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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第六章 桜桃という名の罪【皇女断罪編】

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第十八話 元近衛大将、変わらぬ忠誠

 評定の間の扉は、厚い木肌を見せたまま、固く閉ざされていた。


 日向は冷え切った廊下の端から、ただその頑なな隔たりを見つめていた。


 扉の前に微動だにせず立つ衛士たちの、強張った肩の輪郭が、内部を支配する空気の重さをかすかに伝えていた。


 ──仕組まれた、殲滅戦。


 その事実が、澱のように日向の胸の底へ沈んでいた。

 なぜあの戦が、あれほどまでに苛烈を極め、跡形もない破滅へと至ったのか。かつて最前線にいた自分の目には、何も見えていなかった。


 無機質な命令が降りてきて、眼前の敵は生きるために剣を振るってきた。日向たちもまた、生き残るためにただ刃を返し、斬り続けるしかなかった。それだけのはずだった。


 だが、その果てに広がっていたのは、勝敗という言葉では括れない一方的な蹂躙の光景だった。戦が終わった後も、血の匂いとともにずっと胸に引っかかり、消えなかった。


 あの問いの答えが、長い時間を経て、今になってようやく一本の線として結ばれようとしている。


 気づけなかった。それは、他ならぬ自分の落ち度だった。


 あの時、もっと早く、その不自然さに疑念を持つべきだったのだ。


 残された公式記録があまりにも綺麗すぎることに、違和感は覚えていた。なのに、その美しさの裏に何が隠されているのか、その先まで思考を巡らせようとはしなかった。


 では、星河帝は――。


 日向の意識が、かつての友であり、主であったあの人の姿へと向かう。


 星河帝は最初から知っていたのだろうか。すべてが誰かの手によって仕組まれていたということを。


 ……おそらく、知ったのだ。戦が終わってからか、あるいは、引き返せない途中で。


 自分が命じていないはずの過酷な平定が、前線で現実のものとして起きていた。それを「前線の手違いであった」などと、後から公表できるはずもなかった。


 今さら帝室が弱腰を見せれば、周辺の地方貴族たちがどう動くかなど、火を見るより明らかだった。帝室の制御が失われていると見做されれば、それは新たな内乱の引き金になりかねない。


 だからこそ、帝は演じ切るしかなかったのだ。冷徹な、揺るぎない統治者の姿を。


「狄族が不穏な動きを見せたため、朝廷はこれを正当に鎮圧した」と。


 その凄惨な結果を、国家の正しい勝利という言葉で塗り替える以外に、国を保つ術はなかった。


 そして、その演じられた虚像が、結果として後の八重御所の変へと繋がっていく。


 民は星河帝の苛烈さを恐れ、その恐怖はやがて牙となって帝室へと剥けられた。星河帝が国を守るために纏った冷酷な鎧が、皮肉にも星河帝自身を追い詰める刃となったのだ。


 日向は、静かに、誰にも聞こえないほど小さな息を吐いた。


 星河帝らしくない、と心の中で呟く。


 あの人は、そういう欺瞞を好む性質ではなかった。事実を闇に葬り去るような真似は、決し彼の本意ではなかったはずだ。


 それでも、そうするしかなかった。


 この歪な国を守るために。朝廷の体裁を保つために。

 物言わぬ骸と化した者たちの記憶の上に、白く綺麗な布をかけて隠すしかなかった。


 そして星河帝は、最も近くにいた自分にさえ、最期までその真実を語らなかった。


 もし言葉にしていれば、日向たちは知ることになっていたからだ。前線で命を奪い続けた相手が、ただ故郷を、家族を守ろうとしていただけの、何の罪もない人々だったということを。


 それを知ってしまえば、刀を振るい続けた自分たちの存在は、一体何になってしまうのか。


 星河帝は、そのあまりにも重すぎる業を、日向に背負わせようとはしなかった。


 ただ一人で抱え、一人でその罪のすべてを血の底に沈めたのだ。


 遠い日の、あの人の顔が脳裏に蘇る。


 決して表には出さず、出すことも許されなかった。だが、日向には分かっていた。


 星河帝は、ずっと苦しんでいた。


 真実を知りながら、それを自らの手で覆い隠し続けなければならない人間の、あの凍えるような寂しさを湛えた目を、確かに持っていたのだ。


 自分はその時、すぐ傍にいながら何もできなかった。

 その目の理由に気づくことも、寄り添うこともできないまま、ただ取り残された。


「言ってくれれば良かったのに」と、割り切れない想いが胸を過る。


 だが、あの人が言えるはずなどなかったのだ。それも、痛いほどに分かっていた。


 日向は、静かに目を伏せた。


 古い床の隙間に染み込んだ、もう消えることのない血の痕跡を思い起こすように、ただじっと、暗がりを見つめていた。 


 ***


 深黎が姿を現したのは、評定の間の喧騒がすべて凪ぎ、冷え切った静寂が広間を支配した後だった。


 武官の手によって重い扉が開け放たれると、深黎は自らの足で、ゆっくりと中へ歩み進めてきた。


 その身体を縛る縄はなく、背後から急き立てる者もいない。ただ、当然の場所へ帰るかのように、足音を響かせていた。


 その姿を認めた瞬間、広間がざわめき立つ。


「逃げなかったのか」


「自ら出頭したというのか……」


 困惑と疑いの入り混じった視線が注がれる中、深黎は咎人の席から広間をゆっくりと見渡した。


 その表情はどこまでも飄々としており、これまで宮廷で見せてきた、何を考えているのか分からないいつもの顔そのものだった。


 だが、その佇まいからは、刺々しさが跡形もなく消え去っていた。まるで、長年背負い続けてきた目に見えない重荷を、ようやくすべて下ろし終えたかのような、奇妙な軽やかささえ漂わせている。


