序
虚空帝治世二年。長雨により、武州の作柄は例年の六割に留まった。
にもかかわらず、州府は例年と同額の税を課した。
民はこれに耐えかね、睦月、農民が竹槍を携えて蜂起した。
反乱軍は州府の外壁を突き破り、城内の兵糧蔵に火を放った。
蓄えられていた米三万石は、一夜にして焼き尽くされた。
火をつけた者の名は、記録にない。
――武州騒乱記 某年睦月の項より
◇
兄上はずるい、とずっと思っていた。何をやっても上手い。
俺が一年かけることを、あの人は数ヶ月で終わらせる。悔しさや嫉妬ではなく、ただ追いつけない。
それでも後ろを走り続けている。
馬鹿みたいだが、やめたいとも思っていなかった。
回廊を歩いていれば、聞こえてくるのは兄上の誉れ高い声ばかり。周囲の目も、いつも「あの人の弟」という影を映すだけだった。
だから、誰にも見つからない薄暗い回廊の隅に逃げ込んだ。
そんなときに出会ったのが、彼女だった。
「……なんでこんなところにいるの」
「俺は、誰にも必要とされていないから」
自嘲する俺に、その子は首を傾けて真っ直ぐに言った。
「何言ってるの。あんたはあんたでしょ」
彼女は誰の影でもない、ただの自分だけを見てくれた。
「私は、いま目の前にいるあんたと話してるの」
そう言って、隣に勝手に座った。
誰かと並んで座っていたのは、初めてだった。
初めて、生まれの枠から外れて見つけてもらった気がした。
大人になり立場が変わり、距離が開いても、
俺をそのまま受け入れてくれたあの時の顔をずっと覚えている。
彼女は何度言っても首を縦に振らない。
それでもまた言いに行く。
うまい言葉も段取りも分からないが、何度でも言い続ける。
あの暗い場所で隣に座ってくれた彼女を、今度は俺が守りたいから。
冬に花を探すのは難しかった。
庭師に嫌な顔をされても頼み込んだ。
白い花が見つかった時、少しだけ息ができた気がした。
兄上ならもっと上手くやるのだろう。
だが、俺は俺だ。不器用でもこれしかない。
花束を抱え、俺は歩き出した。
***
大地は、冬の厳しさを増していた。
土を踏むたびに、足の裏から冷えが伝わってくる。
空には薄い雲が広がり、弱まった日差しが、どこか白みがかった光で野を照らしていた。
辺りに人の気配はない。
朝廷軍大将の朱明暁は、小さな墓の前に立っていた。
石は新しい。まだ風化も苔もなく、ついこの間、人の手で置かれたばかりであることを物語っていた。
刻まれた名を、暁は読まない。読まなくても、分かっていた。
「……来たぞ」
低い声が、冬の空気に溶けた。
答える者はいない。当たり前のことだったが、暁はしばらくそのまま立ち尽くしていた。
翠陰飛燕。暁の部下だった男だ。
下積みは長かったが、腕は確かだった。
人が減った宮廷において、暁が最も頼りにしてきた男でもある。
だからこそ、分からなかった。
因州で水路の管理を任せた時、飛燕は一つの判断を下した。
干ばつの中、水をすべての地域に行き渡らせることは不可能だった。水は足りない。
ならばどこへ流し、どこを切り捨てるか、誰かが汚れ役を引き受けねばならなかった。
飛燕は、決めた。いくつかの地域を、見捨てた。
その判断自体が間違いだったとは、今でも思わない。
全員を救えない状況で、何かを選ぶことは時に必要だ。そのことは、長く戦場に立ってきた暁には分かっていた。
だが。
(やり過ぎた)
暁はゆっくりと息を吐く。
飛燕はやり過ぎたのだ。切り捨てる範囲が広すぎた。水を止める期間が長すぎた。死者の数は、判断の誤差で済まされるものではなかった。
なぜそこまでしなければならなかったのか。その問いが、もう答えを得ることはない。
飛燕は死んだ。流罪の護送中に、何者かに弓で射られた。
暁は静かに目を細めた。
(本当に、お前一人の判断だったのか)
胸の中で、何度も繰り返してきた疑念だ。
飛燕は有能だった。だからこそ、あの判断の歪みが引っかかる。
水路の調整そのものは一人でも可能だが、あれほど広範囲に、長期間、誰にも気づかれずに差配し続けるためには、別の何かが要るはずだった。
後ろ盾か、指示か。あるいは、口封じの理由か。
確かめる術は、もうない。
暁はそれ以上、思考を巡らせるのをやめた。進めたところで、今は何も変わらない。
ただ、足元の石をもう一度だけ見つめた。
(お前は、一体何に従ったんだ)
石は何も語らず、ただ沈黙を返してくるだけだった。
飛燕が去った後の中将職には、疾風が就くことになった。
暁は、小さく息を吐いた。
昊夜の異母弟。皇子という立場でありながら、実力が伴っているとは言い難い。
まだ若く、経験も浅い。
飛燕が積み上げてきた叩き上げの功績に比べれば、今はまだ話にならなかった。
(仕方がない、か)
皇族の血筋というものは、それ自体が絶対的な意味を持つ。軍を一つに束ねるためには、時に個人の実力よりも、掲げる「名」という旗印が必要になる。
それもまた、暁が宮廷の歴史の中で嫌というほど見てきた現実だった。
疾風本人が悪い人間だとは思っていない。ただ――飛燕が座っていたあの席に、あの未熟な男が座ることへの、割り切れない重苦しさが胸の奥に残った。
それは怒りでも哀しみでもない、ただ、冷たくて静かな重さだった。
暁はふと、別のことに思い至った。飛燕の遺された娘のことだ。
確か、母親と共に帝都の片隅で暮らしているはずだった。
