束の懐から古びた小さな錦の袋を取り出す。中から出てきたのは、いくつかの美しい細工がされた白い玉と、細い麻糸だった。
「……深黎様は、一体何をしにここへ来られたのですか?」
桜桃が尋ねると、茉莉は慣れた手付きで玉の穴に糸を通しながら、穏やかに答えた。
「これ。この首飾りを直して欲しいって、私に届けに来たのよ」
「首飾り、ですか?」
「ええ。私がずっと昔、故郷にいた頃にあげたもの。糸がすっかり擦り切れて、バラバラになっちゃったらしくて」
桜桃は、その言葉に「あ」と記憶の糸が繋がった。
宮廷で初めて深黎を見かけたとき、彼の首元に、玉が連なった首飾りが見えていた。だが、いつの間にかそれがなくなっていた。彼は、それをずっと気に病んでいたのだろうか。
「深黎様とは、古いお知り合いなのですか」
「幼なじみ、みたいなものかな。故郷が同じだったの」
茉莉は糸を通す細い指先を器用に動かしながら、何気ない調子で答えた。
桜桃は首を傾げる。
「深黎様は……狄族の御出身だと伺いました」
「うん。そうよ。そしてね、私も狄の血が半分入っているの」
桜桃はハッとして、思わず目を見開いた。
「斎宮様は皇族なんですよね?」
「一応はね」
茉莉は自嘲気味に、少しだけ苦笑した。
「でも、皇族だった父は私が生まれてすぐに病で死んでしまったの。だから私は、母の故郷である狄の集落で、普通の狄の子供として育ったわ」
「では、斎宮に選ばれたことで、初めてあの地を出られたのですか?」
「ううん、違うの」
茉莉は、白い玉をひとつ、静かに糸へと滑らせた。
「今から十年くらい前かしら。前帝――星河帝に呼ばれて、私は都の皇居へと移り住むことになったの」
「どうして……?」
茉莉は、糸を操る手を少しだけ止めた。その瞳に、深い陰りが宿る。
「……『和風化政策』という言葉を、聞いたことがある?」
桜桃は、心臓がドクリと跳ねるのを感じた。
「……いいえ」
「狄の者たちを、和の文化、和の暮らしに馴染ませようという政策よ。朝廷側の建前は『融和』。つまり、異民族であるあなたたちを受け入れて、豊かにしてあげますよ、という慈悲ね」
茉莉の声は、どこまでも淡々としていた。
激しい怒りや、悲しみの感情が込められているわけではない。だがそれが逆に、彼女がこの十年間という長い時間をかけて、その理不尽を飲み込んできた言葉の重さを物語っていた。
「都へ招き、華やかな礼法を教え、言葉を和のものへと矯正する。私はその政策の『橋渡し』をするためのお役目をいただいたの。狄の血を引き、同時に皇族の血も引いている。朝廷の公家たちからすれば、都合が良かったのね」
「……斎宮様は、それは、嫌ではなかったのですか」
茉莉はしばらくの間、完全に口を閉ざした。
「――嫌だったわ。言葉が違う。食べるものが違う。身に纏う着物も、信じる神様も違う。そのすべてを『変えろ』と言われて」
糸を通す茉莉の指先が震え、止まる。
「そして、結果は散々だった。急激な変革を迫られた狄の若者たちが反発し、やがて反乱が起きたわ。……朝廷の出した答えは『殲滅』。生き残った者たちが、今は人目を忍ぶようにして、各地に小さな集落を作って細々と暮らしているわ」
残酷な歴史の事実が、静かに室内に落ちた。




