第二話 皇女、変わらぬ友と笑う
白蔵家の天澄屋敷は、宮城からほど近い場所にあった。
重厚な門をくぐると、手入れの行き届いた庭が広がり、夏の日差しを浴びた青葉が、白い砂利の上に鮮やかな影を落としていた。
桜桃が案内された客間には、すでに二人の男が顔を揃えていた。
白蔵家当主の彪と、玄英家当主の銀牙。
桜桃をここまで送ってきた刹那が、桜桃の背後から覗いている。
「……遠いところをわざわざ」
彪が静かに声をかけた。
「突然お邪魔してしまって申し訳ありません」
「いえ。お掛けください」
桜桃が腰を下ろすと、銀牙が腕を組んだまま、じろりとこちらを見た。
「それで、何の用だ」
「叔父様にも、お礼を申し上げたくて」
「礼?」
「再審を求める書状のことです。彪様が各家へ呼びかけてくださって、叔父様も賛同してくださったと伺いました」
銀牙は扇子で扇ぐ手を止め、一瞬だけ彪を見た。
「……俺の方が早かった」
「私が先だ」
彪が間髪を入れずに返す。
「お前が動く前から、こちらは書状を用意していた」
「書状を出したのは俺が先だ」
「各家に話を通したのは私だ」
桜桃は二人を交互に見つめ、それから思わず笑ってしまった。
初めて朝賀の場で顔を合わせた時も、この二人は似たような言い合いをしていた。四家の当主として朝廷に名を連ねる者同士だというのに、こうして向かい合うと、昔からの付き合いを持つ気心の知れた友人のようにも見える。
「どちらが先でも、私はお二人に感謝しています」
桜桃がそう言うと、銀牙は不満げに鼻を鳴らし、彪は何事もなかったように茶碗を手に取った。
「あの書状がなければ、朝堂院の場は覆らなかったかもしれません。私は今、ここにいられなかったと思います」
桜桃は真っ直ぐに彪を見つめた。
「四家の皆様には、いつかきちんとお礼を申し上げたいと思っています。ですが、今日はまず、動いてくださったお二人に」
彪はしばらく桜桃を見ていたが、やがて静かに茶碗を置いた。
「……そういう顔をするものではありません」
「え?」
「礼を言う顔ではなく、正面から向き合う顔で来てください。そのような礼など、最初から要らない」
彪は少し間を置き、言葉を続けた。
「私が動いたのは、この国の仕組みの筋を通したかったからです。罪のない者が不当に消される国にしたくなかった。ただ、それだけのことです。ですから、あなたが恩に感じる必要はありません」
「それでも、ありがとうございました」
桜桃が頭を下げると、彪はそれ以上何も言わず、静かに頷いた。
隣では銀牙が、いかにも居心地が悪そうに顔を背けている。桜桃はそちらへ向き直った。
「叔父様には、ほかにもお礼を申し上げたいことがあります」
「……何だ」
「武州の時も、狄族の地へ向かう時も、陰から手を回してくださいましたよね」
銀牙の眉間に、深い皺が刻まれた。
「知らないな」
「武州に届けられた食糧も、狄族の地へ向かう時に手配してくださった羊や牛も、叔父様のお力添えでしょう?」
「…………」
「叔父様」
「……備州の者が勝手に動いただけだ」
「叔父様」
彪が静かに口を挟んだ。
「銀牙、素直に受け取ればいいだろう」
「うるさい」
「強情だな」
「お前に言われたくない」
銀牙は不機嫌そうに視線を逸らし、己のくせ毛を一本引っ張った。指を離すと、短い髪がぴょんと跳ねる。
その様子があまりに子供じみていて、桜桃は笑いそうになるのを堪えながら、改めて頭を下げた。
「本当に助かりました。ありがとうございました」
銀牙はしばらく黙っていたが、やがて掠れた声で呟いた。
「……礼はいい」
それだけ言うと、逃げるように茶を口へ運んだ。
「銀牙は、礼を言われるのが苦手なのです」
彪が淡々と言う。
「そんなことはない」
「苦手だろう」
刹那が堪えきれずに笑った。
「なんだ、二人とも似たようなもんじゃねえか」
「お前は黙っていろ」
銀牙に睨まれても、刹那は悪びれずに肩を竦めるだけだった。
桜桃は三人の顔を見回し、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
あの処刑台に立っていた時には、こんなふうに誰かと笑い合える日が来るなど、想像する余裕もなかった。
「……それにしても、まさか、あなたが桜桃姫だったとは」
