終 元近衛中将、忠誠を誓う
桜桃が朝凪を見つけたのは、薄明るくなってきた朝方のことだった。
評定の間以来、こうして二人きりで顔を合わせるのは初めてだった。
たった数日のはずなのに、随分と久しぶりにその顔を見たような気がした。
まだ夜の冷気が残る庭の片隅に、彼はぽつんと一人で立っていた。
「朝凪」
声をかけると、朝凪が静かに振り返った。
桜桃は彼に歩み寄りながら、そのいつもと変わらない佇まいをじっと見つめた。
「……皇族だったの」
「はい」
「知らなかった」
「知らせていなかったので」
「来栖宮家の蓮火」
「はい」
桜桃はしばらくの間、朝凪の顔を見つめていた。ずっと傍らにいたはずなのに、今はどこか遠い世界の人のようにも思えてしまう。
「綺麗な名前ね」
そう呟くと、朝凪はどこか困ったように苦笑した。
「好きじゃありませんでした」
「どうして?」
桜桃が問いかけると、朝凪はまだ星が薄く残る空を見上げたまま、言葉を紡いだ。
「紅蓮の業火。……戦火を意味する名ですから」
その声はどこか冷ややかだった。
「あらゆる争いを燃やし尽くすための炎」
それはまさに、皇族らしい名前だった。強く、激しく、国の戦いをその背に背負うための名だ。
朝凪は静かに続けた。
「だから捨てたのです。……朝凪、と。星河帝が、新しく名付けてくださいました」
桜桃はその響きを、愛おしむように口の中で繰り返す。
「朝凪……」
「海辺では、夜明け前にふっと風が止む瞬間があります。波も、驚くほど静かになる」
朝凪は小さく笑った。
争いも、憎しみも、すべてが一時だけ凪いだような、優しい時間。
「そんな世になることが、星河帝の願いでした」
その言葉に、桜桃の胸がじんわりと熱くなる。
(この人は、ずっと願っていたんだ)
誰よりも傷つき、誰よりもその血脈を憎みながら、戦いの終わりだけを静かに求めていたのだと、初めて知った。
しばらくの間、静かな沈黙が二人の間に流れる。
「……全然、知らなかった」
「知らせる必要がありませんでしたから」
「そういう問題ではなくて」
「では、どういう問題ですか」
「だって、ずっと傍にいたのに。何も、言ってくれなかったのね」
「はい」
桜桃は少しだけ言葉を詰まらせた。喉の奥に引っかかる問いを、そっと吐き出す。
「……皇族が、私に仕えていたの?」
「はい」
「おかしくない?」
「おかしくないです」
「おかしいと思う」
「いいえ、おかしくないです」
少しも動じないその口調に、桜桃は呆れたような顔をした。
「朝凪って、本当にそういうところがあるわよね」
「どういうところですか」
「大切な、ものすごく重要なことを、いつもさらっと言う」
「重要なことほど、さらっと言った方がいいと思っています」
「それはどういう理屈?」
「大げさに言うと、相手が動揺するので」
「……今更すぎて、もう動揺もできないわ」
「それが狙いです」
桜桃はしばらく彼を見つめていたが、やがて呆れを通り越して小さく笑ってしまった。
それを見て、朝凪の目元もほんの少しだけ和らいでいく。
朝のほのかに冷たい風が吹いた。どこからか紛れ込んだ狂い咲きの桜の花びらがひらひらと二人の間をかすめて流れていく。
しばらく、二人とも何も言わずにその花びらを目で追っていた。
やがて、朝凪が小さく息を吐いて口を開いた。
「姫様」
その声が、わずかに変わった。
「これからは、あなたの護衛や従者では、いられません」
桜桃の顔から、笑みがゆっくりと消えていく。
朝凪はまっすぐに前を見据えたまま、淡々と、けれど確かな言葉を紡いでいく。
「私も皇族になりました。血を持つ者として、これからは嫌でも政治に関わる立場になります」
「それは……」
「あなたと同じように、その血を利用される立場になるということです」
桜桃は息を呑んだ。
その言葉の持つ意味の重さを、瞬時に理解してしまったからだ。
これから先、彼女と同じように、望まぬ政治の渦へと巻き込まれていく。時には――互いがどれほど望まなくても、立場の上で対立することさえあるかもしれない。
桜桃の胸に、凍りつくような冷たいものが広がっていった。
急に足元が消えていくような、恐ろしい不安。
