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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第四章 地は割れ、刃となる【武州動乱編】

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 虚空帝治世二年。長雨により、武州の作柄は例年の六割に留まった。

 にもかかわらず、州府は例年と同額の税を課した。

 民はこれに耐えかね、睦月、農民が竹槍を携えて蜂起した。


 反乱軍は州府の外壁を突き破り、城内の兵糧蔵に火を放った。

 蓄えられていた米三万石は、一夜にして焼き尽くされた。


 火をつけた者の名は、記録にない。


――武州騒乱記 某年睦月の項より



 兄上はずるい、とずっと思っていた。何をやっても上手い。


 俺が一年かけることを、あの人は数ヶ月で終わらせる。悔しさや嫉妬ではなく、ただ追いつけない。


 それでも後ろを走り続けている。

 馬鹿みたいだが、やめたいとも思っていなかった。


 回廊を歩いていれば、聞こえてくるのは兄上の誉れ高い声ばかり。周囲の目も、いつも「あの人の弟」という影を映すだけだった。


 だから、誰にも見つからない薄暗い回廊の隅に逃げ込んだ。


 そんなときに出会ったのが、彼女だった。


「……なんでこんなところにいるの」


「俺は、誰にも必要とされていないから」


 自嘲する俺に、その子は首を傾けて真っ直ぐに言った。


「何言ってるの。あんたはあんたでしょ」


 彼女は誰の影でもない、ただの自分だけを見てくれた。


「私は、いま目の前にいるあんたと話してるの」


 そう言って、隣に勝手に座った。


 誰かと並んで座っていたのは、初めてだった。

 初めて、生まれの枠から外れて見つけてもらった気がした。


 大人になり立場が変わり、距離が開いても、

 俺をそのまま受け入れてくれたあの時の顔をずっと覚えている。


 彼女は何度言っても首を縦に振らない。

 それでもまた言いに行く。

 うまい言葉も段取りも分からないが、何度でも言い続ける。


 あの暗い場所で隣に座ってくれた彼女を、今度は俺が守りたいから。


 冬に花を探すのは難しかった。

 庭師に嫌な顔をされても頼み込んだ。

 白い花が見つかった時、少しだけ息ができた気がした。


 兄上ならもっと上手くやるのだろう。

 だが、俺は俺だ。不器用でもこれしかない。


 花束を抱え、俺は歩き出した。


***


 大地は、冬の厳しさを増していた。

 土を踏むたびに、足の裏から冷えが伝わってくる。


 空には薄い雲が広がり、弱まった日差しが、どこか白みがかった光で野を照らしていた。


 辺りに人の気配はない。


 朝廷軍大将の朱明暁は、小さな墓の前に立っていた。


 石は新しい。まだ風化も苔もなく、ついこの間、人の手で置かれたばかりであることを物語っていた。


 刻まれた名を、暁は読まない。読まなくても、分かっていた。


「……来たぞ」


 低い声が、冬の空気に溶けた。


 答える者はいない。当たり前のことだったが、暁はしばらくそのまま立ち尽くしていた。


 翠陰飛燕。暁の部下だった男だ。

 下積みは長かったが、腕は確かだった。

 人が減った宮廷において、暁が最も頼りにしてきた男でもある。


 だからこそ、分からなかった。


 因州で水路の管理を任せた時、飛燕は一つの判断を下した。


 干ばつの中、水をすべての地域に行き渡らせることは不可能だった。水は足りない。


 ならばどこへ流し、どこを切り捨てるか、誰かが汚れ役を引き受けねばならなかった。


 飛燕は、決めた。いくつかの地域を、見捨てた。


 その判断自体が間違いだったとは、今でも思わない。

全員を救えない状況で、何かを選ぶことは時に必要だ。そのことは、長く戦場に立ってきた暁には分かっていた。


 だが。


(やり過ぎた)


