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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第四章 地は割れ、刃となる【武州動乱編】

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第二話 近衛礼

 銀牙が目に見えて動揺した。


「お、おい……!」


 まずい、という顔で周囲をきょろきょろと見回す。


「なぜ泣く」


「……すみません」


「泣くな! 泣かれるのは俺の管轄外だ!」


 慌てふためきながら、銀牙は荒々しく、しかし壊れ物を扱うように優しく桜桃の肩に手を置いた。その大きな手が、わずかに震えている。


 桜桃は咄嗟に頭を下げた。


「すみません……」


「違う、俺は怪しい者ではない……いや、怪しいが、お前の叔父だ!」


 桜桃は涙を流しながら、小さく吹き出した。


「頼むから泣き止んでくれ。これでは俺がただの不審者だろう。泣かせた覚えはない、ないのに!」


「……すみません」


「謝るな、余計に泣くな!」


「……ふふ」


「笑うな! どっちかにしろ!」


「……どちらかと言われても」


「泣き笑いが一番困る!」


 頭を抱える銀牙の頭上で、くせ毛がまた跳ねた。

 周囲の安全を素早く確認してから、銀牙は真剣な目を桜桃に向けた。


「……なぜ神祇官などをしている。辛くないのか」


「辛くは、ありません」


「辛いなら備州へ連れて帰ってやる」


 桜桃はまっすぐに顔を上げた。


「ここにいるのは、自分の意志です」


「……お前には、まだ分からないことがある」


 銀牙の声が鋭さを帯びる。


「姉上がここでどんな思いをしたか、お前は知らないだろう。同じ思いをさせたくない」


 銀牙が桜桃の手首を掴んだ。その手もまた、微かに震えていた。


「お前には、もっと違う場所にいてほしいんだ」


 その時、重い足音が響いた。


「何をしている」


 静かだが、有無を言わせぬ声。振り返ると昊夜が立っていた。


 昊夜の視線が二人を射抜く。

 桜桃の目には涙の跡があり、その腕は銀牙に掴まれている。


 昊夜の顔が、わずかに険しさを増した。

 銀牙が一瞬だけ身を固くし、それから少し慌てた声で取り繕った。


「いえ。この子が歩いた拍子に、裾に雪が跳ねまして。それを叱ったら泣いてしまって」


 昊夜は銀牙を見つめ、それから桜桃に視線を移した。

 俯く桜桃の顔を見れば、それが嘘であることなど一目瞭然だった。


「その手を離せ、銀牙殿」


 銀牙の手が、ゆっくりと離れていく。


 すかさず昊夜が桜桃の手を取った。そして、まっすぐに銀牙を据え置く。


「用が済んだなら、早く備州へ帰られよ。帝都の風は、お前にはぬるすぎるだろう」


 静音の中に、明確な拒絶があった。


 銀牙は何も言わず、踵を返した。振り返ることもなく歩いていくその口元が、誰にも見えない角度で不敵に歪んだ。


 大路へ向かう途中で、彪が銀牙に追いつき、小声で尋ねた。


「昊夜殿は何と」


「警告だ」


 銀牙はあっさりと答える。


「帝都で騒ぎを起こすな、ぬるい警告で済んでいるうちに備州へ戻れ、ということだ」


 彪はしばらく沈黙を守った。


「……引き下がるのか」


「今日はな」


 銀牙はそれだけ言って前を見据えた。くせ毛が風に揺れ、黒い着物の裏地が冬の光を受けて鮮やかに翻った。


 回廊に残された昊夜は、桜桃を見下ろした。


「何があった」


 桜桃は少し間を置いてから答えた。


「……何でもありません」


「六花」


「何でもありません」


 桜桃は昊夜の手をそっと外すと、静かに頭を下げた。


「失礼します」


 足早に去っていく小さな後ろ姿が、すぐに人波の中へと紛れ、見えなくなる。


 桜桃の手が、自分の手から離れた。


 そうあるべきだった。それで正しかった。銀牙が手を離した時点で用は済んでおり、自分が手を出す必要などなかったのだ。


 なのに、昊夜は自分の掌を見つめた。


 ほんの一瞬、掴んだだけだ。それだけのことなのに、手のひらに残った温かさが消えない。指の形が、まだそこにあるような錯覚さえ覚える。


(……なぜだ)


