第四話 元近衛中将、蓮を見る
暁が額に手を当てる。
「……皇位継承候補者を、帝の側仕えに据えるのか」
清明が静かに言った。
「帝の最側近です。むしろ、継承候補だからこそ、帝のそばで国を学ぶべきとも言えます」
「理屈は分かる。だが世間がどう見るかだ」
「世間はどう見るでしょうか。星河帝の娘が、帝の側近として国を支えている。──この国の未来を担う者が、今の帝のそばにいる。そう見る者も、多いのではないですか」
暁は眉を寄せたまま、腕を組んだ。
蘇芳が口を開く。
「構いません。ただし、尚侍は帝に仕える官。皇位継承とは切り離して扱うべきです」
誰も否定はしなかった。
雅が扇を閉じる。
「では一案として──桜桃姫を尚侍に。これも名として挙げます」
しばらく、紙の上を筆が走る音だけが室内に響いた。
「最後に、右大臣の件ですが、こちらは……」
全員が清明を見た。清明はさらりと言った。
「私でよければ、引き受けます」
虚を突かれた間があった。昊夜が、かすかに口の端を上げた。
「……自分で言うか」
「誰も言いそうにありませんでしたので」
清明は涼しい顔をしている。
「ちなみに、あなた方の中で大臣職の実務が分かる方は何人おられますか」
暁が視線を逸らした。疾風が微妙な顔をする。昊夜は「私は武官だ」と言った。
清明は静かに扇を閉じた。
「そういうことです。本来なら、私は左大弁に残るべきなのですが」
雅が小さく息を吐く。
「人がおりませんのでね」
「では左大弁は」
「当面空位とします」
場が静まり返った。
「そちらの方が問題では」
清明が目を伏せる。
「……仕方ありますまい」
虚空帝が短く息を吐く。
笑っているのか、呆れているのか、よく分からない顔だった。
「……清明を右大臣に。仮として、各々再考するように」
「はい」と、清明が頭を下げる。その背筋は、いつも通り真っ直ぐだった。
雅が静かに整理した。
「では改めて確認します。右大臣──青陽清明。中務省──朝霧宮蓮火。尚侍──咲宮桜桃」
一拍置いた。
「以上三名、本日付で任じます。式部省にて正式に記録いたします」
暁が少し顔を上げた。
「……名を上げる場ではなかったのか」
「人手不足でございますので」
雅はにこやかだった。
虚空帝が呆れたように雅を見る。
「……雅。お前はいつもそうだな」
「何がでございますか」
「決まってから話す」
「さようにございますか」
雅は静かに頭を下げた。手の中で、扇がゆっくりと開く。
文官が、急いで書き留める音が響いた。
評議の間に、ほんの一瞬だけ、ゆるやかな空気が流れる。
暁がぽつりと言った。
「……それにしても、人が足りんな」
「足りません」と、清明は即答した。
「雲英殿一人に国の中枢を握らせていたのですから、当然といえば当然の結果です」
昊夜が言う。
「それは帝への嫌みか」
清明は少しも表情を変えない。
「事実の申し上げです」
雅が静かに口を開く。
「しばらくの間は、不足する部署には各省から応援を出していただき、足りなければ臨時の者を雇入れて補うのがよろしいかと」
昊夜は腕を組み、小さく頷く。
「応援だけでは足りぬか」
「はい。最低限の人数を確保しながら、新たな人材も見極める必要があります」
清明が言葉を継いだ。
「その場しのぎではありますが、今はそれしかありますまい」
「清明殿は手厳しいな」と、疾風がぽそりと言った。
清明は疾風をちらりと見る。
「疾風殿も、人ごとではありませんよ」
「……俺ですか」
「朝廷軍は暁殿、近衛は昊夜殿に頼りすぎている。そちらも早急に整えなければ」
疾風が僅かに背筋を伸ばした。
暁がしばらく黙り込んだ。それから、ふと思い出したように口を開く。
「……一つ、聞いてもいいか」
「どうぞ」
「武州の内乱の折。旧水路の出口で、反乱兵二人を一人で抑えた男がいた」
清明が扇で軽く手のひらを叩く。
「……聞いていませんが」
「昊夜殿の隊に混じっていた。正規の兵ではない。だが動きは本物だった。評定の間にもいた」
昊夜が少し目を細めた。
「……刹那のことか」
「刹那……」