 桜桃は、ただじっと深黎の姿を見つめていた。その双眸に宿る揺るぎない覚悟を見定めようとするように、静かに問いかける。


「なぜ、戻ってきたの」


 深黎は視線を動かし、桜桃の瞳を正面から捉えた。そして、悪戯が見つかった子供のように、ほんの少しだけ口元を綻ばせる。


「マリが、この国で生きていくために――」


 言葉は、そこで途切れた。それ以上の続きを、彼は頑なに口にしようとはしなかった。


 無機質な足音とともに、武官が深黎の前に立ち塞がる。深黎は抵抗する素振りすら見せず、ただその運命に従った。


 連れ去られる寸前、彼は一度だけ足を止め、振り返った。


 広く冷淡な広間を見渡し、その群衆の中に、ただひとつの姿を探し求める。


 ――だが、そこにはいなかった。


 すでに罪人の身として、然るべき謹慎の場所へと戻されたのだろう。


 深黎は、自嘲のようなくすんだ笑みを浮かべた。


(……マリ)


 声にはならなかった。ただ、唇だけが小さくその名をなぞる。


 それから、彼は二度と振り返ることなく前を向いた。


 一歩を踏み出す。その歩調は、宮廷の廊下ですれ違ったときと何も変わらない、どこか緊張感を欠いた飄々としたものだった。最期の瞬間まで、彼はその歩き方を崩さなかった。


 重厚な扉が音を立てて閉ざされ、広間に再び深い静寂が降り立つ。


 桜桃は、深黎の姿が消えたその扉を、いつまでもじっと見つめ続けていた。


 隣に、気配が歩み寄る。朝凪が、そっと彼女の傍らに立った。


 慰めるような言葉も、状況を説明する言葉も口にはせず、ただそこに在り続けていた。


 桜桃は、静かに息を吐き出した。


 終わったのだ、と思う。


 未だ片付いていない問題も、血の跡も、山のように残されている。けれど、長かったこの一日は、確かにここで終わりを迎えた。


 閉ざされた宮城の遥か上空で、春の終わりの風が、鳴り響いていた。


 ***


 すべての評定が終わり、重苦しい広間から人々が次々と去っていく。その喧騒を避けるように、日向もまたその場を離れようと、静まり返った廊下を歩き出していた。


 その背へと、落ち着いた声が届いた。


「日向」


 確かな足取りが止まる。


 振り返ると、そこには蘇芳が立っていた。


 白髪の混じる黒髪を後ろで端正に束ね、年季の入った狩衣を一切の乱れなく着こなしている。歳を重ねた今なお、その立ち姿には微塵の隙もなかった。


 日向は無駄のない所作で、静かに一礼した。


「蘇芳様」


「久しいな」


「はい」


 二人の間に、短い沈黙が流れる。


 蘇芳は彫刻のような眼差しで、日向の顔を静かに見つめていた。その双眸には、長年朝廷の激動を見つめてきた者特有の深みがある。


「……狄族を退かせたそうだな」


「はい」


「よく止めたな」


 日向は静かに首を横へ振る。


「止まったのは、族長が賢明だったからです」


 蘇芳はその言葉を否定も肯定もせず聞き届ける。


「お前は何を話した」


「申し上げられません」


「そうか」


 蘇芳は責めることなく頷く。


 冷たい風が、開け放たれた廊下を吹き抜けていく。


 しばらく互いに言葉はなかった。


 やがて蘇芳が静かに口を開く。


「それでも、狄族は兵を退いた」


「決めたのは族長です」


 その無骨な答えに、蘇芳の厳格な口元が緩んだ。


「昔から、お前という男は変わらんな。そのつもりはなくとも、お前の言葉は人を動かす」


「買い被りです」


「いや」


 蘇芳はゆっくり首を振る。


「星河帝も、お前をそのように評しておられた」


 その名が耳に届いた瞬間だけ、日向の険しい目元が、わずかに和らいだ。命を懸けて仕え、共に未来を語り合った友の記憶が、胸の中で静かに息を吹き返す。


「……光栄です」


 蘇芳は、日向の胸中を推し量るように問いを重ねる。


「これから、お前はこれから何をする」


 日向は、ただ前を見据えたまま静かに答えた。


「私にできることを、ただ果たすだけです」


 その答えに、蘇芳は満足したように、小さく、深く息を吐き出した。


「……それでよい」


 蘇芳は踵を返し、ゆっくりと歩き出す。だが、数歩進んだところで、不意にその足を止めた。


 背を向けたままで、蘇芳は言葉を紡ぐ。


「日向、お前は近衛を去っても、何も変わらなかったな」


 日向は、その広い背中に向けて、迷いのない声を返した。


「守るべき方が、最初から変わっておりませんので」


 蘇芳は何も返さなかった。ただ、一度だけ深く頷いた気配を見せると、そのまま音もなく、長い廊下の奥へと消えていった。


 日向はその毅然とした後ろ姿を最期まで見送り、溜まったものを吐き出すように、小さく息を漏らした。


「あの方も、変わらない」


 その呟きは、誰の耳に届くこともなく、静まり返った廊下の暗がりへと静かに溶けていった。


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