第十五話 皇女、三つの罪を問われる
評定の間には、四大貴族の代表をはじめ、主要な武官、文官、そして名だたる貴族たち、宮中の権力のすべてがここに集められていた。
誰もが息を詰め、一言半句も聞き漏らすまいと耳を澄ませている。
その広大なる間の、ちょうど中央に、桜桃が凛として立っていた。手首を縛っていたあの忌まわしい鉄の枷はすでに外されている。
だが、四方八方から彼女に注がれる無数の鋭い視線は、金属の枷よりも遥かに重く、容赦なくその身体にのしかかっていた。
正面の上座には、虚空帝が深く腰を下ろしていた。その顔には病の色が濃く滲み、呼吸も浅い。それでも、帝としての威厳を崩すことなく玉座に座り続けている。今日という日だけは、たとえこの身が朽ち果てようとも、倒れるわけにはいかなかった。
昊夜は静かに、しかし威圧感を持って広間を見渡した。
「――来栖宮家の蓮火殿による正式なる異議申し立てにより、本件の再審議を執り行う」
その名に、居並ぶ貴族たちの間から戸惑いのざわめきが起こった。
「来栖宮……?」
「蓮火とは、誰だ」
聞き覚えのない名を探すように、いくつもの視線が広間を彷徨う。
だが昊夜は何も答えず、傍らに控える有馬へ鋭く視線を送った。
有馬は頷き、手にしていた書状を厳かに広げた。
「咲宮桜桃の罪状を読み上げます。一、身分を偽り神祇官へ潜入し、皇統を欺いた罪。二、狄族との婚姻を拒否し、国家方針を覆した罪。三、斎宮への男の手引きに関与した罪」
静かな声が、広い評定の間に染み渡っていく。
並び立つ貴族たちは、先ほど耳にした来栖宮という名への疑念を残したまま、一様に固唾を呑んで事の推移を見守っていた。
朝凪は広間の壁際に立ち、微動だにせずその光景を見つめていた。その後ろには銀牙と彪が並び、静かに戦況を見極めている。
有馬が手にしていた書状を閉じた。
「以上、三つの罪について、弁明があれば申し述べよ」
一瞬の静寂。その瞬間を狙い澄ましたかのように、朝凪がゆっくりと前へ出た。
「……朝凪殿?」
誰かが、訝しげにその名を呼ぶ。
「なぜ、元近衛中将が……」
ざわめきが広がる中、朝凪は歩みを止めなかった。
広間の中央まで進み出ると、懐から入念に折り畳まれた一枚の戸籍を取り出し、居並ぶ者たちの前へ静かに広げる。
そして、澄んだ声で告げた。
「来栖宮家の蓮火として、申し上げます」
一瞬でざわめきが、途絶えた。
誰もが、目の前に立つ男と、先ほど告げられた名とを結びつけるまでにわずかな時を要した。
元近衛中将、朝凪。
先帝の皇女を守り続けてきた男。
その男が今、皇族の名を名乗っている。
次の瞬間、堰を切ったようなどよめきが評定の間を揺らした。
「桜桃姫が皇統を欺いた罪について、正式に異議を申し立てます。この件は、法が裁くべき事案ではございません」
朝凪は落ち着いた声で、はっきりと告げた。
「桜桃姫が身分を秘したことは事実です。しかし、それは己の利益を図るためではありません。命を守るための避難であり、皇位を偽称したことも、皇統を争ったことも一度たりともありません。ただ生き延びるために名を隠しただけです。これを皇統を欺いた罪とするならば、この国の法は民を守るものではなく、人を死へ追いやるものとなります」
理路整然とした朝凪の追求に、蘇芳が重みを持って口を開いた。
「身を隠したことは理解できます。しかし、皇統を秘したまま神祇官として皇統管理に携わったことまで、正当化はできません」
「そうですね。皇統を管理する神祇官に、正体を秘した皇女がいた。その前例を認めれば、神祇官の権威が揺らぐ――そうお考えなのですね」
驚くほど静かな声で発せられた朝凪の言葉に、誰も否定しなかった。
「ならば、お尋ねします」
朝凪の視線が、静かに居並ぶ重臣たちを貫く。
「神祇官は、自ら望めば誰でもなれる役職でしょうか」
場内がざわめいた。朝凪は淡々と言葉を継ぐ。