父親が罪人として処断され、暗殺された今、彼女たちの暮らしがどれほど困窮しているか、暁は把握していない。
(……どうしているのだろうか)
その問いもまた、答えを求めてはいなかった。ただ、冬の風のように脳裏を過った、それだけのことだった。
一陣の風が吹き抜けた。
冬の名残を含んだ、乾いた風だった。
暁は一度だけ深く息を吸い、静かに踵を返した。
背後に残された墓石は、風の中でただ黙って立っていた。
***
その日、朝凪は清明の使いで、帝都――天澄の貴族邸が立ち並ぶ通りを歩いていた。書簡を一件届け、踵を返したところだった。
大路に出ようとして、細い横道の入り口で足が止まる。
塀に背を預けた人影があった。華やかな外出着を纏っているのに、その佇まいはひどく投げやりだ。空を見上げるでもなく、地を見るでもなく、ただぼんやりと佇んでいる。
顔が上がった。朝凪と目が合う。
一拍、沈黙が落ちた。
「……あなた」
椎香が先に口を開いた。
「朝凪と申します」
静かに一礼する。
「……椎香です」
「存じております」
また、短い沈黙。
椎香は朝凪を見つめたまま、何かを測るような目をしていた。宮廷で一度、恋人の振りをしてもらったことがある。それ以上の縁ではない。
だが、椎香は塀から背を離した。
「少し、聞いていい?」
「はい」
椎香はどこから話すか迷うように押し黙り、それから静かに声を落とした。
「父が、護送中に亡くなった日のこと」
朝凪の表情が、わずかに引き締まる。
「あの時、六花とあなたが、護送車の近くにいたわよね」
「……はい」
「見たの。二人で、格子の方へ歩いていくのを。六花は、父と知り合いだったの?」
「……」
「あの時、何をしていたの」
問いは静かだった。問い詰めるわけでも、責めるわけでもなく、ただ真実を知りたいという声。それが却って、答えにくかった。
朝凪はしばらく間を置いた。
「飛燕殿に聞きたいことがありました」
「……何を?」
「因州干ばつの件です」
「なぜ、あなたたちがそんなことを気にするの?」
「六花は舞姫として、干ばつの被害に心を痛めておりましたので、飛燕殿があのような判断をなさった理由を伺いたかったのです」
「……父はなんと?」
「最後まで、お答えにはなりませんでした」
じっと見つめてくる視線に、朝凪は一瞬だけ身を固くした。
「六花が聞きたいと言ったから、あなたも?」
「……はい。同行しました」
「あなたたち、知り合いだったの?」
「因州でお会いしました。私も干ばつ対策に携わっておりましたので」
「それだけ?」
「はい」
椎香はじっと朝凪を見つめる。
「……変ね」
「何がでしょう」
「父に会いに行くなんて、危険だと分かっていたでしょう?」
「はい」
「それでも止めなかったの?」
朝凪は少しだけ間を置いた。
「……止めました」
「聞かなかったのね」
「ええ」
「それで、あなたも付いて行った」
「……はい」
椎香は小さく吹き出した。
「あなた、六花のこと好きなのね」
「…………そのような話はしていません」
「あなた、六花のことになると急に口が重くなるのね」
朝凪は口を真一文字に結んだ。
笑いが少し落ち着くと、椎香はふと話題を変えた。
「……ねえ。あなたって、普段は何をしてるの?」
「門番をしています」
「門番?」
「はい」
椎香は少し首を傾げ、朝凪をまじまじと見つめた。
「……門番には見えないわね」
「そうですか」
「もっとこう、偉い人の傍にいそうな感じがして」
「……門番も大切な役目です」
「そうね」
少し考えるような顔をしてから、椎香は悪戯っぽく唇を尖らせた。
「でも、危険だとわかっていて六花についていくような人が、門番でおさまっているのは、なんか変ね」
「……おさまっています」
「本当に?」
朝凪は静かに前を向いた。
「はい」
しばらくその横顔を見ていた椎香は、それ以上追及しなかった。
嘘ではないのだろう。ただ、すべてを話してはいない。この男は、本当にのことは言わない代わりに、余計なことは口にしない質なのだと察した。
「……変わった人ね」
「そうでしょうか」
「そうよ」
椎香は少し笑った。
しばらく沈黙が落ち、風が塀沿いを吹き抜けていく。
「……あなたと話していると、不思議と元気が出るわね」
ふと漏らした言葉に、自分でも少し驚いたような顔をする。
朝凪は視線を正面に向けたまま、淡々と言った。
「それは良かった」
「……なんで、そんなに落ち着いてるの?」
「落ち着いていますか」
「驚かないし、慌てない。それに、変なことも言わないし」
「変なこと、とは」
「大丈夫ですか、とか、辛かったですね、とか……そういうこと、言わないでしょう」
「……はい」
「なんで言わないの」
朝凪は少し考えた。
「言ってほしそうではなかったので」
椎香は少しの間、朝凪を見つめていたが、やがて小さく目を逸らした。
「……そうね」
声が、先ほどよりも少しだけ柔らかくなっていた。
椎香は踵を返しかけて、ふと振り返った。
「朝凪さん」
「はい」
「また、どこかで会うかしら」
朝凪は少し間を置いてから、答えた。
「……都は、そう広くありません」
「そうね」
椎香は少しだけ笑った。先ほどまでの投げやりな笑みとは違う、静かな微笑だった。
それだけ言い残し、彼女は大路の方へ歩いていく。
朝凪はその背中をしばらく見送ってから、静かに前を向き、自らの歩みを再開した。




