第二十話 斎宮、鳥籠を出る
冷たい牢の外から武官が呼ぶ声が聞こえ、深黎は静かに目を瞑った。
始まりは、あまりにも単純な衝動にすぎなかったのだ。
ただ一人の少女が、異民族を統合するための、都合のよい和風化政策の道具として、その意思を無視されて都へと連れ去られた。その理不尽が、どうしても許せなかった。ただ、それだけだった。
だからこそ、雲英から声をかけられた時、深黎の胸に迷いは生じなかった。狄族の反乱が起きれば、もはや茉莉を和風化政策の象徴として留め置く理由はなくなる。彼女をあの鳥籠から救い出せるのなら、多少の謀略に手を染めることも厭わなかった。
だが、その先に待っていたのは、想像を絶する殲滅戦だった。
反乱の鎮圧にとどまらず、狄の集落にまで軍が押し寄せ、数え切れない同胞が命を落とした。
深黎が雲英から聞かされたのは、それが星河帝の命令によるものだという話だった。
自分が手を貸した反乱が、同胞を死に追いやった。その事実は、どれほど悔いても消えるものではなかった。
それでも、戦が終われば、茉莉だけは解放されるはずだった。
なのに、茉莉はなおも皇居に留まり続けた。それが彼女自身の望んだことなのか、あるいは星河帝が引き留めたのか、深黎には知りようもなかった。
ただ、深黎にとって、星河帝はすでに許しがたい存在となっていた。
茉莉を故郷から奪い、反乱を口実に狄の民を殺し、それでもなお彼女を皇居に留め置いている男。
だからこそ、雲英から謀反を持ちかけられた時、深黎はその手を取った。
だが、その果てに茉莉が据えられたのは、神に仕える斎宮という、より強固な檻のただ中だった。
自分が動くたび、すべてが裏目に出ていく。どこで道を間違えたのか、もはや引き返すべき場所すら分からなくなっていた。
――マリ。
この広い国の中で、自分だけが許されていた、古い呼び名。
その名で呼ぶと、彼女はいつも、すべてを忘れたような無垢な笑顔を返してくれた。ただ、あの笑顔を、彼女の本当の居場所を守りたかっただけだった。
すべてを間違え、何もかもを失った。けれど、その歩みの最期に、たった一つだけ、成し遂げられたことがあった。
茉莉は自ら証言台に立ち、深黎を庇う言葉を一切口にしなかった。
これでようやく彼女は斎宮という呪縛から引き剥がされる。彼女は自由になれるのだ。
自分の身に受ける破滅と引き換えに、彼女の未来が手に入った。それだけで、もう十分だった。
深黎は立ち上がり、武官に腕を固定されながら、牢を出た。
***
その日の午後、深黎の処刑が執行された。
斎宮・茉莉は、八重御所の奥深くにとどめ置かれ、そこへその報せが届いたのは、日が完全に西の山へと傾いた頃だった。
「……終わりました」
格別の感情を交えぬまま、侍女が静かにそれだけを告げた。
茉莉は部屋の中央に座したまま、ぴくりとも動かなかず、ただ底冷えするような静寂の中で、その事実を淡々と受け止めていた。
侍女が静かに退室し、引き戸が閉まる。
広い部屋に一人きりになると、茉莉は膝の上に視線を落とした。
首元には何も触れていない。あの首飾りは、深黎に手渡してからずっと、手元にないままだ。
細い紐の糸で玉を繋ぎ、どうしても一つだけ、数が足りないまま彼に渡してしまった。
深黎はそれを指摘することもなく、ただ、いつものように飄々とした薄い笑みを浮かべていた。
「……シェン・リー」
小さくその名を呼んだ。
誰もいない冷たい部屋に、異民族の名がぽつりと落ちる。
答えは返らない。風の音すら、今は聞こえなかった。
もう二度と、あの気だるげで優しい声が響くことはないのだ。
どれほどの時間が流れただろうか。静まり返った部屋の扉が、微かに叩かれた。
「茉莉様」
引き戸の向こうから聞こえたのは、桜桃の声だった。
茉莉は小さく息を吐き出し、声を整える。
「……入っていいわよ」