暁はその名を確かめるように、繰り返した。
どこかで聞いたことがある。だが、いつ、どこで耳にした名だったかまでは思い出せない。
「名を知っているのか」と、暁が昊夜を見る。
「知っている」
「あの男、何者だ」
昊夜はしばらく間を置いた。
「……よく知らん」
「知らん?」
「官職はない。今はどこにも属していないはずだ」
暁は怪訝そうに眉を寄せた。
「あれだけ動ける男が?」
「そうらしい」
「……そうか」
暁はそれだけ言ったが、もう一度、胸の内でその名を転がした。
刹那。やはり、どこかで聞いた名だった。
清明が再び扇を開く。
「暁殿」
「官職がないなら、話は早い」
「武官が足りないとは、そういう意味ではありません」
「同じことだろう」
清明は扇で口元を隠した。
「……まぁ否定はしません」
疾風がおずおずと口を開く。
「あの、刹那殿、来てくれるんですか」
「知らん」と、暁はあっさりと言った。
「当たってみなければ分からない」
「断られたら」
「もう一度当たる」
疾風は再び微妙な顔をした。昊夜が静かに言う。
「……あの男が首を縦に振るかは、私にも分からない」
清明が記録の紙に、さらりと何かを書き足した。虚空が周りを見渡す。
「……苦労をかける」
静かな言葉だった。清明はゆっくりと頭を下げた。
「国の仕事でございますから」
扇を閉じながら、涼しく言った。
評議が終わったのは、昼を少し過ぎた頃だった。廊に出ると、昊夜が清明の隣に並んだ。
「桜桃には誰が伝える」
清明が口を開きかけた。だがその前に、雅が静かに言った。
「──私から伝えます」
清明は少し間を置いてから、扇を開いた。
「……そうですね、そちらの方がよいでしょう」
***
桜桃が皇居に移って数日後、梨壺を訪ねると、花梨はゆっくりと上体を起こしたところだった。
「花梨様。お怪我の具合はいかがですか」
桜桃が心配そうに寄り添うと、花梨は窓から差し込む陽光のような穏やかな微笑みを浮かべた。
「大丈夫よ、六花ちゃん……いえ、桜桃様と呼ばせていただくべきね」
「そんな、呼び方は今まで通りで構いません」
桜桃が穏やかに微笑むと、花梨もまた窓から差し込む陽光のような微笑みを返した。
「桜桃様が助かって、本当に良かった」
「皆さんのおかげです。花梨様も、証言台に立ってくれて……なんとお礼申し上げていいか」
「私は見たことを言っただけよ」
「本当にありがとうございました」
二人の間に、柔らかな沈黙が流れる。やがて花梨は、少しだけ話題を変えるように口を開いた。
「皇居で暮らすことになったのね」
「はい。桜花殿を賜りました」
そう答えた途端、桜桃の胸に、かすかな感慨が込み上げた。
成人の儀を終えたら移り住むはずだった、あの御殿。
一年前、すべてを失ったあの日から、二度と足を踏み入れることはないと思っていた場所だった。
一度は主を失った桜花殿が、今になって自分を迎えてくれる。
「それなら、いつでも会えるわね」
「ええ。椎香様も近くにいらっしゃいますし」
その名前が出た瞬間、花梨の表情に一瞬だけ影が差した。
「……椎香ちゃんのこと、もう聞いた?」
「何かあったのでしょうか」
「……ご懐妊で、体調が優れないそうなの」
「そうなんですか!」
桜桃は思わず声を上げた。ご懐妊という言葉に純粋な喜びが溢れそうになったが、次の瞬間、背筋に冷たいものが走った。以前、花梨が切なげに語っていた言葉が脳裏に蘇ったからだ。
『向こうは疾風様の地盤を固めたい。だったら、昊夜様に余計な後ろ盾がつく前に、引き離しておきたいと思っても不思議じゃないわ』
――権力争いの渦中に、また新たな命が引きずり込まれようとしている。
桜桃は顔色を伺うように、そっと花梨を気遣った。
「花梨様は……お辛くないですか?」
「大丈夫よ。まずはこの怪我を治して、回復しないとね」
花梨は努めて明るく笑おうとしたが、その瞳の奥には隠しきれない寂寥が滲んでいた。
桜桃はそれ以上、何も言えなかった。花梨の抱える孤独や重圧に、軽々しく言葉を重ねるべきではないと直感したからだ。
「……そうですね」