桜桃はその時になって初めて思い知った。これまでどれほど、朝凪という存在が自分の世界を支えてくれていたのかを。
考えたこともなかった。いつも傍にいるのが当たり前だったからだ。
物心付いたときから。六花として身を隠していた頃も。そして、桜桃に戻った今この瞬間も、どんな時だって朝凪がいた。
朝凪がいたから、どんな理不尽にも踏ん張れた。朝凪がいたから、前を向けたのだ。
かすれた声が、喉からこぼれる。
「嫌です」
「姫様」
「あなたがいてくれたから、ここまで来られたのに」
朝凪はゆっくりと視線を動かし、桜桃を見た。
彼女の瞳が、今にも決壊しそうなほどに揺れている。しっかりしなければ、泣いてはいけないと思っているのに、どうしても止められない。
仕組みを変えると言い切った。それでも今、この瞬間だけは、朝凪の前では、ただの「桜桃」に戻ってしまっていた。
朝凪はしばらくの間、そんな彼女の姿を愛おしそうに見つめていた。
それから、少しだけ目を伏せた。
「これからは、護衛でも従者でもいられません」
「……」
「立場が変われば、対立することもあるかもしれない」
「……はい」
「それでも」
朝凪は、左手で刀の鞘を押さえ、右手を静かに刀の柄へ添えた。
カチッ。
小さく、しかし耳に焼き付くような乾いた音が響いた。
桜桃は息を呑んだ。
この音を、彼女は知っている。
かつて燃え盛る炎の中で、ただ一人、日向が捧げてくれた礼。
近衛が皇族へ命を捧げるときに誓う忠誠の証。
朝凪は長い衣の裾をそっと払うと、ゆっくりと片膝を地に着いた。
跪いたまま顔を上げると、その瞳には一片の曇りも迷いもなく、ただ桜桃だけが映っている。
「心だけは、あなたに永遠の忠誠を」
それは朝廷の法律でもなければ、形式的な主従の契りでもなかった。
「朝凪」という一人の男が、「桜桃」という一人の女性へ捧げた、生涯変えることのない誓いだった。
その静かで熱い言葉が、朝の清廉な空気に甘く溶けていく。
桜桃の目から、たまらなくなって涙が零れ落ちた。
けれど、それを袖で拭おうとはしなかった。彼のくれた誓いがあまりにも嬉しくて、同時に切なくて、指一本動かす気になれなかったのだ。
「ずるいわ……」
「そうですね」
「そういうことを、そんな風に言うから……泣けてくるじゃない」
朝凪はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、そこにいた。片膝を着いて跪いたまま、静かに桜桃を見つめ、彼女の流す涙をすべてその身で受け止めるように、じっと佇んでいた。
二人の間を、どこまでも穏やかな風がすり抜けていく。
桜桃はしばらく、声を押し殺して泣いていた。周囲に気づかれないよう、静かに、肩を震わせて。
やがて、着物の袖でそっと目元を拭うと、小さく息を吸い込んだ。
「……立って」
「はい」
朝凪が静かに立ち上がる。
桜桃は、以前よりも少し大きく見える彼の姿を見上げた。
「護衛でも従者でもなくなっても、これからも、傍にいてくれる?」
朝凪は少しだけ間を置いた。
「それはもう、姫様が決めることではありません」
「え? どういうこと」
「私が決めることです」
予期せぬ言葉に、桜桃は少しだけ目を丸くした。
朝凪はいつもの淡々とした、けれど何よりも強固な響きを持つ声で言った。
「傍にいます。……命じられたからではなく。私自身の意思で」
桜桃はしばらくの間、朝凪を見つめ返していた。
また目の奥が熱くなっていくのを、今度はぎゅっと堪える。
「……もう、これ以上泣かせないでね」
「善処します」
「善処ではなく、絶対に、よ」
「努力します」
「同じことを言っているわ」
「少し違います」
桜桃は小さく笑った。泣き顔のまま、困ったように微笑んだ。
それを見て、朝凪もほんの少しだけ、満足そうに唇を綻ばせる。
再び、柔らかな風が吹き抜けた。
二人は自然と並んで、白み始めた朝の空を見上げた。
(変えます)
その強い決意が、桜桃の胸の中で確かに灯っている。
まだ何一つ終わってはいないし、これから先はもっと過酷な道が待っているだろう。
けれど、今朝のこの時間だけは、ただここに立っていた。
かけがえのない、朝凪という男と、肩を並べて。




