第三話 神祇官伯、政治に関与する
桜桃を屋敷まで送っていった刹那が、再び白蔵邸に戻ってきたのは夕方になってからだった。
刹那はそのまま客間に入り、縁側の端に腰を下ろした。庭には夕の風が吹き抜け、青葉を小さく揺らしている。
庭へと視線を移すと、庭の奥の大きな木の傍らに銀牙が佇んでいる。腕を組んだまま、じっと薄無垢の空を見上げていた。刹那はしばらく、その微動だにしない背中を眺めていた。
先ほど客間で桜桃たちが交わしていた会話が、耳の奥に残っていた。武州の混乱の折に届いた食糧。狄族への婚姻の道中に手配された羊や牛。それらはすべて、この男の差し金だったのだ。
やがて腰を上げ、砂利を踏みしめて庭へと歩みを進める。気だるげな足音を捉え、銀牙がゆっくりと振り返った。眼光はすこぶる鋭い。
刹那はその威圧を真っ向から受け止めながら、特に気にした様子もなく、その大きな体の隣へと並んだ。
「……色々と、陰で動いてくれてたんだな」
「何のことだ」
「武州の時の食糧とか。狄族のところへ向かう時の、あの生き物たちとか」
銀牙は呼吸ひとつ分、間を置いた。
「だから、知らんと言っている」
頑なな拒絶に、刹那は思わず小さく笑みを漏らした。
すると、いつの間にか縁側へと出てきていた彪が、低く鼻を鳴らした。
「備州は独自に備蓄を持っているからな」
銀牙がひときわ嫌そうな顔をして、彪を睨みつける。
「余計なことを言うな」
「事実だろう」
銀牙は不機嫌そうに荒々しく顔を背けた。
「お前は相変わらず、報告の数字を減らして貯め込む」と、彪が淡々と言う。
「お前は相変わらず、何でも正直に報告する」と、銀牙がすかさず言い返した。
「事実だからな」
「だから毎回苦労する」
「余計なお世話だ」
二人の間に流れるやり取りが何を指しているのか、刹那の頭の中で静かに線が繋がっていく。
先の収穫報告において、不作に見舞われながらも、頑なに『やや減収』とだけ報告を続けていた備州。
この男は、豊作であっても不作であっても、朝廷には常に同じ『やや減収』という数字だけを差し出しているのだ。豊作の折には国に報告せず、穀物を蔵に溜め込み、不作の折にはその足りない分を自らの備蓄から民へと放出する。
刹那は静かに天を仰いだ。それはつまり、朝廷が誤魔化されているということだ。
「なら、その報告で朝廷の役人どもは一体何を見てるんだ」
「知らん」
銀牙は即座に断ち切った。
「見抜けぬというなら、その程度ということだ」
彪は呆れたように銀牙を見やった。
「……如月殿に、程々にな、と言われていただろう」
「程々にしている」
「それで毎年、蔵が増えるのか」
「減らしてどうする」
彪は鼻を鳴らした。規律を重んじる彼にとっては、決して気に入るやり方ではないのだろう。
だが、その欺きのおかげで、因州が救われたのもまた確かな事実だった。
干ばつの折に届けられた水と食糧。銀牙は決して手柄を口にはしないが、真に窮した場所には、必ず必要なだけのものを届けてみせる。
「必要だから、手元に残す。……来るかもしれん、不確かな明日のためにな」
銀牙の掠れた声が、夕闇の静寂に響く。
刹那は言葉を失い、ただ口を閉ざした。
因州の彪は飢えの現実を隠さず国へ突きつけた。武州の日和は兵糧を徹底して守り抜いた。そしてこの男は、まだ見ぬ明日のために、蓄えを残していた。
何を選び、何を背負うかは、その土地を治める者によってまるで違う。
「統治ってのは、つくづく面倒な仕事だな」
思わず、吐息に混じってそんな言葉が零れ落ちた。刹那はそれ以上何も語らず、ただ静かに、赤く染まる庭の景色を眺めていた。夕刻の長い光が、白い砂利の上に長く、細く伸びている。
やがて、銀牙が低い声を響かせた。
「お前、あの娘の近くにいるのか」
「まあ、そうだな。ちょくちょく、顔は合わせてる」
「ならば、一つ頼みがある」
刹那は隣の大きな顔を見やった。銀牙は視線を真っ直ぐ前方に向けたまま、静かに言葉を繋ぐ。
「見張れ」
「……見張る、とは」
「あの娘の周りをうろついている、不届きな男どもをだ」
刹那は一瞬の間の後、喉の奥で苦笑した。
「男どもって、具体的には誰のことだ」
「帝の座に押し上げようとするやつ。己の都合に利用しようとするやつ。それから、当然のような顔で傍に居座っているやつ、すべてだ」
