第二十二話 皇女、名を返す
評定の間以降、桜桃は八重御所の一室に留め置かれていたが、ようやく再審の決定が下されて、御所から出ることができた。
桜桃は一人で離宮へと足を向けていた。
足元には、月の光に仄白く浮かび上がる苔むした石畳。鼻腔をくすぐるのは、冷えた夜気に混じる湿った土の特有の匂いだ。何もかもが、ここを離れた時と変わらないまま、静かに時を止めていた。
やがて、年経た木造の重い大扉の前に立つ。
そっと手をかけ、押し開ける。室内は、まるですべてを拒絶するかのように深い暗闇に包まれていた。
携えてきた手元の小さな灯火に、ひとつだけ火を灯す。ゆらゆらと細く揺れる光が、埃の舞う冷え切った部屋を頼りなく照らし出した。
母の姿は、もうそこにはなかった。
すでに別の場所へと身柄を移され、今や再びまみえることができるのかどうかすら、誰にも分からない。
ただ、生活の痕跡だけが残されていた。
桜桃は静かに室内を見渡す。
小さな寝台、年季の入った文机、小振りの調度棚。どれもが宮廷の華やかさとは無縁の、質素なものばかりが沈黙を守っていた。
桜桃は引き寄せられるように文机の前へと歩み寄り、その古びた椅子に腰を下ろした。
母が座っていた場所。
彼女はこの机に凭れ、所在なさげに窓の外を見つめていた。決して外へは出られない、自由を奪われた世界を切り取る四角い窓。
それでも母は、その窓の向こうに、何かをじっと見出そうとしていたのだ。
桜桃はしばらくの間、同じ窓を見つめ、それからゆっくりと瞼を閉じた。
記憶の底から、母のあの静かな声が、鮮明に蘇ってくる。
『あの人は、帝であろうとしたのよ』
『変えようとして、変えきれなかった』
『諦めなかった』
『いつか、誰かが変えると信じていた』
桜桃は、はっと目を開けた。
手元で、小さな灯火が微かに爆ぜ、揺れている。
「変えます」
声に出した。それは誰かに向けた宣言でもなく、神に捧げる誓いでもない。ただ、魂に刻みつけるような言葉だった。
誰かに聞かせるためではない。これからの過酷な運命を歩む自分自身の胸の奥底に、楔として打ち込むために。
「血だけで人を縛りつけるこの国を、変えます。名前という虚飾だけで、人の命の重さを決めてしまう歪んだ国を、変えます。――お父様が、どうしても変えきれなかったものを」
灯火が大きく揺らぎ、彼女の影を壁に長く伸ばす。
「私が、変えます」
その言葉は、驚くほど静かだった。
ただ、夜の闇に等しい、圧倒的な重みを孕んでいた。
桜桃は、しばらくの間その場から動けなかった。
部屋の隅々から、母が纏っていた衣の香が、まだ微かに漂ってくるような気がしたからだ。それはどこまでも穏やかで、静かな香りだった。
そっと目を閉じ、母の肌の温もりを思い返す。愛おしそうに自分の頭に触れてくれた、あの手のひらの優しさを。
『生きなさい』
最後に遺されたその言葉に、桜桃は深く頷いた。声には出さず、ただ、涙を堪えるように一度だけ、強く頷いた。
やがて立ち上がり、灯火を手に扉へと向かう。
扉を開け放つと、鋭い夜風が容赦なく室内に吹き込んできた。ひんやりとしていたが、今の桜桃には、それがひどく心地よかった。
再び苔むした石畳を歩き、古い門をくぐり抜ける。
視界の開けた先に、巨大な宮城の影が見えてきた。
点々と揺れるいくつかの灯りは、まだ眠れぬ夜を過ごす者たちが、そこで息を潜めている証拠だ。この世界で、誰もが必死にもがいている。
桜桃は歩みを止めなかった。
遠くで、夜風に煽られた桜の花びらが一枚、視界をかすめて流れていく。季節を違えて咲いた、狂い咲きの花びらが、暗い夜天へと静かに溶けていく。
桜桃は足を止め、しばらくその場に佇んだ。
月明かりだけが、彼女の進む道を白々と照らしている。
(……六花)
声には出さず、心の中でその名を呼んだ。
一年以上もの間、自分を護り、支えてくれたもう一つの名前。
六花として出会った人々の顔が、万華鏡のように次々と浮かんでは消えていく。
昊夜、刹那、琥珀、千弦、柳、花梨、椎香、郁李、鈴……。
六花として、心から笑い合えた場所がある。六花として、声を上げて泣いた孤独な夜がある。そして六花として、誰かの傷に寄り添い、傍に立った日がある。
まるで、一人の少女の人生を、半分一緒に生きていたかのような不思議な感覚だった。
自分が六花だったのか、それとも六花という存在が自分そのものだったのか、今となっては境界線すら曖昧で、よく分からない。
ただ一つ確かなのは、自分はあの名前で、確かに必死に生きていたということだ。
(あの人たちとは、これからどうなるのだろう……)
六花として深く交わった人々と、これからは「桜桃」として向き合わねばならない日が、すぐそこまで来ている。
六花に向けてくれたあの温かい笑顔や眼差しが、変わってしまうかもしれない。
それが怖いわけではなかった。けれど、ただ、少しだけ――寂しかった。
