第一話 朝賀と、叔父と
朝賀は、国家の最重要儀式である。
元日の夜明け前から、天澄京は静かに息を潜めていた。
大路に人気はないが、灯りが絶えることはない。宮城の各所で松明が焚かれ、冷えた夜気の中にゆらゆらと炎が揺れている。
即位後、初めての朝賀。それだけで、今年の儀は別格だった。
神祇官としての式場確認を済ませた桜桃は、大極殿前の広場へ出た。空はまだ暗く、東の端がわずかに白みかけている。
百官たちが続々と集まり始め、それぞれの位置へ向かっていく。その中に、見知った顔があった。
白い外套を纏った、精悍な男。
因州郷司を務める四大貴族、白蔵家の当主・白蔵彪だった。
桜桃は少し足を速めた。
「彪様」
振り返った彪が、口元を少し緩めた。
「ああ。神祇官の……」
「六花と申します。以前、因州でお世話になりました」
「覚えている」
「因州は、いかがでしょうか」
彪はしばらく遠くを見つめるような目をした。
「暑さが和らいだ秋から、落ち着いた。依然として水は足りん。だが、水路の見直しが進んでいる」
「……そうですか」
「時間はかかる。だが、動いてはいる」
多くを語らない男だが、その言葉には確かな重みがあった。
桜桃は静かに頷いた。
「よかった」
彪は小さく頷いて、人の流れの中へ戻っていった。
その背を見送っていると、不意に横から声がかかった。
「六花殿」
振り返ると、羽州郷司を務める四大貴族、青陽家当主・青陽杏築が立っていた。
衣は質素寄りで装飾も少ない。相変わらず「人の上に立つ者」だと分かる静かな圧がある。羽州で見た時と、何も変わっていなかった。
「杏築様。お久しぶりです」
「ふた月ほどですか」
杏築は周囲を一瞥してから、桜桃の隣に並んだ。
「羽州からはるばる、ですね」
桜桃が言うと、杏築は少し間を置いた。
「花梨が入御しましたので。父に顔を出せと言われました」
「清明様に」
「はい」
杏築はわずかに目元を和らげた。
「父もあなたのことを気にかけているようです。時々、文に名前が出ます」
「そうなんですか」
「六花殿はよく動く、と」
「……褒めていますか、それは」
「さあ。父のことですから、どちらともとれます」
桜桃は思わず笑った。確かに、いかにも清明らしかった。
「こちらは羽州の冬よりは暖かいんですね」
「ええ。冬にこちらに来たのは初めてですか?」
「冬どころか天澄にはしばらく来ていなかったので……いや、随分と、か」
杏築は広場を見渡した。
「父に連れられて来た時は、まだ子供でしたから」
その時、周囲の空気がわずかにざわついた。
「……青の正装」
「青陽の当主か」
「では、あの方が杏築様……?」
「初めてお姿を見た。いつも名代ではなかったか」
近くを通りかかった文官たちが、ひそひそと囁き合っている。
やがて、その視線が杏築の向かいに立つ桜桃へと移った。
「……あれは、神祇官の六花殿だろう」
「雨乞いの舞姫か」
「なぜ、あの杏築様と?」
「随分と親しげではないか」
今度は自分にまで視線が集まり始め、桜桃は僅かに居心地悪そうに身じろぎした。
聞こえているはずの杏築は表情を変えず、ただ少しだけ、どこか遠い目をしていた。
「……随分、珍しがられているようですね」
「父にも同じことを言われました。もう少し顔を出しておけばよかった、と」
一拍置いてから、静かに続ける。
「……確かに、そうかもしれませんね」
その表情には感慨も拒絶もなく、ただ目の前の現実を淡々と受け止めているようだった。
杏築は去り際に、桜桃のほうを向いた。
「六花殿。花梨を、よろしくお願いします」
「はい」
桜桃が静かに頭を下げると、杏築は一礼して、百官の列へと戻っていった。
清明が彼に「都へ来い」と言い続けている理由が、何となく分かった気がした。
***
夜が明けた。東の空が淡い橙へと変わり始める頃、重々しい鼓の音が響き渡った。
大極殿の正面には、皇統を象徴する八重桜の御紋が織り込まれた御旗が静かに揺れている。
その左右には鳳桜紋を掲げた近衛府の旗と、橘麟紋を掲げた朝廷軍の軍旗。
さらにその手前には、正面に烏形、東に日・青龍・朱雀、西に月・白虎・白虎・玄武の幢が立てられている。
二官八省の官吏たちが定められた位置へと並び始める。
高い位から低い位へと、服の色が静かに移ろっていく。深い紫から緋へ、緋から青へ、青から緑へ。百官が並ぶだけで、大極殿の前には鮮やかな階調ができあがった。
その最前列――幢のすぐ前に、四大貴族の当主たちが並んだ。
青陽杏築。朱明家当主・日和の代理として暁。白蔵彪。玄英銀牙。
四家の当主が一堂に会することは、先帝の御代から滅多にない。今日も朱明日和は姿を見せず、代わりに暁が立っている。
やがて帝が現れた。
正装を纏って大極殿の高御座へと腰を下ろした、その瞬間――
近衛が、一斉に刀の柄へ右手を添え、左手の親指が鍔を押し上げる。
カチッ。
大極殿の広い空間に、乾いた音が一つだけ響き渡った。
近衛の兵たちが一斉に鯉口を鳴らしたはずなのに、桜桃の耳に届いたのは、ただひとつの音だった。
近衛が揃って一礼し、続いて百官が礼を取った。
