第七話 叔父の思い
朝堂院の一角で、今日も優雅なお茶会が開かれていた。
冬枯れた庭から冷たい風が吹き込み、時折、障子を小さく鳴らす。卓の上には、温かな湯気を立てる椀が二つ、静かに並んでいた。
「今年の新茶は、少し渋みが強いですね」
雲英が椀を両手で包みながら、小さく息を吹きかけた。
「そうですか」
雅は音も立てずに一口啜る。
「私は好きですよ、この渋み」
「八意殿は何でも『好き』と仰いますね」
「これといって嫌いなものがありませんので」
「それは、それで……」
「羨ましいですか?」
「少し、ね」
雲英は苦笑交じりに視線を落とした。庭の木々がカサカサと乾いた音を立てて擦れ合う。
「武州の茶は、どんな味がするのでしょうね」
雲英がふと、独り言のように呟いた。
「さあ」
「行ったことはおありですか、八意殿」
「ありません」
「私もないのです。四大貴族の直轄地ですから、我々中央の人間にはなかなか縁がなくて」
「そうですね」
再び、おだやかで、どこか他人行儀な沈黙が落ちた。
雅は茶を一口飲み、雲英もまた椀を口元へと運ぶ。そこで雲英は、思い出したように顔を上げた。
「……そういえば、八意殿」
「はい」
「今回の武州への派遣ですが、六花殿もお連れになるとか」
雲英は少し首を傾げ、怪訝そうな目を向けた。
「……因州、羽州に続き、これで三度目です」
「そうですね」
「因州は干ばつ。羽州は虫害。武州は反乱。少々、六花殿ばかり働かせ過ぎでは」
「そうですか」
「身体への負担も大きいでしょうに……」
「随分と丈夫そうです」
「……精神的な疲労だって」
「見たところ、大丈夫そうです」
「見たところ、ですか」
「はい」
雲英は少し間を置いてから、探るように声を落とした。
「八意殿。貴方は、六花殿に何か個人的な恨みでもあるのですか」
雅は静かに椀を置いた。そして、濁りのない目で雲英を見つめる。
「六花がそれほど心配ですか」
「……当たり前です。もしものことがあったらどうするんですか」
「ならば、雲英殿ご自身で止めればよかったのでは?」
「私が、ですか?」
「はい」
「……止めても行きそうですね」
「でしょう」
雅はふわりと微笑んだ。
「それにしても、雲英殿がそこまで六花を心配しておいでとは」
雲英は少し言葉に詰まり、過去の記憶をまさぐった。
「以前、貴方が言ったのですよ。『六花殿のことは見ていてあげてください』と」
雅は少しの間、まるで他人の話を聞くかのように雲英を見つめていた。
「私が、そんなことを言いましたか」
「言いました。因州のときに、はっきりと」
「そうですか」
「覚えておいででないのですか?」
「……さあ」
雅は優雅に首を傾げた。
「言ったかもしれませんね」
「言ったのです」
「そうですか」
雲英はしばらくの間、目の前の掴みどころのない男を凝視していた。
「……八意殿。もう少し、ご自身の発言というものを大切にしていただけますか」
「以後、気をつけます」
「以後」
「はい」
「……今のことを言っているのですが」
「今も以後のうちに入ります」
「……この人は」
雲英は静かに深い溜め息を吐き出した。
この男が口にする『意味深な言葉』の何割かは、単にその場のノリや気分で言っているだけなのだ――雲英は、この時ようやくその事実に気づきかけていた。あるいは、気づきたくなかったが認めざるを得なかった。
「……話が逸れました」
雲英は気を取り直すように居住まいを正した。
「私が言いたいのは、やはり酷使しすぎではないかということです」
「経験のある者こそが、現地で最も迅速に動けるのですよ」
「それにしても、三度は……」
「ご心配なく」
その時、襖が控えめに叩かれた。
「失礼いたします」
現れたのは橘だった。腕に何冊かの書類を抱えている。
「ああ、伊吹殿」
「武州に関する追加の報告書が届きましたので」
伊吹はそう言って、書類を机の上へと静かに置いた。
「また一段と増えましたよ」
「良い報告ですか?」
雲英の問いに、伊吹は困ったように少しだけ笑った。
「良いとも、悪いとも」
橘は置いた書類を上から見下ろす。
「――現地では、神祇官の舞姫様が来られると聞いて、安心したという民の声が急増しているそうです」
雲英が驚いたように眉を上げた。
「もう武州まで噂が広まっているのですか」
「因州と羽州の件がありますからね」
橘は素直に、かつ真面目な顔になって答えた。
「雨を呼んだ奇跡の舞姫様。羽州では、狄から持ち帰った虫害の薬を広めた神祇官様」
「……」
「民は細かな事情など知りません。救われたという結果だけが残ります」
橘は静かに笑った。
「今では、『神祇官の舞姫様が来れば何とかしてくださる』と。民は、そういう救いのある話を何よりも求めています」