彪が桜桃に目を向けると、刹那はからからと笑った。
「まぁ、俺はなんとなく気付いてたけどな」
「えっ?」
「朝凪のあの甘やかしようを見ればなぁ」
「……甘やかされてて悪かったわね」
桜桃はぷいと横を向いた。刹那の顔に、柔らかな笑みが浮かぶ。
「甘やかされたお姫様にしては大したもんだ。処刑台に立ってたんだもんな、お前は」
向けられた瞳は、驚くほど穏やかだった。
「……怖かったわよ」
あの日のことは、まだ鮮明に覚えている。
大勢の人々の視線。罪状を読み上げる声。足元に広がる高い壇。そして、自分の命が奪われようとしているという現実。
小さく答えると、刹那の表情から、いつもの軽薄な笑みが消えた。
「そうだろうな」
「でも、朝凪も、刹那も、必ず助けるって言ってくれたでしょう。だから、最後まで信じていようと思ったの」
「……そうか」
刹那はしばらく桜桃を見つめ、それから何でもないことのように言った。
「間に合わなきゃ、俺が壇ごとぶち壊して連れて帰るつもりだった」
「……壇ごと?」
「ああ。けど、お前はあんな場所にいながら、誰よりも凛としていた。あんな顔、そうそうできるもんじゃねえ」
「……っ」
「自信持てよ。俺が見込んだ女なんだからな」
そう言って、刹那は大きな掌を伸ばし、桜桃の頭を一度だけ、くしゃりと撫でた。
「お前はよく頑張った」
桜桃の頬が、みるみる熱くなる。
「……そういうことを、急に言わないで」
「ああ、悪い。つい本音が漏れた」
「だから、そういうところが……」
「照れてるのか」
「照れてない」
「顔が赤いぞ」
「夏だから!」
「夏のせいにするなよ」
刹那が楽しそうに笑う。
銀牙は腕を組んだまま、じろりと刹那を睨んでいた。
「……何だよ」
「随分と、気安いものだと思ってな」
「今更だろ。別にいつもこんなもんだぞ」
「……そうか」
銀牙の視線が、刹那の右手へと落ちる。
刹那はその視線を追い、自分の手を見下ろしてから、にやりと笑った。
「何だ。頭を撫でたのが気に入らねえのか?」
「誰がそんなことを言った」
「じゃあ、もう一回くらい──」
「触るな」
言い終わるより早く、銀牙の手元から扇子が飛んだ。
刹那はひょいと首を傾け、それを難なく避ける。扇子は背後の柱に当たり、乾いた音を立てて畳へ落ちた。
「おいおい、危ねえな!」
「避けただろう」
「避けなきゃ当たってたぞ」
「当てるつもりで投げた」
「叔父様!?」
桜桃が思わず声を上げると、銀牙は何事もなかったように茶碗を持ち上げた。
「……まったく。皇女に対する礼儀というものを知らんのか」
「こいつは六花だったんだぞ。今更そんなこと言われてもなあ」
「今は桜桃だ」
「中身は同じだろ」
「……お前とは話にならん」
銀牙が不機嫌そうに顔を背けると、彪が静かに口を開いた。
「銀牙。扇子を拾え」
「……」
「人の屋敷だぞ」
刹那が声を上げて笑った。
桜桃も笑いを堪えきれずにいたが、銀牙がこちらへ視線を戻した途端、慌てて背筋を伸ばした。
「……ひとつ、釘を刺しておく」
その声音が変わったことに気づき、桜桃は居住まいを正す。
「はい」
「お前が星河帝の娘だと広く知れ渡れば、必ずまつり上げようとする者が現れる」
桜桃は黙って叔父の瞳を受け止めた。
「くれぐれも、帝になどなろうと思うな」
銀牙の声は静かだったが、いつになく真剣さがあった。
「姉上は、あの離宮に幽閉された。……お前まで、同じ目に遭わせたくはない」
桜桃はしばらく銀牙を見つめていた。
その言葉が命令ではなく、ただ自分を案じて向けられたものだということは、痛いほど伝わっていた。
「……ありがとうございます」
それは、帝にならないという返事ではなかった。
けれど、桜桃もそれ以上は何も言わず、銀牙もまた、答えを求めようとはしなかった。
その時、廊下の向こうから、遠慮のない足音が近づいてきた。
「彪、飯はまだか──」
勢いよく開いた障子の向こうで、琥珀の動きがぴたりと止まった。客間に座る桜桃を見つけ、丸く目を見開く。
「……六花」
「琥珀!」
桜桃も驚いて声を上げた。
琥珀はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて客間へ入ってくると、桜桃の斜め向かいにどかりと腰を下ろした。
