序 元近衛中将、名を賜る
御所の入口にある紫宸殿に向かって、宮内省の文官とともに、朝凪は静まり返る回廊を歩いていた。
紫宸殿の前には、すでに昊夜と清明が控えている。
歩いてくる朝凪を認めると、昊夜は何とも言えない表情を浮かべてその姿を見た。
「……お前、皇籍復帰前だったのに、よくあんな無茶をやったな」
朝凪は足を止めた。
何のことかと問い返さなくても分かる。異議申し立てのことだ。
昊夜は小さく溜息をつく。
あのときは必死で深く考える暇すらなかったが、今になって振り返ってみれば、あれは博打のような危うい賭けだったのだと思い至る。
呆れを隠そうともしない昊夜に、朝凪は至極平然とした声音で返す。
「律令にあるのは『皇籍にある者』ではない。『正当な血統を持つ皇族』だ」
「……それで押し通すつもりだったのか」
「ああ」
「お前な……」
あまりにもあっさりと認められ、昊夜はしばらく言葉を失った。
傍らで聞いていた清明が、呆れとも感心ともつかない深い息を吐き出す。
「よくあの場で、あれほど堂々と名乗れましたな」
「血統に偽りはございません」
「確かに。無茶な理屈ではありますが、条文上は否定できませんな」
昊夜が苛立たしげに眉間を押さえた。
「……退けられるとは思わなかったのか」
「思った。だが、他に手がなかった」
朝凪はそれだけ言うと、重厚な木肌を見せる紫宸殿の扉へと視線を移した。
「通ったのだから、もういいだろう」
何事もなかったように衣を正し、扉へ向き直る。
「行くぞ」
「……本当に、お前は」
昊夜は最後まで言葉を飲み込み、その背を追って紫宸殿の内部へと足を踏み入れた。
朝凪は静かに部屋の中央へ進み、冷たい床に膝をつく。
上座の虚空帝は、しばらくの間、無言のまま朝凪を見つめていた。
咳を一つ落としてから、虚空帝は静かに口を開いた。
「来栖宮家の蓮火」
「はい」
「皇籍復帰は認めた。その手続きもすでに済んでいる」
「はい」
「来栖宮の名誉も回復した。だが、宮家の再興までは命じていない」
朝凪は顔を上げた。
虚空帝は、膝の上に置いた手を動かすことなく続ける。
「お前が望むなら、父君の宮を継ぐこともできよう」
「……」
「だが、お前には新たに一宮を立てさせるのがよいと、私は考えている」
朝凪は言葉を返さなかった。
「父の名を取り戻すことと、お前が父と同じ名を背負うことは別だ」
長い沈黙ののち、朝凪は静かに頭を下げた。
「……御心のままに」
「『御心のままに』では困る。これからお前が名乗る宮だ。お前自身が受け取らなければ意味がない」
朝凪はしばらく黙り込む。伏せた視線の先で、膝の上に置いた衣服の布地を小さく握りしめた。
来栖宮。
父の名。
罪の濡れ衣を着せられ、すべてを奪われた宮家の名。
冤罪は晴れ、公の記録に名は戻った。
それでも――自分がその名を口にするたびに、胸の奥に何かが引っかかった。
その名に恥じるわけではない。父の子であることを否定したいわけでもない。
ただ、その名へ戻ったからといって、失われた年月まで元に戻るわけではなかった。
自分はもう、父の傍らにいた幼い蓮火ではない。
朝凪という名で生き、戦い、守りたいものを得て、ここまで歩いてきた。
「……一つだけ、願いがございます」
朝凪は顔を上げた。
「言ってみろ」
「『朝凪』から一字を、残していただけますか」
虚空帝がわずかに首を傾げる。
「理由は」
朝凪はすぐには答えず、少し間を置いた。
やがて、静かに言葉を零す。
「朝凪という名で、ここまで歩いてきました。その日々のすべてを、置き去りにしたくはないので」
虚空帝はしばらく朝凪を見つめていた。傍らの昊夜も黙ったまま、その横顔を捉えている。扉の脇に控える清明は、手にした扇をぴたりと止めたままだ。
やがて、虚空帝が静かに告げた。
「……朝霧宮、はどうだ」
朝凪は呼吸ひとつ分の間を置く。
「朝霧宮」
「嫌か」
「……いえ」
朝凪はもう一度、確かめるようにその名を繰り返した。
「朝霧宮」
新しい名として、口の中でそっと転がしてみる。
短い沈黙のあと、深く、丁寧に頭を下げた。
虚空帝は短く頷く。
「朝霧宮蓮火。それがお前の名だ」
朝凪は深く頭を垂れた。
「――謹んで、賜ります」
宮内省の文官が、微かな墨の音を響かせて書面へと筆を走らせる。白い紙の上へ、新しい名が厳かに落ちていく。
朝凪はその文字を見つめていた。もはや父から借りた宮号ではない。自分自身に与えられた名が確かにそこにあった。
「面を上げよ」
その言葉に従い、朝凪はふたたび顔を上げた。虚空帝の目が、細められる。
「……父上に、似ているな」
朝凪は応えなかった。似ていると言われることが今の自分にとって救いなのか、あるいはそうではないのか、まだ整理はつかない。ただ静かに頭を下げる。
「下がれ」
「はい」
朝凪は立ち上がった。
視線が交錯した昊夜は、何も言わずにただ見送っている。
朝凪は扉を開け、紫宸殿を後にした。
廊に出ると、差し込む夏の強い光が眩しく目を射る。
朝霧宮蓮火。
もう一度、心の中でその名を唱えてみた。
来栖宮の重さとも、父の名を借りていた頃とも違う。たしかに、自分だけの名だった。
(――これしかないので)
少し前、倉庫の前でそう告げた。
いまも、その心積もりに変わりはない。
それでも、石畳を踏みしめる足の裏の感覚が、さっきよりもほんの少しだけ力強く感じられた。
朝凪は静かに回廊を歩き出す。
その足音は、いつもと変わらず、ただ静かだった。




