終 神祇官の六花
朝凪は、そんな桜桃の様子をじっと見つめていた。
逸らされた視線。震える唇。そして、彼女の白い肌に、舞の疲労とは明らかに違う、熱を持った赤みが差している。
気づかないはずがなかった。
(……また、あの男か)
静かで暗い火種が、また胸の奥で揺れる。
だが、今は何も言わない。
言えば、この手を引いて、桜桃をどこかへ連れて行ってしまいそうだった。
それは、自分の役目ではない。
朝凪は、一歩だけ静かに歩み寄った。
「……手が、冷たくなっています」
朝凪は感情の読めない声のまま、そっと手を伸ばした。
力強く奪うような昊夜の手つきとは違う、どこまでも恭しい朝凪の大きな手のひらが、桜桃の強張った小さな手を包み込む。
「呼吸を整えてください、六花」
耳元に届くのは、昊夜の吐息のような熱さではない、すべてを包み込んでくれる静かな声。
守られるように、朝凪の胸元に視線を落とす。
彼の言う通りに深く息を吸い込み、そして吐き出すと、不思議と凍えていた指先からじわじわと温かい熱が戻り、激しく暴れていた鼓動がゆっくりと凪いでいった。
息が、整っていく。
朝凪の大きな手に包まれたまま、桜桃はそっと顔を上げた。
「私は今、六花という名前でここにいる」
「そうです」
「六花は……誰の名前なの」
朝凪は、しばらく沈黙した。
回廊の向こうでは、まだ大嘗祭の余韻のなかで多くの人々が動き、遠くで灯火が揺れている。
やがて、朝凪は静かに、けれど揺るぎない響きを込めて言った。
「……今、あなたがこの場所で、確かに生きている名前です」
桜桃はその言葉を、すぐには返せなかった。
今、生きている名前。
それは、求めていた明確な答えではなかったかもしれない。
だがその言葉は、今夜の桜桃の胸の奥に、驚くほど静かに、優しく収まった。
冬のはじめの冷たい闇が、二人の影を静かに包み込み、夜の奥へと溶かしていった。
***
日向がたどり着いたのは、帝都天澄京の深部だった。
手元の旧地図と、現在使われている地図を並べて見比べる。その形は微妙に、だが決定的に違っていた。
現在の地図では天澄京が国の中心として描かれているが、旧地図においては、その帝都の場所が明らかに南側へずれている。
事実を歪め、地図そのものを書き換えたのか。
日向は旧地図で墨塗りにされていた場所を特定すべく、帝都の北側を歩き続けた。二つの地図を交互に確認しながら、国の真の中心を探る。
やがて木々が鬱蒼と茂る森に突き当たった。一見すれば何もない荒れ地だが、足を踏み入れた瞬間、地表の感触が変わった。
土を払うと、地面に埋もれていた扉が現れる。
錆びついた取っ手に手をかけ、力を込めた。扉の奥には、闇へ続く階段が口を開けている。
日向は灯火を掲げ、一段ずつ降りていく。湿った空気が纏わりつく。
奥へ進むほどに灯火の明かりが石壁を照らし、やがて地上からの微かな光が差し込む広い場所へ出た。そこは、静謐な祭壇のようだった。
足元の塵を眺め、日向は息を呑む。
埃が払われ、つい先刻まで人がいたような跡がある。
「……誰か来たのか?」
嫌な予感が、背筋を這い上がった。
祭壇の上に置かれた書物に歩み寄る。その頁を開くと、異様な文字が踊っていた。
『虚空帝治世二年、神嘗祭 器』
「……一年後……。計画か?」
日向は眉をひそめる。これは、この国の未来の計画書なのか。
震える指先が、その下に書き足された新しい墨跡を捉える。
そこには、『神祇官 六花』という名が記されていた。
『虚空帝治世二年、神嘗祭 器』
「……一年後……。計画か?」
日向は眉をひそめる。これは、この国の未来の計画書なのか。
震える指先が、その下に書き足された新しい墨跡を捉える。
そこには、『神祇官 六花』という名が記されていた。
「……神祇官、だと?」
頭の中が真っ白になる。どうしてこの名がここにある。
誰が書いた。何のために。
だが、そんな疑問を並べる猶予などどこにもなかった。
日向の顔から、さっと血の気が引いた。
「──桜桃様っ……!!」
次の瞬間には書物から手を離し、日向は祭壇を飛び出していた。
闇の中に、取り返しのつかない影が伸びていた。




