第十七話 皇子、沈黙を破る
雲英は、桜桃から視線を外し、ざわめく評議の間を見渡した。
上座の虚空帝。
昊夜。
清明。
朝凪。
……そして、桜桃。
その顔ぶれを一人ずつゆっくりと見届けると、雲英は小さく、しかしはっきりと聞こえる息を吐き出した。
「ここまで証が揃っているのであれば、もはや否定する意味もありませんね」
そう穏やかに呟き、雲英は手元の扇を優雅に開いた。
「今日という日が訪れることは、もうずっと前から……覚悟しておりましたよ」
雲英のその艶やかな声が響いた瞬間、広間は再び、息をすることすら忘れたような深い沈黙へと包み込まれた。
「この国の皇統は、かつてふたつありました。激しい争いの末に、ひとつが消された。記録から。系図から。その名前すらも。……消し去られた方こそが、紫雲家です。皇統をひとつに絞るという大義名分のもとに、排除された」
その声は穏やかで、一切の感情を乗せない、整えられた声だった。
「私のみ祖先は、むやみに帝位を求めたのではありません。ただ、そこに存在していた。それだけで、存在そのものを消されたのです」
桜桃は、冷たい瞳で雲英を見据えた。
「あの密告書は、あなたが書いたものですか」
「はい、私が書きました」
「では、狄族の反乱は、あなたが仕組んだのですか」
「はい、それも私です」
「……なぜ、そんなことを」
桜桃の問いに、雲英は穏やかな笑みを崩さない。
「反乱を起こさせ、それに対する殲滅戦が起きれば、当然ながら帝への根深い不満が生まれる。この国のあり方に疑問を持つ者が現れる。そういう者たちを集めれば、大きな力として動かせると考えました」
桜桃の胸の中が、冷たく凍りついていく。
「……では、八重御所の変もあなたが起こしたのですか」
雲英はわずかに間を置き、静かに首を横に振った。
「いいえ。あの事件を起こしたのは、私ではありません」
貴族たちの間で、再び動揺とひそひそ声が波のように重なり合う。
「国に疑問を持ち、絶望した者たちが、自らの意志で立ち上がったのです。ただ――その者たちを束ね、導いたのは私です。殲滅戦への抑えきれぬ怒りを持つ者たちを集め、帝への復讐心を育て上げた。そして、彼らが最も効果的に動くように糸を引いた。……それだけのことです」
桜桃は雲英を見つめ、声を絞り出した。
「それだけ、と言うのですか」
「はい」
「大勢の人が死にました」
「はい」
「星河帝も亡くなりました」
「はい」
「それでも……」
桜桃の声が、怒りと悲しみで震える。
「それだけ、と言うのですか」
雲英は少しの間桜桃を見ていたが、その瞳には微塵の後悔の念も浮かんでいなかった。
「正統なる者が帝になるべきだと、今もそう思っています。そのために必要なことを成した。ただ、それだけです」
「もう一つ、聞かせてください」
桜桃は一歩も引かず、さらに追撃の言葉を継ぐ。雲英は静かにそれを促すように顎を引いた。
「狄族反乱が起きたあと、星河帝は本当に殲滅を命じたのですか」
その問いに、広間の空気が一瞬にして凍りつく。雲英はしばらく沈黙を守っていたが、やがて冷ややかな笑みを浮かべて告げた。
「命じてなどいませんよ。あの優しき帝が、殲滅など決して望むはずもなかった」
貴族たちの間で、耐えきれぬといった様子で一気に驚愕の声が爆発する。
「なっ……! では、一体誰が……!」
ざわめく群衆の声を置き去りにするように、雲英は手元の扇を優雅に一度だけ開いた。
「戦場へ『すべてを殲滅せよ』との偽りの御墨付きを下し、命令をすり替えたのは――この私です」
その言葉が広間に落ちた瞬間。広間の隅に控えていた刹那の身体が、まるで時が止まったように動かなくなった。
『全滅させるしかなかった』
『星河帝の命令だった』
と、かつて、自分は桜桃にそう語った。あのとき、桜桃は、どのような絶望と葛藤のなかで自分の話を聞いていたのだろうか。
刹那は前を向いたまま微動だにしない。ただ、見えない袖の下で、その拳が血が滲むほどきつく、激しく握りしめられていた。
その少し先で、琥珀もまた、何も言わずに立っていた。琥珀は雲英を見つめた。
いつの間にか固く握られていた拳が、長い時をかけるように、ゆっくりと開かれていった。
静寂の中、昊夜が重々しい声で尋ねる。
「では、星河帝は、最後まで何も知らなかったのか」
「はい」
「あの殲滅戦が、全てお前に仕組まれたものだとは」
「知らなかったでしょうね」
雲英の声は、残酷な真実を告げているとは思えないほど、驚くほど変わらず穏やかなままだった。
「血によって人を選ぶというのであれば――最も正しい血を持つ者が帝になるべきだ。それがこの国の論理であるならば、消し去られた側にこそ正統がある」
「……」
「私はその正統を取り戻したかった。くだらない名誉のためでも、復讐のためでもない。ただ――なかったことにされた者たちが、確かにこの地に存在していたのだと。それだけを、世に示したかった」
その声には一片の乱れもなく、後悔の色すらも微塵もなかった。
「星河帝は人を見ておいでだった。血ではなく。だからこそ、私にとっては邪魔だったのです。正統なる者が立てば、星河帝への不満を持つ者たちも自ずと動く。そう信じていました。だからこそ、あの殲滅戦を利用したのです」
