第四話 武州へ、また
桜桃は花梨へ会いに行くため、皇居へと向かった。
桜桃が案内されたのは、日の差し込む面会用の客殿だった。南向きの窓から冬の柔らかな光が差し込み、室内を穏やかに照らしている。
花梨は窓際に腰掛け、膝の上に広げた白い布へ静かに針を動かしていた。
「六花ちゃん」
顔を上げた花梨は、昨年と変わらない様子だった。それだけで、桜桃は少し胸をなでおろす。
「お久しぶりです、花梨様」
「来てくれると思ってた。座って」
花梨が隣を示す。桜桃は静かに腰を下ろした。
「何を刺繍しているのですか」
「手巾よ。昊夜様に贈ろうと思って」
花梨が布を少し傾けて見せてくれた。丸い輪郭が、丁寧な針仕事で縫い取られている。
桜桃は少し目を細めた。
「……これは」
「梨の実」
「……梨の実」
「ええ。花は難しいから」
ごく自然に言う花梨の手元を、桜桃はしばらく見つめた。確かに丸い。丸くて、ちゃんと梨に見える。形も綺麗だった。綺麗だったが、
「……昊夜様に、梨の実の手巾を」
「変かしら」
「……いえ」
変、とは言えなかった。可愛らしいとは思う。思うが、何かが決定的に違う気がした。その違和感をどう言葉にすべきか迷い、桜桃は考えるのをやめた。
「六花ちゃんもやる? 布はあるわよ」
「……私が昊夜様に、ですか」
「違うわよ」
花梨は小さく笑った。
「一緒にやりましょうってこと。何でもいいの」
桜桃は少し考えてから、針と布を受け取った。
桜を刺そうと決める。花びらの丸い輪郭を、ゆっくりと縫い始めた。
二人で並んで針を動かしていると、部屋の中にはひどく穏やかな時間が流れた。
「花梨様は、昊夜様のために他にも何かされているのですか」
「色々やってるわよ」
花梨は針を動かしながら、楽しそうに続けた。
「先月は、昊夜様の執務室にある文机の向きを変えたの。南向きの方が目に優しいと聞いて」
「……昊夜様は何と」
「気づいていなかったみたい」
「……そうですか」
「その前は、夜遅くまでお仕事をされると聞いたから、目に良いという薬膳茶を調合したんだけど」
「飲んでいただけましたか」
「飲んでくれたわ。ただ……顔がちょっと苦そうだった」
「……」
「でも全部飲んでくれたから、きっと喜んでいたと思うの」
桜桃は針を持ったまま、少し間を置いた。
「……そうですね」
「昊夜様って、喜んでいても顔に出にくいじゃない。だからよく分からなくて。昊夜様って、一体何が好きなのかしら」
「……難しいですね」
「ねえ、六花ちゃんはどう思う? 昊夜様、喜んでくれてるかしら」
桜桃はしばらく黙り込んだ。
薬膳茶、文机、梨の実の手巾。昊夜の顔を思い浮かべ、彼がこの手巾を受け取った瞬間の表情を想像してみる。
(……何も言わないと思う)
「……きっと、大切にしてくれると思います」
それが、桜桃にできる精一杯の返答だった。
「そうよね」
花梨は満足そうに頷き、再び針を動かした。
「政略結婚でも、昊夜様の隣に立つって決めたなら、ちゃんとそれをしたいの」
迷いのない言葉だった。覚悟を持っている人なのだと、桜桃は改めて思う。方向性が少し独特なだけで、その真剣さは本物だった。
桜桃は自分の布に目を落とし、桜の花びらをもう一枚、静かに縫い足した。
その時、部屋の入り口の方で微かな気配がした。
桜桃が顔を上げると、柱の陰から柳が静かにこちらを見つめていた。
「……いつからいたのですか」
「最初から」
「……最初から」
「はい」
花梨が針を止めた。
「お兄様、盗み聞きはよくないわ」
「聞こえてきたので」
「同じことよ」
「……承知しました」
承知していない顔のまま、柳が部屋に入ってきた。花梨の前に腰を下ろし、手巾の梨の実をじっと見つめる。
「……花梨」
「何」
「そのままでいい」
「何が」
「昊夜殿下に合わせようとしなくていい」
