第五話 来訪者
昊夜の執務室では、机の上に武州の地図が広げられていた。
昊夜は地図を見ながら、出立の段取りを整えていた。
千弦が傍らで書類を整理しながら、何気なく口を開く。
「そういえば昊夜様」
「なんだ」
「六花ちゃんも武州に行くみたいですよ」
昊夜の手が、わずかに止まった。
「六花さんと呼べ」
「あ、またそこですか」
「またではない。毎回だ」
「ちゃん付けがいけませんか」
「いけない」
「なぜですか」
「……馴れ馴れしい」
千弦はわざとらしく小首を傾げてから、楽しげに書類をめくった。
「昊夜様が六花さんのことを気にしているのは分かりましたが」
「気にしていない」
「気にしているから訂正するんでしょう」
「……話を進めろ」
「はい」
千弦は書類を揃えながら、声を潜める。
「神祇官の派遣に六花さんが加わると。八意様のご指名だそうです」
「そうか」
「戦に行くなんて、大丈夫ですかねぇ」
昊夜は地図から目を離さなかった。
「……大丈夫だろう」
「因州でも羽州でも、随分と無茶をされてますけど」
「……」
「朝凪さんから聞きました。止めても聞かない、と」
「そうか」
「心配ではないですか」
「……話を進めろ」
「はい」
千弦はにこやかな笑みを崩さないまま、次の書類を差し出した。昊夜はそれを受け取り、静かに地図へと視線を戻す。
武州。その一点を、しばらく見ていた。
雅の考えは、いつも読めない。因州もそうだった。神祇官として派遣する、と言えば筋は通る。だが毎回、その場所が穏やかではない。
(……護衛を厚くするべきだな)
地図から視線を離し、昊夜は静かに立ち上がった。
「軍務室へ行く」
千弦は小さく一礼した。その顔には何の意味も浮かんでいなかったが、手元の帳面に何かを書き込む速度だけが、わずかに速くなっていた。
軍務室に向かうと、すでに二人の男が待っていた。
暁と、疾風だった。
暁は地図の前に立ち、淡々と状況を確認している。疾風はその横で、少し緊張したように背筋を伸ばしていた。
昊夜が入ってくると、暁が実直に一礼する。
「お待ちしておりました」
「待たせた」
昊夜は地図の前に立つ。疾風が少し横へ寄った。
昊夜は地図を見ながら口を開く。
「蘇原の現状は」
「州府がある中心部が取り囲まれています。役所は一棟焼かれました。死者が出ていますが、まだ数は把握できていません」
「反乱軍の規模は」
「民と地方兵の一部、合わせて二百から三百ほどかと。ただ周辺の村にも同調する動きが出ており、長引けば広がります」
「早期に動く」
「はい。朱明の軍と合流次第、封じ込めを優先します」
昊夜が静かに頷いた。そこで、疾風が恐る恐る口を開く。
「あの、俺も作戦に加わっていいですか」
暁が静かに疾風を見た。
「加わるために来ているのでは」
「そうなんですけど……一応、確認というか」
「確認することではありません」
「そうですね」
疾風は気まずそうに身を縮めてから、今度は昊夜を見た。
「あの、兄上。俺、今回の配置ってどこですか」
「後で伝える」
「後ってどのくらいですか」
「出立前に」
「出立前って明日ですよね」
「そうだ」
「それって結構ギリギリじゃないですか」
「問題ない」
疾風は言葉を詰まらせた。それから、隣の暁に小声で囁く。
「暁殿って、昊夜兄上から配置を聞いてるんですか」
「聞いていません」
「聞いてないんですか?」
「昊夜殿がそう言われたのなら、出立前に分かります」
「それで大丈夫なんですか……?」
「大丈夫です」
疾風は納得のいかない顔で唇を尖らせた。
「……暁殿って、昊夜兄上に全部任せすぎじゃないですか。俺たち、明日出立なんですよ?」
「知っています」
「なのに配置が……」
「疾風」
昊夜の静かな声が、会話を遮った。
「はい」
「お前の配置は、先発隊の後方支援だ」
疾風は目を丸くした。
「……今、言えるじゃないですか」
「お前の配置だけ最後まで迷っていた」
「……え?」
「問題があるか」
「問題は……ないですけど」
暁はそのやり取りを口を挟まずに聞いていたが、何事もなかったかのように地図へと視線を戻した。
「疾風、先発は明朝です。準備を」
「はっ」
釈然としない顔をしながらも、疾風は背筋を正した。
そのまま、具体的な作戦の確認が続いた。
「先発は暁殿。朝廷軍を率いて直ちに武州へ向かい、朱明軍と合流。疾風はその補佐につけ。本隊は二日後に出る」
「はっ」
暁が姿勢を正すと、昊夜はさらに淡々と指示を重ねる。
「神祇官の一行も同行する。護衛の手配を」
「はっ。……神祇官の派遣には、六花殿も加わるとのことですね」
暁がわずかに声音を潜めて言い添えた。昊夜は地図を見たまま、表情を変えずに答える。
「そうだ」
「護衛は、通常より厚めにした方がいいかと」
「なぜそう思う」
暁はほんの一瞬、間を置いた。
「……因州や羽州での話を、聞き及んでおりますので」
昊夜は何も言わなかった。ただ、地図から一切目を離さなかった。
そんな二人の奇妙な沈黙を察して、疾風がまた小声で暁に尋ねる。
「六花さんって、そんなに無茶するんですか」
「そうらしい」
