第五話 皇子、約束を思い出す
「……刹那?」
桜桃は目を丸くした。
「なんで宮城にいるの」
「散歩」
「宮城を散歩しますか」
「する人間が少ないから空いてていい」
あまりに平然とした返答に、桜桃は呆れてしまった。
「この間、皇居には簡単に入れないって言ったでしょう」
「言ってたな」
「じゃあ、どうしてここにいるの」
「何とかした」
「……どうやって?」
「まあ、いろいろとな」
刹那は曖昧に笑うと、桜桃の隣に座る蓮火へ視線を移した。
「それに、こいつの顔も見ておきたかったしな」
「……私の?」
蓮火が静かに問い返す。
「ああ。皇族になったお前が、どんな顔して暮らしてるのかと思って」
「……わざわざ来なくていい」
「いいじゃねえか。お前まで皇居に引っ越しちまって、屋敷に行っても誰もいねえんだから」
「それはそうだが」
「にしても、蓮火殿か。まだ慣れねえな」
「私もだ。お前くらいだ、今でも朝凪と呼ぶのは」
「変える気ねえからな」
「……それはありがたい」
刹那はそう言うと、庭へと目を向けた。蓮火もまた、夏の青葉を眺めている。
桜桃はその横顔をそっと見つめた。いつもより少しだけ目元が柔らかい。
先ほど蓮の花について話していた時もそうだったが、皇族としての暮らしに戸惑いながらも、こうして昔からの友人と話している間は、どこか肩の力が抜けているように見えた。
その穏やかな時間を破るように、回廊の向こうから足音が近づいてきた。
現れたのは、千弦を伴った昊夜だった。縁側の端で歩みを止め、そこにいる三人を見つめる。
「……何をしている」
「散歩」
刹那が即座に答えた。昊夜は眉を寄せる。
「お前はなぜここにいる」
「姫の顔を見に」
「それは分かる。なぜ皇居にいる」
「散歩」
「さっきと同じ答えを返すな」
昊夜は呆れたように息を吐いた。
刹那はまったく気にした様子もなく、にやりと笑う。
「お前も散歩か?」
「仕事だ」
「そうか。ご苦労さん」
昊夜はそれ以上問い詰めるのを諦めたらしく、縁側の太い木柱に背を預けた。少し遅れて、千弦がその三歩後ろに控える。
しばらくの間、五人は無言で夏の庭を眺めていた。青葉を揺らす風が、回廊を涼やかに吹き抜けていく。
「そうだ」
ふと、刹那が口を開いた。何かを思い出したように昊夜へ顔を向ける。
「お前に聞きたいことがあった」
「何だ」
「あの時の旗」
「旗?」
「処刑場に持ってきただろ。鳳桜紋の大旗。お前、あんな切羽詰まった時に、わざわざ取りに行ったのか?」
桜桃も記憶を辿るように昊夜を見上げる。
「あ……確かに持っていたわね」
「そんな暇があるわけないだろう」
「じゃあ、何で持ってたんだよ」
昊夜は眉根を寄せた。
――あの時、昊夜の頭にあったのは、一刻の猶予もないという事実だけだった。
足元の土を蹴り、どれほど馬を急がせても、間に合う保証などどこにもない。
近衛府の庭を飛び出した昊夜は、何度も馬腹を蹴りつけていた。
背後には数騎の近衛が続いていたが、振り返る余裕などなかった。
「もっと走れ!」
荒い息を吐く馬の背で、手綱を握る指先が白く強張る。
蹄が土を抉り、冷たい泥が跳ね飛んだ。
まだ遠い。処刑場は、まだ見えない。
焦燥に内側から焼かれるような思いで手綱を引き絞ったとき、視界の端で、何かが大きく翻った。
鳳凰が桜を抱く、近衛の鳳桜紋の軍旗。昊夜の斜め後ろを走る旗手だった。
昊夜は一瞬だけその布きれを見据えると、手綱を緩めて馬を寄せた。
「貸せ!」
「は――」
返事を待つ気などなかった。
旗手が目を剥くより早く、昊夜は腕を伸ばし旗竿を掴み取ると、再び馬腹を強く蹴る。
「中将!?」
その声は、吹き抜ける朝の風に呑まれて瞬く間に背後へ消えた。
昊夜は鳳桜紋の大旗を片手でしっかりと握りしめ、一段と速度を上げる。
旗があれば、遠くからでも近衛の進軍だと分かる。
兵がこちらを確認して動きを止めるまでの時間を、わずかでも稼ぎ出す。ただ、それだけのためだった。
朝の冷気を裂き、銀の鳳凰と桜が激しく翻る。
その下を、昊夜はただ一人、後続を引き離して荒々しく駆けた。
間に合え。それ以外のことなど、頭の隅にも存在しなかった。
◇
「──というわけだ」
「……旗手には、謝ったのか?」
刹那の呆れた声が返ってきた。