「合わせてるつもりはないわ。私がやりたいからやってるの」
「……そうか」
柳は少し間を置いた。
「文机の向きを変えたのも?」
「昊夜様のためよ」
「薬膳茶も?」
「昊夜様のため」
「梨の実の手巾も?」
「……昊夜様のため」
「花梨は花梨のままでいい」
「だから、私がしたいからしてるって言ってるでしょう」
「……そうか」
柳はそれ以上言わなかったが、その目には明らかに納得のいかない色が残っていた。
桜桃は二人のやり取りを黙って眺めていた。柳の表情は至って真面目だった。だからこそ、余計におかしかった。
「……柳様は、花梨様のことが心配なんですね」
「はい」
一切の躊躇がなかった。
「花梨は気づかないうちに削られることがあります」
「お兄様、大げさよ」
「大げさではない」
「昊夜様は優しい方だもの」
「優しいかどうかと、花梨に合っているかどうかは別の話だ」
「まだ判断中なの?」
「まだだ」
花梨は小さく溜め息をついてから、桜桃を見た。
「六花ちゃん、この人こういう人なの」
「……なんとなく分かります」
「六花殿は正確に見ていますね」
柳が淡々と告げたところで、桜桃は少し間を置いて問いかけた。
「ところで、なぜ帝都にいるんですか」
「朝賀で父についてきた後、そのままこちらにいます」
「郁李様は」
「屋敷で留守番をしています」
「……大丈夫ですか」
「何がですか」
「一人で」
柳は少し考え込んだ。
「……たまに心配になります」
「なるんですね」
「郁李は抜けているところがあるので」
花梨が針を動かしながら、ぽつりと言葉を添える。
「郁李兄様、この前文を送ってきたんだけど、最後に宛名が書いてなかったわ」
「……それは」
「私に送ったのか、お兄様に送ったのか、いまだに謎なのよ」
柳が一瞬だけ目を細めた。
「……郁李らしい」
話がひとしきり落ち着いた頃、柳がふと口を開いた。
「そういえば、椎香殿は、お元気ですか」
すぐには答えられなかった。
桜桃は針を持ったまま、静かに答えた。
「……最近は、会えていなくて。朝凪が元気だとは言っていました」
「そうですか」
柳は短く返し、それ以上は重ねなかった。ただ、その目がわずかに遠くを見るような色を帯びる。
花梨は柳をちらりと盗み見たが、何も言わなかった。
しばらくの間、衣を擦る音と針の進む音だけが静かに続いた。
部屋に侍女が顔を出したのは、それからしばらくしてのことだった。
「六花」
桜桃は顔を上げた。見覚えのある丸い目をした、小柄な侍女。ぱっと明るい顔をしている。
「……鈴?」
「六花! 久しぶり!」
鈴は遠慮のない声で言った。
「いきなりいなくなってしまうから寂しかったのよ! 因州とか羽州とか聞こえてきて、どこへ行ったのかなって思ってたんだから!」
「色々あって……」
「色々って何!? もっと詳しく!」
「鈴」
花梨が穏やかに割って入った。
「呼びに来たんでしょう」
「あ」
鈴が慌てて口を押さえた。
「そうでした。八意様がお呼びです、六花」
桜桃は針を置いた。雅が呼んでいる。
その一言で、胸に小さな重さが落ちた。
「……分かりました」
桜桃は花梨に向き直った。
「お邪魔しました」
「また来てね。続きは預かっておくわ」
桜桃は膝の上の布を見た。桜の花びらが、まだ半分しか縫えていない。
「……はい」
鈴に続いて部屋を出る。回廊に出た途端、冷えた冬の空気が頬を撫でた。
雅が呼んでいると聞いただけで、なんだか嫌な予感がする。
桜桃は静かに息を吸い、雅の待つ場所へと歩き出した。
***
神祇官庁にある雅の執務室は、いつも通り静かだった。窓から差し込む冬の光が、机の上に山積みにされた書類を白々と照らしている。
雅は桜桃が入ってきても、視線を上げなかった。筆を動かしたまま、短く命じる。
「座りなさい」
「はい」
桜桃は静かに腰を下ろした。
