第二話 近衛礼
銀牙が目に見えて動揺した。
「お、おい……!」
まずい、という顔で周囲をきょろきょろと見回す。
「なぜ泣く」
「……すみません」
「泣くな! 泣かれるのは俺の管轄外だ!」
慌てふためきながら、銀牙は荒々しく、しかし壊れ物を扱うように優しく桜桃の肩に手を置いた。その大きな手が、わずかに震えている。
桜桃は咄嗟に頭を下げた。
「すみません……」
「違う、俺は怪しい者ではない……いや、怪しいが、お前の叔父だ!」
桜桃は涙を流しながら、小さく吹き出した。
「頼むから泣き止んでくれ。これでは俺がただの不審者だろう。泣かせた覚えはない、ないのに!」
「……すみません」
「謝るな、余計に泣くな!」
「……ふふ」
「笑うな! どっちかにしろ!」
「……どちらかと言われても」
「泣き笑いが一番困る!」
頭を抱える銀牙の頭上で、くせ毛がまた跳ねた。
周囲の安全を素早く確認してから、銀牙は真剣な目を桜桃に向けた。
「……なぜ神祇官などをしている。辛くないのか」
「辛くは、ありません」
「辛いなら備州へ連れて帰ってやる」
桜桃はまっすぐに顔を上げた。
「ここにいるのは、自分の意志です」
「……お前には、まだ分からないことがある」
銀牙の声が鋭さを帯びる。
「姉上がここでどんな思いをしたか、お前は知らないだろう。同じ思いをさせたくない」
銀牙が桜桃の手首を掴んだ。その手もまた、微かに震えていた。
「お前には、もっと違う場所にいてほしいんだ」
その時、重い足音が響いた。
「何をしている」
静かだが、有無を言わせぬ声。振り返ると昊夜が立っていた。
昊夜の視線が二人を射抜く。
桜桃の目には涙の跡があり、その腕は銀牙に掴まれている。
昊夜の顔が、わずかに険しさを増した。
銀牙が一瞬だけ身を固くし、それから少し慌てた声で取り繕った。
「いえ。この子が歩いた拍子に、裾に雪が跳ねまして。それを叱ったら泣いてしまって」
昊夜は銀牙を見つめ、それから桜桃に視線を移した。
俯く桜桃の顔を見れば、それが嘘であることなど一目瞭然だった。
「その手を離せ、銀牙殿」
銀牙の手が、ゆっくりと離れていく。
すかさず昊夜が桜桃の手を取った。そして、まっすぐに銀牙を据え置く。
「用が済んだなら、早く備州へ帰られよ。帝都の風は、お前にはぬるすぎるだろう」
静音の中に、明確な拒絶があった。
銀牙は何も言わず、踵を返した。振り返ることもなく歩いていくその口元が、誰にも見えない角度で不敵に歪んだ。
大路へ向かう途中で、彪が銀牙に追いつき、小声で尋ねた。
「昊夜殿は何と」
「警告だ」
銀牙はあっさりと答える。
「帝都で騒ぎを起こすな、ぬるい警告で済んでいるうちに備州へ戻れ、ということだ」
彪はしばらく沈黙を守った。
「……引き下がるのか」
「今日はな」
銀牙はそれだけ言って前を見据えた。くせ毛が風に揺れ、黒い着物の裏地が冬の光を受けて鮮やかに翻った。
回廊に残された昊夜は、桜桃を見下ろした。
「何があった」
桜桃は少し間を置いてから答えた。
「……何でもありません」
「六花」
「何でもありません」
桜桃は昊夜の手をそっと外すと、静かに頭を下げた。
「失礼します」
足早に去っていく小さな後ろ姿が、すぐに人波の中へと紛れ、見えなくなる。
桜桃の手が、自分の手から離れた。
そうあるべきだった。それで正しかった。銀牙が手を離した時点で用は済んでおり、自分が手を出す必要などなかったのだ。
なのに、昊夜は自分の掌を見つめた。
ほんの一瞬、掴んだだけだ。それだけのことなのに、手のひらに残った温かさが消えない。指の形が、まだそこにあるような錯覚さえ覚える。
(……なぜだ)
問いが浮かぶ前に、思考を心の奥底へと押し込んだ。余計なことを考える時間など、今の自分にはない。
歩き出す。それでも、溢れる何かを閉じ込めるように、あるいは消し去るように、昊夜は自らの手を強く握り締めずにはいられなかった。どちらの意味もなさぬまま。
儀が終わり、人々が散り始めていた。
桜桃は神祇官として後片付けの指示を出しながら、広場を見渡した。