「何故だ。返したぞ」
「そういう問題か?」
「何がだ」
刹那が何とも言えない顔で口を閉ざす。千弦は笑いを堪え、蓮火は庭の木々を見ていた。
桜桃だけが、何も言わずにじっと昊夜を見つめている。
「……皆、本当に、いろいろしてくれていたのね」
誰も、すぐには答えなかった。
昊夜は視線を庭の石灯籠へ逸らし、刹那はポリポリと頭を掻く。千弦は柔らかく目を細め、ただ静かに佇んでいた。
蓮火は静かな瞳で桜桃を見ていた。
桜桃が小さく息を吸い込み、再び前を向こうとしたその時、回廊の板敷きを蹴る小気味よい足音が響いてきた。
軽やかで、よく知っている聞き覚えのある足音だった。
角を曲がって現れたのは、丸い目をした小柄な侍女──鈴だった。
桜桃の姿を認めるなり、小走りのまま近づいてくる。
「六花! あ、朝凪様、昊夜様も。それと──」
刹那の姿を視界に入れた瞬間、鈴の足がぴたりと止まった。
「……どなたですか」
「通りすがり」
「皇居に通りすがりはいません」
「……鋭いな」
「名前くらい教えてください」
「刹那」
「刹那様?」
「様はいらねぇよ」
鈴はしばらく不満げに刹那を見つめていたが、納得のいかない顔のまま、桜桃の方へと向き直って姿勢を正した。
「六花。八意様がお呼びです」
桜桃の肩が上がった。
「……また何かあるの」
思わず、吐き出すように漏れた声だった。
鈴がきょとんとした顔をする。
「六花?」
「……なんでもないわ」
刹那がちらりと桜桃の横顔を盗み見た。
「雅に呼ばれると碌なことがない、って顔してる」
「……少し、してるかもしれない」
桜桃は立ち上がった。
白の絹地の裾を静かに整えながら、もう一度だけ空を見上げる。
「では、六花をお借りします」
鈴が桜桃の腕を取ると、刹那が鈴に目を向けた。
「ああ。転ぶなよ」
「子供ではありません」
「そうか。小さいからてっきり」
「……刹那さん」
「様は取れたな」
鈴はむっと頬を膨らませ、そのまま桜桃を引っ張っていった。
縁側には、男四人だけが取り残された。
再び庭に目を向ける。青い葉が、風に吹かれてまた揺れた。
──雅に呼ばれると碌なことがない。
以前、桜桃がそんなことを零していた。毎回何かが始まり、毎回薄氷を踏むような思いで終わる。
(……また何か始まるんだろうな)
刹那は小さく、退屈そうに息を吐き出した。
「……ところで」
刹那がふと、何でもない風を装って口を開いた。
「昊夜、お前、昔、桜桃皇女の婚約者候補って言ってたよな」
刹那の言葉に、縁側の空気が色を変えた。
昊夜の斜め後ろにいた千弦が、弾かれたように身を乗り出す。
「えー!」
刹那が視線を向けた。
「知らなかったのか」
「……存じ上げませんでした」
千弦は食い入るように昊夜の横顔を見つめたが、当の本人は表情を一切変えない。ただ腕を組んだまま、静かに夏の庭を眺めている。
「昊夜様、……いつの話ですか」
「星河帝の御代だ」
「候補で終わったんですか」
「まぁ……」
「もっと早く教えてくださいよ、そんな面白い話」
「面白い話ではない」
「いえ、面白いです」
「黙れ」
千弦は一旦、唇を引き結んだ。しかし、僅か呼吸みっつ分の静寂に耐えかねたように、また声を潜めて問いを重ねる。
「でも、先帝の時代、桜桃様と一度も会ったことがなかったのですよね? なぜ会わなかったのですか」
「黙れと言った」
「昊夜様が婚約者候補だったなら、なぜ──」
「千弦」
昊夜の声が、一段と低く沈んだ。
その響きに気圧され、千弦はようやく口を閉ざした。姿勢を正したまま前を向いているが、その瞳の奥だけは、好奇心で僅かに生き生きと輝いていた。
「で」
刹那が気だるげに、しかし楽しそうに話を戻した。
「なんで会わなかったんだ。候補なら顔くらい見るだろ」
刹那の言葉に、昊夜は視線を止めたまま、遠い記憶の底を探るように僅かに目を伏せた。
あの謀反があった日。星河帝から直々に「桜桃と会うように」と命じられていた。
お互いにそのつもりでいたはずだった。だが、夜に起きたあの惨劇のせいで、二人は正式に相まみえる機会を失ったのだ。
けれど、それよりも前、会おうと思えばいくらでも機会はあったはずだ。なぜ自分はそれまで、彼女の存在を、その顔すら見ようとしなかったのか。