「……」
最後のひとつについては、思い当たる顔があまりにも鮮明だった。
「どいつもこいつも、あの娘を放っておかん」
「まあ……それは否定しないけどな」
「もし、あの娘が泣かされるようなことがあれば、すぐに俺へ報告しろ」
刹那はしばらくの間、銀牙の鋭い横顔を凝視していた。
「……報告して、どうするんだ?」
「備州へ連れて帰る」
刹那は思わず銀牙を見た。
「……誰を?」
「あの娘に決まっているだろう」
「いや、決まってるかどうかを聞いてるんじゃなくてだな。本人が嫌がったらどうするんだ?」
「力ずくでも連れて帰る」
刹那はしばらく銀牙を見つめた。その顔には、冗談の欠片もなかった。
「……おいおい。皇女を力ずくで連れ去ったら、それこそ大問題だろ」
「俺の姪だ」
「いや、そういう問題じゃねえだろ」
「何が問題だ」
「全部だよ」
銀牙は不満げに眉を寄せた。
「姪を守るのに、誰の許しが要る」
「……陛下とか?」
「必要なら話をつける」
「話がつかなかったら?」
「その時に考える」
刹那は口を半開きにしたまま、銀牙の横顔を見つめた。
「……まさかとは思うけど、兵を出したりしねえよな?」
「備州の兵はよく鍛えてある」
「聞いてねえよ!」
「宮城の守りも、昔ほど堅くはあるまい」
「何の算段を始めてんだ、お前は!」
刹那は思わず一歩後ずさった。
朝凪も相当なものだが、あいつはまだ、表向きには穏やかに話を進めようとする。ところがこの男は、最初から力ずくという選択肢を隠そうともしない。
しかも、冗談では済まないだけの兵と金を持っている。
(……朝凪とは、また違う意味でやべえな、この人)
刹那は視線を遠くの梢へと逸らした。この人にだけは、絶対に余計なことを言ってはならないと本能が警告していた。言えば、本当にすべてを放り出してやりかねない。
「気が向いたら」
「気が向いたらではない。報告しろ」
刹那はしばらく間を置いた。
「……気が向いたら」
刹那はもう、それ以上は何も言わなかった。
砂利の上に、最後の夕陽が静かに落ちていく。銀牙はただ前を向いたまま、二度と口を開こうとはしなかった。
だが、赤い残光に照らされたその頑なな横顔は、ほんの少しだけ、頑固な氷が融けるように柔らかさを孕んでいるように見えた。
本人がそのことに気づいていないのか、それとも気づいていて敢えて知らないふりを決め込んでいるのか。刹那には、最後まで判断がつかなかった。
***
朝議の間は、朝から重苦しい空気に満たされていた。
その重さは、いつものそれとは少し違っている。
恐怖でも、疑心でも、あるいは政争の剣呑さでもない。どちらかといえば──底のない困惑、だった。
虚空帝が上座に座している。
向かって右に昊夜。その斜め後ろに疾風。
左には暁が控え、清明が文机の前に座していた。
式部卿の雅が、上座の隣に立っている。手にした扇を緩やかに動かしながら、居並ぶ重臣たちを見渡した。
壁際ではない。今日は、座を仕切る側にいた。
文官が恭しく頭を下げる。
「雲英様の空席についてでございますが」
雅が静かに口を開いた。
「人事を巡る件ですので、式部省として進めさせていただきます」
場の全員の視線が、雅へと集まる。
「神祇官は政治に関与しませんが」
「どちらなんですか」
疾風が思わず声を漏らした。
「式部卿です、今日は」
雅はにこやかに扇を揺らした。
「右大臣、および中務卿の両職、いずれも空位のままでございます。このまま放置すれば、帝の詔勅の取り次ぎをはじめ、宮中の内政全般に差し障りが出てまいります。早急に後継を定めたく」
重い間があった。
「適任が、いない」
暁が端的に言い切った。だがその短い一言が、この場の全員の共通見解でもあった。
清明が扇をゆっくりと開く。
「右大臣と中務卿を兼ねていたのは、それだけ雲英殿が優秀だったからです。あの両職を一人で回せる人間が、そう都合よく転がっているはずもない」
「では二つに分けて担わせるか」と、昊夜が言った。
「しかし分けるとして、だれが──」
雅は揺らしていた扇をぴたりと止めた。
「そうですねぇ」
広間が、しんと静まり返る。扇で口元を隠したまま、ゆっくりと続けた。