それから、たっぷり三分は経過した。室内には、筆の音だけが響き続ける。ようやく最後の一行を書き終えたらしく、雅は筆を置いた。そして、何事もなかったかのように顔を上げる。
「武州の件は聞いていますね」
「はい」
「神祇官を派遣することになりました。あなたにも行ってもらいます」
桜桃は一瞬、耳を疑った。
「……また、ですか」
思わず声が裏返る。だが雅の表情は変わらなかった。
「また、です」
「因州、羽州と、あれほど酷い目に遭って帰ってきたばかりなのですが……」
「知っています。生きて戻れて何よりでした」
「今回は朝廷軍も行くのですよね?」
「ええ。ですが安心しなさい、今回の統帥権は昊夜殿下です」
全く安心の材料にはならなかった。桜桃はがっくりと視線を落とす。
「……自信がありません。因州の時は、舞に意味がありました。民の心が限界を迎えていたから、私の舞が心の支えになった。でも今回は、戦です。武力衝突の最中に、舞で何が変わると言うのですか」
「変わりませんね」
「……え?」
「舞で戦況は変わりません」
雅はあっさりと頷いた。相変わらず、暖簾に腕押しである。
桜桃は必死に言葉を重ねた。
「……それなら、なおさら役に立てません」
「なぜそう思うのですか」
雅が静かに、しかし妙に核心を突くような声で聞いた。桜桃の言葉が詰まる。
本当の理由を口にするのは、ひどくためらわれた。しかし、言わねばこの上司は絶対に引かない。
「……昊夜様は、私が危ない目にあったら、きっと助けようとしてくださいます。でも、だからこそ、私はあの方の足手まといになってしまうんです」
桜桃は膝の上の拳に視線を落とした。
「だから、自信がありません」
しばらく、重い沈黙が落ちた。さすがの雅も、この殊勝な訴えには少しは同情してくれただろうか。
雅はゆっくりと口を開いた。
「では、お聞きしますが」
「はい」
「神祇官は、何のために武州へ行くと思いますか」
桜桃は少し考えてから答えた。
「……祈るため、でしょうか」
「それだけですか」
「弔いと鎮魂を……」
「そうですね」
雅は穏やかに微笑んだ。
「兵は戦います。文官は民を守ります。では、神祇官は何を守るのでしょう」
桜桃は少し間を置く。
因州では、舞が民の心の支えになった。
それならば──。
「……心、でしょうか」
「そうですね。では行けますね」
「はい?」と桜桃が間抜けな声を上げる前に、雅は手際よく書類を整えた。
いつの間にか、行く前提で話が着地している。
「……今までの反省は、ぜひ現地で活かしなさい」
「また私が迷惑をかけるかもしれませんよ」
「私は困りませんよ」と、雅がふわりと笑う。
「でも……」
「困る方がおられるとしたら、昊夜様でしょう。私ではありませんから」
桜桃は半ば呆然と雅を見つめた。
この人と話していると、いつもこうだ。全力で断ろうとして部屋に入ったはずなのに、気づけば退路をすべて断たれている。
「……一つだけ、お聞きしても?」
「何ですか」
「なぜ私なんですか。毎回、毎回……」
雅は一瞬だけ、じっと桜桃を見た。その目にどんな感情が浮かんだのかは分からない。
「人手不足なんですよ。猫の手も借りたいくらいに」
「……人手不足……」
彼はそれ以上何も言わず、再び筆を取り直した。
「準備をしなさい。三日後の早朝、出発です」
完全に会話は打ち切られた。
桜桃はしばらくその場に座り込んでいたが、自分が一体どこで承諾の返事をしてしまったのか、今思い返しても全く分からなかった。ただ、もう引き返せないことだけは明確だった。
桜桃は静かに立ち上がり、釈然としないまま一礼して部屋を出た。
回廊に出ると、冬の冷えた空気が火照った頬を撫でた。
(またか……)
深くため息をつきながらも、その足は不思議と、もう前を向いて歩き出していた。




