第二十三話 本当に持っている者
二日間にわたる国の最大儀礼、大嘗祭が幕を開け、翌日の豊明節会の五節舞の時刻が訪れていた。
夜明け前から動き出した宮城には、濃密な香が焚かれ、各州から集められた収穫物が神嘗祭のときとは違い、上層の役人たちによって都合よく「整えられた数字」の成果として、一分の隙もなく美しく並べられていた。
神嘗祭で見たのは、今年の実りが、そのままの歪な命の形で置かれている光景だった。けれど、今この天澄の神前に並んでいるのは、ただ均され、美化された「国の形」そのものだった。
薄い衣を纏い、灯火の中で舞いながら、桜桃は息を整えた。
足が動く。腕が動く。決められた通りに、乱れのないように、国の形として。
(あの因州の地とは、何もかもが違う――)
脳裏に蘇るのは、雨乞いの舞の記憶だ。あのときの足元には乾いた土があり、倒れた人がいて、雨を待つ切実な目があった。あの舞は間違いなく、生きていくための「祈り」だった。
だが、この絢爛豪華な都の中心で、国の最高権力者たちの前で舞う今日の舞は、一体何なのだろう。
桜桃の脳裏に、あの羽州で目にした現実が、蘇る。
薄い粥。肉の落ちた痩せた子ども。絶望に慣れきった顔で施しを受け取る人々。
そして、国の帳簿のどこを探しても名前の存在しない、狄の人たちの姿。
朝廷が整えた記録にも、税の数字にも、神へ捧げる供物にも
最初から、この世に存在していないことにされている。
視界の端には、皇族として威然と立つ昊夜と、その隣で淡い衣を纏う花梨の姿があった。まるで最初から決まっていたかのような調和で並ぶ二人を見た瞬間、桜桃の胸の奥が、鋭い針で突かれたように小さくざわついた。
自分がなぜ、これほどまでに動揺しているのか――その理由には、もう薄々気づき始めていた。
気づいてしまっているからこそ、余計に困った。
桜桃は、動揺を振り払うように正面を向いた。
正面には、至高の座にある虚空帝が静かに前を向いて立っていた。
先代の星河帝のような圧倒的な華やかさはない。周囲をひれ伏せさせるような剥き出しの威圧感もない。
ただ、その佇まいはどこか、痛々しいほどに硬かった。
決して、玉座という孤独に慣れた者の顔ではない。
それでも――ここから絶対に逃げない、と誓った者の顔だった。
雅の言葉が蘇る。
『帝という名前を、本当に持っている者でなければ、成立しない』
この人は、本当にこの国を統べる「帝」という名にふさわしい人間なのだろうか。
神嘗祭で、茉莉は一人の少女としての名前を消し去り、『斎宮』という役割の器として神前に立った。
この大嘗祭で、虚空帝は『帝』という名前を背負って神前に立っている。
国はすべて、名前でできている。
ならば――。
桜桃は舞いながら、衣装の袖から覗く自らの白い手を見つめた。
自分は今、「六花」という名前で舞っている。
けれど、これは一体誰の名前なのか。自分は誰の名前を騙り、誰の存在を消し去って、ここに立っているのか。
偽りの名の中で、ずっと己の存在を問われ続けている。
豊明節会の厳かな灯火が、桜桃の引き裂かれそうな内面を嘲笑うかのように、静かに、妖しく揺らめいていた。
***
舞が、終わった。
至高の座から人が散けていき、絢爛な豊明節会の灯が少しずつ遠のいていく。
それでも、あの清らかな舞の残像だけが、妙に鮮明なまま昊夜の目の奥に焼き付いて離れなかった。
(……なぜ、あいつの姿ばかりが)
問いが浮かんで、すぐに消えた。答えを探す必要も、持つ必要もない。そう自嘲しながらも、気づけばその名を口にしていた。
「六花」
呼ばれて、桜桃がハッと顔を上げた。
「……昊夜様」
昊夜は桜桃をじっと見つめていた。その目はどこまでも静かだったが、大嘗祭という国家の重みをそのまま纏っているかのような、いつもとは少し違う雰囲気を纏っていた。
「舞っていたな」
「はい」
昊夜は少しだけ間を置いた。
まだ舞の余韻で肩を揺らしている桜桃へ、無意識に一歩、歩み寄る。
「因州とは違う顔をしていた」