静かに扉が開き、桜桃が姿を現した。
その顔色は酷く青ざめている。身分を偽り神祇官の「六花」として潜入していた罪を裁かれ、辛うじて死罪を免れたばかりの彼女にとって身を削るような激動の連続だったはずだ。それでも、こうして真っ直ぐに足を運んできた。
茉莉は、じっとこちらを見つめる少女の瞳を捉えた。
「六花さん」
「桜桃です」
「あ……そう、か」
茉莉の唇から、ふっと力が抜けたような、乾いた笑みが零れた。
「桜桃ちゃん」
「……はい」
「そこに、座って」
促されるまま、桜桃は茉莉の正面へと腰を下ろした。
しばらくの間、二人の間に言葉はなかった。格子窓から差し込む夕暮れの光が、冷えかけた部屋を痛々しいほどの橙色に染め上げていく。
やがて、桜桃が重い沈黙を破るように口を開いた。
「茉莉様に、受け取っていただきたいものがあります」
彼女が衣服の懐から静かに取り出したのは、一本の首飾りだった。
茉莉の視線が、そこに縫い付けられたように止まる。
「……それ」
「深黎様が、最期まで持っていたそうです」
桜桃は、託された言葉を一つひとつ確かめるように続けた。
「刑が執行される直前、武官に預けられたそうです。茉莉様に……マリに渡してくれ、と」
茉莉は手を伸ばすことすら忘れ、ただその首飾りを見つめていた。連なる玉が、夕陽を浴びて鈍く光っている。
やがて震える指先でそれを引き取り、そっと胸元に押し当ててみた。
冷たかった。石の芯まで冷え切ったその感触には、もう深黎の体温など、どこにも残されてはいなかった。
茉莉は首飾りをきつく握り締め、指先でその数をなぞった。
一つ、足りない。
「……また、足りないわ」
掠れた声が零れる。桜桃は静かに首を振った。
「武官が改めた際にも、その状態だったそうです。……全ては、返ってきませんでした」
茉莉は、手の中の不揃いな連なりをじっと見つめた。
「……一つだけ、あいつが持って行ったのね」
「はい」
「どうしても、返してくれなかった」
ずっと足りないまま、自分の元へと戻ってきた首飾り。けれど、あの夜とは決定的に違っていた。
深黎は、その足りない一つを、自分のものとして奪い去っていったのだ。あの鳥籠から茉莉を連れ出し、ただ隣にいたいと願った気持ちの代わりに。最後の最後にそれだけを握りしめて、彼は逝ってしまった。
茉莉の顔に、泣いているのか笑っているのかも分からない、歪な微笑が浮かんだ。
「……あいつらしいわ」
「最後まで、そうでしたか」
「ええ。しょうがない人ね、本当に」
茉莉は再び目を閉じ、首飾りを握り締めた。涙は出なかった。ここで泣いてしまえば、あいつの不器用な生き方まで否定してしまうような気がしたからだ。
茉莉はぽつりと、遠くを見るような目で呟いた。
「深黎は、最期まで……あの飄々とした顔のままだったのでしょう」
桜桃は視線を伏せ、一拍置いてから頷いた。
「……きっと。そうだと思います」
「そうよね。そうでなければ、深黎じゃないもの」
茉莉は首飾りを再び愛おしそうに胸に当て、深い息を吐き出した。
茉莉は首飾りを再び胸に当て、深い息を吐き出した。
しばらくの間、二人は何も言わずに座っていたが、やがて桜桃が遠慮がちに口を開いた。
「……茉莉様。評定での証言のことなのですが」
「うん?」
「あの場には、どなたかに呼ばれていらしたのですか?」
「ああ、あれね。近衛府から鷹が届いたのよ」
「近衛府から?」
「ええ。こんな時にわざわざ鷹を寄越すなんて、何かあるんだろうなと思って。昊夜くんでしょう?」
「……こ、昊夜くん?」
桜桃は思わず聞き返した。
茉莉は不思議そうに首を傾げる。
「違った?」
「いえ、そうではなくて……昊夜様と、お知り合いなのですか?」
「知り合いも何も、私、もう十年くらい皇居にいるのよ。昊夜くんとは同い年だし、昔はたまに話したりしていたわ」