 暁はゆっくりと息を吐く。


 飛燕はやり過ぎたのだ。切り捨てる範囲が広すぎた。水を止める期間が長すぎた。死者の数は、判断の誤差で済まされるものではなかった。


 なぜそこまでしなければならなかったのか。その問いが、もう答えを得ることはない。


 飛燕は死んだ。流罪の護送中に、何者かに弓で射られた。


 暁は静かに目を細めた。


(本当に、お前一人の判断だったのか)


 胸の中で、何度も繰り返してきた疑念だ。


 飛燕は有能だった。だからこそ、あの判断の歪みが引っかかる。


 水路の調整そのものは一人でも可能だが、あれほど広範囲に、長期間、誰にも気づかれずに差配し続けるためには、別の何かが要るはずだった。


 後ろ盾か、指示か。あるいは、口封じの理由か。

 確かめる術は、もうない。


 暁はそれ以上、思考を巡らせるのをやめた。進めたところで、今は何も変わらない。


 ただ、足元の石をもう一度だけ見つめた。


(お前は、一体何に従ったんだ)


 石は何も語らず、ただ沈黙を返してくるだけだった。


 飛燕が去った後の中将職には、疾風が就くことになった。


 暁は、小さく息を吐いた。


 昊夜の異母弟。皇子という立場でありながら、実力が伴っているとは言い難い。


 まだ若く、経験も浅い。

 飛燕が積み上げてきた叩き上げの功績に比べれば、今はまだ話にならなかった。


(仕方がない、か)


 皇族の血筋というものは、それ自体が絶対的な意味を持つ。軍を一つに束ねるためには、時に個人の実力よりも、掲げる「名」という旗印が必要になる。


 それもまた、暁が宮廷の歴史の中で嫌というほど見てきた現実だった。


 疾風本人が悪い人間だとは思っていない。ただ――飛燕が座っていたあの席に、あの未熟な男が座ることへの、割り切れない重苦しさが胸の奥に残った。


 それは怒りでも哀しみでもない、ただ、冷たくて静かな重さだった。


 暁はふと、別のことに思い至った。飛燕の遺された娘のことだ。


 確か、母親と共に帝都の片隅で暮らしているはずだった。

 父親が罪人として処断され、暗殺された今、彼女たちの暮らしがどれほど困窮しているか、暁は把握していない。


(……どうしているのだろうか)


