第三話 出陣する
朝賀から半月ほど経った頃。日向は馬を降り、因州の町を見渡した。冷たい北風が頬を撫でていく。
半年前、この地を覆い尽くしていた乾いた土煙の面影はもうない。
替わりに広がるのは、刈り取りを終えた田畑だった。
黄金色に輝いていた稲穂はすべて収穫され、積み上げられた藁束が冬の静けさの中に並んでいる。
農家の軒先には干し柿が揺れ、家々の間を子どもたちが白い息を吐きながら駆け抜けていった。
「……冬を越せそうだな」
誰に聞かせるでもなく、日向は小さく呟く。
あの苛烈な干ばつから、まだ一年も経っていない。それでも、この土地には確かに人の暮らしが戻っていた。
日向は静かに歩を進める。
やがて視界の先に、黒く裂けた山肌が姿を現した。白い雪を被った峰々の中で、そこだけが生々しい傷跡を晒している。
崩れた岩肌、抉られた斜面。雪が降り積もってもなお、その傷は隠しきれていなかった。
「あいつ……」
朝凪が爆破した山だ。
書状の報告では読んでいたが、自らの眼で見るその光景に、日向は言葉を失う。
どれほどの火薬を仕掛け、どれほどの覚悟を持って山を壊したのか。
日向は山裾へ視線を落とした。新しく掘られた水路には、凍てつく冬の日差しを反射しながら、清らかな水が静かに流れている。
日向は目を閉じ、小さく息を吐いた。
桜桃が舞い続けた七日間。
朝凪が山へ籠もった七日間。
その傷跡は今もこの土地に深く刻まれている。だが、その傷があったからこそ、この冬を越せる命があるのだ。
山へ一礼すると、日向は再び歩き出す。向かう先は因州府。彪が待っているはずだ。
執務室で書類に目を通していた彪は、荒々しい足音に顔を上げた。
日向は彪の文机の前へ踏み出す。
「彪、頼みがある」
「なんだ。珍しいな」
日向は少し間を起き、彪を真っ直ぐ見据えた。
「雨乞いをした舞姫・六花のことで……」
***
同じ頃、朱明家当主・朱明日和が帝への謁見を求めていた。
大極殿には帝のほか、昊夜、大納言の蘇芳、そして暁や清明ら八省卿が控えていた。
日和は静かに頭を下げた。四十代前半、落ち着いた所作の女性だった。華やかさよりも静かな重みを纏っている。
朱明家の当主として武州を治めてきた年月が、その立ち姿に滲んでいた。
「此度は謁見のお時間をいただき、恐悦至極に存じます」
帝が静かに頷く。
「面を上げよ」
「はい」
日和は顔を上げた。一息置いてから、迷いのない声で告げる。
「武州蘇原にて、内乱が起こっております」
場の空気が、しんと冷えた。
清明は表情を変えず、雲英も穏やかなままだ。昊夜が日和を見据えた。
「詳しく」
「はい。発端は昨年の農作物の減収です。秋の長雨により収穫が落ち込みました。州全体で見れば軽微ですが、余裕のない地域にとっては致命傷となりました。しかし税は例年通りに課され、払えぬ者からは冬支度の食糧まで徴収が及び、冬を越せぬ者が出始めました」
大蔵卿の鷹取が眉をひそめる。
「減収にもかかわらず、減税の申請が上がっていませんな」
すかさず昊夜が問う。
「兵糧の備蓄は」
「例年通り確保しております」
「民より備蓄を優先したか」
昊夜は小さく息を吐いた。
清明が静かに言葉を添える。
「武州らしい判断です」
日和は否定しなかった。
鷹取が渋い顔をする。
「軍備と物流を担う州ですからな。……だからといって、民を飢えさせてよい理由にはなりますまい」
民部卿の橘が日和に視線を向けた。
「徴収を命じたのは」
「蘇原の豪族、相良一族です。ただ――」
日和はそこで、わずかに間を置いた。
「税の基準を定めたのは、州府からの指示でした」
清明がゆっくりと口を開く。
「州府の判断か」
「そのように見えます」
「見える、とは?」