「……お前、来てたのか」
「ええ。彪様と叔父様にお礼を申し上げたくて」
「そうか」
「琥珀にも、証言の件でお礼を言いたかったの。本当にありがとう」
「礼はいらない。じい様が物事をややこしくして悪かった。こじれる前に俺が話をつけておけばよかったんだ」
「そんなことは……」
「そんなことある」
琥珀はきっぱりと言い切った。桜桃は少し困ったように眉を寄せる。
今日ここへ来てからというもの、感謝を伝えようとするたびに、誰も彼もが礼などいらないと言う。
「琥珀も、礼を受け取るのが苦手なのです」
彪が静かに口を挟んだ。
「そんなことはない」
「苦手だろう」
「……うるさい」
桜桃は思わず吹き出した。
「なんだよ」
「ごめんなさい。皆さん、同じことをおっしゃるから」
琥珀は不満げに眉を寄せたが、それ以上は何も言わなかった。桜桃は改めて琥珀を見つめた。
「そういえば、帝都に来られたのね。街はどうだった?」
「……でかかった」
「でかかった?」
「人も多かった」
「そうね」
「道も広かったし。建物もでかかった」
桜桃は笑い出した。
「全部、大きかったのね」
「そういうことだ」
琥珀は真面目な顔で頷いた。刹那が横から口を挟む。
「お前、前から帝都に来たいって言ってたもんな」
その言葉に、琥珀は一瞬だけ黙った。
因州の乾いた石段に三人で並んで座り、それぞれの夢を語り合った日のことを、今でもよく覚えている。
あの時はまだ、お互いの身分も、背負っているものも、何ひとつ知らなかった。
「……行きたかったけど、こんな形で来たかったわけじゃない」
琥珀が少しだけ顔をしかめる。
「そりゃそうだ」
刹那は苦笑した。
「でも、帝都は見ただろ。じゃあ次は?」
琥珀はしばらく考えた。
「……海」
「海か」
桜桃が微笑む。
「私も見たことがないわ」
「そうなのか?」
「ええ」
琥珀は桜桃を見て、少しだけ口元を緩めた。
「じゃあ、今度は一緒に行けばいい」
「うん」
「俺も」
刹那がすかさず口を挟む。
「お前は馬を買え」
「金がない」
「だから働け」
「働いてるよ」
あの日と同じやり取りだった。
今はもう、三人とも互いの立場を知っている。それでも、こうして顔を合わせれば、因州の石段に座っていた時と何も変わらずに笑い合うことができる。
「……そういえば、姫。皇居に移るんだって?」
刹那がふと桜桃を見た。
「ええ。近いうちに、そちらへ移ることになっているわ」
「そうか」
刹那は頷き、それから何でもないことのように続けた。
「じゃあ、もう簡単には会えなくなるな」
「……そうね」
「今までは屋敷に行けば、だいたいお前か朝凪がいたからな」
「でも、皇居に移ったからって、会えなくなるわけじゃないでしょう?」
「まあな。ただ、気が向いたからって、ふらっと顔を出せる場所じゃねえだろ、あそこは」
「それは……そうだけど」
桜桃は少しだけ俯いた。皇族としての身分を取り戻したことは、決して悪いことではない。けれど、それによって、これまで当たり前だった日々の何かが、少しずつ変わっていくのも確かだった。
刹那はそんな桜桃の様子を見て、ふっと笑った。
「何だよ、そんな顔するな」
「だって、刹那が寂しそうなことを言うから」
「……まあ、寂しくないと言えば嘘になるな」
あまりに素直な返事だったので、桜桃は思わず顔を上げた。刹那はいつもの気楽な笑みを浮かべていた。
「でも、別に今生の別れってわけじゃねえし。お前が会いたくなったら呼べばいいし、俺が会いたくなったら会いに行く」
「……そんな簡単に言って」
「簡単なことだろ」
「皇居なのよ? 勝手に入れないのよ?」
「そこは何とかする」
「どうやって?」
「さあな」
桜桃は呆れたように眉を寄せた。
「もう……」
「心配すんなって。俺は俺の好きなようにするさ」
刹那はそう言って笑い、琥珀の方へ顔を向けた。
「なあ?」
「俺に聞くな」
「冷てぇなあ」
「お前が適当すぎるんだ」
再び始まった二人のやり取りに、桜桃の頬も自然と緩んだ。
窓の外では、夏の陽射しを浴びた木々が、風に揺れている。
皇居に移れば、これまでと同じようにはいかないのかもしれない。それでも、こうして顔を合わせれば、きっとまた笑い合える。
桜桃はそう思いながら、二人の言い合いに耳を傾けていた。