「狄族の人々を犠牲にしてまで」
「はい」
「星河帝への怒りを作り出す、そのために」
雲英はそれ以上、言葉を重ねなかった。上座の虚空帝は、静かに目を伏せた。
昊夜は動かなかった。朝凪もまた、微動だにせず佇んでいる。
桜桃はただ雲英を見つめていた。雲英は穏やかな顔を崩さなかった。そこには強固な信念があった。どれほど歪んでいようとも、本人にとっては、何一つ間違っていない正義なのだ。それが何よりも恐ろしかった。
昊夜は、冷たい光を宿した瞳のまま、雲英を見据えた。
「……以上で、よろしいですね」
その問いに、雲英は一切の迷いを見せず、頷いた。
「はい。これ以上の申し開きは、ございません」
昊夜はゆっくりと視線を外し、緊張に包まれる広間を見渡した。誰もが息を止め、次の言葉を待っている。
「……以上をもって、本件の審理を終えます」
その宣言が重々しく響き渡った。
虚空帝は静かに宣告した。
「――雲英を捕らえよ」
その下命が下るやいなや、広間の周囲に控えていた武官たちが一斉に動き出した。重々しい足音を鳴らし、雲英を取り囲む。
だが、雲英は一切の抵抗を見せなかった。ただ静かに、優雅に開いていた扇をパチンと音を立てて閉じる。
武官たちに両脇を固められ、外へ連れて行かれるその間際、雲英はふと足を止め、背後にいる桜桃へとゆっくりと振り返った。
「血は……」
言いかけたその唇から、しかし、それ以上の言葉が紡がれることは二度となかった。
冷たい沈黙の中、雲英はそのまま武官たちに連れ去られていく。
貴族の一人がおもむろに口を開いた。
「昊夜殿下」
昊夜がゆっくりと振り向く。
「一つ、確認させていただきたい」
「なんだ」
「八重御所の変のことです」
貴族は視線を逸らさずに続けた。
「星河帝を手にかけたのは、昊夜殿下だという噂がある。その噂は今も消えてはいない。雲英が黒幕であったとしても、昊夜殿下もまた、その一味として動いていたのではないですか」
昊夜は少しも動じなかった。ただその貴族を見つめたまま、しばらくの間、深い沈黙を保っていた。
「私は、星河帝を殺していない」
質問を投げかけた貴族が驚きに目を見開く。
昊夜は静かに言葉を続けた。
「八重御所の変で、私は星河帝を実際に斬った人物を目撃している」
桜桃は息を呑み、昊夜を見つめた。
昊夜はあの日を脳裏に蘇らせるように、ゆっくりと目を伏せた。
赤く燃え盛る宮。飛び交う悲鳴。飛び散る血。その中で倒れ伏した帝。その傍らには、抜き放った刃を手にした人間が立っていた。
「私はその場で、そいつを斬り伏せた。だが、当時はあまりにも混乱していた。周囲には刃を持った者が何人もおり、敵か味方かの区別すらつかない状況だった。ただ目の前で帝が倒れた。その事実に、私は怒りのままに刃を振るったのだ」
その時、頭の中で、日向の声が鮮明に蘇っていた。
『落ち着け』
昊夜は静かに語る。
「周囲の者から見れば、私が帝を斬ったように映ったのだろう。帝のすぐ傍らで、血塗られた刃を振るっていたのだからな。だからこそ、そのような噂が流れた」
貴族がさらに問いを重ねる。
「では、なぜ今日までその噂を否定なさらなかったのですか」
昊夜は少しだけ間を置いた。
「噂を流しておけば、黒幕が私に接触してくると思っていたからだ」
広間がしんと静まり返る。
「当時、私は末端の皇族に過ぎず、帝位からは程遠い立場にいた。そのような人間に先帝殺しの噂が流れれば、玉座を狙う野心家として見られても不思議はない」
黒幕が誰であろうと、自分を仲間に引き入れるか、あるいは警戒して排除しに来るか、何らかの接触を図る理由は十分にあったはずだ。噂を明確に否定してしまえば、黒幕が身を潜めてしまう。
だからこそ、敢えて黙っていた。利用されるか、警戒されるか、どちらの形にせよ必ず動きがあるはずだと踏んでいたのだ。
最初は千弦が黒幕が寄越した者だと思っていた。だからこそ、敢えて情報を隠さずに流し続けた。しかし、雲英の本当の狙いは昊夜ではなく、桜桃の方だったのだ。
昊夜の声が、少しだけ沈んだ。
「……しかし、いくら待っても、接触は来なかった」
昊夜はそこで、わずかに目を伏せた。
その時、武官に連れられ、扉の向こうへと消えかけていた雲英が足を止めた。
「私はあなたを潰そうなどと、一度も考えたことはありませんよ」
雲英はいつもと変わらぬ穏やかな顔で微笑んだ。
「あなたには、近づく必要も、排除する必要もありませんでしたから」
近づく必要も排除する必要もない。
ずっと網を張り、相手が自分へ手を伸ばすのを待っていた。だが雲英にとっては、その網に触れる理由すらなかったということなのだろう。
昊夜はしばらくの間、雲英が去っていった扉の跡をじっと見つめていた。やがて、正面を向き直った。
「これで、答えになりますか」
問われた貴族は、言葉を失い、何も言い返すことができなかった。広間に、ひときわ重い沈黙がずっしりと降りていく。
桜桃は、ただ昊夜の背中を見つめていた。あの激動の夜、自分の夢に何度も現れた昊夜の瞳を思い出していた。冷たい目だと思い込んでいた。
だが今、その背中に、全く違うものが見えた気がした。
それは、やり場のない激しい怒りだった。そして、それと同じくらい深い、悔しさだった。




