第六話 善処します
「ゆっくりしていって、と言いたいところなんだけど……」
桜桃は畳の上に腰を下ろしながら、少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「二日後には、ここを出なきゃいけないの」
「どこかに行くのか」
「……武州に」
「武州?」と刹那が眉をひそめる。
「内乱が起きていて……神祇官の派遣に、私が加わる
ことになって」
刹那はしばらくの間、黙って桜桃を見つめていた。
すると、傍らにいた朝凪が険しい視線を桜桃へと向ける。
「既に聞いています。正気ですか」
朝凪は静かにそこに立っていたが、長年の付き合いゆえに、彼が内心でひどく怒っているのが桜桃には分かった。
刹那はまだ沈黙を守っていた。それから、少しざらついた声で呟く。
「……内乱の、戦地に行くのか」
「はい」
「死者の弔いのために、か?」
「そうよ」
刹那は小さく息を吐き出した。
戦を知っている。あの悍ましい空気も、鼻を突く血の匂いも、無惨に死んでいく人間の顔を、刹那は嫌というほど知っていた。
いくら軍の護衛がつこうが、どれほど安全な後方に配置されようが、あの場所は戦慣れした人間にすら消えない傷を刻む。
ましてや、死者の弔いだ。目の前にある生々しい死を、ひとつひとつ心に受け取りながら、それでも祈り、舞い続ける。
因州の白砂での、あの葬送の舞が脳裏に蘇る。
あの時の桜桃の顔を、刹那は鮮明に覚えていた。舞い続けながら、自らの何かを削りながら、それでもなお止まらなかった、あの痛々しいほどに毅然とした横顔を。
こんな女の子を、あんな地獄へ向かわせるものじゃない。
「……人手不足にも程があるだろ」
ぼそりと吐き捨てた言葉に、部屋の空気がわずかに張り詰めた。
朝凪は何も言わず、静かに壁に背を預けた。
(あの人は一体、何を考えているのか……)
神祇官の長である雅のことだ。因州、羽州、そして今度は戦地。毎回、理由を並べては六花を危険な場所へ送り出す。
その言い分は常に正論で、反論を許さぬ言葉で気づけば承諾させている。間違ってはいない。それは分かっている。分かってはいるが。
朝凪は静かに、重い息を吐き出した。
しばらくの間、三人の間に沈黙が落ちた。
やがて、朝凪が静かに口を開く。
「今回、私は清明様経由で本隊への同行を志願したのですが、先発隊に回されてしまいました。あなたと一緒には行けません」
「そうですか……」
「くれぐれも、無茶はしないでください」
「……善処します」
「善処ではなく、『絶対にしない』と約束してください」
「努力します」
朝凪は諦めたように薄く息を吐いた。彼女の言う「善処」がどの程度のものか、これまでの経験から嫌というほど分かっている。到底期待はできなかった。
本隊で、昊夜と一緒に行くことになるのは気に食わなかった。だが、あの男が桜桃を危険な目に遭わせるはずがない、という確信だけはある。それだけが、今の朝凪にとって辛うじての心の支えだった。
すると、刹那が面倒くさそうに頭を掻きながら、上体を起こした。
「あー……しゃあねぇなぁ。行ってやるよ」
「え?」
「神祇官の一行にさ、護衛として紛れ込んでやるって言ってんだよ」
「でも、刹那は戦が嫌いじゃなかったの?」
「嫌いだね。今でも大嫌いだ」
刹那はさらりと答えた。
「なのに、どうして?」
「お前がそんな頼りねぇ顔して行くってんなら、しゃあねぇだろ。お前が行くなら、俺も行ってやるよ」
刹那は真っ直ぐに桜桃を見た。口元はいつものようにからかうように笑っていたが、その目は全く笑っていなかった。
こういう時の刹那の瞳は、吸い込まれそうなほどに澄んでいる。普段は飄々として不真面目な癖に、肝心なところでだけ、妙に男としての本気を見せてくるのだ。
「……刹那、ありがとう」
「礼なんか言うな。姫にそんな可愛い顔で感謝されると、引き返せなくなるだろ」
「……ど、どういう意味よ?」
刹那は答えなかった。ただ、悪戯が成功した子供のように柔らかく微笑んでいる。
何かを言い返そうとしたが、上手い言葉が見つからない。
桜桃はきまずくなって、少し視線を逸らした。なんとなく、耳の裏まで熱い。なぜ今、自分の顔が熱くなっているのかは、あえて考えないことにした。