「同い年……!?」
思いがけない話に、桜桃は目を丸くした。
昊夜をそんな気安い呼び方で呼ぶ者がいることにも驚いたが、あの昊夜と茉莉が、子供の頃から言葉を交わしていたというのも想像しがたい。
「……仲がよろしかったんですか?」
「どうかしら。あの頃は、今ほど難しい顔をしていなかった気がするけれど」
茉莉は懐かしそうに笑ったが、すぐに困ったように少し眉を下げた。
「でも、狄族との戦があってからは、なんとなく気まずくなってしまって……。お互い、ほとんど話さなくなったの」
「……そうだったんですね」
桜桃はそれ以上、尋ねなかった。
昊夜が参加していたあの戦は、茉莉にとっては、故郷の人々が命を落とした戦でもある。
どちらか一方が悪いという話ではない。それでも、以前と同じようには話せなくなってしまった。
茉莉は手の中の首飾りを見つめ、ふっと笑った。
「だから、鷹が来てちょっと驚いたのよ。まさか、あんなところで証言することになるなんてね」
「……茉莉様」
「桜桃ちゃんが気にすることじゃないわ。私は、私が知っていることを話しただけだから」
そう言って、茉莉は首飾りを膝の上に置いた。
「それより、これからどうしようかしらね」
「これから、ですか?」
「ええ。私、もう神に仕える斎宮じゃなくなるけれど、これからどこへ行けばいいのか、本当はよく分からないのよね」
茉莉は少しだけ困ったように目を伏せた。その表情には、異国に置き去りにされた者の深い孤独が滲んでいる。
「狄の集落に戻るのも、もう何かが違う気がするし。かと言って、この都に居場所があるわけでもない」
混血として生まれ、双方の都合で道具として扱われ続けた人生。そのやるせなさを、桜桃は真っ直ぐな瞳で受け止めた。
「違うままで……それぞれの在り方のままで、共に立てる国にしたいと思っています」
茉莉が顔を上げる。
「狄の民も、斎宮であった方も。誰もが自らの拠り所を奪われず、どこへも行かなくていい国を、私は作りたい」
茉莉はしばらくの間、目の前の少女の顔を無言で見つめ続けた。その瞳の奥にある、決して揺らぐことのない光の重さを測るように。
「……それ、本気で言っているの?」
「本気です」
「難しいわよ。この都の貴族たちが、そんなことを許すはずがない」
「分かっています」
「すぐには、絶対にできないわよ」
「それでも、歩みを止めるつもりはありません」
茉莉は沈黙した。夕闇が部屋の隅々から音もなく這い出してくる。
やがて、茉莉は小さく、けれど先ほどよりもずっと柔らかな笑みを浮かべた。
「……まあ、そうやって馬鹿正直にできると信じるような子だからこそ、あなたは『六花』なんて無茶な真似をしていたんでしょうね」
「そうですね」
「そうね」
茉莉は手の中の首飾りに、もう一度そっと指を這わせた。一つだけ欠けた空白の感触が、確かにそこにある。
「深黎が今の話を聞いたら、なんて言うかしらね」
茉莉の独白に、桜桃は少しだけ考えを巡らせ、言葉を紡いだ。
「……『マリが笑えるようになるなら、それでいい』と。そう言いそうな気がします」
茉莉は動きを止め、それから、今日初めて心からの笑い声を漏らした。
「そうね」
「ええ、絶対に」
「そうでなければ、あいつじゃないものね」
二人の間に、今度は穏やかな沈黙が降りた。
窓の外で、夜風がヒュウと音を立てて吹き抜けていく。夕暮れの橙は消え去り、濃紺の闇が世界を包み込もうとしていた。
茉莉は窓の向こう、果てのない夜空を見上げた。
遮るもののない、深黎が好んでいた自由な空。飄々として、どこへでも飛んでいけそうな、広い空だ。
茉莉は首飾りを、心臓の音に重ねるようにそっと押し当てた。
一つ足りないまま。
けれど、これでいいのだと思った。この満たされない空白こそが、深黎が確かに生きて、自分を愛してくれたという、何よりの証なのだから。




