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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第七章 花冠は誰がために【御前演武編】

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第一話 皇女、桜の意味を知る

 桜桃と朝凪改め蓮火が呼ばれたのは、朝堂院・宮内省の政務室だった。そこには、宮内卿の赤楊光則が控えていた。


「宮内卿の、赤楊と申します。お初にお目にかかります」


 桜桃は、少し意外そうな顔をした。


「……お初、でしたか」


「はい。私は、八重御所の変の後に他省より異動して参りましたので」


「そうですか」


 赤楊は手元の書類へ視線を戻した。


「では、こちらが復籍の書類になります」


 桜桃も気持ちを切り替えるように、差し出された紙を見た。


「桜桃様は、復籍。蓮火様は、朝霧宮家の創設となります」


 朝廷の記録には、「咲宮桜桃」の名の下に、見慣れない朱筆の跡があった。


『死亡』


 その文字に二重線が引かれ、横に、小さく「生存確認、訂正」と実務的な文字で書かれている。


「……これは」


「朝廷の皇族戸籍記録は、治部の管轄です。神祇官の記録とは別に管理されておりますので、これまで、死亡として処理されておりました。今回、訂正いたします」


「では、神祇官の記録では、どうなっていたのですか」


「最初から、生存として記されています。……実に見苦しい二重記録です」


 赤楊は小さく息を吐いた。


「神祇官長官の雅様は、最初から桜桃様が生きておられたことをご存知でした。それなのに神祇官庁の記録を伏せ、一方で、朝廷の皇族戸籍記録を司る治部卿の清明様もまた、すべてを知りながら書類上は『死亡扱い』のまま放置しておられた」


「清明様も、雅様も……」


「左様です。治部省と神祇官庁、二つの長が揃って事実を隠し、記録の『格式』を一致させなかった。どのような政治的思惑があったにせよ、宮廷の系譜を預かる身としては、この不整合は極めて美しくありません。今回は特例で処理します」


「特例、ですか」


「何分、前例がございませんので。あなたの生存を隠蔽していた治部省と神祇官庁に、早急に辻褄を合わせるよう、厳しく申し入れをいたしました」


 死と、生存。同じ自分を指す、二つの記録。

 桜桃はそれを静かに畳んで、懐へしまった。


 赤楊は、優雅な手つきでもう一枚の書類を取り出した。


「蓮火様は、朝霧宮として、新たに記録を起こします……それから」


 赤楊が、印の見本を取り出した。


「桜桃様のお印は桜、蓮火様は蓮。持ち物などにはお印を入れますが、お印はこのままでよろしいですね」


「……変えられるんですか」


 桜桃が思わず聞くと、蓮火が遮るように口を開いた。


「変えてはなりません、姫様」


 静かな、けれど有無を言わせない声だった。

 赤楊は頷き、それから宮内卿らしい、どこか厳かな眼差しを向けた。


「蓮火様の仰る通りでございます。……変えさせては宮内省の面目が立ちません。お忘れですか、桜桃様。皇室の御紋たる『八重桜』。先帝陛下の愛娘であらせられた貴女様は、八重桜より一輪の『桜』を個人のお印として賜りました。……それには、もう一つ意味があります」


 赤楊は、手元の書状を恭しく指し示した。


「近衛の鳳桜紋。先帝陛下は、その紋に抱かれた桜を、貴女様のお印として授けられたのです。皇族の警護は近衛の務め。ですが、先帝陛下は貴女様に専属の護衛を置かれ、近衛の守りを特別に厚くなさいました。そのお印は、先帝陛下が貴女様に注がれた深い愛情の証でもあるのです」


 桜桃が思わず蓮火を見ると、蓮火はまっすぐに桜桃を見つめていた。その瞳に、一瞬だけ、かつて近衛中将として、そして彼女の護衛として桜の紋章を襟に宿していた頃の、鋭い光が戻る。


「姫様。あの鳳凰の翼が抱いている桜を、先帝陛下はあなたに託されました。私たちが誇りとして身に着けてきた桜と同じです。……どうか、そのお印を変えないでください」


 元近衛中将としての誇りと、今も変わらず彼女の盾である男としての、忠誠が混ざり合った言葉だった。


 赤楊は蓮火のその言葉を聞くと、深く、満足そうに頷いた。


「先帝陛下直々の特例であり、近衛との深い絆の証。宮内省としても、管理に最も神経を尖らせるお印なのです」


 書類の端を、指先で揃えながら真顔でこぼす。蓮火が、視線を桜桃から書類へと戻し、いつもの静かな声音で言った。


「印は、蓮のままで」


「……私も、桜のままでいいです。変えません」


 桜桃が小さく微笑んで応じると、赤楊は印の見本を片付けた。


「分かりました。先帝陛下の御意志と、近衛の矜持が守られ、何よりでございます。では、これで手続きは完了です」


 赤楊は机の上を片付けながら、思い出したように続けた。


「それと、もう一点。お二方は、皇居へ移っていただきます」


「皇居に、ですか」


「桜桃様も、蓮火様も、皇族としての記録が正式に整いました。これまでの屋敷は、引き続き使っていただいても構いませんが、皇居内に、相応の御殿をご用意します。手続き上、その方が都合がよいので」