刹那は彼女のその微かな動揺を見逃さず、満足そうに静かに微笑むと、手元の湯飲みを傾けて何事もなかったかのように茶を一口すすった。
朝凪は壁に背を預けたまま、そんな刹那の様子をじっと見つめ、それから桜桃へと視線を移した。何かを言いかけることもなく、ただ、静かに目を伏せる。
「……お前は本当に、昔から変わらないな」
静かな声だった。
刹那は湯飲みを持ったまま、視線だけで朝凪を捉える。
「そっちもな」
短い、男同士のやり取りだった。
けれどそれだけで、二人の間にある長い時間の積み重ねが、少しだけ見えた気がした。
桜桃はまだ少し頬に熱を持たせたまま、その静かな言葉の応酬を、黙って見守っていた。
***
備州、玄英家の屋敷にもその報せが届いていた。
銀牙は、執務机で黙々と書類に筆を走らせていた。
密偵からの書状を片手に持った側近の一人が恐る恐る口を開く。
「……申し上げます」
「何だ」
視線は書類に落とされたままだ。
「――六花殿が、武州への派遣団に加わるとのことにございます」
銀牙の筆が、ぴたりと止まった。
一拍。
二拍。
静寂だけが部屋を支配する。
銀牙は何も言わなかった。声を荒げることも、机を激しく叩くことも、 驚いて立ち上がることもしなかった。
ただ、手にしていた筆を、吸い込まれるように静かに置いた。
控えていた供たちは、誰一人として呼吸すら満足にできなかった。
銀牙の横顔に、かすかな笑みが浮かんでいたからだ。確かに、それは笑みだった。
だが、そこには一切の温度がなかった。凍てついた冬の刃のような、あまりに静かで、冷酷な微笑。
それがかえって、見る者の骨の髄まで凍えさせるほどに怖かった。怒鳴り散らされた方がまだ救いがあった、と供の一人は後に述懐している。
銀牙はしばらくの間、机の上に転がった筆を見つめていた。
鎮魂のため。
神祇官として。
動乱に喘ぐ、武州の民のために。
(……綺麗な言葉だ)
心の中で、吐き捨てるように呟く。その美しい綺麗事の裏に、どれほど泥泥とした思惑が隠されているかなど、分かりきっていた。
宮廷というのは、そういう場所だ。昔から、何一つ変わっていない。
姉上も、そうやって使い潰された。
皇后という至高の立場を、あの男たちは巧みに利用した。都合のいい時だけ祭り上げ、都合が悪くなれば、いとも容易く切り捨てた。
それでまだ、飽き足らないというのか。
(……やはり、そういうことか)
銀牙は静かに、目を細めた。
あの、小さな命まで。
あの泣き笑いのような顔をしていた娘まで。
宮廷は貪り尽くす気か。
不思議と、怒りは湧き上がってこなかった。
湧かない方が、人としておかしいはずだった。ただ、胸の底の暗がりに、静かに沈殿していくものがあった。熱くもなく、冷たくもない。逃れようもなく重い泥のような塊。
(……帝都の風は、ぬるすぎる)
昊夜に言われた言葉を、銀牙は静かに思い出していた。
あれは警告だったのだろう。だが同時に、この世の真理でもあった。帝都は、ぬるい。腐った甘さを撒き散らしながら、人を骨まで溶かして飲み込んでいく。
銀牙は、置いた筆を見つめたまま、しばらく微動だにしなかった。
やがて、ふっと細い息を吐き出す。
「……」
供たちは誰も声をかけられない。銀牙がその美しい相貌の裏で何を企み、何を考えているのか、聞ける空気ではなかった。
銀牙はゆっくりと、優雅に立ち上がった。
「下がれ」
よく響く声だった。
「は、はい」
弾かれたように、供たちが部屋を逃げ出していく。
一人きりになった銀牙は、ゆっくりと歩み寄り、窓の外を眺めた。
備州の空は、今日も果てしなく遠く、どこまでも広かった。あの、澱んだ帝都の空とはまるで違う。
(……あの子は、確かに言ったな)
ここにいるのは自分の意志だ、と。決して引き下がろうとはしなかった、あの真っ直ぐな瞳。あれは本物だった。
だからこそ。
あの貪欲な宮廷が、彼女を完全に喰らい尽くしてしまう前に。
玄英の当主として、男として、できることがあるとすれば――。
今はまだ、答えは霧の向こうにある。
ただ、すべてを黙って見届けることだけは、絶対に御免だった。
窓の外で、乾いた風が不穏に鳴り響いた。




