第十九話 殲滅戦
桜桃は、指先ひとつ動かすことができなかった。
──殲滅。
以前、刹那から聞いた、凄惨な過去の記憶が、目の前の少女の言葉となって生々しく蘇る。
「……では、その『橋渡し』のお役目は、どうなったのですか」
「なくなったわ」
茉莉は、あっさりと言い切った。
「必要性が、完全になくなったから」
カチリ、と小さな音を立てて、また次の玉が糸へと通される。
「だって、融和すべき相手を殲滅しようとしてしまったのだもの。橋渡しをする相手なんて、もうこの国のどこにもいないでしょう?」
桜桃は、胸の奥が鉛を詰め込まれたように重くなるのを感じた。
受け入れる、ということ。
それは、本当に相手を「救う」ということなのだろうか。
言葉を変えさせ、名を変えさせ、暮らしを変えさせ。
自分たちと「同じもの」にしようと強制することは。
それは――その民族の存在そのものを、跡形もなく消し去ることと、一体何が違うのだろう。
「斎宮様は」
桜桃は声を絞り出すようにして、静かに問いかけた。
「その……和風化政策というものを、どう思っていらっしゃいますか」
茉莉は完全に手を止めた。
しばらくの間、膝の上の小さな白い玉を、愛おしそうに、けれど哀しそうに見つめていた。
「難しいわね……」
やがて、ぽつりと静かに言った。
「あの政策を考えた朝廷の人たちも、決して狄のことが憎くて嫌いだったわけじゃないと思うのよ。本当に、この国から争いをなくしたかったのだと思う。それは、きっと本心よ」
「……」
「でもね、方法が間違っていた」
茉莉は、糸をきゅっと強く引いた。
「あの方たちは、すべてを『同じ』にしようとしたのよ。違うままで、違う姿のままで、共に生きるということを……決して許さなかったのね」
桜桃は、すぐには言葉を返すことができなかった。
脳裏をよぎったのは――羽州の山奥、逃げ場のない剥き出しの自然のなかで、狄に神への「生贄」として捧げられかけた記憶だった。
燃え盛る炎、肌を焦がす熱気、法衣を纏った者の狂気、そして死の恐怖。
国の戸籍に名を持たず、歴史に記録されず、自分たちの神を信じて生きていた人々。
あの時、彼らは狂気に駆られていたのではない。朝廷にすべてを奪われ、飢えに喘ぎ、追い詰められた果てに、神に縋るしか道がなかったのだ。
――彼らをそこまで追い詰めたのは、誰か。あの者たちは、一体何を拒んだのか。
そして、父は、何を守ろうとしたのか。
「深黎はね」
茉莉が、途切れた糸を繋ぐように静かに続けた。
「私が都へ来てから、すっかり変わってしまったって言うのよ。言葉遣いも、歩き方も、……笑い方までもが、すっかり和の人間になってしまったって」
桜桃は顔を上げた。
茉莉は、繋がっていく首飾りを見つめたまま言葉を紡ぐ。
「私はね、変わったつもりなんてなかったの。ただ、宮中で、生き延びるために周囲に合わせていただけ。でも……ずっと昔の私を知る深黎から見たら、私の本来の姿が、少しずつ消えて、死んでいくように見えたらしいわ」
「それは……」
「私は、今でも『マリ』よ。それが、狄族での私の本当の名前」
茉莉は、優しく微笑んだ。
「この広い国の中で、深黎だけが、今でも私をその名前で呼んでくれるの」
カチリ、カチリと、首飾りの玉が一つずつ、確かな絆のように糸で連なっていく。
桜桃はその手元をただ見つめながら、何も言うことができなかった。
正しい答えなど、この国のどこを探しても落ちてはいない。
ただ、新しい時代を生きる桜桃の胸の奥で、その問いだけが、静かに、けれど確実にその重みを増していった。
***
朝凪は、神域の門の外に取り残されていた。
少し離れた場所では、柳が瑛と何やら今後の道程について静かに言葉を交わしている。
朝凪は一人、天を突くようにそびえ立つ杉の古木の並木を見上げた。
風は、ない。
ただ、耳が痛くなるほどの静寂が広がっていた。
