第二十二話 それぞれの報告
柳は少しだけ間を置いた。
「……郁李は、私のことをなんと言っていましたか?」
「柳様の方が青陽の当主に向いてると仰っていました」
「あいつは気付いていたんでしょうか」
柳は、白く染まる息を小さく吐き出した。
「あいつは、昔から、私なんかよりもずっと、祖父のことをよく理解していた」
「そうかもしれませんね」
「なんだか……悔しいですね」
「そうですか?」
「ええ、とても」
柳は、口元を綻ばせた。
その笑みは、天澄で見せていた硬い表情とは違う、いつもよりほんの少しだけ柔らかく、幼いものだった。
「邸へ帰ったら、郁李に言ってみることにします」
「何を、ですか?」
「お前の方が青陽の当主に向いていると、昔からずっとそう思っていたことを……ほんの少しだけ見直してやった、と」
桜桃は思わず、くすりと声を上げて笑ってしまった。
「それは……流石に少し、遠回りすぎませんか?」
「仕方がありません。私はそういう、素直になれない面倒な人間ですので」
「ふふ、郁李様に、その真意がちゃんと伝わると良いですね」
「もし伝わらなかったら……その時は、また別の言い方を考えるとします」
柳はそれだけ言うと、満足したように空へ視線を戻した。
結晶の細かい雪は、止む気配もなく、二人の間にしんしんと降り注いでいる。
「六花殿」
柳が、静かに、けれど明確にその名を呼んだ。
「はい」
「……また、いつでも羽州へ来てください」
極めて短い、簡潔な言葉だった。
だが、そこには普段の柳には決して見られない、濁りのない純粋な「情」が、そのままの熱量で込められていた。
桜桃は、深く深く、頷いた。
「ええ。必ず、また参ります」
門の方から、馬の嘶きと兵たちの声が響いた。どうやら、出発の準備が完全に整ったようだ。
桜桃は柳に向かって一礼し、自らの足で歩き出した。
一度だけ、歩みを止めて振り返る。
柳は、まだあの場所に佇んでいた。
降りしきる白い雪の中で、微動だにせず、静かにそこにいた。
それはまるで、厳しい冬の寒さにじっと耐えながら、いずれ訪れる、あの真っ白な花を咲かせる輝かしい春の音を、静かに待っている雪柳の枝そのものの姿だった。
***
朝の柔らかな光が障子越しに差し込む部屋で、その人は、静かに書をめくっていた。
襖が控えめに叩かれる。
「失礼いたします」
「どうぞ」
深黎は一礼し、音もなく部屋へ入った。
「神嘗祭のご報告に参りました」
深黎の報告を聞くため、書を置き、手元の扇を静かに開いた。
「滞りなく終わりましたか」
「はい。斎宮様も無事に神託を受けられました。」
「そうですか」
「祭主様も安堵しておられました」
「それは何よりです」
短い沈黙が流れる。
深黎は少し思い出したように笑った。
「そういえば、六花さんが初めて神酒を召し上がられたそうで……」
「そうなんですか」
「ほんの一口で、お倒れになりました」
扇が、ぴたりと止まる。
「それだけですか」
「はい」
深黎は苦笑した。
「翌朝には、ご本人は何一つ覚えておられない様子で」
「……覚えていない」
小さく復唱する。
「はい。祭主様もこれには驚かれておりました」
部屋に短い沈黙が落ちる。再び書へ視線を戻した。
「お酒に弱いのでしょう」
「私も、そのように思います」
「他には」
「ございません」
「ご苦労様でした」
深黎は一礼すると、部屋を後にした。襖が閉まり、室内に静寂が戻る。
一人になると閉じた扇を指先で軽く叩き、やがて、小さく呟いた。
「……なるほど」
その声は、誰に聞かせるでもなく、静かに部屋の空気に溶けていった。
***
千弦は、回廊を歩いていた。
複雑に入り組んだ廊下の角を曲がったところで、向こうから歩いてくる深黎とすれ違う。
千弦はすれ違いざま、その飄々とした佇まいの男を、探るような視線で見送った。
――狄族。
羽州で、その名が上がったとき。昊夜と朝凪が見せた、ほんの一瞬の反応を千弦は見逃さなかった。
普段冷静なあの二人が、明らかに動揺していたのだ。
千弦は、謀反のあと極深刻な人手不足に陥った朝廷に乞われる形で宮中に入った身だ。そのため、それ以前の彼らがどのような道を歩み、何を見てきたのか、その過去を詳しくは知らない。
だが、あの二人の間には、他者が容易に踏み込めない過去がある気がしてならなかった。
もしも――その原因が、かつて朝廷が総力を挙げて行い、今や歴史の裏へと葬り去られた「狄族殲滅戦」に、彼らが深く関わっていたからだとしたら。
あの二人は、自分より少し歳下だろうか。
彼らがその凄惨な戦場に身を置いていたであろう年齢の頃、自分はといえば、ただのんきに遊び呆けていた。
そんな自身の過去を思い返すと、千弦はあの二人に対して、言葉にならない同情を禁じ得なかった。
本来ならば、もっとのびのびと生きていていいはずの若さなのだ。それなのに、彼らはどれほど重いものを背負わされ、その心を削られてきたのだろう。