「指示の出所が、いまひとつ定かではございません」
清明は静かに視線を落とした。雲英が穏やかに口を挟む。
「州府の判断であれば、郷司として事前に止めることはできなかったのですか」
「できませんでした」
日和は答えた。
「州府は朱明家の管轄ではございません。郷司として実務上、口を出せぬわけではありませんが……今回は、その前に動かれました」
「なるほど」と、雲英は静かに頷いた。
昊夜は黙ったまま、日和を見つめている。
「現在の状況は」
「蜂起した民と地方兵の一部が、蘇原の州府がある中心部を取り囲んでおります。役所は既に一棟が焼かれ、死者が出ています」
刑部卿の有馬が口を開く。
「主導者は確認できているのか」
「……そこまでは」
暁は口元に手を置いた。
「兵を出せますか」
「朱明家として、兵を動かす準備はございます」
日和はそこではっきりと昊夜を見つめた。
「ただ、武州の兵のみで鎮圧すれば、朱明家が反対勢力を武力で抑えたことになります。中央の名のもとに動く必要がございます」
大納言の蘇芳が口を開いた。
「そうですな。内乱を一州の問題として終わらせてはなりません。帝命として鎮める。それが国を治めるということです」
静寂が落ちた。
帝は昊夜に向き直る。
「昊夜、どう見る」
昊夜は少し間を置いた。
「長引かせるべきではありません。早期に動かなければ、周辺の州に飛び火します」
「そうか」
帝は静かに頷いた。
「この件は昊夜に一任する」
それ以上は言わない。判断をすべて委ねる目だった。
昊夜は右手を刀の柄へ添え、拝命の形をとった。
「御意」
場の端で、暁は静かに立っていた。日和の報告を一言も聞き漏らさず、思考を巡らせる。
農作物の減収。税。徴収。州府の指示。
それだけならば、よくある地方の困窮と反発の話だった。
(州府の指示の出所が、定かではない)
日和が言った言葉が、妙に胸に引っかかっていた。
暁は一度だけ、日和の背中を見た。日和は正面を向いたまま動かない。その横顔には、まだ何かを言いたそうな色が微かに滲んでいた。
だが、今日は言わないのだと分かった。ここはそれを言える場ではないと、彼女は判断したのだ。
暁は静かに視線を前へ戻した。
謁見が終わり、人々が静かに散り始めた。
昊夜が大極殿を出ると、外で控えていた近衛たちが一斉に居住まいを正した。
「出陣する」
近衛は右手を刀に添えた。
「御意」
短い返答が一つに重なり、近衛たちは迷いなく昊夜の後に続いた。
***
暁が廊下の角を曲がったところで、日和が暁の隣に並んだ。
互いに足を止めることなく、言葉を交わす。
「暁、どう思う」
暁は少しの間、沈黙を守った。
「……腑に落ちない点が、いくつか」
「そうか」
日和は小さく頷いた。
「私もだ」
再び沈黙が落ちる。衣服の擦れる音だけが響く中、日和がぽつりと言った。
「不作の年に税を取り立てることはある」
「はい」
「だが、冬を越す食糧まで奪えばどうなるか。役人なら誰でも分かるはずだ」
暁は答えなかった。
分かっているからだ。飢えた民は耐えられない。遅かれ早かれ、必ず暴発する。
「まるで――」
日和はそこで言葉を切った。
「……いや」
その先は口にしなかった。暁も追及しない。ここで言葉にしてしまえば、それはただの推測では済まなくなる。
しばらく並んで歩いた後、日和が静かに言った。
「蘇原は頼む」
暁はわずかに目を見開いた。
「日和殿は」
「私は朱明家を離れられぬ」
当主としての、重い決断だった。
「だが、お前は違う」
暁は前を向いたまま、短く答えた。
「承知しました」
日和はそれ以上、何も言わなかった。ただ、前を見据えるその横顔だけが、先ほどよりも一段と厳しさを増していた。