「桜桃姫は、自ら神祇官となったのではありません。任命を受け、その務めを果たしただけです。それを桜桃姫一人の罪として裁くのであれば、任命した者の責任は、どこへ消えるのでしょうか」
一斉に雅へ視線が集まる。
雅は扇で口元を隠し、一言だけ告げた。
「神祇官は政治に関与いたしません」
一人の貴族が反論しようと口を開きかけたが、雲英が静かに遮る。
「今問題としているのは桜桃姫です」
重苦しい沈黙が落ちた。
その沈黙を破り、銀牙が、静かに一歩前へ出た。
誰も気づいてはいないだろう。銀牙の鋭い瞳が、ほんの一瞬だけ、中央に立つ桜桃の姿を捉えたことを。
皇統騒乱などと語られているこの目の前の娘が、他ならぬ、自らの姉の娘――自分の姪だということを。
銀牙は心の中で静かに息を吐き出した。
衣服の懐から、一通の重みのある書を取り出す。その手が、極限の緊張からか、あるいはこみ上げる感情からか震えていた。銀牙は自らの手の震えに気づいていたが、誰にも悟られないよう、何でもないことのように振る舞った。
そして、広間へ向けてその書を厳かに広げた。
それは、四大貴族の連名による、処刑の再調査要求の書面だった。
白蔵彪。
玄英銀牙。
青陽杏築。
朱明日和。
この国を支える絶対的な四家の長の名が、そこに一寸の狂いもなく揃い踏みしていた。
あまりの政治的重量感に、評定の間は一瞬にして水を打ったように静まり返った。先ほどまで朝凪に反論しようとしていた貴族も、気圧され、口を閉ざした。
銀牙は静まり返る広間を静かに見渡した。
「……再調査を求めます」
告げたのは、それだけだった。
先ほどまで震えていた手とは裏腹に、その声は、一筋の揺らぎもなく堂々と響き渡っていた。
上座の虚空帝が、重い口を静かに開いた。
「……四大貴族の要求を容れる。桜桃姫の皇統を欺いた罪は、再調査とする」
帝の決定が広間に重く響き渡る。
貴族たちの間に、落胆と驚きのざわめきが波のように広がっていった。だが、四大貴族が連名で突きつけてきた大義名分の重みの前には、これ以上声を荒げて異を唱える者など、誰一人として存在しなかった。
桜桃は広間の中央に佇んだまま、微動だにしなかった。
彼女の命を最も脅かしていた「皇統を欺いた」罪は、こうして再調査へと覆された。
再び昊夜の声が広間に響き渡る。
「続いて、第二の罪。狄族との婚姻について審議する」
次に、緊迫した人垣の中から、一人の小柄な人影が静かに前へ出た。
広間にいた全員の視線が、一斉にその人物へと集まる。
その身にまとっているのは、異国の風を孕んだ見慣れない装束。だが、その大地に根を張るような堂々とした立ち方だけは、奇妙なほどに据わっていた。
彼が歩を進めると同時に、四大貴族の当主の一人である彪が静かに一歩前へ出た。
一人の貴族が、狼狽しながらも声を張り上げた。
「おい、その者は何者だ!」
遮るように、彪が地響きのような重い声で答えた。
「狄族の現族長が孫、琥珀殿だ。我が白蔵家が責任を持ってこの場へ伴った」
進み出た琥珀は、周囲の貴族たちを一瞥した。それから真っ直ぐに正面の玉座を見据える。
「――桜桃姫を和の国に帰したのは、私です」
その毅然とした一言に、場がにわかに激しくざわめき立った。
琥珀はゆっくりと評定の間を見渡した。
「桜桃姫は婚姻を拒んでいません。狄族は、そのことで姫を責めたこともありません」
「待て。では、なぜ婚姻は成らなかった」
誰かが鋭く問いかけた。
琥珀はそちらへ顔を向けた。
「私が帰すと決めたからです」
「お前が?」
「はい。桜桃姫が星河帝の娘だと分かる前から、私は姫を和の国へ帰すつもりでした」
清明が静かに琥珀を見る。
「……正体が露見する以前から、ですか」
「はい」
「なぜ、そのようなことを」
琥珀は少しだけ黙った。
あの日、膝の上で香袋を握りしめていた少女の姿が脳裏を過ぎる。
帰れると知った瞬間、心の底から安堵した、あの顔。