慣れ親しんだ「六花」という名が、自分の手から離れ、静かに遠ざかっていくのを感じていた。
(……名前を貸してくれて、ありがとう)
心の中で深く感謝を告げた。
激しい突風が吹き抜け、桜桃の髪を大きく揺らす。その風に乗って、六花という少女の残影は、夜の闇の中へと静かに溶け、消え去っていった。
***
近衛の執務室で護衛記録の棚を整理していた昊夜は、一冊の冊子を手に取り、表紙に記された文字を見て、思わず二度見した。
桜桃の護衛記録らしき冊子だ。
おそらく朝凪が残したものだろう。
「…………」
しばらく表題を見つめていたが、あえて何も考えないことにして冊子を開いた。
数頁をめくり、記された内容に目を通す。
昊夜はしばらく黙って頁をめくっていたが、やがて静かに冊子を閉じた。
(――桜桃様)
胸の中で、その名を呼んだ。
朝凪が、法の盾で彼女の命を繋ぎ止めてみせた。
八重御所の変の騒動によって近衛を去った朝凪の後を継いで、いま自分がこの地位にいる。
あの男がかつて背負っていた責任を、今は自分が背負い、逆にあの男は、ずっと捨て置いて顧みなかった皇族という特権を引っ提げて、桜桃を救うために現れた。
あの徹底して冷淡だった男が、生き方を変えてまで彼女を救ったのだ。ならば、自分がここで立ち止まっているわけにはいかない。
昊夜が母を亡くしたのは、十年の昔にさかのぼる。
本家から遠く離れた、傍系の皇族。病弱な父は宮廷の政治にほとんど顔を出さず、幼い昊夜もまた、皇族として何を求められているのか分からないまま日々を過ごしていた。
話し相手がいなかったわけではない。年の近い者たちと言葉を交わすこともあれば、自分を慕って後をついてくる弟もいた。
それでも、賑やかな輪から離れ、一人になると、決まって胸の奥に奇妙な空白が残った。
ある日、昊夜は人通りの少ない廊下に腰を下ろし、ぼんやりと庭を眺めていた。
「お前、そんなところで何をしている」
上から声をかけてきたのは、日向だった。
昊夜は答えなかった。見上げることもしない。返すべき言葉を持ち合わせていなかった。
日向はしばらく黙って昊夜を見下ろしていたが、やがて、特に何の前置きもなく、声を落とした。
「朝廷軍に行け」
「……なぜですか」
「そういうものだ」
それは理由になっていなかった。だが日向は、それ以上説明を重ねるつもりはないらしく、そのまま背を向けて歩き出した。昊夜はその背中を、ただ吸い寄せられるように追いかけるしかなかった。
朝廷軍の門を叩いた時、そこにはすでに朝凪がいた。年齢の近い、恐ろしいほどに聡明な少年だった。彼はその才を認められ、瞬く間に近衛へと引き抜かれていった。
昊夜もまた、その背を追うように近衛を目指したが、精鋭の集まる組織の門は重く、当時の実力では、まだその敷居を跨ぐことさえ叶わなかった。
焦りだけが燻ぶっていたそんな時期に、星河帝に初めてその身を呼ばれた。
『民を見ろ、昊夜』
御簾の向こうから響いた声は、驚くほど穏やかだった。
『皇族とは、決して人の上に君臨する者のことではない。……最後まで、この国を背負う覚悟を持つ者のことだ』
父からは一度も聞かされることのなかった言葉だった。皇族として生まれながら、その血が持つ意味を誰からも教わらずに生きてきた暗闇の中で、その言葉だけが、初めて自身の行く手を照らす確かな光になった。
昊夜は星河帝に憧れた。あの人のような皇族になろうと心に決めた。
居場所のなかった自分に、生きる場所を与えてくれたのは日向だった。
進むべき道を示してくれたのは、星河帝だった。
そして――護るべきものが誰なのかを、教えてくれたのは桜桃だった。
六花という偽りの名で出会ったあの日から、侍女として、神祇官として、彼女のひたむきな姿をずっと傍らで見てきた。
世の理不尽さをうまく割り切れずに悩み、傷つきながらも、それでも決して目の前の現実から目を逸らさない人間だった。
甘い、と今でも思っている。だが、その甘さを抱えたまま、どれほど過酷な場所であっても折れずに立ち上がる強さがあることも、昊夜は誰よりも知っていた。
六花が、桜桃ならば。
十五歳のあの日から、ずっと心の中で焦がれ続けた婚約者候補であるなら。
もう、迷う理由などなかった。
彼女が傷ついても立ち上がるのなら、その先は自分が切り拓けばいい。
それだけのことなのに、なぜかずっと――形にならないまま、長いこと胸の奥に引っかかっていた。
「逃げるな」と、何度か彼女に言った。
彼女に避けられることが、あんなにも不快で、どうしようもなく心が波立った。
その感情に、いまさら綺麗な「名前」をはめ込む必要なんてない。そんなものは、あの日、朝凪との婚約の話を耳にした瞬間に、とうに自覚しているのだから。
昊夜は深く、静かに息を整えた。
冷えかけた空気の中、迷いはもう、完全に消え去っていた。