 問いが浮かぶ前に、思考を心の奥底へと押し込んだ。余計なことを考える時間など、今の自分にはない。


 歩き出す。それでも、溢れる何かを閉じ込めるように、あるいは消し去るように、昊夜は自らの手を強く握り締めずにはいられなかった。どちらの意味もなさぬまま。


 儀が終わり、人々が散り始めていた。


 桜桃は神祇官として後片付けの指示を出しながら、広場を見渡した。


 百官たちの衣の色が、少しずつ散っていく。深い紫から緋へ、青から緑へ。あれほど厳かに揃っていた景色が、ただの人の流れへと戻っていく。


 正月の空は高く、どこまでも冷えていた。薄い雲が西へ流れていく。


 今年も始まったのだと、桜桃は思った。どんな一年になるのか、今はまだ分からない。


 叔父がいた。知らなかった肉親が、生きていた。


 それだけで、今日という日が少し違う色を帯びた気がした。


 泣いてしまったことは恥ずかしかったけれど、これでよかったのかもしれないとも思う。


 ただ、今日この場に揃ったものの重さを、桜桃は静かに胸の奥へと仕舞い込んだ。


***


 朝賀が終わり、桜桃が神祇官庁へ向かう回廊を歩いていると、前方から銀牙が歩いてきた。


 彼は周囲をさっと見回し、誰も見ていないことを確認すると、桜桃の懐へ手早く書状を滑り込ませた。


 人影がなくなったところでその書状を開くと、そこには簡潔に『いつでも頼れ』と記されていた。


(叔父様……)


 胸に温かいものが込み上げる。桜桃は一息ついてから、再び歩き出した。 


 桜桃が神祇官庁へ差し掛かると、正門の前に門番として佇む朝凪の姿があった。


「朝凪」


 呼びかけると、朝凪がこちらを向く。


「六花。朝賀は終わりましたか」


「ええ。さっき、銀牙様と会ったの」


「そうでしたか」


「……すぐ見抜かれてしまったわ」


 朝凪の動きが一瞬止まったが、少し表情を和らげた。


「銀牙殿ですから」


「やっぱり?」


「ええ。あなたのお父上のことも、お母上のことも、誰よりよく知っておられます」


 桜桃は小さく息をついた。


「少し怖かったけど、優しい人ね」


「ええ、身内には甘い方です」


 桜桃はくすりと笑った。

 朝凪がそういうのならきっと大丈夫なのだろう。


「では、お通りください」


 朝凪が半歩、恭しく道を空ける。その通りすがりに、彼の腰にある刀へ桜桃の目が留まり、桜桃は歩きだそうとした足を止めた。


「近衛が刀を鳴らす所作、格好良いわよね」


 朝凪が不思議そうに少しだけ首を傾げる。

 桜桃は見様見真似で手を動かした。


「……カチッてやるやつ。朝賀のとき、皆が一斉に鳴らしてたでしょ」


 朝凪は、「ああ」と少しだけ目元を和ませた。


「……『近衛礼』のことですね」


「近衛礼って言うのね。儀式ではみんなでするのね」


「はい。刀はいつでも抜ける。でも、抜くかどうかは帝の命による。という意味が込められています」


「みんなで揃うと、あんなに迫力があるのね」


 桜桃は笑みを浮かべた。


「一人の時とは、全然違うの」


 その言葉に、朝凪の動きがぴたりと止まる。

 彼はそこで初めて、桜桃の瞳を真っ直ぐに見据えた。


「……一人の礼を、ご覧になったことがあるのですか」


「ええ。日向がしてくれたの」


 桜桃は炎を遠くに見つめるように、細めた。


 朝凪は目を見開いた。その瞳がかすかに揺れる。


「……日向殿が?」


「謀反の夜に、『お戻りの日まで、お待ちしております』って。その言葉の前に、あの音を鳴らしてたの」


 朝凪は静かに黙り込み、それから視線を落とした。


「……そうでしたか」


「一人ですることもあるのね」


 朝凪は少しの間を置いてから、口を開く。


「あります」


「一人でするときも意味があるの?」


「……ええ。近衛が、自らの意思で忠誠を誓うという意味です」


 桜桃は息を呑み、目を見開いた。


「忠誠?」


「近衛が一人でこの礼を捧げるのは、命を捧げるという覚悟を生涯変えぬと決めた時だけです。本来、幾度も行うものではありません」


 桜桃は言葉を失った。


 燃え盛る炎の中で、ただ一人膝をついた日向の背中が、鮮やかに脳裏によみがえる。


(あれは、そういう意味だったの……)


 あの時響いた乾いた音が、いまになって耳の奥で重く鳴った。


 しばらく沈黙が続いたが、朝凪は視線を上げ、桜桃を促すように半歩引いた。


「遅れますよ。どうぞ」


「……ええ」


 桜桃が歩き出す。

 朝凪は、回廊の向こうへ消えていく彼女の背中を、しばらく見つめていた。


(……日向殿が、姫様に)


 あの人は誰にも語らなかった。

 語る必要などないとでもいうように。


 朝凪は、その重みを胸に刻み込むように、ただ静かに佇んでいた。



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