第二十一話 その白い花の名前
翌日、斎館の部屋から出てきた桜桃は、顔色が酷く悪かった。
「……大丈夫ですか」
朝凪が眉を寄せる。
「頭が、痛いの」
「……二日酔いですね。薬を持ってきますので、待っていてください」
煎じ薬を流し込み、ようやく血色が戻り始めた頃、桜桃は斎館の外へ出た。そこで柳と瑛が待ち構えている。
「六花殿、昨日はお酒で倒れられたそうですね」
「ええ、一口で。……ある意味、恐ろしい才能です」
「えっ」
桜桃は絶句し、ぎこちなく笑った。
(一口で……?)
恥ずかしさと不安が押し寄せる。自分が何か失礼なことでも口走っていないだろうか。
「ねぇ、朝凪。昨日、私何か変なこと言ってた?」
「……覚えておられないのですか?」
「お神酒を一口飲んだところまでは覚えてるんだけど……」
「特に何も、重要なことは」
朝凪が視線を逸らしたのに気づき、桜桃は瑛へ縋るように振り返った。
「本当? 瑛さん、本当のこと教えて」
「ああ、ええと。好きなご飯の話を熱心にされていましたね」
「好きなご飯……?」
その時、柳が真面目な顔で割って入った。
「お酒が弱いというのは体質的な問題で、体内で生成された毒性物質を無害な酢酸へと分解する酵素の働きには個人差があり──」
柳が熱弁を振るい始めたその瞬間、朝凪が鮮やかな手際で言葉を遮った。
「――そうですね。今後、六花にはお酒を一滴も飲ませません」
柳は口を噤んだ。
そのやり取りを、少し離れた柱の陰から深黎が何気ない表情で見つめていた。
その視線だけが、この厳かな神宮の中で、どこか場違いな冷たさを帯びていた。
***
神宮の外へと一歩踏み出した瞬間、肌を撫でる空気が劇的に変わる。
これまで自分たちを優しく包んでいた、清浄でどこか閉じた神域の霊気が、一気に開けた厳しき山の冷気へと変貌を遂げていた。
見上げれば、灰色の空から細かな雪が、ちらちらと名残惜しそうに舞い落ちてくる。
「……早いのね」
季節の移ろいの速さに、桜桃が思わず声を漏らすと、すぐ隣から静かで、けれど聞き馴染んだ朝凪の声が返ってきた。
「こちらの冬は冷え込みますから」
朝凪はいつの間にか傍らに立ち、静かに空を見上げている。
「天澄よりも、ずいぶんと早いのね」
「ひと月ほど、早いでしょうか」
桜桃はそっと掌を上に向けて、空へと差し伸ばした。
落ちてきたひとひらの雪は、体温に触れた瞬間に儚く溶けて消えてしまう。あとに水滴の跡すら残らない。それでも、今この場所に、確かに雪が降っている。
街道の脇では、一行の荷馬車が慌ただしくまとめられていた。
桜桃や朝凪たちは、これから再び都である天澄への帰路に就く。一方で、柳はここから青陽家の本邸へと戻ることになっていた。
ここで、道が二つに分かれるのだ。
門のすぐ傍らには、細い枝をしなやかに垂らした低い木が佇んでいた。
花はひとつも咲いていない。けれど、その枯れた枝葉の上には、うっすらと初雪が積もり始めている。
出発の直前、桜桃は柳の背中へと歩み寄った。
柳は街道の端に一人で立ち、ただ静かに、落ちてくる雪を仰ぎ見ていた。
桜桃は足音を潜め、彼の隣に並ぶと、静かに口を開いた。
「柳様」
「はい、何でしょう」
「……『雪柳』の花を、ご存じですか?」
柳の動きが、止まった。
本当に、呼吸ひとつ分ほどの、ほんの一瞬の躊躇。
「……どのような花ですか」
「春先に咲く花です。まだ寒さの残る頃、長く細い枝いっぱいに、まるでもこもこと積もった白い小雪のように、小さな花々が隙間なく並んで咲く……とても、綺麗な花です」
桜桃は、視線だけで門のそばの低い木を指し示した。
促されるように、柳の切れ上がった双眸がその木へと向く。そして、青陽の庭園の片隅にも、これとよく似た木があったことを思い出したのだろう。柳はふっと、翳りを帯びた目を伏せた。
「……祖父の、好きな花です」
「そうですか」
桜桃は、柳の横顔を真っ直ぐに見つめた。
「『雪代柳』という貴方のお名前の中に、その『雪柳』の花の名が、ちゃんと入っていますね」
街道を吹き抜ける冷たい空気が、緊張を孕んで変わった気がした。
柳は、答えない。
いつもなら、どんな球でも滑らかに打ち返すはずの男が、しばらくの間、完全に沈黙してしまった。
それから、搾り出すようにゆっくりと、柳がその唇を割った。
「……雪柳」
小さく、その音を繰り返す。
自らの名の中にずっと秘められていたその言葉を、生まれて初めて、壊れ物を扱うように取り出すかのように。
「雪代柳、の中に……」
「ええ」
柳は、微動だにしなかった。
その視線は、宙の一点に釘付けになったまま動かない。
空からは、細く、静かに、雪が落ち続けている。
「……今の今まで、気づいていませんでした」
やがて彼の口から落ちた声は、いつもよりずっと低く、微かに震えていた。
「清明様が、愛されていた花の名が……私の名の中に、最初から、ちゃんと組み込まれていたのですね」
桜桃は、確信を込めてゆっくりと内なる想いを言葉にした。
「あなたも、郁李様と同じように……最初から、花の名を与えられていたのです」
柳はしばらくの間、ただ空を仰いでいた。
その瞳が、いつもと違っていた。
これまでの人生、自らの感情を内に隠し続けてきた人間が、その心を抑え込むための術を、一瞬だけ見失ってしまったかのような――ひどく無防備で、揺らぐ目だった。
「……私は、ずっと、自分は青陽の『外側』の人間なのだと、そう思い込んで生きてきました」
「ええ」
「花の名を持つ郁李や花梨とは違う。私はただ、雪代という便利な場所に都合よく置かれただけだと」
桜桃は、何も言わずにただ彼の言葉を聴いていた。
柳は、自分を言い聞かせるように続ける。
「だから、当主になどなれるはずがない。……なる必要すら、最初から、ないのだと」
「今も……そう思っていらっしゃいますか?」
柳はしばらくの間、雪の降る音に耳を傾けるように黙り込んだ。
「……分かりません」
それが、彼の剥き出しの、初めて見せる本心の答えだった。
「ですが」
柳は、雪が落ちてくるその遥かなる空の先を、もう一度見つめた。
「もし……その名が、本当に私に与えられていたのだとしたら、私は、決して……外側の人間では、なかったのかもしれない」
内側に縛り付けることも、外側へと突き放すこともしない、どちらにでもなれる自由な名前。
清明は、柳の優秀さを認めつつも、彼を「青陽」という呪縛で縛り付けたくはなかったのだろう。お前の人生はお前自身で選択しろと、名前という鍵を使って、静かに選択肢を委ねてくれていたのだ。
桜桃は、その美しい横顔を見つめた。
決して感情を表に出さない柳の目が、今日だけは、遠い春の光を追い求めるように泳いでいる。
「そういう方なんです、清明様は」
桜桃は静かに、微笑むように言った。
「とても分かりにくいですが……大切なことは、言葉の裏側でちゃんと伝えてくださっているのだと思います」