静かに答える桜桃の手を、花梨は優しく握り締めた。窓の外では、蝉時雨が騒がしく夏を告げていた。
***
梨壺を辞して歩いていると、中庭に面した縁側に、蓮火が腰を下ろしているのが見えた。
その背中がどこか心細げに見えたのは、夏の陽射しのせいだろうか。桜桃は迷わず足を向け、彼の隣にそっと腰を下ろした。
「……最近どう?」
控えめに問いかけると、蓮火は桜桃に視線を移した。
「何がでしょう」
「朝霧宮蓮火として扱われるの。慣れた?」
蓮火の表情が、かすかに動いた。
動いた、というより——動きたくなさそうにしているのが分かった。
「……慣れません」
「そうよね」
「廊で突然、見知らぬ文官に膝をつかれました」
「あらまあ」
「昨日は宮内省の者に『蓮火殿』と呼ばれました」
「それは仕方ないんじゃない」
「呼ばれるたびに誰かと思います」
桜桃はくすりと笑った。
蓮火はどことなく不本意そうな顔のままだった。
「血筋というのは厄介ですね」
「そうね」
蓮火はそれには答えず、中庭の隅にある、小さな古い池へと視線を落とした。
その濁った水面から茎を伸ばし、大輪の白い花を咲かせているのは、彼のお印である「蓮」だった。
宮内省の者たちが、手入れをしたものなのだろう。汚れひとつなく、咲き誇っている。
「綺麗ね」
桜桃がそう言ってから、ふと思い出したように蓮火を見た。
「そういえば、朝凪は蓮が好きなのよね」
蓮火は、わずかに目を瞬いた。
「……なぜですか」
「昔、お文に書いてくれたでしょう。私が好きな花を聞いたら、蓮が好きだって」
「……覚えていらしたんですか」
「もちろん。『水の上に咲く姿が美しいと思います』って」
蓮火はしばらく黙っていたが、やがて気まずそうに池へ視線を戻した。
「……あれは、適当です」
「え?」
「好きな花など考えたことがありませんでしたので、自分の印を書いただけです」
「…………」
「理由も、その場で考えました」
「そこまで適当だったの?」
「申し訳ございません」
桜桃は呆れたように蓮火を見たが、彼はそれ以上言い訳をせず、池に咲く白い花を見つめていた。
「……綺麗に咲かせすぎです」
蓮火の目元に、微かな、自嘲気味な翳りが差した。
「蓮は、泥の中に根を張り、そこから水面へ花を咲かせるものです。どれだけ上を綺麗に飾っていただいても、私の本質は、あの泥の中にあります」
困ったような表情だが、いつもの穏やかな声音だった。
どれだけ皇族の座に据えられようと、自分は身分を喪い、泥にまみれた「朝凪」のままだ、と。彼は静かに、自分自身をその泥から切り離せずにいるのだ。
「私は、そうは思わないわ」
桜桃の声に、蓮火はそっと視線を戻した。
桜桃は真っ直ぐな瞳を向ける。
「泥の中にしか生きられないなら、誰よりも泥の深さを知っているということよ。綺麗な水しか知らない人には、泥の底で苦しんでいる人の手を掴むことはできないわ」
桜桃は縁側を少しだけ滑り、蓮火へと近づいた。
「私は知ってる。朝凪が、泥に塗れて、傷だらけになって、それでも私を優しく守ってくれたことを。……だから、泥の中からこんなに気高く咲くこの花は、誰よりも貴方によく似合っています」
「……」
蓮火は押し黙った。
桜桃の言葉は、高貴な身分という飾り物を優しく一枚剥ぎ取って、その奥にある「朝凪」としての彼の歩みをそのまま肯定するものだった。
長い沈黙のあと、蓮火はふっと目を伏せ、困ったような、けれどどこか嬉しそうな溜息を零した。
「……姫様のそういう優しさは、昔から私を困らせますね」
「困らせていません。本当のことです」
桜桃が言い返すと、蓮火は「では、そういうことにしておきます」と静かに言った。いつもよりも少し柔らかい表情で。
庭に風が吹いた。池の蓮が、その葉を優しく揺らす。
雲ひとつない、青い空が眩しかった。
桜桃が眩しさに目を細めかけた、その時だった。
「よう」
頭上から、聞き覚えのある声が降ってきた。
見上げれば、縁側の太い木柱に背を預け、刹那が立っている。着物を少し着崩し、まるで自分の家の庭にでも立ち寄ったかのような気楽な顔をしていた。




