第二十一話 皇女、罪を雪ぐ
朝凪は宮城の夜気の中を一人で歩いていた。
向かったのは、宮城の北側にひっそりと佇む、古びた書庫の前だった。
過去に何度も足を運び、誰の目にも留まらぬよう静かに潜り込んでは、父の生きた記録を確かめ続けてきた場所だった。
朝凪は、その硬く閉ざされた大扉の前で、ぴたりと足を止めた。
手に灯火は持っていない。ただ、雲間から覗く月明かりだけが、白々と凍てついた石畳を照らし、彼の細い影を静かに伸ばしている。
父は誰よりも真面目な人だった。それゆえに、当時、皇子であった星河からの信頼がひときわ厚かった。
――それだけが、あの宮廷においては罪だった。
妬まれ、嘘を重ねられ、晴嵐帝の治世下、一通の告発状によって皇籍を剥奪された。
星河皇子を擁立して、帝位を狙っていたという。
そんな噂が、一夜で宮廷中を駆け巡った。
証拠は、何一つなかった。
それでも来栖宮は皇籍を剥奪された。
父はその後、間もなく死んだ。後を追うように、母も逝った。後に残されたのは、天涯孤独となった幼い朝凪だけだった。
そんな彼に、黙って手を差し伸べてくれたのが、当時まだ皇子だった星河だった。
『朝凪という名をつけてやろう』
そう言われた瞬間を、今でも鮮明に覚えている。
『争いがなくなることを願った名だ』
幼い朝凪には、その名の本当の意味など分からなかった。ただ、居場所を失った自分に誰かが新しい名前をくれたことが、その時はただ、震えるほど嬉しかった。
朝凪は、長い時間、その場に立ち尽くしていた。
風が通り抜け、古い木造の壁が小さく軋む。やがて、朝凪の薄い唇から、微かな息が吐き出された。
「父上」
今度は、誰の耳にも届かないはずの声を、確かに夜の闇へと放った。誰もいない、静まり返った夜の帳の中で。
「あなたがすべてを奪われ、捨てられた場所へ、私は戻ります。この場所は嫌いなままです。今も、これからも」
不意に、強い夜風が吹き抜けた。長い上衣の袖が大きく揺れ、夜の冷気が肌を刺す。
「それでも」
朝凪はゆっくりと顔を上げ、広大な夜空を見上げた。雲一つない夜空を、天の川が淡く横切っていた。幾千もの星の光が連なり、静かな流れとなって、遠い夜の彼方まで続いている。
「これしか、ないので」
その言葉は、誰に届くこともなく、ただ夜の空気に溶けて、静かに消え去った。
朝凪はしばらく、その光を見つめていた。
それから、迷いを断ち切るように踵を返した。
戻るべき場所がある。守るべき少女がいる。そして、自分の足で歩み、なさねばならないことが、まだ残されている。
朝凪は、二度と後ろを振り返らなかった。
ただ、前だけを見据えて、静かに歩みを進めた。その足音は、闇に紛れるように、どこまでも静かだった。
***
数日後、朝堂院において、咲宮桜桃に対する再評定が執り行われた。
被告本人の出席は求められなかった。争われているのは桜桃姫の弁明ではなく、先の評定の適否そのものだった。
這い寄るような静寂が広間を支配する中、有馬が手元の一通の公文書を静かに開く。
「それでは、再審の結果をご報告いたします」
有馬の、感情を排した硬質な声が広い室内に通る。左右に並ぶ高官たちの背筋が、一斉に引き締まった。
「まず、皇統管理を欺いた罪。桜桃姫が身分を偽ったのは、八重御所の変において命を狙われ、その危難を避けるためであったと認められます。したがって、身分を秘したこと自体について、その責を問うことはできません」
居並ぶ重臣たちの誰一人として、口を開く者はいない。
「また、桜桃姫が神祇官として一年以上宮中に留まっていた件についても、当時の桜桃姫は六花として正式な手続きを経て神祇官に任じられております。自ら神祇官を詐称し、宮中へ侵入した事実は認められません」
広間の空気が動いた。有馬は構わず続ける。
