第一話 皇女、桜の意味を知る
桜桃と朝凪改め蓮火が呼ばれたのは、朝堂院・宮内省の政務室だった。そこには、宮内卿の赤楊光則が控えていた。
「宮内卿の、赤楊と申します。お初にお目にかかります」
桜桃は、少し意外そうな顔をした。
「……お初、でしたか」
「はい。私は、八重御所の変の後に他省より異動して参りましたので」
「そうですか」
赤楊は手元の書類へ視線を戻した。
「では、こちらが復籍の書類になります」
桜桃も気持ちを切り替えるように、差し出された紙を見た。
「桜桃様は、復籍。蓮火様は、朝霧宮家の創設となります」
朝廷の記録には、「咲宮桜桃」の名の下に、見慣れない朱筆の跡があった。
『死亡』
その文字に二重線が引かれ、横に、小さく「生存確認、訂正」と実務的な文字で書かれている。
「……これは」
「朝廷の皇族戸籍記録は、治部の管轄です。神祇官の記録とは別に管理されておりますので、これまで、死亡として処理されておりました。今回、訂正いたします」
「では、神祇官の記録では、どうなっていたのですか」
「最初から、生存として記されています。……実に見苦しい二重記録です」
赤楊は小さく息を吐いた。
「神祇官長官の雅様は、最初から桜桃様が生きておられたことをご存知でした。それなのに神祇官庁の記録を伏せ、一方で、朝廷の皇族戸籍記録を司る治部卿の清明様もまた、すべてを知りながら書類上は『死亡扱い』のまま放置しておられた」
「清明様も、雅様も……」
「左様です。治部省と神祇官庁、二つの長が揃って事実を隠し、記録の『格式』を一致させなかった。どのような政治的思惑があったにせよ、宮廷の系譜を預かる身としては、この不整合は極めて美しくありません。今回は特例で処理します」
「特例、ですか」
「何分、前例がございませんので。あなたの生存を隠蔽していた治部省と神祇官庁に、早急に辻褄を合わせるよう、厳しく申し入れをいたしました」
死と、生存。同じ自分を指す、二つの記録。
桜桃はそれを静かに畳んで、懐へしまった。
赤楊は、優雅な手つきでもう一枚の書類を取り出した。
「蓮火様は、朝霧宮として、新たに記録を起こします……それから」
赤楊が、印の見本を取り出した。
「桜桃様のお印は桜、蓮火様は蓮。持ち物などにはお印を入れますが、お印はこのままでよろしいですね」
「……変えられるんですか」
桜桃が思わず聞くと、蓮火が遮るように口を開いた。
「変えてはなりません、姫様」
静かな、けれど有無を言わせない声だった。
赤楊は頷き、それから宮内卿らしい、どこか厳かな眼差しを向けた。
「蓮火様の仰る通りでございます。……変えさせては宮内省の面目が立ちません。お忘れですか、桜桃様。皇室の御紋たる『八重桜』。先帝陛下の愛娘であらせられた貴女様は、八重桜より一輪の『桜』を個人のお印として賜りました。……それには、もう一つ意味があります」
赤楊は、手元の書状を恭しく指し示した。
「近衛の鳳桜紋。先帝陛下は、その紋に抱かれた桜を、貴女様のお印として授けられたのです。皇族の警護は近衛の務め。ですが、先帝陛下は貴女様に専属の護衛を置かれ、近衛の守りを特別に厚くなさいました。そのお印は、先帝陛下が貴女様に注がれた深い愛情の証でもあるのです」
桜桃が思わず蓮火を見ると、蓮火はまっすぐに桜桃を見つめていた。その瞳に、一瞬だけ、かつて近衛中将として、そして彼女の護衛として桜の紋章を襟に宿していた頃の、鋭い光が戻る。
「姫様。あの鳳凰の翼が抱いている桜を、先帝陛下はあなたに託されました。私たちが誇りとして身に着けてきた桜と同じです。……どうか、そのお印を変えないでください」
元近衛中将としての誇りと、今も変わらず彼女の盾である男としての、忠誠が混ざり合った言葉だった。
赤楊は蓮火のその言葉を聞くと、深く、満足そうに頷いた。
「先帝陛下直々の特例であり、近衛との深い絆の証。宮内省としても、管理に最も神経を尖らせるお印なのです」
書類の端を、指先で揃えながら真顔でこぼす。蓮火が、視線を桜桃から書類へと戻し、いつもの静かな声音で言った。
「印は、蓮のままで」
「……私も、桜のままでいいです。変えません」
桜桃が小さく微笑んで応じると、赤楊は印の見本を片付けた。
「分かりました。先帝陛下の御意志と、近衛の矜持が守られ、何よりでございます。では、これで手続きは完了です」
赤楊は机の上を片付けながら、思い出したように続けた。
「それと、もう一点。お二方は、皇居へ移っていただきます」
「皇居に、ですか」
