第十九話 忠臣、黒幕を断罪する
椎香の元に知らせが届いた。
動乱の顛末を、椎香は座ったまま聞いていた。沙羅の声が静まり返った部屋に虚しく響く。
椎香の表情は、ぴくりとも動かなかった。
「……そうですか」
ただそれだけを、感情を削ぎ落としたような声で返した。
深く一礼して沙羅が退室していく。引き戸が閉まる微かな音が消えると、部屋には完全な静寂が戻った。
一人残された椎香は、そっと腹に手を当てた。
まだ平坦で、その膨らみは目立たない。だが、確かにこの細い身体の内に、小さな命が息づいている。
雲英が捕らえられた。実家である翠陰家を、そして椎香自身を後ろ盾として支えていた巨木が、音を立てて倒れたのだ。いつからその関係が始まったのか、椎香自身にも確かな記憶はない。
絡み合う思惑の糸に手繰り寄せられるように、気づいた時には雁字搦めになっていた。
脳裏に、桜桃の顔が浮かんだ。「六花」として、身分を隠しながらも真っ直ぐに笑っていたあの顔が。
(よかった)
生きていてくれてよかった、という純粋な安堵が、胸の隙間から這い上がろうとするが、感情を押し殺すように、椎香はきつく唇を噛んだ。
浮かび上がろうとした温かい光は、内側から冷たく閉ざされた。
朝凪や昊夜たちが、処刑を止めたと聞いた。
皆が桜桃を救おうとしていた。
(桜桃様は……こんなにも多くの人に守られている)
椎香は父を思い出した。流罪、護送、そして暗殺。
(どうして……お父様は、誰も助けてくれなかったの……)
桜桃は守られた。父は守られなかった。
椎香は視線を窓の外へ移した。
空は茜色から群青へと溶け始めていく。皮肉なほどに美しく、穏やかな夕暮れだった。
春が終わり、父が亡くなったあの夏が、もうすぐやってこようとしていた。
***
薄暗い牢の中、鎖の擦れる音だけが冷たく響いていた。
格子の前に立った男を見て、雲英は顔を上げた。
「……日向殿」
雲英は格子越しに、どこか楽しげな笑みを浮かべた。
「まさか、あなた自ら会いに来てくださるとは」
日向は、獲物を射抜くような眼差しで彼を見下ろした。
「よくも桜桃様を利用しようとしたな」
「利用、ですか」
雲英は肩を震わせて笑う。
「さすがは星河帝の守り刀。今なお、あの方に忠義を尽くされるのですね。もっとも――」
雲英は口元を歪め、残酷な言葉を吐き捨てた。
「その星河帝は、お守りできませんでしたがね」
日向の眉が、鋭く動いた。
「あの祭壇は、そして、神託を受ける器とはなんだ。お前は桜桃様に何をさせるつもりだった」
「あの祭壇は、旧王朝が神託を降ろすために用いていた祭壇ですよ。今では忘れ去られた古い祭式ですがね」
雲英は格子へ手を添え、静かに続ける。
「神託を受ける器というのは、そのままの意味です。彼女は民から深く愛されている。因州での雨乞い、羽州での虫送り、そして武州での救済。今や、彼女は国の英雄です。ならば、その口から神託を語らせればいいのです。『神は紫雲家を望まれる』。そう告げるだけで、民は疑うことなく従うでしょう」
「……神託など、降りるはずがない」
日向の言葉に、雲英はあっさりと頷く。
「降りないなら、降ろせばいいのです」
その笑みは、どこまでも穏やかで、底知れぬ狂気を孕んでいた。
「彼女は酒に滅法弱い。お神酒を一口含ませれば意識は曖昧になり、翌朝には綺麗さっぱり忘れてしまう。そのお神酒に薬を混ぜて飲ませ、神事の最中に神託を受けたことにしてしまえば、本人でさえ否定できないはずです」
牢の空気が、凍てつくように冷え切る。日向はしばらく沈黙を貫いた後、低い声を絞り出した。
「各地で騒乱を起こしたのも、お前か」