 その問いもまた、答えを求めてはいなかった。ただ、冬の風のように脳裏を過った、それだけのことだった。


 一陣の風が吹き抜けた。

 冬の名残を含んだ、乾いた風だった。

 暁は一度だけ深く息を吸い、静かに踵を返した。


 背後に残された墓石は、風の中でただ黙って立っていた。


***


 その日、朝凪は清明の使いで、帝都――天澄の貴族邸が立ち並ぶ通りを歩いていた。書簡を一件届け、踵を返したところだった。


 大路に出ようとして、細い横道の入り口で足が止まる。


 塀に背を預けた人影があった。華やかな外出着を纏っているのに、その佇まいはひどく投げやりだ。空を見上げるでもなく、地を見るでもなく、ただぼんやりと佇んでいる。


 顔が上がった。朝凪と目が合う。

 一拍、沈黙が落ちた。


「……あなた」


 椎香が先に口を開いた。


「朝凪と申します」


 静かに一礼する。


「……椎香です」

「存じております」


 また、短い沈黙。


 椎香は朝凪を見つめたまま、何かを測るような目をしていた。宮廷で一度、恋人の振りをしてもらったことがある。それ以上の縁ではない。


 だが、椎香は塀から背を離した。


「少し、聞いていい?」


「はい」


 椎香はどこから話すか迷うように押し黙り、それから静かに声を落とした。


「父が、護送中に亡くなった日のこと」


 朝凪の表情が、わずかに引き締まる。


「あの時、六花とあなたが、護送車の近くにいたわよね」


「……はい」


「見たの。二人で、格子の方へ歩いていくのを。六花は、父と知り合いだったの?」


「……」


「あの時、何をしていたの」


 問いは静かだった。問い詰めるわけでも、責めるわけでもなく、ただ真実を知りたいという声。それが却って、答えにくかった。


 朝凪はしばらく間を置いた。


「飛燕殿に聞きたいことがありました」


「……何を?」


「因州干ばつの件です」


「なぜ、あなたたちがそんなことを気にするの?」


「六花は舞姫として、干ばつの被害に心を痛めておりましたので、飛燕殿があのような判断をなさった理由を伺いたかったのです」


「……父はなんと?」


「最後まで、お答えにはなりませんでした」


 じっと見つめてくる視線に、朝凪は一瞬だけ身を固くした。


「六花が聞きたいと言ったから、あなたも?」


「……はい。同行しました」


「あなたたち、知り合いだったの?」


「因州でお会いしました。私も干ばつ対策に携わっておりましたので」


「それだけ?」


「はい」


 椎香はじっと朝凪を見つめる。


「……変ね」


「何がでしょう」


「父に会いに行くなんて、危険だと分かっていたでしょう?」


「はい」


「それでも止めなかったの?」


 朝凪は少しだけ間を置いた。


「……止めました」


「聞かなかったのね」


「ええ」


「それで、あなたも付いて行った」


「……はい」


 椎香は小さく吹き出した。


「あなた、六花のこと好きなのね」


「…………そのような話はしていません」


「あなた、六花のことになると急に口が重くなるのね」


 朝凪は口を真一文字に結んだ。


 笑いが少し落ち着くと、椎香はふと話題を変えた。


「……ねえ。あなたって、普段は何をしてるの?」


「門番をしています」


「門番?」


「はい」


 椎香は少し首を傾げ、朝凪をまじまじと見つめた。


「……門番には見えないわね」


「そうですか」


「もっとこう、偉い人の傍にいそうな感じがして」


「……門番も大切な役目です」


「そうね」


 少し考えるような顔をしてから、椎香は悪戯っぽく唇を尖らせた。


「でも、危険だとわかっていて六花についていくような人が、門番でおさまっているのは、なんか変ね」


「……おさまっています」


「本当に?」


 朝凪は静かに前を向いた。


「はい」


 しばらくその横顔を見ていた椎香は、それ以上追及しなかった。


 嘘ではないのだろう。ただ、すべてを話してはいない。この男は、本当にのことは言わない代わりに、余計なことは口にしない質なのだと察した。


「……変わった人ね」


「そうでしょうか」


「そうよ」


 椎香は少し笑った。

 しばらく沈黙が落ち、風が塀沿いを吹き抜けていく。


「……あなたと話していると、不思議と元気が出るわね」


 ふと漏らした言葉に、自分でも少し驚いたような顔をする。


 朝凪は視線を正面に向けたまま、淡々と言った。


「それは良かった」


「……なんで、そんなに落ち着いてるの?」


「落ち着いていますか」


「驚かないし、慌てない。それに、変なことも言わないし」


「変なこと、とは」


「大丈夫ですか、とか、辛かったですね、とか……そういうこと、言わないでしょう」


「……はい」


「なんで言わないの」


 朝凪は少し考えた。


「言ってほしそうではなかったので」


 椎香は少しの間、朝凪を見つめていたが、やがて小さく目を逸らした。


「……そうね」


 声が、先ほどよりも少しだけ柔らかくなっていた。

 椎香は踵を返しかけて、ふと振り返った。


「朝凪さん」


「はい」


「また、どこかで会うかしら」


 朝凪は少し間を置いてから、答えた。


「……都は、そう広くありません」


「そうね」


 椎香は少しだけ笑った。先ほどまでの投げやりな笑みとは違う、静かな微笑だった。


 それだけ言い残し、彼女は大路の方へ歩いていく。


 朝凪はその背中をしばらく見送ってから、静かに前を向き、自らの歩みを再開した。


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