「昊夜兄上が護衛厚めにって言わないのに暁殿が言うってことは……」
「疾風」
暁が宥めるように言った。
「準備をしなさい」
「はっ」
疾風が姿勢を正し、今度こそ口を閉じる。
昊夜は、ただ静かに地図の武州の文字を眺め続けていた。
言われるまでもなかった。護衛は、最初から手厚く手配するつもりだ。
だが、それをわざわざ口に出す必要はなかった
***
桜桃は清明が手配してくれた屋敷へと戻った。
小ぢんまりとしてはいるが、手入れの行き届いた邸宅だった。清明が「宮城に近すぎても遠すぎても不便でしょう」と気を回し、半年ほど前から使わせてくれている場所だ。
しかし、門をくぐったところで桜桃の足が止まった。
上がり框に、靴が二足並んでいる。
一足は見慣れたものだ。朝凪の靴である。だが、もう一足は――。
桜桃は少し首を傾げた。見覚えはある。だが、誰のだったか。
記憶を辿ろうとした瞬間、奥から気怠げな足音が響き、ふすまが勢いよく開いた。
「姫」
刹那がにやりとした笑みを浮かべ、片手を軽く上げている。相変わらずどこか投げやりで、風来坊のような佇まいだった。
「刹那!」
「よお、久しぶり」
「どうしてここにいるの?」
「まあ、色々とあってな」
『色々』という万能な言葉で、世の中のすべてを説明しようとするような人だった。桜桃は少し呆れつつも、懐かしさに胸を躍らせて中へと入った。
奥の部屋には、すでに朝凪が控えていた。
桜桃は刹那の顔と朝凪の顔を交互に見つめ、何かを言いかけて、やはりやめた。
「二人は知り合いなの?」と聞く必要はなさそうだった。二人の間に流れる空気は、明らかに初対面のそれではない。
(そういえば……)
刹那も朝凪も、かつては戦場に身を置いていたと聞く。きっと過去のどこかで相まみえたのだろう。わざわざ詮索しなくてもいいことだった。
「でお前ら、ここで二人で住んでるわけ?」
刹那は腕を組んだまま、桜桃と朝凪を胡散臭そうに見やった。
因州では、この二人は別行動を取っていたはずだ。だが、あの頃から朝凪が遠くから彼女をじっと見つめていたのを、刹那は知っている。
「何かあるな」とは踏んでいたが、まさか同じ屋根の下に転がり込んでいるとは予想外だった。
刹那はゆっくりと室内を見回した。
質素な造りの部屋だ。華美な調度品は何もない。
だが、棚の上に置かれた小さな香袋に気づき、刹那は鼻を利かせた。
(白檀と……何か混じってるな……)
どこか上品で、仄かに甘い香りが微かに満ちている。
さらにその隣には、瑞々しい白い花が飾られていた。茎の長さが綺麗に切り揃えられており、誰かが丁寧に活けたものだと一目で分かった。
刹那は瞬時にすべてを察した。この男が、せっせと花を摘み、香を焚いて、姫のためにこの空間を甲斐甲斐しく整えているのだ。
値踏みするような刹那の視線を受け、朝凪が落ち着いた声で返した。
「何か問題でも」
「問題だらけだろ」
刹那は盛大にため息をつき、朝凪の胸元を指差した。
「いいか? 世間一般じゃな、年頃の娘と男が二人きりで暮らすのを『同棲』って言うんだよ。お前、因州で姫のこと気にしてると思ったら、都に戻ってちゃっかり囲い込んでんじゃねえよ」
「何をそんなに怒っている」
「 そこの花もお前が活けたのか」
「……私が活けた。それがなんだ」
朝凪は淡々と認めた。その瞳の奥にある静かな感情を、刹那が正確に読み取れるはずもない。
「やっぱりお前かよ! 意外とマメなことしてんじゃねえ!」
刹那が呆れ果てて声を荒らげると、桜桃は不思議そうに首を傾げた。
「え? 刹那、何がそんなに問題なの?」
「何がって、お前なぁ……危機感がなさすぎるだろ。こんな元武人の愛想のない男と二人きりで、怖くないのかよ」
「朝凪はこう見えて、すごく優しいのよ。朝は私より早く起きて朝ごはんを作ってくれるし、いつも美味しいお茶を淹れてくれるし、お花が枯れそうになると、いつの間にか新しいものに替えておいてくれるの」
「お前なぁ……!」
あまりの天然っぷりに、刹那は頭を抱えた。
男が女の部屋で香を焚き、花を活け、せっせと尽くしている意味を、姫は一寸たりとも理解していない。完全に安全な同居人だと思っている。
刹那は再び朝凪を睨みつけた。
「おい。姫がこれだけ無防備だからって、お前、変な気起こすなよ」
「起こさない」
朝凪は一切の私情を挟まない声音で、極めて冷静に言い切った。
「私はただの居候だ。部屋が余っているからと、六花が置いてくださっただけだ」
「居候ねぇ……」
刹那は、朝凪のその徹底して一線を引いた態度を、逆に『高嶺の花すぎて手が出せないヘタレ男の言い訳』だと解釈した。フッと口端を吊り上げる。
「ふーん。まあ、お前が奥手で、手が出せないってんなら別にいいけどよ」
「……何の話をしている」
「別に? 意外と純情なんだなと思っただけだ」
刹那がニヤニヤと不敵に笑うと、朝凪は心底わけが分からないというように、僅かに眉を寄せてそっぽを向いた。
桜桃は、刹那が一体何をそんなに心配しているのかさっぱり分からないままだった。
ただ、二人のちぐはぐで噛み合わないやり取りが無性に可笑しくて、楽しそうに声を立てて笑った。