廊下の突き当たり、襖の前で千弦は足を止めた。
一つ、深く息を吐き出し、張り詰めた空気のまま襖の奥へ声を掛ける。
「風間千弦です。羽州視察における、昊夜殿下の御動静についての報告にまいりました」
「どうぞ、お入りなさい」
中から穏やかな声が聞こえた。
***
天澄の宮城へと戻ったのは、大嘗祭を十四日後に控えた日のことだった。
掌を握り締めると、あの遥かなる羽州の地で触れた、初雪の冷たさがまだ指先に残っているかのような錯覚を覚える。
だが、感傷に浸る時間は一瞬たりとも与えられなかった。宮城の中は、戦場さながらの慌ただしさに包まれていたからだ。
廊下を早足で行き交う無数の神官たち。次々と運び込まれる莫大な数の供物。厳格に整えられた灯火の列。
桜桃は休む間もなく神祇官の列に加わり、その膨大な準備の手伝いに奔走した。
その最中、雅が静かに彼女のそばを通りかかった。
「お帰りなさい。神嘗祭はどうでしたか」
「……色々と、考えることがありました」
「そうでしょう」
雅はふふ、と意味深に微笑み、手にした扇を優雅に開いた。
その手元には、ちょうど因州から回ってきたばかりの公文書の巻紙が握られている。
雅がそれを広げるのを、桜桃は横からそっと盗み見た。
――被害村落数。救済配給量。そして、死者数。
そこに書き連ねられているのは、墨黒々と、寸分の狂いもなく整然と並べられた「数字」の羅列だった。
桜桃は、思わず眉をきつく寄せた。
あの、干ばつと飢えに喘ぐ凄惨な土地で、自らの目で見た光景とは、どこか違っている。
目の前で絶望し、生きる気力を失っていた人々。死者を送るための葬送の舞。
それら生々しい人間の営みと命の灯火が、この薄い紙の上では、ただの記号として綺麗に均され、消し去られている。
「……気になりますか」
雅が、いつの間にか開いた扇で口元を隠し、静かに桜桃の真横に立っていた。
「……因州の現実は、もっと酷かったはずです。こんな、数字で収まるようなものでは……」
「報告の数字自体は、何一つ間違ってはいませんよ」
雅はどこまでも穏やかに、諭すように言う。
「ただ、そうして混沌とした現実を削ぎ落とし、国の形を綺麗に整えることこそが、我々神祇官の仕事なのですから」
桜桃は、手元にあった別の巻紙を思わず強く握り締めた。
「数字は……命そのものではありません」
ぽつりと、けれど明確な拒絶を込めて小さく言った。
「そうですね」
雅は、それを否定しなかった。
「大嘗祭は、神嘗祭とはまた格が違います。生半可な気持ちでは呑まれますよ。覚悟して臨みなさい」
「はい」
「あなたにはその大嘗祭の翌日、豊明節会の『五節舞』で舞っていただくのですから、尚更です」
桜桃の思考が、完全に停止した。
「……ええ?」
「どうしましたか。そんな鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして」
「――聞いていません」
「おや」
雅はパチンと扇を閉じ、わざとらしくそれを額に当てた。
「言っていませんでしたか?」
「聞いていません」
「そうでしたか。それはうっかりしていました」
「そうです」
桜桃は半ば呆然としながら、雅を凝視した。
雅はどこまでもにこやかに、春の陽だまりのような笑みを浮かべている。まったく、これっぽっちも悪びれていない。
「あの、因州の地でも舞いましたが……豊明節会の五節舞といえば、全くの別物ではありませんか」
「そうですね」
「格式も、その儀式が持つ意味も、そして……それをご覧になる方々の身分も」
「おっしゃる通り、この国で最も高貴な方々が一堂に会しますね」
「そんな大役、私に務まるか分かりません」
不安を吐露する桜桃に対し、雅は閉じた扇の先で、彼女の胸元を軽く、優しく突いた。
「あなたのことです」
悪戯っぽく笑うその瞳の奥に、一瞬だけ、底の知れない光が宿る。
「大丈夫ですよ」
具体的な根拠も、納得のいく説明も何もない。
なのに、彼の発する独特の威圧感と絶対的な確信を前にすると、不思議とそれ以上の反論が喉の奥に引っかかって出てこなかった。
桜桃は敗北感を覚えながら、小さく息を吐き出した。
「……分かりました」
「ありがとうございます。期待していますよ」
雅は満足そうににこりと頷くと、流れるような動作でそのまま長い廊下の向こうへと歩いていった。
桜桃は巻紙を胸に抱えたまま、冷たい床の上にしばらく立ち尽くしていた。
──整えられた数字の向こう側に。
あの因州の地で出会った、必死に生きようとしていた人々の顔が、次々と脳裏に浮かんで消える。
あの荒れ果てた大地で舞った舞は、純粋な「祈り」だった。
ならば――この絢爛豪華な都の中心で、国の最高権力者たちの前で舞う『大嘗祭の五節舞』は、一体何のためのものなのだろう。
その答えは、まだどこを探しても、白く濁った天澄の空には見当たらなかった。