「帰りたそうだったからです」
あまりにも簡単な答えに、何人かの貴族が怪訝そうに眉を寄せた。
琥珀はそれ以上を説明しなかった。
「その後、桜桃姫が星河帝の娘だと分かって、族長は怒りました。族長が怒ったのは、花嫁が皇族だったことを隠されていたからです。神祇官を嫁がせると言われていたのに、違う人間が送られてきた。そのことに怒った」
琥珀は居並ぶ者たちを見渡した。
「桜桃姫が婚姻を嫌がって逃げたからじゃない。姫は私が逃がしたんです」
低い声が、広い評定の間によく響いた。
「桜桃姫は最後まで、自分から婚姻を破棄するとは言っていません」
広間に大きな動揺の波が広がる。
一人の老臣が、険しい顔で口を開いた。
「しかし、狄族は兵を挙げたではないか。帝都へ攻め入る勢いだったと聞くぞ」
暁と清明が続けて声をあげる。
「兵部より報告します。先日、前線の狄族が兵を退いたとの報せが入りました。現在、開戦の兆候はありません」
「外交上の懸念も、ひとまずは解消されたと言えるでしょう」
ひそひそとした懐疑の声が、堰を切ったように広がっていく。
国家の重大な方針を覆したとされていた「婚姻拒否」の罪が、今、当事者の決定的な証言によって、音も立てずに静かに崩れ去っていった。
広間が落ち着くのを待って、昊夜が告げる。
「第三の罪。斎宮への男の手引きについて」
次に前へ出てきた斎宮を目にした瞬間、評定の間の空気が完全に凍りついた。
不祥事の渦中にあり、厳重な謹慎処分が下されているはずの茉莉が、監視の目を排して自らこの公の場へと姿を現したのだ。
茉莉は静まり返る広間をぐるりと見渡した。
かつての彼女が持っていた、誰もを和ませるような溌剌とした笑顔はそこにはない。だが、目の前の権力者たちを前にしても、彼女は決して怯えてなどいなかった。
茉莉は一度だけ、切なげに目を伏せた。
脳裏をよぎるのは、あの飄々とした掴みどころのない男――深黎の顔。
天井裏に身を隠す深黎と、息を潜めて過ごしたあの夜の記憶。
それらすべてを胸に仕舞い込み、彼女は力強く顔を上げた。
「――申し上げます」
鈴を転がしたようなその声は、一変の震えもなかった。
「神域へ男を立ち入らせたのは、私が望んだことです。桜桃姫は事後にその事実を知り、黙っていてくださっただけです。桜桃姫は、関係ありません」
驚愕に目を見開いた貴族の一人が、詰め寄るように叫んだ。
「では斎宮! その男とは、一体誰のことだ!」
茉莉はほんの少しだけ間を置いた。息を吸い込み、その名を唇に乗せる。
「……深黎、という者です」
「深黎だと……!? あの、雲英の部下の……」
「はい」
「その者を庇う気はないというのだな!」
向けられた烈しい糾問に、茉莉はしばらくの間、固く口を閉ざした。
その指先が、微かに、しかし確かに震えている。
「……庇う気など、ありません」
絞り出されたその声は、驚くほど静かだった。
本当は、誰よりも彼のことを庇いたかった。傷つけたくなかった。ずっと、その想いだけが彼女の心を縛り続けていた。
けれど、茉莉は自らの足でここへ来た。自分の意志で、桜桃を救うためにこの道を選んだのだ。
茉莉は真っ直ぐに前を向いたまま、毅然と立ち続けていた。ただ、衣の袖の陰で指先が強く握りしめられていた。
――これで、桜桃に科されていた三つ目の罪が、完全に崩れ去った。
昊夜は一度書状を閉じた。広間を見渡し、静かに口を開く。
「第一の罪については再調査。第二、第三の罪については、桜桃姫の関与は認められません」
昊夜は桜桃へ一瞬だけ視線を向けると、再び正面を見据えた。
「以上をもって、桜桃姫に対する審理を終えます」
誰も口を開かない。その沈黙を破るように、昊夜は続ける。
「しかし、第三の罪で名が挙がった、神域へ侵入した男、深黎について、一つ確認しなければならないことがあります」
場の空気が変わった。