「任官に際して身元を見抜けなかった責を、任じられた側のみに負わせることは妥当ではないとの結論に至りました」
有馬は手元の書状へ視線を落とした。
「以上により、桜桃姫が自ら皇統を欺く目的をもって神祇官へ潜入したとは認められず、本件については罪に問いません」
沈黙が流れる中、有馬は淡々と続けた。
「また、狄族との婚姻拒否、および斎宮へ男を手引きしたとされる件につきましても、関係者の証言、ならびに事実関係の精査は完全に一致しております。いずれも桜桃姫の意志によるものではなく、罪を帰すべきは別にあります」
そこまで読み上げると、有馬は書状を静かに閉じた。
「以上をもちまして、桜桃姫に対する一連の嫌疑は、すべて晴らされたものといたします」
広間に張り詰めていた冷たい空気が、わずかに緩んだ。
隅に佇む昊夜もまた、小さく息を吐き出し、一度だけ深く目を閉じる。だが、その表情が完全に和らぐことはなかった。宮廷という場所の恐ろしさを、彼もまた知っているからだ。
「これに、異議はありますか」
有馬が居並ぶ官たちを見渡す。広間は再び、しんと静まり返った。誰もが発言を躊躇い、互いの顔色を窺い合う。
やがて。
「……異議はございません」
列の最前、蘇芳が静かに口を開いた。
老臣へ視線が集まる。
「再審の結果、および提示された事実については、何ら異論はございません。桜桃姫は無罪――それでよろしいかと存じます」
その言葉で、高官たちの間に安堵の気配が広がりかけた。
「……ただ」
蘇芳が言葉を継いだ、その一瞬。
刃を突きつけられたかのように、広間に緊張が走った。
蘇芳は目を閉じたまま、微動だにせず、けれど確かな重みを持つ声で続けた。
「個人の罪が晴れたことと、この国が揺れぬということは、全く別の話にございます。血統とは、それだけで人を動かすもの。星河帝の遺児である桜桃姫を担ぎ上げようとする者、あるいは、現体制の守護者として昊夜殿下を担ぎ上げようとする者。双方が望まなくとも、周囲がそれを許さぬ歪みが、いずれ必ず現れましょう。国が二つに割れれば、その足元で真っ先に巻き込まれ、血を流すのは無数の民にございます」
今度は、誰も反論できなかった。
蘇芳の指摘は、この場にいる者たちが最も恐れ、同時に誰もが「仕方のない現実」として目を背けたがっていた、この国の暗部そのものだったからだ。正論だけで国は治まらない。その残酷な事実が、重臣たちの胸に重くのしかかる。
だが、その沈黙を切り裂くように、声が上がった。
「国を割らせはしません」
それは、芯の通った昊夜の声だった。
広間のすべての視線が、一瞬にして若き近衛中将へと集まる。
蘇芳もゆっくりと昊夜を見た。
昊夜はその視線を正面から受け止め、寸分も揺らぎがない瞳で真っ直ぐ前を見据えていた。
「桜桃姫は無罪である。そう決したならば、無罪の者を理不尽に処刑することでしか保てない国など、とうに壊れている。私たちは、歪みを恐れて誰かを犠牲にするのではない」
昊夜は言葉の重みを確かめるように、ゆっくりと言い切った。
「あらゆる思惑を捩じ伏せ、国を割らせぬように立ち回る。……それこそが、この玉座の周辺に身を置く、私たちの責任です」
広間は、言葉を失ったような静けさに包まれた。
蘇芳はしばらくの間、昊夜の顔をじっと見つめていた。その若い青臭さとも言える決意の中に、かつて自らが仕えた先々代や同志たちの影を見たのだろうか。
やがて、蘇芳は静かに目を伏せた。
「……しかと、見届けさせていただきます」
それ以上、老臣が言葉を重ねることはなかった。
「これをもって、本件の裁きをすべて終結いたします」
有馬が平坦な声で告げた。
長く宮廷を揺るがし、多くの血と涙を流させた咲宮桜桃を巡る事件が、ここにようやく、一つの終わりを迎えたのだった。