「ええ」
「傍系の皇族を帝に据え、各地の騒乱で朝廷の信用を落とし、紫雲家へ皇統を移す。それがお前の当初の計画だった」
「ええ。ところが、因州の地で『六花』という救世主が現れた。そこで計画を変えたのです。自ら救世主になるより、救世主に語らせた方がずっと楽ですから。死なれては困りますから武州には行かせたくなかったんですがね、結果的に更に彼女の人気が高まった」
雲英は小さく笑って日向を見上げた。
「そういえば、あなた、わざわざ武州まで赴いて六花は自分の娘だと印象付けていましたね」
日向は黙って雲英を見据える。
「しかも、元皇女専属護衛だった朝凪殿まで、堂々と傍へ置いて。普通なら怪しまれます。ですが、あなたの従弟の――あの嘘のつけない暁殿が『許嫁だ』とあちこちで吹聴していましたからね。そう言われれば、それ以上追及する者はいない」
雲英は自嘲気味に笑った。
「全部、六花殿を狄族へ送るためでしょう。民望に加え、四大貴族の娘ともなれば、和平の使者として神祇官を一人選ぶとなったとき、これ以上ない人選になる。……見事でしたよ」
黙って雲英を睨む日向に、雲英は少しも怯まない。
「もっとも、婚姻まで話が膨らむとは、あなたも予想していなかったようですが」
「……」
「その結果、私の計画は崩れました。神嘗祭で利用するはずだった器が、狄族へ嫁ぐことになった。……その矢先でした。六花殿が星河帝の娘だと知ったのは」
日向の眉が寄せられる。
「最近のことですよ。以前から怪しいとは思っていましたがね。決定打は日和殿です。宮中の廊下に響き渡る声で『桜桃姫』と叫んでくださいましたから」
日向の額に青筋が浮かんだ。
「……日和」
雲英は愉快そうに目を輝かせた。
「神嘗祭に使えぬなら、もう器としての価値はありません。ならば、皇族として公開処刑していただこう──そう考えたのです。星河帝の娘を処刑したとなれば、国は再び混乱に陥りますから」
日向はそれ以上聞きたくないというように踵を返しかけたが、足をぴたりと止めた。
「……雲英」
その低い声に、雲英は楽しげに目を細める。
「まだ何か?」
日向は振り返った。
その目には、これまで抑え続けてきた怒りが静かに燃えていた。
「お前は人を器としか見なかった。全部、自分の駒だった」
「政治とは、そういうものでしょう」
雲英の涼しい返答を遮るように、日向は一歩、牢へと踏み出した。その足音が床を震わせる。
「違う」
重い一言が、狭い牢内に反響した。
日向は、鉄格子を握り込んだ。
「星河様は、お前の駒になるために民を守ってきたのではない。桜桃様は、お前の神託を語るために舞ってきたのではない。誰一人として、お前のために生きてきた人間などいないのだ」
雲英の薄い笑みが、微かに揺らぐ。
「……綺麗事を」
すがりつくように吐き捨てた雲英に、日向は冷ややかに言い放つ。
「お前は、駒を並べ替えているつもりで、ただ怯えていただけだ。……誰からも愛されず、誰の心にも残れない己の無力さから目を背けるために、神託だの国家だのと大きな看板を掲げ、すべてを御しているつもりで悦に入っていただけの、哀れな臆病者だ」
胸を刺すような正鵠を射た言葉に、雲英の顔がわずかにこわばる。
「お前がどれだけ人の心を計算し尽くそうと、お前が踏みにじったその命の温もりすら、お前は 生涯手に入れることはできない。――それが、お前の選んだ道だ」
日向は鉄格子から手を離し、背を向けた。
「せいぜい地獄で詫びろ。お前が踏みにじった命、一つ残らずにな」
その歩みには一切の迷いもなく、重厚な足音が闇の廊下へと消えていった。