桜桃は息を呑み、目を見開く。
(……この音)
瞬時に、脳裏で炎が揺らぐ。
熱気と煤の匂いが、鮮やかに蘇った。
『ここから逃げて生き延びよ! 私がこの国に戻る日まで、絶対に死ぬな!!』
桜桃が夢中でそう言い放ったとき、炎の渦の中で、ただ一人、まっすぐにこちらを見つめていた日向。
彼が力強く柄を握り、鞘を押し開いたあの所作。
カチッ。
『御意』
『お戻りの日を、お待ちしております』
(……あの時の)
あれは、近衛の所作だったのだと、いまようやく桜桃は理解した。
圧倒的な静寂が落ちた。
帝が着座すると、昊夜が大極殿の階段を登った。
御前に進み出て、静かに賀詞を述べる。落ち着いた声音が広場に響き、百官の間を通り抜けていく。
それに答える帝の詔もまた、静かなものだった。
桜桃は式場の端に佇んだまま、その様子を見つめていた。
帝の前に立つ昊夜の背中が見える。その姿は、いつもより少しだけ違って見えた。
何が違うのか、言葉にはできない。
ただ、その背を、桜桃はしばらく静かに目で追っていた。
***
朝賀の儀が済むと、帝への挨拶が始まった。
強制ではない。だが、来ないことには不穏な意味が生まれる。百官たちは順に大極殿へと進んでいった。
杏築の挨拶が終わり、人の流れが少し動く。
次に進み出たのは、銀牙だった。
黒い着物を肩からぞんざいに羽織っている。裾が翻るたび、裏地の鮮やかな色彩が一瞬だけ覗いた。衣には似合わないくせ毛が跳ねているが、本人は一向に気にする風もない。
帝への挨拶を済ませ、銀牙が踵を返したときだった。
「……遅かったな」
声が横から落ちてきた。
彪だった。腕を組んだまま、ちらりと銀牙を見遣っている。
「何が」
「挨拶だ。もたもたしていた」
「していない」
「していた」
銀牙は少し眉を動かした。
「お前に言われる筋合いはない」
彪が黙り込む。銀牙もしばらく黙った。
それから、銀牙がぼそりと言った。
「……そういえば、髪が増えたな」
「何」
「白いのが」
彪の眉がわずかに動く。
「余計なことを言うな」
「事実だ」
「お前こそ、そのくせ毛は直らないのか」
「直らない」
「努力しろ」
「している」
「どこが」
銀牙は無言で、自分のくせ毛を一本引っ張った。手を離すと、ぴょんと跳ねる。
「……これが限界だ」
「努力が足りない」
「お前に言われたくない」
二人は並んだまま、互いに視線を合わせようとはしなかった。
桜桃は少し離れた場所から、その様子を眺めていた。
隣へ寄ってきた瑛が、小声で耳打ちしてくる。
「……仲悪いんですかね」
「そう見えますね」
「でもなんか、慣れてる感じがする」
「……そうですね」
桜桃も同意した。
仲が悪いというより、長年こうして言い合ってきたのだろう。二人の間にあるのは、これが通常の距離感なのだと思わせる、妙な安定感があった。
その時、銀牙がふと視線を動かした。――彼の目が、桜桃で止まる。
ほんの一瞬のことだった。だがその一瞬が、妙に長く感じられた。
桜桃は思わず視線を逸らし、すぐに後悔した。不自然すぎた。
銀牙の唇から、かすかな音が漏れた。
「……姉上」
ひどく小さな、誰の耳にも届かないような呟き。自分でも気づいていないかもしれない、そんな声だった。
(今、何と言ったの?)
聞き間違いかもしれない。だが、桜桃の胸が妙にざわついた。
銀牙はそのまま静かに歩き出し、桜桃の前を通り過ぎる瞬間に低く言い添えた。
「少し、いいか」
問いの形をしてはいたが、拒否の選択肢はなかった。
人の気配が途絶えた回廊の端で、銀牙が立ち止まり、桜桃に向き直った。
しばらくの間、黙って見つめてくる。その視線が、じわじわと重さを増していく。
(この顔を、どこかで……)
直接会った覚えはない。それなのに、どこかで見た気がする顔だった。
記憶の奥をまさぐるより早く、銀牙が口を開いた。
「……お前」
声が一段と低く落ちる。
「桜桃だろう」
背筋に冷たいものが走った。
答えない。答えられない。だが沈黙を続けるわけにもいかなかった。
桜桃は表情を崩さないまま、銀牙を見返した。
「……さっき、姉上と言いましたね」
自分でも驚くほど静かな声が出た。
桜桃の母は玄英家の出身だ。もし「姉上」が母を指しているのだとしたら。
銀牙は少し黙り込んだ。くせ毛がひとつ、ぴょんと跳ねているのが妙に人間らしく見える。
桜桃の口から震える息が漏れ出た。
「もしかして、……叔父……様ですか」
その言葉が落ちた瞬間、銀牙の顔がかすかに赤らんだ。気まずそうに目を逸らし、くせ毛を乱暴に掻きむしる。
しばらく沈黙が続いた。
だが、その沈黙こそがすべてだった。
桜桃は息を吸った。胸の中で、何かが激しく揺れ動く。
近い肉親だと思っていた人たちは、みんないなくなってしまったと思っていた。父も。母も。血筋が近い皇族も残っていないのだと。
なのに。目の前に、いる。
桜桃は視線を足元に落とした。堪えようとしたが、堪えきれなかった。
涙が、ぽろりと頬を伝う。
失ったはずの「血の繋がり」が突然目の前に現れ、嬉しさと、悲しさと、信じがたい想いが渦を巻いて胸を締め付けた。