「都合、とは」


「祭祀、政務、すべて皇居を起点に動きます。正式な皇族となったお二方が外に住まわれては、宮内省としての儀礼や、日々の警護の格式を保つことが難しくなります。非常に不都合です」


 桜桃は、少し笑った。


「現実的ですね」


「現実的な話です」


 赤楊はまっすぐにそう答え、一礼した。


「では、それで」


「分かりました」


 桜桃も、小さく頷いた。


 ***


 近衛府の執務室へ、宮内省の使者が訪れたのは昼過ぎのことだった。


「皇籍復帰に伴う登録事項の通達にございます」


 書類の束が机へ置かれる。

 昊夜は手を止め、それを受け取った。


 皇族名簿。

 新たに復帰した皇族について、各省へ共有される正式な記録だった。


 昊夜は一枚ずつ、静かに目を通していく。

 生年月日。称号。家系。

 その視線が、ある一行で止まった。


『お印 桜』


 昊夜の眉が、微かに寄せられる。


 その瞬間だった。

 近くで書類を整理していた若い近衛兵が、手元を覗き込み、小さく声を漏らした。


「……桜?」


 室内の何人かが、一斉に顔を上げる。

「どうした」と副官が問うと、兵は慌てて書類を指し示した。


「いえ、その……」


 言い淀む。だが、近衛の人間なら誰もが即座に理解できることだった。


 桜。それは、近衛府の象徴。


「同じ、ですね」


 誰かが、ぽつりと呟いた。


「我らの、鳳桜紋の桜と」


 執務室が、水を打ったように静まり返る。


 昊夜は再び書類へ目を落とした。

 偶然と片付けるには、あまりにも重い違和感が胸に残る。


 副官が静かに口を開いた。


「確認いたしますか」


「……ああ」


 短く答える。その日のうちに、宮内省へ事実を確かめる問い合わせが送られた。


 返答が届いたのは、翌朝のことだった。

 簡潔な一文が、そこには記されていた。


『先帝陛下は近衛府の鳳桜紋にちなみ、桜桃皇女へ桜のお印を賜った』


 深い沈黙が落ちた。誰もすぐには言葉を発せなかった。


「……本当に同じだったのか」


 やがて、誰かが噛み締めるように呟く。


「先帝陛下のお考えか」


「初めて知った」


 静かなざわめきが室内に広がる。

 昊夜は何も言わず、ただ手元の書類を見つめていた。


 その時だった。

 執務室の隅で、門兵の一人が思い出したように言った。


「そういえば……」


 皆の視線が、一斉に彼へ向く。


「なんですか、門兵長」


「蓮火様、やけにあの侍女を見てたよな」


 門兵長は、かつての退屈な日々を懐かしむように小さく笑った。


 八重御所の変の後、門番として紛れ込んでいたあの男が、実は「元近衛中将」であったことは気付いていた。しかし、「皇族の血を引く人間」だと判明したのは、つい先日のことだった。


「一緒に門番をしていた頃、彼女が通るたびに目で追っていた。てっきり想い人か何かかと」


 別の門兵も、思い出したように深く頷く。


「ああ、確かに。いつも静かに見送っていましたね」


 室内に、わずかな和みが起こる。

 だが、最初に口を開いた門兵長は、重々しく口を開いた。


「彼女が、桜桃様だ」


 周囲の人物は驚きに目を見開いた。


 改めて手元の名簿へ視線を落とし、それから何人かがハッとしたように息を吐き、押し黙った。


『お印 桜』


 なぜ、あの門番が、一人の侍女に過ぎなかった彼女の傍らに居続けたのか。この名簿の一行を目にしたことで、ようやくすべての合点がいった。


 門兵長には、かつて交わしたある何気ない会話が鮮烈に蘇っていた。


『今あの侍女を見てただろ』


『仕事です』


『門番の仕事に侍女は関係ないだろ』


 あの時は、真面目すぎる男の、ただの素気ない言い訳だとばかり思っていた。けれど、違ったのだ。


(……本当に、仕事だったんだな)


 門番の任務などではない。この国の何よりも尊き血筋であり、自分たちの本物の主であるあの方を、その命に代えても守り抜くこと。それこそが、あの男にとっての、何よりも大事な、生涯を賭した『仕事』だったのだ。


 昊夜は黙ったまま、自らの襟元へ視線を落とした。

 自分たちが身に纏うのは、鳳凰の翼が抱く桜の紋章。先帝陛下は、我々の守りを象徴する桜を、愛娘のお印に選ばれたのだ


 八重御所の変の後に新体制となった近衛兵たちの背筋が、静かに、けれど決定的に伸びる。


 昊夜はゆっくりと目を閉じた。


「……そうか」


 誰に向けるでもない、小さな呟きだった。けれど、その声は、執務室に残された男たちの胸へ、消えない忠誠の火のように深く残り続けていた。

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