「希望、ですか」
「はい」
雲英がじっと雅を見た。
「それが、貴方の言う『権威』ですか、八意殿」
雅は何も答えなかった。質問を拒むわけでもなく、ただ当然の風景のように流し、再び茶椀へと手を戻す。
「武州の茶が、それほどまでに渋いと良いですね。――伊吹殿も、お飲みになりますか」
「……いえ、私は、次の執務がありますので……」
「……話が元に戻りましたね」と雲英が苦笑する。
「武州の茶の続きが、少し気になりましたので」
雲英はしばらくの間、茶を啜る雅の横顔を見つめていた。この男には、何を言っても、どんな綺麗事を並べても無駄なのだ。
「……左様ですか」
雲英は諦めたように静かに椀を持ち直した。
白い湯気が、二人の間でゆっくりと立ち上り、そして消えていく。
しばらくの間、茶室には衣の擦れる音だけが響く静かな沈黙が落ちた。
「そう言えば……」
やがて、雅が茶椀を見つめたまま、ぽつりと静かに口を開いた。
「『散らずの姫』が、動き始めていますね」
雲英は雅を見た。
「……散らずの姫?」
全く心当たりのない、不思議そうな顔だった。
雅は椀を手にしたまま、視線をゆっくりと窓の外の冬枯れた庭へと向けた。
「花は散るからこそ美しい、と世の文士たちは言いますが」
どこか遠い響きを帯びた声だった。
「――散らない花というのも、この世には存在するのですよ」
「……?」
雲英が問いかけるよりも早く、雅は窓の向こうの寒空を見つめたまま、それ以上は一切の言葉を拒むように沈黙していた。
***
本隊が出立した翌日、兵舎の前では後発隊の物資搬入が進められていた。
頑丈な荷台へ次々と木箱が積み上げられていく。しかし、作業に当たっていた兵の一人が、ふと手を止めて首を傾げた。
「……なぁ、なんか物資が多くないか?」
「多いな。いつも持っていく量の、ざっと三倍はあるぞ」
「誰か手配の数量を間違えたんじゃないか?」
「俺じゃないぞ」
「俺だって違う」
「じゃあ一体、誰がこんな量を――」
誰も名乗り出なかった。
手元の帳面と荷台を交互に確認していた千弦が、淡々と言葉を挟む。
「食糧、医療用の薬、包帯……確かにすべて、通常の三倍はありますね」
「三倍って、お前……」
「しかも、宮廷の蔵にでも眠っていそうな、一等上等な薬が大量に混じっています」
「一体、誰がこんな手回しを……」
兵たちが顔を見合わせる中、千弦はチラリと傍らの昊夜へと視線を巡らせた。
昊夜は無言のまま山積みの荷台を見つめていたが、特に咎める風でもなく、ただ静かに視線を逸らした。それ以上の追及を許さぬ主の横顔に、千弦はそれ以上何も言わなかった。
少し離れた神祇官の馬車の前では、瑛が荷物の最終確認を行っていた。
「六花様、こちらが現地で用いる祭具です」
「ありがとう、瑛さん」
桜桃は受け取った木箱を開け、中身の確認を始めた。
入っているのは、見慣れた儀礼用の鈴や祝詞の巻物――だが、その最奥に、明らかに祭事とは無関係な、小振りの絹包みと一通の折りたたまれた紙が混じっていることに気づいた。
「瑛さん、この箱の中の包みは……?」
「どうかしましたか? 今朝、神祇官庁の裏門へ『追加の祭具一式』として届けられたものですが」
「いえ……なんでもないわ」
桜桃は、瑛に気づかれないようにそっと紙を開いた。
そこに躍っていたのは、驚くほど力強く、それでいて気品に満ちた墨跡だった。
もう一度、心の中でなぞるように読み返す。
『神祇官として、ただ祈るだけでいい。戦場で刀など持つな。泥を被る汚い仕事は、すべて我々大人の役目だ。――餓死だけはするな』
桜桃はしばらくの間、その紙をじっと見つめていた。
この筆跡には、明確に見覚えがあった。朝賀の日に、一度だけ懐へ滑り込ませるようにして渡された書状。
あの時と、まったく同じ字。
「……叔父様」
思わず、小さな声が唇から零れ落ちた。
傍らに添えられていた絹の包みをそっと解くと、中には携帯用に極限まで凝縮された、見るからに高級な干し肉や果物の砂糖漬けがぎっしりと詰まっていた。
どれも驚くほど日持ちがし、かつ滋養の高いものばかりだ。
ざっと見積もっても、一人が十日は生き延びられる量があった。
桜桃はしばらくその包みを見つめ、それから再び、手紙の最後の一行に目を落とした。
『餓死だけはするな』
そこだけ、他の文字よりも筆圧が強く、紙に墨が深く染み込んでいた。
それが姪に対する絞り出すような本音なのだと分かった。
桜桃の口元から、ふっと小さな笑みが漏れた。
けれど、笑いながら、同時に視界がじんわりと熱くなっていく。
そんな桜桃の様子を、瑛はいつもと変わらぬ穏やかな、しかし全てを見通すような不思議な目で見守りながら、手元の帳面へと静かに筆を走らせていた。




