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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第三章 名を持たぬ花【羽州神隠編】

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終 神祇官の六花

 朝凪は、そんな桜桃の様子をじっと見つめていた。

 逸らされた視線。震える唇。そして、彼女の白い肌に、舞の疲労とは明らかに違う、熱を持った赤みが差している。


 気づかないはずがなかった。


(……また、あの男か)


 静かで暗い火種が、また胸の奥で揺れる。


 だが、今は何も言わない。


 言えば、この手を引いて、桜桃をどこかへ連れて行ってしまいそうだった。

 それは、自分の役目ではない。


 朝凪は、一歩だけ静かに歩み寄った。


「……手が、冷たくなっています」


 朝凪は感情の読めない声のまま、そっと手を伸ばした。

 力強く奪うような昊夜の手つきとは違う、どこまでも恭しい朝凪の大きな手のひらが、桜桃の強張った小さな手を包み込む。


「呼吸を整えてください、六花」


 耳元に届くのは、昊夜の吐息のような熱さではない、すべてを包み込んでくれる静かな声。


 守られるように、朝凪の胸元に視線を落とす。

 彼の言う通りに深く息を吸い込み、そして吐き出すと、不思議と凍えていた指先からじわじわと温かい熱が戻り、激しく暴れていた鼓動がゆっくりと凪いでいった。


 息が、整っていく。


 朝凪の大きな手に包まれたまま、桜桃はそっと顔を上げた。


「私は今、六花という名前でここにいる」


「そうです」


「六花は……誰の名前なの」


 朝凪は、しばらく沈黙した。


 回廊の向こうでは、まだ大嘗祭の余韻のなかで多くの人々が動き、遠くで灯火が揺れている。


 やがて、朝凪は静かに、けれど揺るぎない響きを込めて言った。


「……今、あなたがこの場所で、確かに生きている名前です」


 桜桃はその言葉を、すぐには返せなかった。


 今、生きている名前。


 それは、求めていた明確な答えではなかったかもしれない。

 だがその言葉は、今夜の桜桃の胸の奥に、驚くほど静かに、優しく収まった。


 冬のはじめの冷たい闇が、二人の影を静かに包み込み、夜の奥へと溶かしていった。


***


 日向がたどり着いたのは、帝都天澄京の深部だった。


 手元の旧地図と、現在使われている地図を並べて見比べる。その形は微妙に、だが決定的に違っていた。


 現在の地図では天澄京が国の中心として描かれているが、旧地図においては、その帝都の場所が明らかに南側へずれている。


 事実を歪め、地図そのものを書き換えたのか。


 日向は旧地図で墨塗りにされていた場所を特定すべく、帝都の北側を歩き続けた。二つの地図を交互に確認しながら、国の真の中心を探る。


 やがて木々が鬱蒼と茂る森に突き当たった。一見すれば何もない荒れ地だが、足を踏み入れた瞬間、地表の感触が変わった。


 土を払うと、地面に埋もれていた扉が現れる。


 錆びついた取っ手に手をかけ、力を込めた。扉の奥には、闇へ続く階段が口を開けている。


 日向は灯火を掲げ、一段ずつ降りていく。湿った空気が纏わりつく。


 奥へ進むほどに灯火の明かりが石壁を照らし、やがて地上からの微かな光が差し込む広い場所へ出た。そこは、静謐な祭壇のようだった。


 足元の塵を眺め、日向は息を呑む。


 埃が払われ、つい先刻まで人がいたような跡がある。


「……誰か来たのか?」


 嫌な予感が、背筋を這い上がった。


 祭壇の上に置かれた書物に歩み寄る。その頁を開くと、異様な文字が踊っていた。


『虚空帝治世二年、神嘗祭 器』


「……一年後……。計画か?」


 日向は眉をひそめる。これは、この国の未来の計画書なのか。


 震える指先が、その下に書き足された新しい墨跡を捉える。


 そこには、『神祇官 六花』という名が記されていた。


 『虚空帝治世二年、神嘗祭 器』


「……一年後……。計画か?」


 日向は眉をひそめる。これは、この国の未来の計画書なのか。

 震える指先が、その下に書き足された新しい墨跡を捉える。

 

 そこには、『神祇官 六花』という名が記されていた。


「……神祇官、だと?」


 頭の中が真っ白になる。どうしてこの名がここにある。


 誰が書いた。何のために。

 だが、そんな疑問を並べる猶予などどこにもなかった。


 日向の顔から、さっと血の気が引いた。


「──桜桃様っ……!!」


 次の瞬間には書物から手を離し、日向は祭壇を飛び出していた。


 闇の中に、取り返しのつかない影が伸びていた。



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