百官たちの衣の色が、少しずつ散っていく。深い紫から緋へ、青から緑へ。あれほど厳かに揃っていた景色が、ただの人の流れへと戻っていく。
正月の空は高く、どこまでも冷えていた。薄い雲が西へ流れていく。
今年も始まったのだと、桜桃は思った。どんな一年になるのか、今はまだ分からない。
叔父がいた。知らなかった肉親が、生きていた。
それだけで、今日という日が少し違う色を帯びた気がした。
泣いてしまったことは恥ずかしかったけれど、これでよかったのかもしれないとも思う。
ただ、今日この場に揃ったものの重さを、桜桃は静かに胸の奥へと仕舞い込んだ。
***
朝賀が終わり、桜桃が神祇官庁へ向かう回廊を歩いていると、前方から銀牙が歩いてきた。
彼は周囲をさっと見回し、誰も見ていないことを確認すると、桜桃の懐へ手早く書状を滑り込ませた。
人影がなくなったところでその書状を開くと、そこには簡潔に『いつでも頼れ』と記されていた。
(叔父様……)
胸に温かいものが込み上げる。桜桃は一息ついてから、再び歩き出した。
桜桃が神祇官庁へ差し掛かると、正門の前に門番として佇む朝凪の姿があった。
「朝凪」
呼びかけると、朝凪がこちらを向く。
「六花。朝賀は終わりましたか」
「ええ。さっき、銀牙様と会ったの」
「そうでしたか」
「……すぐ見抜かれてしまったわ」
朝凪の動きが一瞬止まったが、少し表情を和らげた。
「銀牙殿ですから」
「やっぱり?」
「ええ。あなたのお父上のことも、お母上のことも、誰よりよく知っておられます」
桜桃は小さく息をついた。
「少し怖かったけど、優しい人ね」
「ええ、身内には甘い方です」
桜桃はくすりと笑った。
朝凪がそういうのならきっと大丈夫なのだろう。
「では、お通りください」
朝凪が半歩、恭しく道を空ける。その通りすがりに、彼の腰にある刀へ桜桃の目が留まり、桜桃は歩きだそうとした足を止めた。
「近衛が刀を鳴らす所作、格好良いわよね」
朝凪が不思議そうに少しだけ首を傾げる。
桜桃は見様見真似で手を動かした。
「……カチッてやるやつ。朝賀のとき、皆が一斉に鳴らしてたでしょ」
朝凪は、「ああ」と少しだけ目元を和ませた。
「……『近衛礼』のことですね」
「近衛礼って言うのね。儀式ではみんなでするのね」
「はい。刀はいつでも抜ける。でも、抜くかどうかは帝の命による。という意味が込められています」
「みんなで揃うと、あんなに迫力があるのね」
桜桃は笑みを浮かべた。
「一人の時とは、全然違うの」
その言葉に、朝凪の動きがぴたりと止まる。
彼はそこで初めて、桜桃の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「……一人の礼を、ご覧になったことがあるのですか」
「ええ。日向がしてくれたの」
桜桃は炎を遠くに見つめるように、細めた。
朝凪は目を見開いた。その瞳がかすかに揺れる。
「……日向殿が?」
「謀反の夜に、『お戻りの日まで、お待ちしております』って。その言葉の前に、あの音を鳴らしてたの」
朝凪は静かに黙り込み、それから視線を落とした。
「……そうでしたか」
「一人ですることもあるのね」
朝凪は少しの間を置いてから、口を開く。
「あります」
「一人でするときも意味があるの?」
「……ええ。近衛が、自らの意思で忠誠を誓うという意味です」
桜桃は息を呑み、目を見開いた。
「忠誠?」
「近衛が一人でこの礼を捧げるのは、命を捧げるという覚悟を生涯変えぬと決めた時だけです。本来、幾度も行うものではありません」
桜桃は言葉を失った。
燃え盛る炎の中で、ただ一人膝をついた日向の背中が、鮮やかに脳裏によみがえる。
(あれは、そういう意味だったの……)
あの時響いた乾いた音が、いまになって耳の奥で重く鳴った。
しばらく沈黙が続いたが、朝凪は視線を上げ、桜桃を促すように半歩引いた。
「遅れますよ。どうぞ」
「……ええ」
桜桃が歩き出す。
朝凪は、回廊の向こうへ消えていく彼女の背中を、しばらく見つめていた。
(……日向殿が、姫様に)
あの人は誰にも語らなかった。
語る必要などないとでもいうように。
朝凪は、その重みを胸に刻み込むように、ただ静かに佇んでいた。