「……まず中務省ですが、帝の側に立ち、詔勅の草起、宮中の政務を取り仕切る重要な役所でございます」
「中務大輔はどうした」
暁が口を挟む。
「空位でございます。現在は少輔が省内の実務を取り仕切っておりますが、卿と大輔の両職を欠いたままでは、さすがに限界がございましょう」
「ならば、その少輔を昇進させればよいのではないか」
「無論、それも考えられます。ただ、少輔はまだ若く、宮中の実務には通じていても、帝の側近として朝廷をまとめるには荷が重いかと」
清明が静かに頷いた。
「雲英殿の後任となれば、なおさらですな」
「ええ。加えて、中務卿は帝の最も近くで政務を補佐する官職。本来であれば、皇族が務めるのが望ましいでしょう」
昊夜が眉を上げた。
「……朝凪か」
蓮火は前帝に仕えていたのだ。帝の業務も、その肌に染みついているはずだった。
居並ぶ者たちの間に、目立った異論は起きない。だが、その時、暁が口を開いた。
「……近衛ではなく?」
その言葉に、昊夜の動きが止まった。ほんの一瞬だった。気付いた者はほとんどいない。
「元は近衛中将。実績も十分です」
朝議の空気が、少しだけ色を変える。
沈黙したままの昊夜へ、視線が集まった。現在の近衛中将は昊夜である。しばらくして、昊夜は静かに口を開いた。
「無理だ」
「規律の問題か」
「ああ。一度軍籍を放棄した身だからな」
一拍の間を置く。そして。
「……本人も分かっているだろう」
それだけ言って、正面を向いた。
赤楊と鷹取がそれぞれ口を開いた。
「宮中の内情を知る者、という意味では中務省に適任かと。帝の側近となれば、能力だけでなく宮中の勝手を知っていることも重要です」
「しかし中務省は内政の中枢です。経験不足は否めません」
「その通りです。本来なら数年は下で経験を積ませるべきでしょう」
「……本来なら、の話ですな」
右大臣も中務卿も空位という過酷な現実が、全員の脳裏をよぎる。
清明は扇で仰ぎながら言う。
「中務卿は空位、中務大輔として、中務省へ蓮火殿を、と。適任かと存じます」
虚空帝が咳をした。
「……正式にはまだ決めておらん。今日はあくまで名を上げる場だ」
「はい。では名として──朝霧宮蓮火殿を、中務省へ。これを一案として挙げます」
式部省の文官が筆を走らせる音が、静かに響いた。
雅が続ける。
「次に尚侍の件ですが」
「尚侍か」と、暁が顎に手をやる。清明が仰いでいた扇を止めた。
「後宮十二司の筆頭ですな。帝の身の回りのお世話、詔勅の伝達、宮中祭祀の補佐。帝の最も近くに侍る職です。本来は別に置くべきところ、これまで雲英殿が中務省から兼任という形で処理しておりました。ですが本来は独立した職であり──いえ、独立していなければならない職です」
雅が頷く。
「そうですね。神祇の観点からも、宮中祭祀の補佐は中務省と分けるべきかと」
「同意します」
そして、また少し間があいた。暁がゆっくりと言った。
「尚侍に据えるとしたら……誰がいる」
場が静まる。鷹取が口を開いた。
「費用の面から申し上げますと、新たな尚侍候補を一から育てるのは現実的ではありません。礼法、宮中作法、祭祀、女官統率。教える側の人員も必要になります。既に宮廷の作法を知り、帝の近くで政務を見ている者がいるなら、その者を使う方が安上がりですな」
赤楊は少し考えるように目を伏せた。
「尚侍は、帝の最側近。後宮と宮中祭祀、双方の事情を知る者など、今の宮中で、その条件を満たす者は多くないでしょう」
誰も口を開かない。鷹取が腕を組む。橘は考え込んでいる。暁は天井を見上げた。
誰の顔にも、具体的な候補者の名が浮かばない。
この国には今、圧倒的に人が足りなかった。有能な者は八重御所の変で死んだか、遠ざかったか、もとより少なかった。
沈黙が長くなる。
疾風がそっと昊夜を窺った。昊夜は腕を組んだまま、どこか遠くを見つめている。
雅がゆっくりと口を開いた。
「……一名ご提案申し上げたい人物がおります。この数ヶ月、宮中祭祀を最も近くで見ておられた方がいらっしゃいます。所作も礼儀も、後宮や宮廷の勝手も承知されている」
昊夜は雅に視線を向ける。
「えらく遠回しだな」
「では直入に。──桜桃姫を、尚侍に」
その言葉が、間に冷たく落ちた。