「桜桃様も、蓮火様も、皇族としての記録が正式に整いました。これまでの屋敷は、引き続き使っていただいても構いませんが、皇居内に、相応の御殿をご用意します。手続き上、その方が都合がよいので」
「都合、とは」
「祭祀、政務、すべて皇居を起点に動きます。正式な皇族となったお二方が外に住まわれては、宮内省としての儀礼や、日々の警護の格式を保つことが難しくなります。非常に不都合です」
桜桃は、少し笑った。
「現実的ですね」
「現実的な話です」
赤楊はまっすぐにそう答え、一礼した。
「では、それで」
「分かりました」
桜桃も、小さく頷いた。
***
近衛府の執務室へ、宮内省の使者が訪れたのは昼過ぎのことだった。
「皇籍復帰に伴う登録事項の通達にございます」
書類の束が机へ置かれる。
昊夜は手を止め、それを受け取った。
皇族名簿。
新たに復帰した皇族について、各省へ共有される正式な記録だった。
昊夜は一枚ずつ、静かに目を通していく。
生年月日。称号。家系。
その視線が、ある一行で止まった。
『お印 桜』
昊夜の眉が、微かに寄せられる。
その瞬間だった。
近くで書類を整理していた若い近衛兵が、手元を覗き込み、小さく声を漏らした。
「……桜?」
室内の何人かが、一斉に顔を上げる。
「どうした」と副官が問うと、兵は慌てて書類を指し示した。
「いえ、その……」
言い淀む。だが、近衛の人間なら誰もが即座に理解できることだった。
桜。それは、近衛府の象徴。
「同じ、ですね」
誰かが、ぽつりと呟いた。
「我らの、鳳桜紋の桜と」
執務室が、水を打ったように静まり返る。
昊夜は再び書類へ目を落とした。
偶然と片付けるには、あまりにも重い違和感が胸に残る。
副官が静かに口を開いた。
「確認いたしますか」
「……ああ」
短く答える。その日のうちに、宮内省へ事実を確かめる問い合わせが送られた。
返答が届いたのは、翌朝のことだった。
簡潔な一文が、そこには記されていた。
『先帝陛下は近衛府の鳳桜紋にちなみ、桜桃皇女へ桜のお印を賜った』
深い沈黙が落ちた。誰もすぐには言葉を発せなかった。
「……本当に同じだったのか」
やがて、誰かが噛み締めるように呟く。
「先帝陛下のお考えか」
「初めて知った」
静かなざわめきが室内に広がる。
昊夜は何も言わず、ただ手元の書類を見つめていた。
その時だった。
執務室の隅で、門兵の一人が思い出したように言った。
「そういえば……」
皆の視線が、一斉に彼へ向く。
「なんですか、門兵長」
「蓮火様、やけにあの侍女を見てたよな」
門兵長は、かつての退屈な日々を懐かしむように小さく笑った。
八重御所の変の後、門番として紛れ込んでいたあの男が、実は「元近衛中将」であったことは気付いていた。しかし、「皇族の血を引く人間」だと判明したのは、つい先日のことだった。
「一緒に門番をしていた頃、彼女が通るたびに目で追っていた。てっきり想い人か何かかと」
別の門兵も、思い出したように深く頷く。
「ああ、確かに。いつも静かに見送っていましたね」
室内に、わずかな和みが起こる。
だが、最初に口を開いた門兵長は、重々しく口を開いた。
「彼女が、桜桃様だ」
周囲の人物は驚きに目を見開いた。
改めて手元の名簿へ視線を落とし、それから何人かがハッとしたように息を吐き、押し黙った。
『お印 桜』
なぜ、あの門番が、一人の侍女に過ぎなかった彼女の傍らに居続けたのか。この名簿の一行を目にしたことで、ようやくすべての合点がいった。
門兵長には、かつて交わしたある何気ない会話が鮮烈に蘇っていた。
『今あの侍女を見てただろ』
『仕事です』
『門番の仕事に侍女は関係ないだろ』
あの時は、真面目すぎる男の、ただの素気ない言い訳だとばかり思っていた。けれど、違ったのだ。
(……本当に、仕事だったんだな)
門番の任務などではない。この国の何よりも尊き血筋であり、自分たちの本物の主であるあの方を、その命に代えても守り抜くこと。それこそが、あの男にとっての、何よりも大事な、生涯を賭した『仕事』だったのだ。
昊夜は黙ったまま、自らの襟元へ視線を落とした。
自分たちが身に纏うのは、鳳凰の翼が抱く桜の紋章。先帝陛下は、我々の守りを象徴する桜を、愛娘のお印に選ばれたのだ
八重御所の変の後に新体制となった近衛兵たちの背筋が、静かに、けれど決定的に伸びる。
昊夜はゆっくりと目を閉じた。
「……そうか」
誰に向けるでもない、小さな呟きだった。けれど、その声は、執務室に残された男たちの胸へ、消えない忠誠の火のように深く残り続けていた。