かすかな衣擦れの音の向こうから、当時の確かな理由が脳裏に蘇ってきた。
「会わない方がいいと言われた」
「誰に」
昊夜は首を動かし、視線を落とした。そこにいる一人の男へ。
刹那がその視線の先を追う。庭の青葉を見つめたまま佇む、蓮火だった。
「……お前か」
刹那が静かに呟いた。蓮火は微動だにせず、淡々と答えた。
「婚約者候補ということは、婚約者にならない可能性もある。子供の頃に顔を合わせて、それで纏まらなかった場合──後々関係が拗れるだろ。会うなら決まってからの方がいい」
「……」
「現実的な判断だ」
室内に、冷たい静寂が落ちる。
刹那は蓮火の無表情な横顔を見つめた。
(こいつ、わざと遠ざけたな……)
蓮火はどこまでも冷静に、ただ風に揺れる梢を目で追っている。
刹那が今度は、昊夜の三歩後ろに控える千弦に目をやると、千弦はいつの間にか一歩身を引き、静かに目を伏せて事の顛末を察していた。
刹那は小さく息を吐き出す。
「……昊夜は丸め込まれたわけか」
「丸め込まれてなどいない」
昊夜は腕を組んだまま、不機嫌そうに声を落とした。当時は蓮火の言葉を、純粋に現実的で合理的な配慮として受け入れていたのだ。
「……そうか。ならいいんだが」
刹那はそれ以上、その過去を暴こうとはしなかった。しかし、千弦の瞳はまだ冷めていなかった。控えめに、しかし明確な音を落とす。
「……ちなみに、もう婚約者候補にはならないのですか」
「ならないだろうな。星河帝はもういない」
千弦は少し考えるように視線を彷徨わせた。
「でも、桜桃様と昊夜様が婚約すれば、朝廷内では、もはや怖いものなしではないですか」
再び、静寂が立ち込める。
刹那が視線だけで蓮火を窺うと、蓮火は変わらず庭を眺めていた。表情のどこにも歪みはない。ただ、周囲の空気だけが、凍てつくように一瞬で変質していた。
刹那は喉を鳴らし、千弦の方へと向き直った。
「千弦、怖いものなし、ってのはな、周りが怖がる」
「……確かに、喧嘩も多そうですね」
千弦は幾度となく言い合ってきた桜桃と昊夜の姿を思い出した。
「だろ。強いもんが二人並んだからって、二人で上手くやれるとは限らねぇってことだ。一人なら自分の好きに進めるが、二人ならそうはいかねぇ」
「どちらかが、譲らなければならないと?」
「どっちかだけじゃ駄目だろ。二人でいるなら、二人とも少しは動かなきゃならねぇよ」
「……なるほど」
「覚えておけ」
「……心得ました」
それまで静観していた昊夜が、不満そうな声を響かせる。
「刹那には素直だな」
「昊夜様には素直になれる場面が少ないので」
「どういう意味だ」
「そのままの意味です」
千弦は姿勢を正したまま、涼しい顔で言い切った。
昊夜はゆっくりと視線を夏の庭へと戻した。
あのときの会う約束は、凄惨な謀反によって断ち切られ、蓮火の合理的な言葉によって遠回りさせられた。
けれど、こうしてすべてが明かされた今、彼女は「桜桃」として、再び自分の目の前に現れたのだ。
(あの約束の続きがあるのなら……)
昊夜はそっと目を伏せ、奥歯をきつく噛み締めた。
その横顔を、刹那が横目でちらりと見やった。
(丸め込まれてなどいない、か……)
刹那の脳裏には、今や「歩く氷山」などと畏怖されている目の前の男の、かつての姿が鮮烈に蘇っていた。
本当に、昔の昊夜は良くも悪くも真っ直ぐで、世間知らずなほどに純真無垢だったのだ。誰もが認める、育ちのいい高貴な皇族。それが、出会った当時の昊夜という男だった。
五年前のあの狄族との戦が始まった当初の、あの傷つくことを恐れずにひたむきに理想を掲げていた昊夜の姿は──。
(……今の、姫によく似ている)
危ういほどに真っ直ぐで、どんな命も諦めまいと意固地になっていたあの少女。かつての昊夜が持っていて、あの過酷な戦場で削り落としてきてしまった「純粋さ」を、今の彼女はそのまま宿している。
だからこそ、昊夜は彼女を放っておけないのだろう。
あの凄惨な戦いで途切れてしまった昊夜の「純真」は。かつて失われたはずの、あの約束の続きは。
今、桜桃という少女の手によって、再び静かに動き出そうとしているのかもしれない。
吹き抜ける夏の風が、青い葉を小さく揺らした。刹那はそれを見つめながら、静かにそう思った。