こうして一人で静かになると、羽州の山奥で、桜桃が狄族に囚われ、生贄にされかけた悍ましい記憶が鮮明に蘇ってくる。
──狄族。
その名を耳にするたび、朝凪の胸の奥で、決して消えない過去の血の匂いが呼び覚まされるのだ。
◇
日向に呼び出されたのは、近衛少将になって少し経った頃だった。
「狄族の反乱が想像以上に苦戦している。近衛からも兵を出すことになった」
「近衛まで動かすのですか。宮中の警護は」
「もちろん、最低限の警護は残していく。だが、俺とお前は戦地だ」
朝凪は右手を刀の柄に添え、近衛の拝命の形を取る。
「御意」
手を降ろし、日向を見上げる。
「……場所は二箇所ありますが、どちらですか?」
「北西側が、かなり苦戦しているそうだ」
「北西を預かる朝廷軍は、どなたの隊ですか」
「北西は――昊夜だ」
「昊夜……」
確かに、当時の昊夜の隊は層が薄かった。だがそれは、それで十分に鎮圧可能であるという判断が上から下りたからに他ならない。
それなのに、実際は苦戦を強いられている。そればかりか、自分だけでなく、近衛の筆頭である日向までもが応援に向かうという。
ただの異民族の小規模な暴動だと思っていた。だが、その実態はそれほど単純なものではないのではないか――。微かな疑問の芽が脳裏に浮かんだが、朝凪はその時、それを深く飲み込んだ。
出発の前の夜、朝凪は桜桃にしばらくここを離れることを告げた。
その瞬間、桜桃は激しく泣きじゃくった。
普段は滅多に弱音を吐かないこの子が、これほどまでに泣く姿を見るのは初めてで、朝凪は少しばかり面食らってしまった。
「……怪我、しないでね」
「するかもしれません」
「絶対だめ……!!」
桜桃は朝凪の衣の袖を掴んだまま、泣き続けた。朝凪には、彼女をなだめる適切な言葉がどうしても見つからなかった。
「……お願い。無事に戻ってきてね」
やがて、少しだけ落ち着きを取り戻した桜桃は、涙に濡れた顔で、それだけははっきりと、祈るように告げたのだ。
朝凪は、答えなかった。……いや、答えられなかった。
死線へ赴く前に、確かな約束など何一つできない。それくらいは、知っていた。だから、ただ無言で、深く頷くことしかできなかった。
星河帝が、自分と日向という近衛の主力を同時に戦地へ送り込んだということは、この戦を早期に終わらせるつもりだったはずだ。誰もがそう信じて疑わなかった。
だが、蓋を開けてみれば、戦は朝廷の想像を遥かに超えて泥沼化し、長く長引いた。
ただの未開の異民族の寄せ集めだと侮っていたが、彼らには自然の中で培われてきた、剥き出しの強さがあった。
険しい地理を巧みに使い、朝廷軍を翻弄し、誘い込まれた兵たちが一人、また一人と音もなく殺されていく。和人への激しい憎悪を宿した瞳で、女も、子供さえもが武器を取り、死に物狂いで襲いかかってきた。
――桜桃を、護るための剣だった。
そう自分に言い聞かせ、固く握り締めてきたはずの刀で、名もなき人々を容赦なく斬り伏せていく。
一人、また一人と肉を断つたびに、朝凪の胸の内で、人間としての「何かが」確実に削り取られていった。
音もなく。静かに。
それに気づいた時には、内側の何かはもう、だいぶ擦り減って、なくなっていた。
『戦は、もうごめんだ』
そう呟き、魂を削り取られる絶望の中で、一人、また一人と、かつての仲間たちが戦場から去っていった。
刹那も、そのうちの一人だった。
◇
朝凪はゆっくりと目を閉じた。
それ以上は、もう思い出さない。今更何を思い出したところで、流れた血も、失われた日々も、何一つ変わりはしないのだから。
ただ――。
あの過酷な記憶の底に、今でもたった一つだけ、鮮明に残り続けている光がある。
あの戦場で刹那が遺した言葉でも、日向の下した決断でも、昊夜の采配でもない。
地獄のような戦からようやく戻った夜、お帰りなさいと迎えてくれた桜桃が、ぽつりと言ったのだ。
『朝凪が……無事に戻ってきてくれて、本当に良かった』