桜桃は昊夜を見た。
「……見ていたんですか」
「たまたま目に入った」
「そうですか」
桜桃は少しだけ息を吐いた。
嘘だ、と思った。あの広い儀礼の場で、彼が「たまたま」自分を見つけるはずがない。けれど、その視線が自分に注がれていたという事実に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「どう、違いましたか」
昊夜はしばらく黙ったまま、桜桃を見つめ続けた。
「因州では、必死だった。今日は、整えようとしていた」
「……そう見えましたか」
「見えた」
一拍、夜風が二人の間を通り抜ける。
「だが、整えきれてはいなかった」
それは批判ではなかった。ただ、見たままの真実をそこに置くような、静かな声だった。
「整えることと、本当に持っていることは、違う」
昊夜は前を見据えたまま言葉を紡ぐ。
「陛下も、今日それを問われていた。形だけを整え、そこに座れば帝になれるわけではない」
「……昊夜様は、陛下が本当にそれを持っていると、思いますか」
昊夜はしばらく沈黙した。
「分からない。お前はどう思った」
今度は昊夜が、桜桃を真っ直ぐに射すくめた。
桜桃は少しだけ考え、言葉を選ぶ。
「……とても誠実な方だと思いました。でも、誠実であることと、その座に正しくあることは、違うのかもしれない……と」
昊夜はその言葉を聞いて、目を細めた。
「お前は……いつもそこへ辿り着くな」
「そこ、とは」
「答えの手前で、立ち止まる場所だ」
桜桃は昊夜を見た。
昊夜もまた桜桃を見つめていた。
夜風が二人の間を吹き抜けた瞬間、昊夜の纏う白檀の香りが、舞の熱で火照った桜桃の身体をふわりと包み込む。
思想は違う。正しさの形も違う。
けれど、その視線からどうしても目を離すことができなかった。
「……昊夜様も、立ち止まることは、ありますか」
問いかけると、昊夜は視線を揺らした。
「……ある」
短い一言だった。だがその言葉が、桜桃には思いのほか重く届いた。
いつも冷たい彼が、自分の前でだけ、その迷いを、不器用な素顔を見せてくれている。その特別さが、桜桃の心臓を切なく跳ね上げさせた。
昊夜の大きな手が、迷うようにわずかに動き、そして桜桃の頬の横で止まる。
触れるか触れないかの距離で、彼の指先が、夜風に揺れる桜桃のほつれ髪をそっと払った。ただそれだけの手つきなのに、驚くほど優しかった。
「だが、お前がそこに立ち止まるというのなら、私はその先へ行く。……それだけだ」
「昊夜、様……」
桜桃は息を呑んだまま真っ赤になった。
昊夜はしばらく、その赤くなった桜桃の顔を満足そうに見つめていたが、やがて静かに手を離した。
離れたはずなのに、肌に残った彼の体温と白檀の香りが、いつまでも消えなずに残る。
「六花」
背後から静かな声が落ちた。朝凪だった。
昊夜がゆっくりと視線を朝凪へ移す。朝凪は表情を一切変えず、桜桃に歩み寄った。
昊夜は小さく頷くと、そのまま踵を返した。その背中が、薄暗い回廊の奥へと消えていく。
桜桃はしばらく、その場から一歩も動けなかった。
耳の奥で自分の心臓の音がうるさいほどに鳴り響いている。
頬がまだ熱い。彼が放っていた白檀の香りが、自分の衣服にまで移ってしまったのではないかと、気が気ではなかった。
「――寒くはありませんか」
朝凪の、いつもの静かで穏やかな声が降ってくる。
桜桃はハッとして、自分の両肩をきゅっと抱きしめるように身を縮めた。
「だ、大丈夫よ。さっきまで舞っていたから、むしろ、少し暑いくらいで……」
努めて平然を装って笑ってみせたが、声が上ずってしまう。
必死で平静を保とうとするものの、朝凪と視線が合った瞬間、桜桃は息を呑んで思わず目を逸らしてしまった。
いつもなら、彼の姿を見るだけで「地面に戻ってきた」ように安心できるはずなのに、今は違う。
昊夜に心を掻き乱された直後の動揺と、それを朝凪に見透かされるのではないかという恐怖が混ざり合い、胸の鼓動がさらに速くなっていく。




