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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第七章 花冠は誰がために【御前演武編】

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序 元近衛中将、名を賜る

 御所の入口にある紫宸殿に向かって、宮内省の文官とともに、朝凪は静まり返る回廊を歩いていた。


 紫宸殿の前には、すでに昊夜と清明が控えている。

 歩いてくる朝凪を認めると、昊夜は何とも言えない表情を浮かべてその姿を見た。


「……お前、皇籍復帰前だったのに、よくあんな無茶をやったな」


 朝凪は足を止めた。

 何のことかと問い返さなくても分かる。異議申し立てのことだ。


 昊夜は小さく溜息をつく。


 あのときは必死で深く考える暇すらなかったが、今になって振り返ってみれば、あれは博打のような危うい賭けだったのだと思い至る。


 呆れを隠そうともしない昊夜に、朝凪は至極平然とした声音で返す。


「律令にあるのは『皇籍にある者』ではない。『正当な血統を持つ皇族』だ」


「……それで押し通すつもりだったのか」


「ああ」


「お前な……」


 あまりにもあっさりと認められ、昊夜はしばらく言葉を失った。


 傍らで聞いていた清明が、呆れとも感心ともつかない深い息を吐き出す。


「よくあの場で、あれほど堂々と名乗れましたな」


「血統に偽りはございません」


「確かに。無茶な理屈ではありますが、条文上は否定できませんな」


 昊夜が苛立たしげに眉間を押さえた。


「……退けられるとは思わなかったのか」


「思った。だが、他に手がなかった」


 朝凪はそれだけ言うと、重厚な木肌を見せる紫宸殿の扉へと視線を移した。


「通ったのだから、もういいだろう」


 何事もなかったように衣を正し、扉へ向き直る。


「行くぞ」


「……本当に、お前は」


 昊夜は最後まで言葉を飲み込み、その背を追って紫宸殿の内部へと足を踏み入れた。


 朝凪は静かに部屋の中央へ進み、冷たい床に膝をつく。


 上座の虚空帝は、しばらくの間、無言のまま朝凪を見つめていた。

 咳を一つ落としてから、虚空帝は静かに口を開いた。


「来栖宮家の蓮火」


「はい」


「皇籍復帰は認めた。その手続きもすでに済んでいる」


「はい」


「来栖宮の名誉も回復した。だが、宮家の再興までは命じていない」


 朝凪は顔を上げた。


 虚空帝は、膝の上に置いた手を動かすことなく続ける。


「お前が望むなら、父君の宮を継ぐこともできよう」


「……」


「だが、お前には新たに一宮を立てさせるのがよいと、私は考えている」


 朝凪は言葉を返さなかった。


「父の名を取り戻すことと、お前が父と同じ名を背負うことは別だ」


 長い沈黙ののち、朝凪は静かに頭を下げた。


「……御心のままに」


「『御心のままに』では困る。これからお前が名乗る宮だ。お前自身が受け取らなければ意味がない」


 朝凪はしばらく黙り込む。伏せた視線の先で、膝の上に置いた衣服の布地を小さく握りしめた。


 来栖宮。

 父の名。

 罪の濡れ衣を着せられ、すべてを奪われた宮家の名。


 冤罪は晴れ、公の記録に名は戻った。

 それでも――自分がその名を口にするたびに、胸の奥に何かが引っかかった。


 その名に恥じるわけではない。父の子であることを否定したいわけでもない。


 ただ、その名へ戻ったからといって、失われた年月まで元に戻るわけではなかった。


 自分はもう、父の傍らにいた幼い蓮火ではない。


 朝凪という名で生き、戦い、守りたいものを得て、ここまで歩いてきた。


「……一つだけ、願いがございます」


 朝凪は顔を上げた。


「言ってみろ」


「『朝凪』から一字を、残していただけますか」


 虚空帝がわずかに首を傾げる。


「理由は」


 朝凪はすぐには答えず、少し間を置いた。

 やがて、静かに言葉を零す。


「朝凪という名で、ここまで歩いてきました。その日々のすべてを、置き去りにしたくはないので」


 虚空帝はしばらく朝凪を見つめていた。傍らの昊夜も黙ったまま、その横顔を捉えている。扉の脇に控える清明は、手にした扇をぴたりと止めたままだ。


 やがて、虚空帝が静かに告げた。


「……朝霧宮、はどうだ」


 朝凪は呼吸ひとつ分の間を置く。


「朝霧宮」


「嫌か」


「……いえ」


 朝凪はもう一度、確かめるようにその名を繰り返した。


「朝霧宮」


 新しい名として、口の中でそっと転がしてみる。

 短い沈黙のあと、深く、丁寧に頭を下げた。


 虚空帝は短く頷く。


「朝霧宮蓮火。それがお前の名だ」


 朝凪は深く頭を垂れた。


「――謹んで、賜ります」


 宮内省の文官が、微かな墨の音を響かせて書面へと筆を走らせる。白い紙の上へ、新しい名が厳かに落ちていく。


 朝凪はその文字を見つめていた。もはや父から借りた宮号ではない。自分自身に与えられた名が確かにそこにあった。


「面を上げよ」


 その言葉に従い、朝凪はふたたび顔を上げた。虚空帝の目が、細められる。


「……父上に、似ているな」


 朝凪は応えなかった。似ていると言われることが今の自分にとって救いなのか、あるいはそうではないのか、まだ整理はつかない。ただ静かに頭を下げる。



「下がれ」


「はい」


 朝凪は立ち上がった。

 視線が交錯した昊夜は、何も言わずにただ見送っている。


 朝凪は扉を開け、紫宸殿を後にした。

 廊に出ると、差し込む夏の強い光が眩しく目を射る。


 朝霧宮蓮火。


 もう一度、心の中でその名を唱えてみた。

 来栖宮の重さとも、父の名を借りていた頃とも違う。たしかに、自分だけの名だった。


(――これしかないので)


 少し前、倉庫の前でそう告げた。

 いまも、その心積もりに変わりはない。


 それでも、石畳を踏みしめる足の裏の感覚が、さっきよりもほんの少しだけ力強く感じられた。


 朝凪は静かに回廊を歩き出す。

 その足音は、いつもと変わらず、ただ静かだった。


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