ただ、それだけだった。
それだけの、何の飾りもない一言だけが、今も朝凪の凍てついた胸の奥で、決して消えずに灯り続けていた。
さあ、と。静まり返っていた杉の葉が、微かな風に揺れる音が、神域の空に小さく響いた。
朝凪は目を開けた。
杉の並木が落とす深い影は、先ほどと何一つ変わっていない。神宮の奥へ続く道は、今もひっそりと静まり返ったままだった。
ふと視線を感じて横を向くと、瑛がいつの間にか帳面を閉じて、こちらをじっと見つめていた。
その珍しく真剣な眼差しに、朝凪は自分が無意識のうちにひどく険しい顔をしていたことに気づく。
「……朝凪殿、何か」
どこか気遣うような瑛の声。
朝凪はすっといつもの涼やかな表情に戻り、衣服の乱れを調えるように軽く袖を引いた。
「いいえ、なんでもありません」
朝凪は、短く答えた。
その声はいつものように静かで、だからこそ、それ以上の追及を寄せ付けない冷たさを孕んでいた。
***
桜桃が部屋を出たあと、茉莉は再び、広大な神宮の一室で一人になった。
磨き抜かれた長い廊下を渡っていく二人の足音がゆっくりと遠ざかっていく。
やがて、それも完全に聞こえなくなった。
部屋の中は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれる。
茉莉は膝の上に置かれた、修復を終えたばかりの首飾りを見つめた。
白い玉が、一本の麻糸に連なっている。
確かに糸は通し直した。切れる前と同じように、ちゃんと繋がっている。
だが――。
茉莉は細い指先で、玉を一つずつ数えた。
……もう一度、念を認めるように数え直した。
「……一つ、足りない」
誰もいない部屋に、ぽつりと、掠れた声が落ちた。
茉莉はしばらくの間、その欠けた首飾りを見つめていたが、やがて、先ほど深黎が滑り出ていった窓の方へと視線を移した。
思い返すのは、先ほどまで目の前にいた、あの男の顔だ。
十年近くの歳月を経て、神域という檻のなかでようやく再会できた。
ただそれだけの事実が、胸が張り裂けそうになるほど嬉しかった。
だから、最初は気づかなかった。
気づかない振りをしていた。
彼が、いつもと決定的に違っているということに。
飄々とした佇まい。それはいつも通りだった。
桜桃の厳しい追及をさらりとかわす軽口。それも、いつもの彼だった。
だが。
ふとした一瞬の、会話の合間の「間」に、その漆黒の瞳が、気の遠くなるほど遠くを見つめていた。
茉莉がそれに気づいて話しかけると、彼はすぐにいつもの、掴みどころのない笑顔に戻った。
だから、見なかったことにしていた。
いや――見たくなかったのかもしれない。その不穏な光から、目を背けたかった。
茉莉は、掌の中の首飾りをきゅっと強く握り締めた。
あの、すべてを拒絶するような底の知れない目は、よく覚えている。
それは、深黎が心の中で、何か重大な「決意」を固めたときの顔だ。
昔から、ずっとそうだった。
川で大きな魚を捕ると決めたときも。
一人で険しい山を越えると決めたときも。
都へ行くと決めたときも。
彼はその度に、いつも一人で動いた。
誰にも相談せず、誰の引き止めにも耳を貸さず、一人でその背中を向けて去っていった。
「……今度は、何をしようとしているの」
誰もいない部屋に、虚しく声が落ちる。
当然、答えを返す者は誰もいない。
茉莉は首飾りをそっと抱きかき寄せ、自らの胸元へと強く押し当てた。
冷たい玉が、装束越しに肌へと凍みる。
一つだけ玉が足りない、不完全な首飾りを。
「――シェン・リー」
小さく、奪われた故郷の言葉で、彼の本当の名前を呟いた。
呼んでも、叫んでも、二度と声の届かない遠い場所へ、彼はまた一人で向かおうとしているのかもしれない。
その不吉で、けれど確信に近い予感だけが、じわりと、冷たい油のように茉莉の胸の奥深くへと広がっていった。




